ノスタルジア 第5話

22 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:36:27 ID:uS/qJs7j

『連続殺人事件に発展か 行方不明の小学生女児、遺体で発見』

秋日市に配達される朝刊の地方欄に、そんな見出しが大きく載った日のこと。
文雄と千鶴子はだいぶの余裕を持って、朝の通学路を歩いていた。
文雄たちと同様、秋日高校に徒歩で向かう生徒も道の先に見えるが、あくまでまばらである。
五月の終わりの空は清々しく晴れ渡り、柔らかな日差しが生徒たちの黒の制服を照らしていた。
「ほらね、全然大丈夫だったでしょう」
「……まあ、お前の色々な手際の良さは本当大したものだと思うがな」
「まあね、実力よ」
そんな会話を交わしながら、千鶴子は彼女には珍しく鼻歌など歌っている。
一方で、文雄はいかにも疲れた様子で肩を落としていた。
「時間が無いなんて、時間を作れない人間の言い訳よね。したいことがあるなら、実力でどうにかしないと」
「それだけ聞くと、すごくいいことを言っているみたいだな……」
「あら、まるで本当はいいことを言っていないみたいな言い方ね」
心外だという風に首をひねる千鶴子に、文雄はため息をついた。
「朝からあんなことをするために頑張るのは、あまり褒められたことじゃないと思うぞ……」
「仕方ないじゃない。放課後は文雄さんに帰る時間をずらされてしまったら、父さんと母さんの在宅時間と重なってしまって『あんなこと』ができないんだもの」
あくまで静かな物言いの千鶴子に、文雄は背筋を冷やした。
責める口調ではなかったが、千鶴子が文雄を責めていることは十分に分かった。
美山叶絵を解放した日から、あの千鶴子との契約を交わした日から、一週間。
千鶴子はその言葉通り毎日文雄との行為を求めてきた。
学校から帰ってから、自宅のどちらかの部屋で、一線は越えないまでも性行為を兄妹で行ってきたのだ。
文雄は何とかそれに応えてきたものの、どうしても思い悩む気持ちが拭えず、昨日意図的に帰宅時間を遅くした。
結果、千鶴子は文雄に求めるタイミングを計れず、昨日は実に一週間ぶりに文雄と千鶴子の間の行為は無しで終わった。
「今朝の分は、昨日の分よ、文雄さん」
「……」
「あまりああいったことがあると、学校でもことに及ぶ方法を考えなければならなくなるから、そのあたり慮っていただけると嬉しいのだけれど」
「ああ……」
やはり自分の浅はかな企みなど簡単に破られてしまう。
文雄は心中で深くため息をついた。
自分の周囲の人間を守るために、一日に一回千鶴子の想いを満たすという契約。
自分で考え、自分で決断したことはわかっている。
しかしそれでも、心の奥底に抱く、妹への反発心は消えなかった。
自らの欲望を満たすために、知人を盾にする妹への怖れと怒りの炎は、静かに燻っていた。
「何を考えているのか、大体わかるわ」
思いに沈む文雄に、千鶴子が声をかけてきた。
「どうして、て顔をしているわね」
「……ああ。思わない日はないよ」
「本当、文雄さんは損な性格よね。さっさと割り切って楽しんでしまえばいいのに。私これでも、結構勉強しているつもりなんだけど、気持ち良くなかったかしら?」
「……」
文雄は無言で歩を進めた。
文雄にも肉体的な快感はあった。
妹の蠢く舌の感触は、文雄の神経を否が応にも刺激し、性的な興奮の高みに導いていた。
行為の時は必ず、文雄は千鶴子の手で、口で、射精をしていた。
「……前にも聞いたけど、どうして俺なんだ?」
「興味があるからよ。興味があるものを、深く知りたいと思うのは当然よね」
「どうして俺に興味を持つんだよ」
「私と考え方が全然違うからよ。私と同じ風に考える人だったら、さして興味を持たずに済むのだけれど……文雄さんはそうなれるのかしら」
「お前と同じ考え方になることはないな」
「それじゃあ今のところどうしようもないわね。困ったものだわ」
千鶴子の小馬鹿にしたような口調に、文雄は思わずむっとしてしまう。
何か言ってやろうと大きく口を開いたその上唇に、千鶴子の人差し指があてられた。


23 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:37:30 ID:uS/qJs7j
「はい、そこまでよ。もう校門だから」
「あ……」
「私との関係を周囲の生徒たちに喧伝したいなら、それはそれでかまわないけれど?」
「……」
文雄は口を閉じた。
いい様に扱われている風ではあったが、実際千鶴子との関係を他人に知られるわけにはいかなかった。
「そうね。傍から見たら、あくまで仲の良い兄妹でいましょうね」
千鶴子は笑って、
「今日のお弁当も自信作だから、きちんと食べてちょうだいね」
さらりと話題を変えた。
「ちなみに文雄さん、中間テストはうまくいきそうなのかしら?」
「……どうだろうな。統治郎と勉強していく予定だけど」
「ふうん。相変わらずの仲の良さね」
そんな当たり障りのない会話をしつつ、昇降口へと向かって歩く。
と、文雄の耳に、同じように登校する女子生徒の話し声が入ってきた。
「なんかさ、あの事件の容疑者の娘が、うちの学校にいるんだって」
「え? ちょっと、それ本当なの?」
「本当本当。二年生だって聞いたよ。もう有名だって……」
思わず立ち止まって聞き入ってしまった。
「文雄さん、どうしたの?」
「いや……叶絵ちゃんの話かと思ったんだけど……」
事件、娘――その単語を聞くと、つい先日の美山叶絵の件を思い起こしてしまう。
噂になっているとはどういうことなのか。
不安の表情を見せる文雄に、千鶴子は小さく笑った。
「文雄さん、先ほどの方々は別の人のことを言っているんだと思うわよ。叶絵さんは私と同じ、一年生だもの」
「む……そうか」
「あの事件というからには、例の事件じゃないかしら。新聞にも載っていた……」
「ああ、あの……」
秋日市連続少女殺害事件――
この一週間で立て続けに起きた事件に、街はこれまでにない緊張感を伴っていた。
被害者はいずれも十歳以下の少女で、報道はされていないが、性的な暴行を受けた末に殺害されたと噂が流れていた。
「その容疑者の娘が、この学校に……?」
「どうなのかしらね。容疑者が浮かんだという話は聞いていないけれど。根も葉も無い……かどうかはわからないけれど、あくまで噂なんじゃないかしら」
「だとしたら、気の毒だな。そんな噂が流れたら、普通には過ごせないぞ。二年てことは……」
同級生か。
呟く文雄に、千鶴子は鋭い眼を向けた。
「文雄さん、わかっているとは思うけれど、余計なことに首は突っ込まないように」
「え……?」
「他人は他人。可哀想だと思っても、それはその人の選んだ人生なのだから」
「相変わらずだな、お前は」
文雄はため息をついた。
「俺は俺の思ったようにやるよ。助けたい時には助ける」
「またそうやって……!」
「俺が助けたいと思ったら、お前はそのために動いてくれるんだろう?」
「う……」
それまでの冷たい物言いが一転、千鶴子は文雄の一言に黙り込んでしまった。
「あの約束はその意味合いもあったと思うが、どうなんだ?」
「まあ、できる限りのことはさせてもらうわよ……」
「何だかいきなりおとなしくなったな」
「もともとこんなものよ。あなたに対しては」
生意気で、優秀で、冷酷な妹。
その妹を、性の鎖によって、この一瞬は支配しているという感覚。
「……とにかく、俺が約束を守っている以上は、お前にも守ってもらうぞ」
「ええ。でも、無茶はしないで。私だって万能じゃないのよ」
力なくため息をつき、千鶴子は手を振った。
「それじゃあ、文雄さん、これで。また放課後にね。今日は一緒に帰りましょう」


24 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:40:16 ID:uS/qJs7j
夕刻、第二図書室の貸出席に、千鶴子は一人座っていた。
古い紙の香りが漂う広い空間に、その日も千鶴子以外に人はいない。
橙赤色に染まる静寂の世界に、千鶴子が本の頁をめくる音が時折響くのみである。
「……ふぅ」
読書に一区切りついたのか、千鶴子は小さく息をついて顔を上げる。
慣れ親しんだ図書室を見廻し、相変わらずねと口にした。
「誰かが来たところを見たことがないわ」
特にそのことに不満があるわけではなかった。
大好きな本に囲まれて、気ままに過ごせる空間を、千鶴子は大いに気に入っていた。
それこそ、他の人の当番日を進んで代わるほどに。
もはや昼であろうと放課後であろうと、この図書室の貸出席は、千鶴子の指定席となりつつあった。
「この静けさ……落ち着くわね」
目を閉じて、深く息を吸う。
瞬間、重く閉じていた図書室の扉が勢いよく開かれた。
「えーと、こんにちわ。お久しぶりー」
「……」
扉を開き、入ってきた一人の少女に、静寂はあっさりと破られた。
「あら? 澄川さん寝てる? おおい」
肩までの髪を揺らしながら、少女は千鶴子の前で手を振って声をかける。
千鶴子はゆっくりと目を開けた。
「いえ、起きているわよ」
「ああ、良かった。無理に起こすと澄川さん怒りそうだもんね。どうしようかと思っちゃった」
「……わかってて言っているのかしら」
「え? 何が?」
千鶴子は首を振って膝の上の本をぱたりと閉じた。
「まあいいわ。で、何の御用かしら、叶絵さん。私としては、あなたとはあまりお近づきになりたくないのだけれど」
「いえね。お礼にと思って……この前の」
少女は千鶴子の言を気にした様子も無く、あははと笑う。
美山叶絵。
今朝がた文雄との会話の中でもその名は話題に上った。
一週間前、千鶴子の提案により養父を殺害し、望みを叶えた少女。
「あれから色々あったけど……相続の手続きも、警察の方も、どうにかなりそうだから、改めて。ここに来ればみんなに会えると思ったんだけど」
叶絵は先ほど千鶴子がしたように周囲を見廻した。
「居ない、ね」
「文雄さんだったら、夏江さんと教室で勉強会の最中だと思うわよ」
「そっか。じゃあ、澄川さんに改めて」
「私に?」
千鶴子は眉をひそめた。
「私にお礼なんて言う必要はないわ。文雄さんに言いなさい」
「お兄さんにも当然言うけどさ。澄川さんにも言わないと、おかしいでしょう」
「前にも言ったけれど、私はあなたを助けるつもりなんて全くなかったのよ。結果的にそうなったのは、文雄さんが望んだからなの。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「うん、覚えてるよ。でも私は結果が全てだって考える人間だから。結果として助けてもらったあなたにお礼を言いたいの。本当にありがとう、澄川さん」
叶絵はそれまでの笑顔から一転、表情を引き締め、深々と礼をした。
「あなたのお陰で、生きてるっていいなと思えるようになりました」
「ああ、そう……」
千鶴子はあくまで淡々とした様子で言う。
「あれはあなたが自分でやったことだから、自分を誇ればいいと思うわよ」
「千鶴子ちゃんが背中を押してくれたのは間違いないから。恩人だよ」
「そうまで言うならありがたく受け取ってはおくけれどね。もし恩を感じてくれるなら、いつかその恩を文雄さんに返すようにしてちょうだい」
「ん……千鶴子ちゃんがそう言うなら、そうするよ」
一週間前には想像もつかなかった、晴れ晴れとした笑顔を見せる叶絵。
対照的に、千鶴子は右手を頭にあて、眉間にしわを寄せている。


25 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:41:10 ID:uS/qJs7j
「あのね、叶絵さん。あなたは私の親か兄弟だったかしら」
「ううん、違うと思うけど……」
「ならその、私に対する呼び名は何なのかしらね?」
「いやあ、どさくさにまぎれて既成事実にしちゃおうかなと思ってたんだけど、やっぱり無理だったか」
あははと叶絵は笑う。
「まぎれられるわけがないでしょう」
「千鶴子ちゃんも私のこと叶絵さんって呼んでいるし、いいじゃない」
「美山さん、やめてもらえるかしら」
「あらら……厳しいね、本当」
がくりと肩を落とす叶絵。
だがその表情はあくまで笑顔で、本当に落ち込んでいるわけではないことはわかった。
「……美山さん、ずいぶんと変わったわね」
「そう?」
「美山作蔵に対してあんな長期戦を敷いていたくらいだから、忍耐力のある人なのだろうとは思っていたけれどね」
「ひょっとして、褒めてくれてる?」
「ええ。強くなったわね。あの晩の、怯えた姿とは大違いだわ」
「一線を越えちゃったからね。強くならざるを得ないよ」
「良い心掛けね。私はあなたみたいな人は苦手だけれど」
また叶絵はがくりと肩を落とした。
「落ちをつけるのを忘れない人だよね、千鶴子ちゃんて……」
「美山さん、今後その呼び方をしたら、私は一切受け答えはしないので、そのつもりで。というかお礼が済んだなら帰ったらいかが? 文雄さんや夏江さんのところにも行かなければならないのでしょう?」
「それは明日でもできるし、澄川さんとこうやって二人きりでお話しできる機会はそうはないもん」
「結構露骨に出て行ってほしいと言っているつもりなのだけれどね」
「うん……今のは露骨というか、そのままだったね。でもまあ、澄川さんもあれ以降の処理のこととか、色々聞いておきたいことがあるでしょ?」
確かに千鶴子にしてみれば、自分が関わった犯罪の顛末は聞いておきたいところではあった。
叶絵が何らかの間違いを犯していないか、千鶴子自身に何らかの不利は起こっていないか。
そろそろ叶絵に確認しておかねばならないと、この数日うっすらと考えてもいた。
千鶴子は無言で立ち上がると、図書室の鍵を閉めた。
「手短にね」
「うん」


26 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:41:37 ID:uS/qJs7j
叶絵は近くの椅子に座り、美山家の相続の手続きは順調に進んでいること、今後は夏江家の援助を得つつ一人暮らしをするつもりであることを伝えた。
「警察についてはどうなの?」
「それがね、担当についた刑事さんが統にいのお父さんの知り合いの人でね。すごく優しくしてもらってる」
「ふむ。夏江さんが手を回したのかしら」
「それは私も聞いたんだけどね、統にいは違うって言ってたよ」
「特に疑いは抱いていない様子なのかしら」
「……わからない。ちょっと考えの読みにくい人なんだ。でもそろそろ終わりだって言っていたから……」
「夏江さんが手を回したにせよそうでないにせよ、順調に行っているということね」
千鶴子は少し考え込む仕草をして、
「……夏江さんは、美山作蔵の死の真相に、気づいているのかしらね」
叶絵に問いかけた。
「私からは言ってないけど……澄川さんは?」
「言ってないし、これから言うつもりもないわ。夏江さんは文雄さんの大切なお友達のようだから、任せることにしているの」
「ふぅ……ん」
叶絵は椅子に座ったまま姿勢を低くし、覗き込むように千鶴子の表情を見た。
「……何よ?」
「澄川さんて、お兄さんにはすごく気を遣うよね」
「私は常に気遣い万全の女よ」
「そういう冗談とは別にして」
「……」
千鶴子の様子は全く気にすることなく、叶絵は言葉を続けた。
「あの晩も、お兄さんのことですごく怒っていたし。何ていうか、お兄さんに関わっていたから、澄川さんはあんなに必死になっていたのかなって」
「何が言いたいの?」
「……好きなの? お兄さんのこと」
叶絵の問いに、千鶴子は答えなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
千鶴子はうつむいて――
「家族のことだもの。真剣になるのが当然でしょう」
「うん……そうだよね」
ただ、千鶴子のそれは家族の情などというもので量れるものではないと、叶絵は思っていた。
常軌を逸した感情だと。
「千鶴子ちゃんは……お兄さん想いなんだね」
「どうかしら。このところは嫌がらせばかりしているようだけど」
軽く笑いながら、千鶴子は呟いた。
誰にも見せたことのない、自嘲の表情だった。


27 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:42:00 ID:uS/qJs7j
「そろそろ行くか」
「ああ」
文雄の呟きに、統治郎は頷き、机に広げていた勉強道具を片し始めた。
閉じられた教科書の上側にはみ出した二枚の付箋に示された、中間テストの試験範囲。
その大半が、今日の放課後の勉強会で終わってしまった。
それもそのはず、いつもなら適当に会話を織り交ぜて進んでいく二人の勉強会は、今日に限っては終始無言で、何かに触れないようにと二人とも一心不乱に勉強をしたのだ。
その何かとは、やはり叶絵の件だった。
統治郎には聞きたい気持ちもあったし、聞くのが怖いという気持ちもあった。
叶絵はあれ以来少しずつ元気を取り戻し、統治郎にも頻繁に話しかけてくるようになった。
虐待の過去を振り払うように、今では本当によく笑顔を見せる。
あの一晩で何があったのかはわからない。
ただ、あの夜を越えて、全てが良い方向に進んでいた。
それならば、そのままでいいじゃないか。
統治郎はこの数日、何度も自分に言い聞かせてきた。
が――
「文雄、千鶴子ちゃんは元気か?」
廊下を歩きながら、そんな問いを発する。
「ん? ああ、相変わらずだよ。どうしたんだ、いきなり」
「このところ弁当を届けに来ないからな。具合でも悪いのかと思って」
「いや、うちの妹は弁当の配達が本職というわけじゃないからな。俺が普通に弁当を持って行くようになれば、わざわざ来る理由もないだろう」
「相変わらず、兄を兄とも思わず、か」
「ああ、日々兄の威厳を見せてやろうとしているんだが、なかなかな……」
笑いながらそんな会話を交わす。
当然文雄も統治郎の心中は察していた。
彼が本当に知りたいことは何なのか。
この親友に全てを打ち明けるべきなのか、それともあくまで隠し通すべきなのか、文雄にはわからなかった。
自分も、千鶴子も、叶絵も知っている。
統治郎だけが知らない。
仲間外れにしているような、罪悪感はあった。
しかし何より、親友には日常の中に居てほしいという思いが強くあった。
「統治郎」
「何だ?」
「数学は俺に任せろ。だから英語をみっちり教えてくれ」
「……ああ。支え合いの精神だな」
「支え合いだ」
二人は拳を合わせ、階段を下りた。


28 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:42:54 ID:uS/qJs7j
「しっかりお勉強はできたのかしら」
校門の門壁に寄りかかるようにして、千鶴子が待ち構えていた。
「統にい! 一緒に帰ろう」
そしてそのすぐ傍らには元気に笑う叶絵の姿があった。
珍しい組み合わせだなと、文雄は思った。
「どうしたんだ、一体」
「放課後一緒に帰りましょうと、言っておいたでしょう」
「いや、そうではなくて……」
ちらりと、文雄は叶絵を見る。
ああ、と千鶴子は頷いた。
「さっきそこで会ったのよ。何だか付いてきてしまって」
「犬猫みたいな言い方しないでよ、千鶴子ちゃん……」
「その呼び方をしたら今後一切受け答えはしないと言ったわよね」
「いやあ、図書室での込み入ったお話の終わりに、きちんと返事をしてくれたから、いいのかと思って……」
「それは意識せず言ってしまっただけだから、勘違いしないでちょうだい」
二人のやり取りに、文雄が何の気なしに聞いた。
「図書室で? そこで会ったんじゃなかったのか?」
「いやあ、それがですね、お兄さん。千鶴子ちゃんもこれで複雑な悩みがあるようでして」
腕を組み、わざとらしく首を振る叶絵の肩に、千鶴子が静かに手を置いた。
「叶絵さん。それ以上言ったら、私はある決心をしなければならなくなるわ」
「……すみません」
千鶴子の尋常ならざる雰囲気にあっさりと謝る叶絵。
怯えながらも、どこか楽しそうなその様子に、文雄は純粋に驚いていた。
叶絵が変わったこと。
そして、千鶴子と対等な関係を築いていることに。
「あ、お兄さん」
叶絵が文雄の方を向き、背筋を伸ばして呼びかけた。
「え……俺のこと?」
「はい。千鶴子ちゃんのお兄さんなので、お兄さんです。やっぱり違和感ありますか?」
「いや、そういうわけでもないけど……」
実の妹にすら「お兄さん」と呼ばれたことのない文雄には、何ともこそばゆい言葉だった。
「では澄川さんと呼ばせていただきますね」
言って、叶絵は千鶴子の方を流し見た。
「ね、私だって、ただ千鶴子ちゃんって呼びたいから呼んでたわけじゃないんだよ。お兄さんと区別をつけるためにね」
「あなた、今それを考えついたでしょう」
ごまかすように笑って、叶絵はまた姿勢をただした。
「ともかく、お礼を言っておこうと思いまして」
「ああ。そんなのいいよ。俺は何をしたわけでもなし」
「いえ。澄川さんには色々とお気遣いいただいて……ありがとうございました」
丁寧にお辞儀する叶絵に、文雄はまいったなと、照れるように後ずさった。
「お礼なら統治郎に言ってくれよ。何しろ、君を助けたいからって、土下座までしたんだから……」
「ええ。統にいには現在進行形でお世話になっているので、全部が終わってからお礼を言おうかと思って」
「現在進行形?」
「はい。先ほど千鶴子ちゃんにもお話ししたんですが、色々な手続きやらがまだ途中で。それと……」
はっと叶絵の表情が変わった。
文雄の肩越しに先を見つめるのがわかる。
千鶴子はその視線を追った。
そこには、一人の女性がいた。
黒のスーツに身を包み、髪を後ろでまとめた、社会人と思しき人物。
女性は、千鶴子と目が合うと、にこりと笑って手を振った。


29 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:43:18 ID:uS/qJs7j
「やー、どうも! 角間切子と申します! 警部補やってます!」
女性は、落ち着いた外見とは裏腹に、やたらと勢いづいて挨拶をした。
この人が例の、と千鶴子は叶絵に目で問いかける。
叶絵は小さく頷いた。
「角間さん、今日は……?」
統治郎が問いかけた。
「うん。叶絵ちゃんに最後の聞き取りと、お元気かなって様子見に」
「はあ……」
「統治郎君、元気そうで何よりだわね! うん、良かった!」
「え、え? 様子見って俺のですか?」
「ううん! あなたたち全員よ! 後輩たちよ! だってここは我が青春時代を過ごした母校なんですもの!」
角間切子は拳を握り、校舎に向かって突き出す。
「元気そうで何より! グッドよ!」
元気一杯にそう言いながら、切子はまず統治郎の肩を叩き、次いで文雄の肩を叩き、更に叶絵と千鶴子の頭を撫で回した。
「あらー、何だか賢そうな子ね! 先輩として誇らしいわ」
千鶴子の頭を執拗に撫でる切子を、冷や冷やした面持ちで眺めつつ、文雄は統治郎に小声で問いかけた。
「何か元気すぎる人だけど、知り合いなのか?」
「ああ。父の知人で……叶絵の養父が亡くなった件の担当をしているそうだ」
「じゃあ、警部補っていうのは本当なのか?」
「本当だ」
「見えないな……」
「ああ……」
二人しみじみと頷く。
切子は何かに満足しのか、千鶴子の頭を撫でるのを止めると、よしと頷いた。
「ということで叶絵ちゃん。お話し、いいかな?」
「はあ……」
勢いに圧倒された様子で、呆けたように叶絵は頷く。
いつもこうだったのだろうか、と千鶴子は思った。
「待ってください。最後の聞き取りということでしたが、手短に終わらせていただけるのでしょうね?」
あくまで静かに切子に問う。
頭を撫でられたのは気に食わなかったが、感情をぶつけるべき相手でないことは承知していた。
「叶絵さんはこれから私たちと予定があります。それに、こんな学校の前で聞き取りとなると、叶絵さんの評判にも影響しますので。お心遣いをお願いします」
「ん。確かにそうだね。もともと学校から離れたところで声をかけようかと思っていたんだけど、母校が懐かしくてついふらふらとね。確かに、配慮が足りなかったね。ごめん」
切子は頭を下げた。
「ほんの数分で終わらせるから、いいかな?」
「かまいませんよ」
叶絵はなんでもないという風に頷いた。
「ああ、では俺たちはあちらに少し離れて待ってます」
統治郎が文雄と千鶴子を促す。
千鶴子は後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れた。


30 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:44:49 ID:uS/qJs7j
校門を出てすぐの路地の傍らで、叶絵への聞き取りは行われた。
そこから十メートルほど離れたところで、三人はその様子を見ることになった。
特に千鶴子は、注意深く叶絵と切子の表情の変化を見ていた。
(最後の聞き取りというからには、疑わしいところは無しとして処理をされているのだろうけど……)
千鶴子の心に引っ掛かっていたのは、あの角間切子という刑事が、わざわざ学校にまでやってきたという点だった。
先ほど本人が言ったとおり、母校を懐かしむゆえなのかも知れない。
しかし、ただそれだけの理由で、学校の前で本人以外に警察の聴取であることを明かすのは、あまりに常識外れなのではと思えた。
(どうもおかしなところのある人のようだし、気にするほどのことでもないのかもしれないけど……)
叶絵以外の誰かを見に来たということもありうるのではないか。
自分はあの晩、叶絵と接触した。
誰にも見られないよう注意を払ったつもりではあったが、果たしてどうなのか。
いくつかの可能性が千鶴子の脳裏を駆け巡った。
千鶴子の全神経は叶絵と切子の様子に、そして彼女自身の思考に投入された。
そして数分後――
叶絵と切子は、特に何事も無かったかのように千鶴子たちの方へと歩いてきた。
「終わったの?」
「うん」
千鶴子の問いに叶絵は頷く。
「本当ごめんね! お待たせしちゃって」
「いえ、そちらもお仕事でしょうから」
杞憂であったかと、千鶴子は内心ほっとする。
相変わらず元気な切子に丁寧に返して、後ろを振り向いた。
「それじゃあ、文雄さん、行きましょう……か?」
振り向いた先に文雄の姿は無かった。
統治郎が一人で立ち、あっちだと指で示す。
その先には、女子生徒と話す文雄の姿があった。
女子生徒は文雄と言葉を交わしながら、時折涙を流していた。
「……なんでしょう、あれは」
「いやな。文雄が上履きで帰ろうとしてる女子を見つけてな。一体どうしたのかと……」
「声をかけにいったわけですか」
「ああ」
「まったく、少し目を離すとこれだから……」
「お、おい、千鶴子ちゃん」
留めようとした統治郎の手をさらりとかわし、千鶴子は文雄に小走りに近づいた。
「文雄さん、行くわよ。皆が待っているから早くしてちょうだい」
ハンカチを出そうとしていた文雄の腕を掴み、きつい口調で言う。
「あ、ああ、千鶴子、この人は……」
「いじめられたのね? そういうものは、他人が関わると余計こじれていじめが悪化するから、本人が先生や教育委員会に密かに訴えるのが一番よ。
あなた、ボイスレコーダーで音声をとるか、いじめられる特定の場所があるなら、そこにカメラを仕掛けておきなさい。相手が特定できないなら、クラスの何人か分の靴をあなた自身が盗って問題を大きくするといいわ。
いずれ放っておけなくなって学校が調べ始めるから。そうなったら相手も動けなくなります。当然盗るときには見つからないように。わかったわね」
早口でまくし立て、「解決よ」と文雄を連れて行こうとする。
しかし、文雄は足を踏みとどまった。
「待ってくれ、千鶴子。この子は……」
「文雄さん、皆が待っているから。迷惑をかけないようにしましょうよ」
冷たく言い放つ千鶴子。
その制服の裾を、泣いていた女子生徒が掴んだ。
「……何かしら?」
千鶴子が怒りを押し殺しているのが、文雄には充分すぎるほどにわかった。
が、当の女子生徒は怖気づくことなく、千鶴子の目をしっかりと見つめて言った。
「私は、そんなことで泣いていたのではありません」
「そう。興味は無いから、離してくれる?」
「私は……父を信じられない自分が嫌で……だから……」
また女子生徒は涙ぐんだ。
文雄が千鶴子の耳元で、そっと囁いた。
「この子の父親、例の連続少女殺害事件の容疑者らしい」
千鶴子は表情を変えなかった。
だが、心の中では頭を抱える思いだった。
ああ、またこの愛しき兄は――
「どうしても、こういうことに関わってしまうのね」
呟いて、諦めたように文雄の腕を離した。


31 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:45:42 ID:uS/qJs7j
海辺の公園――といっても、ベンチと外灯が防波堤沿いに延々並んでいるだけのものではあるが――で、一同は女子生徒の話を聞くことになった。
女子生徒の名は、三条優といった。
不動産業をおおもとに、国道沿いに複数の飲食店を経営する会社のオーナーの娘で、住んでいる場所を聞いた文雄も千鶴子も、なるほどあのお屋敷かとすぐにわかった。
三条家の長女として育てられ、言葉遣いも振舞いもごく丁寧なお嬢様である彼女の悩みは、連続少女殺害事件の容疑者と世間に思われてしまった父のことだった。
「そんなわけはないと、わかってはいるんです。でも……」
ひょっとしたら――
世間をそう思わせ、娘である優をすら不安にさせる奇行が、父、三条英一にはあった。
「私は長女で、妹が三人いるのですが……全員血は繋がっていないのです」
血の繋がらない、四人姉妹。
優の語り出しはそれだった。
「私を含め、三条家の娘は全員が養子なのです。私が小学校四年生に上がる頃、最初の妹ができました。それ以降、中学校にあがるとき、高校にあがるとき、新たに妹ができて……今は四人姉妹となっています」
三条英一は、どこからともなく小さな女の子を養子にもらい、溺愛とも言える可愛がりぶりを見せた。
どこに行くにも一緒に連れて行く。
時には学校を休ませてでも、自分の仕事に同行させる。
その子煩悩ぶりは有名で、それだけなら微笑ましい話だったのだが、彼の行動はそれで終わりではなかった。
「新しい養子をもらうと、父はそれまでの可愛がりぶりが嘘のように、それまでの娘たちに無関心になりました。それで、私も妹たちも、昔は随分寂しい思いをしたのです」
いつの間にか近隣の者たちは、三条英一を小児愛好者だと噂するようになった。
小さな少女にしか興味を持てず、金に物を言わせて買い、育ってしまったらまた新しく取り替えるのだと。
その噂が、今回の連続殺人事件で少しでも手掛かりを得ようとする警察の耳に入り、ついに刑事が話を聞きに来るに至った。
ただ、あくまで話を聞きに来ただけで、何らかの確証があったわけではなかった。
実際、簡単な聞き取りをしただけで帰って行き、以降警察は三条家を訪れていない。
しかし、その訪問だけで、近隣の住民たちには充分だった。
小児愛好の男がついに一線を越えてしまったようだ。
そんな噂があっという間に広がり、ついに秋日高校の中で囁かれるまでになってしまった。
「父は……気にしていません。毎日、末の妹を傍において、可愛がっています。私も、他人から何を言われようが、されようが、気にはしません。でも……私自身が父のことを疑問に思ってしまって……」
ベンチに腰掛けた優は、目尻に涙を滲ませた。
「私も父には本当に可愛がってもらいました。父は家の仕事のことにも懸命で、今も私たちを養ってくれています。なのに私は……何故父があんなに次々と養子をとるのか……やはり何かおかしいのではと……」
海風が優の髪をなびかせる。
西の海に太陽が沈んでどれくらいになるだろう。
空は赤色から薄い紫に変わりつつあった。
「なるほどね……」
小さく灯った外灯に寄りかかりながら、千鶴子は呟いた。
三条優の座ったベンチの周囲に文雄と千鶴子は立ち、統治郎と叶絵の二人はすぐ隣のベンチに並んで腰掛けていた。
それぞれ手に、角間切子の奢りのジュースを持っている。
当の切子も、キリンレモンの大缶を手に、他の面々より一歩はなれたところで話を聞いていた。
千鶴子は彼女にそれとなく帰ることを勧めたのだが、優自身の希望で同席することになった。


32 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:46:07 ID:uS/qJs7j
話を終えた優は、切子に問いかけた。
「どうなんでしょう。警察は、父のことを疑っているんですか? 父は……本当に……」
「いやー、そんなことはないと思うよ」
深刻な様子の優に対して、切子はあくまで軽い。
笑顔で手を振って応じた。
「証拠が無いみたいで、何でもいいから当たれるところは当たろうって方針だから。ごめんね。うちが無能なばかりにお父さんに迷惑かけちゃって」
「はあ……」
「かくいう私も連続殺害事件については情報募集中です! しばらくしたらそっちの捜査班に回されるんで! 皆さんよろしくね」
こんなにあっさり警察内の情報を出していて、大丈夫なのだろうか。
他人事ながら心配だと、その場の全員が思った。
「えーと、どうだ千鶴子。何かわかったか?」
気を取り直して、文雄が問う。
千鶴子は残念ながらと首を振った。
「今の話だけではどうにも」
「そうか……」
「というかね、文雄さん」
「ん?」
「何か、この人のことを助ける前提で話を進めようとしているみたいなんだけど、どうして?」
「どうしてって……縁というか、気の毒だろ」
千鶴子は人差し指をこめかみに当て、うめき声をあげた。
「あのね、文雄さん。全ては、この人の心持ちの問題でしょう。他人にどうされようと気にしないなら、今抱えているのは全て本人の思考に起因する、本人にしか解決できない事柄ということでしょう。気の毒に思うことなんてないわ。心ゆくまで悩んでもらえばいいじゃない」
「千鶴子、そんなことを言ったらこの世にある問題は全部当人の心持ちの問題で、悩みさえすればいいってことになっちゃうだろ。たとえばお前が何か問題を抱えているとして、それは心の整理をつければ解決することなのか?」
「む……」
千鶴子は押し黙る。
その様子を見ていた叶絵は、千鶴子が何を考えたのか想像に難くなく、くすりと笑ってしまった。
「……まあ、言い過ぎたかも知れないけれど、今回については何をどうしろというのよ」
「うーん……三条さんは、お父さんのその、奇行というか、養子を次々にとって君たちには無関心になる原因がわかれば、安心できるのか?」
文雄の言葉に、優ははっきりと頷いた。
「はい。それさえわかれば、心穏やかに過ごせます」
「ということらしいんだが……」
文雄は千鶴子を見た。
「それを、私にやれと」
「いや、当然俺もやるけどさ。でも千鶴子、お前は一応……」
文雄が口にしようとしたことを察して、千鶴子は手で制した。
「大丈夫。私は、文雄さんがどうしてもというなら、全力を尽くすわよ。でもね、私の心配もわかってくれないものかしらね」
「すまんな……」
また海風が吹き、千鶴子はスカートを押さえた。
全員が、千鶴子の方を見ていた。
千鶴子はその視線を振り払うように優の方を向いた。
「三条さん、あなた、自分でお父様には聞いてみたのかしら」
「はい、それとなく」
「結果は?」
「曖昧にされてしまいました……」
優は申し訳なさそうに頭を下げた。
千鶴子はうなだれつつ、仕方ないわねと言った。
「……三条さん、明日あなたのお宅に伺ってよろしいかしら?」
「あ……はい。それはもちろん」
「では明日の午前中に訪問するわ。今のところ解決する保障はまったくないので、そのつもりで。兄が気にして中間テストで酷い成績をとってはたまりませんので、一応は全力を尽くさせてもらいます」


33 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:46:35 ID:uS/qJs7j
優が公園から去ると、千鶴子は大きくため息をついた。
「最近ため息が増えている気がするわね」
「すまん」
「いいわよ、謝らなくて。謝って欲しいわけではないから」
空はほとんど宵闇に染まり、かろうじて西の空だけが赤みを残している。
絶え間なく波の打ちつける海を眺めながら、千鶴子は言った。
「私は文雄さんに、もう少し自分自身のことを考えて欲しいのよ。テストは一つの例だけど、他の人の厄介ごとに首を突っ込んでいたら、自分のことが立ち行かなくなる時もあるでしょう」
「ああ。まあ、どうにかするよ」
「本当にね。文雄さんの素敵なところではあるけれど、もう少し時と場合を選んで欲しいものね」
「性分だからな」
「その一言で済まそうとするのは許されないわね」
千鶴子は肩越しに振り返り、文雄を見た。
厳しい口調ではあったが、その目はどこか優しく、文雄は胸を撫で下ろした。
が、その直後。
千鶴子の目は鋭くつり上がることになった。
「何て……! 何て優しいの! 素晴らしい! さすがは私の後輩! 正義感と人情味に溢れた、最高にかっこいい男の子だわっ!」
これまで以上の勢いで、もはや叫び声といえる大きさの声で言いながら、切子が文雄の手を握ったのだ。
「え、え? 角間さん?」
「いいわ! あなた間違いなく素質がある! 警察官になりなさい! ううん、警察官にしてあげる! よーし、この街の未来は明るいわね! 燃えてきたわ!!」
文雄の手をぶんぶんと振り回し、一人盛り上がる切子。
二人を引き離すようにして、千鶴子は間に割って入った。
「兄の将来を勝手に決めないでください」
「ごめん! でも嬉しくて……!」
「ジュースをありがとうございました。そろそろ遅くなりましたし、お仕事に戻られてはいかがですか?」
淡々と伝える千鶴子に、切子は腕時計を見た。
「おや、確かにそろそろまずいね。ところで、千鶴子ちゃんは、文雄君からアドバイスを求められていたけれど、こういう相談はよくのるの?」
「いえ、別に」
「そっか」
うん、と頷いて、切子はまた千鶴子の頭を撫でた。
「あなたも、ありがとう。今日は本当、いいものを見せてもらったわ」
結局全員の頭を撫でて、切子はその場を後にした。
「気にせず受け取りなさい」
と最後に言って、五百円玉を一枚、統治郎の手に握らせて行った。
「嵐のような人だね……」
誰ともなく呟いて、四人はもらった五百円玉でジュースをもう一本ずつ買い、家路についた。


34 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:48:07 ID:uS/qJs7j
翌日土曜日、文雄と千鶴子は三条家を訪問した。
美山家とはまた別の地区の、山際にある広い屋敷が、三条優の住む家だった。
「最近どうもお金持ちと縁があるわね」
そんなことを言いながら、門脇に付けられた呼び鈴を押す。
応じたのは優で、すぐに邸内に案内された。
三条家は昔ながらの和風の家と、増改築による洋風建築の部分とから成っており、優の部屋は洋風建築の方にあった。
「大きなお屋敷ね」
「ええ。私はよくわからないけれど、父のお仕事は上手くいっているみたいです」
「これだけ広い家なら、家族がたくさん居ても特に問題はなさそうね」
「ええ。それに今は、下の妹二人は学校の関係で隣街の親戚の家に居るので、この家に普段居るのは父と私、母、末の妹……それと叔父の、五人だけなんですよ」
「そう」
「妹たちはなかなか帰って来なくて……寂しいものです」
廊下を歩きながらの会話に文雄は、どちらが上級生かわからんなと内心苦笑した。
「こちらが私の部屋です。散らかっておりますが……」
そう言って二人の通された部屋は、充分に整頓の行き届いた部屋だった。
部屋の中央に置かれた座卓には、すでにお菓子と飲み物が用意されていた。
「準備万端ね」
「お口に合うかはわかりませんが」
少し不安げな笑みを浮かべつつ、優は席を勧める。
三人はそれぞれ座卓の周囲に座った。
「さて、昨日聞けなかったことをいくつかお聞きしたいのだけど、いいかしら?」
「はい」
「まず、四人姉妹全員が養子だとあなたは言っていたけれど、お父様に実子はいないのね?」
「はい。居ないはずです。私たちが引き取られる以前は実の娘が居たようなのですが……事故で亡くなったそうです」
「そう、事故で」
「はい。小学校にあがる直前だったと思います」
千鶴子はなるほど、と頷いた。
「では、それから今まで、お母様に子供ができたことは無いのね」
「はい」
「一度はできているのに、できていない。何故かしら。一度目の出産の時何か問題があったとか、あるいは夫婦生活がどうなっているかとか、わかるかしら」
「そこまでは……私には残念ながら。あの、でも……」
「なに? 少しでも思い当たることがあるなら、言ってもらえると助かるわね」
「はい。あの、その亡くなった子供の母親もやはり事故で亡くなっていまして……今の母、三条望は後妻なんです」
「それは娘と同じ事故なのかしら」
「そう聞いています」
「……いずれにせよ、今のお母様は子供を産んだことが無い。ということは、体質的な問題の可能性も大いにあるというわけね」
千鶴子は考え込み、部屋に沈黙が訪れる。
事前に何も知らされていなかったので、文雄は千鶴子がどのような論理で質問を重ねているのかわからなかった。
ただ、千鶴子の考えがまとまるまでの中継ぎにと、文雄は口を開いた。
「あれかな、ご家族の写真とかあるかな。いや、もし良かったら見せてもらいたいなあと」
「はい。アルバムならこちらに」
優は背後の本棚からアルバムを取り出した。
それを見た千鶴子は、
「さすがは文雄さん。良い調べ方ね」
と文雄の膝を叩いた。
「え?」
「確かに、写真を見ればすぐにわかるわね」
「すまん。お前たちが話している間時間を潰せればと思って出してもらったんだ。特にそれ以上の理由があるわけでは……」
「あら、そう。でも助かったわ」


35 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:49:01 ID:uS/qJs7j
千鶴子はアルバムを手元に引き寄せ、ぱらぱらとめくった。
やはり文雄には、千鶴子の考えはわからなかった。
ただ、邪魔をせずにおこうと思った。
「こちら、妹さんたちね?」
「あ、はい。下の二人の妹です」
「似てるわけではないのね」
「そうですね。何しろ養子ですから」
ふむ、と千鶴子は小さく応じた。
「あなたを含め、姉妹がお父様から性的ないたずらをされたということは?」
「ありません」
「お風呂などは一緒ではなかった?」
「お風呂は確かに、妹が来るまで一緒でしたけれど……特に何かされるということはありませんでした」
「そう」
千鶴子は用意されていた茶を口にした。
「今のところ、お父様は一定の年齢以下の子供に価値を見出している、と考えざるを得ないわね」
「そ、そうなんですか?」
「普通に考えれば、いわゆるロリコンの線が強いのでしょうね。あからさまな性行為はしなくても、見るだけ、触るだけで満足する方もいるでしょうし」
千鶴子の言葉に優はあからさまな落ち込みを見せたが、千鶴子は構わず続けた。
「養子を取るのは、単純に子供が欲しいからと考えれば納得いくわ。どうやらお母様との間に子供はできていないようだし。お父様の件で問題なのは、養子を取ることそのものではない。
新たに養子を取った後、それまで可愛がっていた子供に無関心となることよ。話を聞いて、亡き娘の面影を追っているのかとも思ったけれど……」
「亡き娘の?」
今度は文雄が聞き返した。
「ええ。娘の代わりになりそうな子を養子に引き取り、ある程度育てたところでやはり娘に似ていないと思い、次の娘に鞍替えする……という理屈なら、ありえなくもないと思ったのよ」
「確かに、それなら納得いくな」
「でも、先ほどアルバムで見た三条さんの姉妹は、皆似ていないのよね。実の娘の面影を追っているのなら、容姿に何か共通項があっても良いと思うのよ」
「お父上なりの共通項はあるけれど、俺たちにはわからないというだけなんじゃないのか?」
「それはその通り。大いに可能性はあるわ。でも……」
「まだ何かあるのか?」
「……これ以上は何とも。三条さん、お父様の様子を見せてもらいたいのだけど、かまわないかしら?」
尋ねながら千鶴子は立ち上がり、既に階下に降りていく気を見せている。
それに対して優は渋い顔をした。
「それが……母が……父の部屋の方にはお友達を近づけないようにと……」
「あら、そうなの」
「すみません。母は、駄目な人なんです。あの人は、父を恥ずかしく思っているんです」
「どうかしらね。お父様のことを考えての言葉なのかもしれないわよ。本人が気にしていなくとも、悪評はいつどんな形で実害になるかわからないものだし」
千鶴子の言葉に、優は俯いて答えなかった。
千鶴子はため息をつき、部屋を出て行く。
「おい、千鶴子、どこに……」
「お父様の様子を見てくるわ。古い方の家の、奥の部屋でいいのよね」
「お前な、今の三条さんの話を聞いてなかったのか?」
「聞いていたわよ。だから、こっそり見に行くのよ」
「……そういう奴だよな、お前は」
文雄は立ち上がった。
「俺も行くよ。何か無茶されたらたまらんからな」
あら、と千鶴子は微笑んだ。
「見つかったら、お手洗いを探していて迷ってしまったと言い訳しようと思っていたのだけれど。そうね、兄妹で連れ立ってお手洗いを探していたというのも、いいかもしれないわね」


36 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:50:10 ID:uS/qJs7j
結局優からの助言で、千鶴子と文雄は一旦外に出て、屋敷の裏から回って三条英一の様子を見ることとなった。
簡単な見取り図を書いてもらっていたおかげで、英一の部屋はすぐにわかり、文雄と千鶴子は身をかがめてガラス戸越しに部屋の中を覗きこんだ。
広い畳の部屋の中には、児童向けの絵本やおもちゃが散乱している。
その中に中年の男が一人、胡坐をかいた脚の間に少女を抱え、座っていた。
「あれが……」
「ええ。優さんのお父様ね」
そして、抱えている娘が、優の末の妹。
あの話の通りなら、現在小学二年生というところか。
文雄と千鶴子が息を潜めて見守る中、父娘は仲睦まじく会話し、遊んでいた。
時折英一は娘の頭を撫でたり、体に触れたりするが、特に性的な部分に触れているわけではないと見て取れた。
「溺愛といえば溺愛なのだろうけど……」
仲の良い親子なら自然なコミュニケーションであろうとも思えた。
しばらくすると、部屋に入ってくる者があった。
「あなた、お昼ご飯はどうしますか?」
小豆色の着物を普段着として纏ったその女性が、襖を開けて静々と室内に歩み入る。
英一に対する呼び方から、英一の妻であり、優の養母である、三条望その人だとわかった。
「うん、何でもいいぞ。手のかからないもので」
「あら、普段お昼は外食ばかりなんですから、休日くらいは好きなものを言っていただいてかまいませんのに」
「ううむ、そう言われてもな。……咲は何が食べたい?」
英一は笑顔で、抱きかかえた娘に問いかける。
「あたし……? あたし、チョコレート食べたいよ」
「まあ、咲ちゃん。チョコレートはご飯にはなりませんよ」
言って、望はくすりと笑った。
英一も釣られるように笑った。
優から聞いていた話が無ければ、ごく暖かな家庭の風景のように、それは思えた。


37 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:54:04 ID:uS/qJs7j
二人は昼を少し過ぎた頃には三条家を出た。
優は笑顔で見送っていたが、その笑顔はやはり不安な気持ちを含んだものだった。
昨日皆でジュースを飲みながら優の話を聞いた海浜公園を、文雄と千鶴子は二人きりで歩いた。
「誰も居ないな」
「まあ、公園とは名ばかりだものね」
千鶴子は防波堤の上を歩きながら、水平線の向こうを眺めている。
時折強く吹き付ける海風が、長いスカートをはためかせていた。
「千鶴子、危ないぞ」
「大丈夫よ。この幅なら、目をつぶって歩いても落ちることはないわ」
「目をつぶって歩いたら、さすがに落ちるだろう。……いや、そうじゃなくて、そんなところを歩いてたら、スカートがめくれた時に、その……見えちゃうだろう」
「あら、気にしてくれるなんて、嬉しいわね。でも大丈夫よ。誰も居ないのだし」
「いや、俺が居るだろ」
「ふふ……そんなことを気にする間柄じゃないでしょう」
スカートを摘みあげ、千鶴子は下着を露にする。
周囲を見回しながら慌てて制する文雄を、くすくすと笑って見ていた。
「ごめんなさい。少し調子に乗ってしまったわね」
「お前は本当に……何を考えているかわからんな」
「休日にこうして二人で歩くなんて、何だかデートみたいだったから」
「それは下着を見せていい理由になるのか……?」
「ならないわね」
また千鶴子は小さく笑った。
その笑顔のまま、呟いた。
「三条優さん、か……」
「解決できそうか?」
「まだ絞りきれていないけれど、解答の候補は揃ったと思うわよ」
「相変わらず大した奴だな、お前は」
「けど、もう少し調べなければいけないことがあるのよね」
千鶴子は声色を沈ませる。
「ちょうどそのあたりだったわね」
と、昨日優が座っていたベンチを見下ろした。
「ん? 昨日みんなで話を聞いたところだな」
「ええ、角間切子さんの奢りでね」
千鶴子は堤防の上で三角座りになり、うなだれた。
「……その調べなければいけないことというのが、どうもあの人の協力無しには調べられなさそうなのよね」
「角間さんの?」
「ええ。だからもう、解決できなくてもいいような気もしているのよね」
「何故そうなる」
「私、あの人苦手なんだもの」
ああ、と文雄は苦笑いした。
「わかるよ。何だかこう……エネルギーに溢れすぎた人だったよな」
「ええ。あの人とまた接するくらいなら、もういいかなって……」
「まあまて。そんなに負担なら、俺から連絡してやるから。何を聞きたいんだ?」
言って、文雄は携帯電話を取り出す。
堤防の上から千鶴子がその頭を叩いた。
「痛いな、こら」
「ちょっと、なぜあなたが角間さんのメールアドレスを知っているのよ」
「え? 昨晩直接メールが送られてきたんだよ。統治郎から聞いたんだって」
「私には送られてきていないわ」
千鶴子はひらりと堤防から降りて、文雄の携帯電話を奪った。
「まあ、文雄さんは随分とあの人に気に入られていたみたいだものね」
「どうなんだろうな。色々言ってはいたけれど」
「優さんといい、角間さんといい、文雄さんは最近素敵な女性と知り合いになる機会が多いわね。ひょっとしたらそのために色々と首を突っ込んでいるのかと、疑ってしまうわ」
やれやれと千鶴子は首を振り、俯いた。
軽口のようだったが、何故か文雄には、その時の千鶴子がいつになく落ち込んでいるように見えた。
「……あのな、千鶴子。もしも本当に嫌だったら、今回のことは、これまででお前がわかったことを三条さんに伝えて終わりにしていいぞ」
「文雄さんは、あの人の問題を解決してあげたいんでしょう?」
「できたら、な」
「……私は文雄さんの願いを叶えるって言ったでしょう?」
そうじゃないと、私の意味が無いもの。
微かな呟きは波の音に紛れて、消えてしまう。


38 ノスタルジア 第5話 ◆7d8WMfyWTA sage 2010/05/06(木) 00:55:04 ID:uS/qJs7j
千鶴子は顔を上げると、文雄の携帯電話から角間切子へメールを出した。
「何を聞いたんだ?」
「優さんが言っていた、元の奥様と実の娘さんが亡くなった事故についてよ」
「それを聞くことで、三条英一氏の奇行について、何かわかるのか?」
千鶴子は首を傾げた。
「わかるというか、毒物が関わる事故でなければいいなと思って」
「……? 何でまた」
「小さい子供の使い道というものを考えるとね」
使い道とは嫌な表現だと文雄は思った。
しかし千鶴子は気にする様子も無い。
「文雄さん、子供と聞いて思いつく言葉を三つ挙げてみて」
「またいきなりだな。ええと、小さい、手がかかる、可愛い」
「最後のは不正解ね。うるさい、よ」
「そういう問題だったのか、今の……?」
冗談は置いておいて、と千鶴子は物をどかす仕草をした。
「小さい、と言ったわね」
「ああ」
「そう、子供は小さいわ。そこに愛情を感じる人もいれば、性欲を感じる人もいる。他に『小さい人間』が……『小さい人間』しか果たせない役割は何かと考えると、体積の制限か体重の制限が関わってくると思うのよ」
文雄は黙って聞いていた。
千鶴子の凛とした、知性の煌きを感じさせる表情で、宙の一点を見つめていた。
「日常の生活の中で、体積や体重の制限を考える時って、どんな時かしら?」
「それで毒物、なのか……」
「ええ。体重と致死量は比例するからね。自分と同じ日常生活を子供に送らせることで、毒見役にできるんじゃないか、なんて考えたんだけど……」
深刻な表情を見せる文雄に、千鶴子は微笑みかけた。
「心配しないで。英一氏がロリコンである可能性も同等にあるし、他の可能性もある。あくまで私の考えの一つに過ぎないんだから」
「もしお前の想像通りだったら、どうなるんだろうな」
「解決はかなり難しくなるでしょうね。だから、ただの交通事故とか、そういうものを期待しているわ」
千鶴子は携帯電話を返しながら、文雄の手を両の手で包み込んだ。
「ねえ、文雄さん。この件が解決して、中間テストが終わったら、二人でデートに行きましょう」
「え……?」
「色々思うところはあるけれど、私なりに頑張るので、ご褒美に遊びに連れて行って欲しい……んだけど、駄目かしら?」
「それはかまわないけど」
「……良かった」
文雄の手を包む千鶴子の両手には、しっとりと汗が滲んでいた。


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最終更新:2011年10月28日 00:35
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