ひきこもり大戦記 第三話

443 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:49:07.82 ID:oWnLPT0+ (2/13)
「へぇ、思ったよりも片付いてるのね。ひきこもりの部屋って、もっとゴチャゴチャしてるのが相場だと睨んでたのに」
 大家さんは部屋を一望しながら(そもそも一望出来るほどの広さしかない)感慨深く言った。
 それは違いますよ、と僕は思わず反論したくなる。
 ひきこもりの部屋が不衛生というのは大きな偏見であった。何も、世にいる我が同士の部屋全部が汚いってわけじゃない。僕のような綺麗好きのひきこもりだって、決して少数ではないはずだ。
 それに、彼等の部屋は汚いんじゃなくて単純にモノが多いだけの場合が多数を占める。収納スペースは限られてるのに、モノだけはどんどんと増えていくから、自然と住居スペースが狭くなり、結果的に見栄えが悪くなるのだ。
 僕みたいな一人暮らしのひきこもりならともかく、実家暮らしのひきこもりはそこのところかなり切実と聞く。同じひきこもりとして、同情を禁じ得ないよ全く。
 まあとにかく、全国のひきこもり達の名誉のためにも、ここは強く擁護させてもらいました。心の中でだけどね。
「だけど、ひきこもりって本当にすることがないのね」
 大家さんが、語気にどこかイタズラっ気を含ませながらそう言う。
 なんとなく嫌な予感がして視線を移すと、大家さんはちょうど何かを覗き込んでいるところだった。なにを見ているのだろうか。彼女の小さな背中越しに、僕もそれを伺い見る。
 そこには、ゴミ箱があった。僕が長年使用している、なんら変哲もない普通のゴミ箱だ。ただひとつ特徴をあげるとするなら、使用済みのティッシュでたんまりと盛り上がってるぐらいで──
「って、ちょ、ちょ、ちょっと、なに、見てるんすかっ」
 普段ひきこもっているとは思えない、肉食獣も惚れ惚れするような俊敏さで、僕は彼女の視界から遮るようにゴミ箱に飛びつき、素早くビニール袋の口を閉めた。この間、僅か十秒にも満たないだろう。いわゆる火事場の馬鹿力というやつだ。
 畜生、と僕は心の中で毒を吐いた。
 部屋に誰かを招くなんてケースは、今までに一度も想定したことがなかったから、完全に油断した。
 違うのです。鼻をかむのに使ったティッシュが大半なのです。決していかがわしい目的で使ったティッシュじゃないのです。
 性生活の断片を見られた羞恥に歯噛みする僕とは対照的に、そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫よう、と大家さんがニヤニヤしながらしながら言った。


444 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:50:27.74 ID:oWnLPT0+ (3/13)
「たといヒロシが毎夜毎夜お姉ちゃんとの夜伽を夢想しながら行為に及んでいたとしても、あたしは全然気にしないからさ」
 してねえよ! と、本日二度目のツッコミ。
 くそっ、生けるリアル合法ロリのくせして一体全体なにを言っているのだこの人は。今一度鏡で自分の体型を確認してから言ってくださいよその台詞。その断崖絶壁な胸とかを特に。
 それに、そもそも僕にロリ属性なるものは存在しない。
 たしかに、大家さんは中々に可愛らしい容姿をしているので、十二分に人目を惹くかもしれない。が、それはあくまで愛玩的な可愛さであって、性的な魅力とは丸きり無縁である。
 なので、僕からしたら大家さんのツルペタボディとか実にどうでもいいのだ。ぺったんこでスベスベしてそうな胸とか、小ぶりで形の良さそうなお尻とか、誠にどうでもいい。ほ、本当なんだからねっ!
 と、僕はひとり身悶えていたのだが、大家さん的には今のはもう終わった出来事なのか、いつの間にか勝手にコタツの中に入り込んでいた。ふぃー、と湯に浸かったおっさんのような声を出して、猫みたく丸まっている。
「やっぱ冬はおこたよねー。あたしもストーブやめてコタツにしよっかな」
 卓上に頭を乗せて、そんなことを尋ねた。僕はとりあえず質問を無視して、邪魔そうにしていたノートパソコンをどかしてやった。ありがとう、と彼女は礼を言う。
「ど、どっちでも、いいんじゃ、ないですか? ストーブも、コタツも、か、変わらない」
「いんや、それがけっこう変わるのよ。ほら、コタツは一極集中だから部屋全体は温められないけど、その分ストーブに比べてお金はかからないでしょ?
 維持費の時点でそこそこ違ってくるし、他にも色々とクローズアップして見てみると、細々と相違点が見つかるのよね。
 けどなー、あたしはやっぱりストーブかなー。なんてゆうか、コタツだと暖まったって気がしないのよね。実際、コタツだと外に出てる上半身部分はどうしても寒くなっちゃうしさ。それに、お姉ちゃんいつもストーブの上にヤカン乗せて──あっ」
 そこで大家さんはハッと顔を上げた。
「そうだよ。なんか足りないなって思ってたら、昆布茶だ。今のあたし達には昆布茶が足りないよ。よし、ヒロシ。今からお姉ちゃんが昆布茶の用意してあげるからね。コタツで待ってなさい。茶筒と急須とかはどこに置いてあるの?」
「な、ない、ですよ。そんなもの」


445 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:51:50.29 ID:oWnLPT0+ (4/13)
「またまたー。昆布茶を置いてない家なんて、あるわけないでしょ。冗談はいいからさ、ほら、早く教えてよ」
「だっ、だから、本当に、ない」
「……あのさ。もしかして、それ、嘘とかじゃなくて、本気で言ってる?」
「はい。う、家に、昆布茶は、ないです。茶筒とか、急須とかも、ない」
「…………」
「あっ、あの、お、大家さん?」
「ええええええええええぇぇぇぇぇぇ!」
 大絶叫した。近所迷惑とか、そういうのは全く配慮していない。あまりにも純粋すぎる驚き。見たところ、いつものふざけた演技の類ではないようだった。正真正銘、大家さんの心の底からの喫驚だった。
 当然、僕は混乱する。
 えっ、なになにこの反応。ただ昆布茶がないって言っただけで、何故ここまで驚かれる? 昆布茶って、そんなに普遍的な存在だったのか? 寡聞にして聞いたことないぞ。
 まだ昆布茶ショックが抜けきらないのか、茫然自失とした表情で、大家さんはぼそぼそ呟いている。
「そうだよね……ヒロシは、ひきこもりだもんね。常識とか、マナーとか、そういうのは知らなくても仕方ないよね……。うん、そうだよ。そういうのを含めて、これからあたしが教えていかなくちゃ……」
 いやいやいやいや。いくら僕が世間知らずだといっても、昆布茶如きでここまで言われる謂れは無い。
 というか、彼女はまるで昆布茶が米やパン等の主食、いや、それ以上の必須食品みたいに言っているが、明らかに昆布茶常備派のほうがマイノリティであろう。いくら長年ひきこもっているといっても、それぐらいは安易に想像がつく。
 ヒロシ、と大家さんが瞳に憐憫の情を織り交ぜながら僕を呼んだ。止めろ、そんな目で僕を見るな。
「お姉ちゃん、今から部屋に戻って昆布茶持ってくるから、先にお湯沸かしといて」
 これから緊急手術をする名医のような口調でそう言い放ち、僕の返答を待たないうちに、彼女は急ぎ足で部屋を出て行った。
 どうやら拒否権はないらしい。べつに昆布茶とかどうでもいいんだけどな。
 ぽりぽりと頬を掻く。
 致し方ない。不承不承ではあるが、言われた通りの準備をするか。
 僕は流し台へ向かうと、棚から底の焦げたヤカンを取り出し、蛇口をひねり水道水を入れてから、ガスコンロの火にかけた。
 大家さんの並ならぬ昆布茶への執念を見る限り、どうしてミネラルウォーターじゃなくて水道水なのっ、とか言われそうなので、聞かれたら嘘をついておこう。


446 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:53:24.27 ID:oWnLPT0+ (5/13)
 僕は水が沸騰するまでの間、コンロの火で暖をとりながら、そういえばお湯を沸かすって文法的に正しい表現なのかな、正しくは水を沸かすなんじゃないのかな、なんてくだらぬ考えをしているうちに、大家さんは戻ってきた。
 茶飲み道具一式を乗せた盆を持って、ふらふらと危なっかしくバランスを保ちながら、なんとか流し台の上に盆を置く。はかったようなタイミングで、ヤカンもピーと鳴いた。
 座ってていいよ、と言われたので、僕は温かいコタツへと舞い戻り、大家さんがお茶の用意をするのをぼんやりと眺める。
 慣れているのだろう、彼女は手際よく準備した。ヤカンの熱湯を急須に注ぎ、茶筒から角切り昆布を適量入れる。すると、昆布茶独特の塩辛いような磯の香りが、こちらまで漂ってきた。
 そして、またもや危なっかしい千鳥足で盆をコタツまで持ってくると、ファンシーにデフォルメ化された紅白セットの豚の湯のみに、湯気の上る液体を注いだ。赤い豚を自分のほうに、白い豚を僕の方に差し出す。
 よっこらせ、と大家さんもコタツの中に入り、しばらくのあいだ愛おしそうに赤豚を撫でてから、昆布茶に口をつける。
「ぷはー」
 そのままとろけてしまいそうな表情を浮かべて、コクコクと何度も頷いた。
「緑茶、紅茶、烏龍茶、と世には沢山のお茶があるけれども、やっぱり一番は昆布茶よ。これだけは譲れないわ。ヒロシも、そう思うよね?」
 同意を求めてきたので、曖昧に頷いておく。ちなみに、僕はまだ昆布茶に手をつけていない。猫舌なのだ。
 それからは、妙な沈黙が続いた。お互いに話題も尽きてきた、一種の箸休めのような静謐。
 心地の良い沈黙、という言葉を僕は小説などでよく目にするが、こと僕においてはそんな素晴らしい沈黙は持ち合わせていない。沈黙はただ気まずいだけ。
 唯一の救いといえば、大家さんが僕の無言に慣れていることだろう。今更、僕からの話題投下など要求してこないはずだ。
「あのさ」
 案の定、静寂を破ったのは大家さんだった。
「もうそろそろ、聞いてもいいかな?」
 先程のおちゃらけた態度はどこへいったのか、やけに神妙な表情をする彼女に、僕は自然と身構えてしまう。なにやら胸騒ぎがする。ゴクリ、と生唾を飲み込んで、彼女に問い返した。
「な、なにを、ですか?」
「そのヒッドイ顔について」
 大家さんの質問は、ナイフのように深く冷たく、僕の胸へと突き刺さった。


447 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:54:53.41 ID:oWnLPT0+ (6/13)
 一瞬、呼吸が止まる。彼女なら、気付いていても聞かないでいてくれると期待してたのに、とんだ見当違いだった。まさか、ここまでストレートに訊くなんて。
 落ち着け。乱れた呼吸を整える。
 これ以上は突っ込まないでください。言葉の裏側に潜む意図を察してもらえるよう、僕はわざとらしく誤魔化した。
「ひ、ひどいのは、もとから、っすよ」
「ああ、違う違う。あたしが言ってるのは容姿云々とかじゃなくってさ。そのお饅頭みたいに膨らんだ、痛々しい顔についてだよ」
 しかし、大家さんに容赦はなかった。
「……このまえ、へ、部屋、で、転んだ」
「転んだ? それは嘘だね。一体どういう転び方をすれば、そんな綺麗にほっぺたが腫れるのよ。少なくとも、あたしには誰かに殴られて出来た腫れ方にしか見えない」
「…………」
「よかったら、聞かせてくれないかな? ここ最近、ヒロシに何があったのか」
 冷や汗が一筋、頬を伝って顎の所で雫をつくる。
 脳内で再生されているのは、三日前の夜のこと。あの醜くて、あまりにもチンケな僕の冒険譚。
 人によっては、あれを喜劇だと捉えるかもしれない。が、少なくとも僕にとっては、ただの悲劇でしかない。幼稚園児の学芸会よりも幼稚で、残飯を貪るハイエナよりも醜悪な、只のつまらないお話。
 あれを、話せと言うのか。
 いつの間にか握り締めていた拳が、膝の上でぷるぷると震えていた。
「ごめん、踏み込みすぎた」
 大家さんは早かった。僕の発するただならぬ嫌悪を即座に嗅ぎ取り、深々と頭を下げる。
「べつに、ヒロシを傷つけたいわけじゃなかったの。けど、結果的には同じになっちゃったね。これじゃあ、尋問と何も変わらない。今の質問は、もう忘れて」
 そう言って、気まずそうに目を伏せた。
 僕も俯いて、昆布茶の水面にうつる自身を見つめた。
 わかっていた。彼女が僕から無理に話を聞き出そうとしてるのは、要するに僕の力になりたいからなのだってことぐらいは。
 誰かに殴られた痕跡を見つけ、それを黙って見過ごせない、おせっかい過ぎるほどの優しさ。人の好意に気付けないほど、僕の心はまだ錆び付いちゃいない。
 だけども、それでも、大家さんがなんと言おうとも、僕に話す気はなかった。


448 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:56:30.84 ID:oWnLPT0+ (7/13)
 苦い思い出を共有したところで、なにが変わるというのか。僕がイヤな気持ちになって、大家さんもイヤな気持ちになる。イヤな気持ちがが二倍になる。そんなの無益だ。それなら、僕で止めておいた方がいいに決まってる。
 それに、自らの醜態を他人に語れるほど、僕は自虐的な人間ではない。ましてや、知情意を兼ね備えた人間でもない。だから、あの事件は墓まで持っていくのだ。そう決めていた。
 そう、決めていたのに──
「……み、三日前、な、なんです」
 僕の口は、動いていた。自らの意志とは関係なく、感情とも関係なく、忽焉と動き出していた。
 昆布茶にうつる僕も、目を点にしている。
 どうして、僕はこうも容易に大家さんに打ち明けているのだろうか。理解を超える。心変わり早過ぎだろ僕。意味不明。
 だが、なにもかも綺麗さっぱりに話して楽になりたがってるのかな、と心の裏側で悟達してる自分もいた。
 説明はひどいものだった。
 話は飛び飛びだし、すぐ脇道に逸れるし、補足とかの気遣いもないし、聞き手からしたらたまったものではないだろう。僕が拝聴者だったら、もう既に席を立っている。
 でも、大家さんは辛抱強く聞いてくれた。口を挟まずに、相槌も打たずに、終始一貫真摯な態度を貫いていた。
 話す側として、その態度はありがたかった。へたに横槍を入れられたら、錯乱してしまう僕だ。おかげで、割と語数も抑えて話せたと思う。
 話を終えたときには、時計の長針は一周以上していた。
 なんだか、ひどく疲れた。長時間喋り続けていた所為か、気付かぬ間に喉がカラカラに渇いている。
 渇きを潤すため、既にぬるくなった昆布茶を右手に持ち、グイッと一気に飲み干した。しょっぱい。
 そして、僕は否が応でも気付かされた。自分がちっともスッキリしていないことに。
 洗いざらい話してしまえば、幾分か楽になれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたのに、結果はご覧の有り様だ。
 なんだよ、何も変わってないじゃないか。こんな結末になるなら、話さなきゃよかった。これでは、徒に僕の心を毀損されただけだ。ああ、苛苛する。どれもこれも、ぜんぶ大家さんのせいだ。
 と、僕は理不尽にも、目の前に座る彼女を恨んだ。
 大家さんの表情は、栗色の髪に隠れて見えない。おそらく、僕を慰める無難な言葉でも選択しているのだろう。
「何もかも、無駄だったんですよ」


449 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 11:58:45.11 ID:oWnLPT0+ (8/13)
 機先を制するため、僕は皮肉たっぷりに言葉を投げかける。
「大家さんは勘違いしてるかもですが、僕はあの二人組には感謝してるんです。僕が変な勘違いをしてしまうのを、未然に防いでくれたのですから。今以上に傷つかなくて、済んだ」
 こんな時だけは饒舌になるんだな、と己を自嘲する。
「それに、僕は今回の出来事を通して、大切なことを学べました。人が本質的に変わるのは不可能だという事実です。どんなに努力をしたって、ひきこもりは、ひきこもりのままなんです」
 じわり、と視界が歪む。泣くなよ、こんなことぐらいで。どんだけメンタル弱いんだ僕は。死ねよ。
「僕は……僕は一生、このままなんです」
 その言葉を最後に、室内を支配するのは、深沈とした寂然。
 僕は鼻をすすった。情けない。このまま消えてなくなりたい。本気でそう思った。
 溜め込んでいた涙がこぼれ落ちそうだったので、慌てて服の袖で目元を拭う。これ以上、彼女に惨めなところはみせたくなかった。
「ヒロシ」
 大家さんが顔をあげて、僕の名前を呼んだ。
 やめてください。今はなにも言わないでください。ほっといてください。帰ってください。
 前方に思念を飛ばしてみるが、彼女の口は構わず動きだす。
 ──聞きたくない。
 そう思って、僕は思わず背ぐくまったのだが、
「ごめん。ヒロシの言ってること、お姉ちゃん全くわからなかった」
 てへっ。ペロリと舌を出して、いたずらが見つかった子供のように謝る大家さん。
 ……ええー。
 バイバイ、シリアスな空気。よろしく、つまらない映画を見た後のような微妙な白けさ。いや、ほんと空気が読めないってレベルじゃないぞ。
 なんてゆーかなー、と大家さんは困惑したように顎に手を添えている。 
「下手な喩えになるけどさ、あるところに足が遅いと嘆く男がいるとするじゃない。で、実際にタイムをはかってみると、なんと百メートル十秒台だったの。
 周りの人達はタイムを見せて、いかに男の足が速いのかを説明するんだけど、男はそれを只の慰めとしか受け取らない。相変わらず足が遅いと嘆き続けるだけ。そんな感じかね」
 大家さんは名探偵よろしく僕に向かって人差し指を突き立て、
「ヒロシは、もう変われてるよ」
 高らかに指摘した。
 呆気にとられてしまい、暫くは何も言えなかった。大家さんの言ってることを脳内で咀嚼し、ようやく意味を理解した後、僕は鼻で笑った。


450 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 12:00:56.40 ID:oWnLPT0+ (9/13)
 何を言うかと思えば、くだらない。
「僕がもう変われてる、ですか。ハッ、どうせ大家さんは、僕が外に出たことを、OLさんを助けようと二人組に立ち向かったことを、変化などと呼ぼうとしたんでしょう? 違いますよ、それ。あんなのは成長なんかじゃない」
「うーん。そうかもね」
「だったら、適当いうなよ。余計な慰労や賞賛が逆効果ってのは、大家さんだってわかってるでしょう」
「わかってるよ。上分別はわきまえてる。それをふまえたうえで、あたしは変わったって言ったんだよ」
「なら、証拠を見せろよ。僕が変わったていう証拠をさ」
「証拠、ねぇ……えーと、証拠はあたし、としか言いようがないかな」
「わけがわかりませんよ。言葉遊びはよしてください。僕は変わってないし、これかも変わらない。それで、いいでしょう。へんに揚げ足を取るのはやめてください」
「──じゃあ、あたしはどうして此処に居るの?」
 あっ。
 狐につままれたようだった。この一言で、今日、大家さんと会ってからずっとわだかまっていた違和感が、やっと氷解した。 
 そうだよ、どうして大家さんは、此処に居る? どうして、僕の部屋に居るんだ?
「なんやかんやヒロシとも十年近い付き合いになるけどさ、部屋にいれてもらうのは今日が初めてだぜ。
 なんて言えばいいのかな、返す返す下手な喩えで申し訳ないけど、ヒロシにとってこの部屋は、何人たりとも足を踏み入れてはならない、侵すことを禁じている聖域みたいな場所じゃない。
 だから、ドアを開けて中に入れてくれたときは、驚いて動けなかったよ。冗談で言ったつもりだったのに、本当に入れてくれるんだもん」
 まっ、その特殊メイクみたいな顔にも驚いたけどね、と彼女は付け足した。
 大家さんの言う通りだった。
 僕にとってこの部屋は、言わば核シェルター。越えられてはいけない最終防衛ライン。今までに、誰一人だって入れたことはない。なのに、今日はどうしてこうも簡単に──
「とどのつまり、社会で必要なのってコミュニケーション能力なのよね」
 彼女は続ける。


451 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 12:02:37.70 ID:oWnLPT0+ (10/13)
「けど、コミュニケーション能力ってのは、誰しもが最初から兼ね備えている訳じゃない。あれは他者と交流して培ってくものだから。ヒロシも無意識下にそれを理解してるのよ。
 だから、あたしを入れた。人嫌いな自分を殺して、他者と交わろうとした。コミュニケーション能力を得るために。社会に適応するために。こういうのをさ、人は成長って呼ぶんじゃないの?」
 成長。その言葉が、ストンと僕の中に落ちる。
「変わろうとした動機は、単純に悔しかったから。陰気なヒロシが珍しくキレたっていうし、散々自分をバカにしたアイツらを見返してやりたいって思ったんだよ。俺はひきこもりニートじゃないぞ、ってね」
 言われてみれば、あの時は僕らしかぬ憤怒っぷりだった。通常の僕なら、泣いて逃げ出してるというのに。逃げるどころか、悪漢二人組に立ち向かっていった。
「たしかに、小さいよ。顕微鏡で見なきゃ視認できないほどの進化だよ。けどさ、三日前の事件を通して、自分の足で一歩進んだってのは、紛れもない事実じゃない」
 大家さんは赤心に満ちた顔つきで、柔らかく微笑みかけた。
「今回は、いつもと違う。ヒロシさえ覚悟すれば、この生活から抜け出せる。あたしが保証する」
 一際強く、心臓が動悸を打つ。
 脱却できるのか。この生きてるか死んでるかわからない腐った生活から、抜け出せるのか。証文の出し遅れには、ならないのか。
「大家さん」
「んっ?」
「僕は、変われるのでしょうか」
「変われるよ」
 きっぱりと断言してくれた。その力強さが、今は頼もしかった。
「……変われるよ」
 不意に遠い目をして、彼女が言う。
「あたしが変われたんだもん。ヒロシだって、絶対に変われる」
 昔日を、思い出しているのだろう。僕と大家さんが出会った、初めの頃を。けど、
「大家さんの時とは、違うじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね」
 痛いところ突くなあ、と困ったようにぼやく。
「けども、ひとりの人間が変わったって部分は一緒なんだから、なんかの参考にはなるんじゃね?」
 うわっ、超適当。
 いかにも大家さんらしい言い草だった。


452 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 12:04:52.20 ID:oWnLPT0+ (11/13)
「しかーし、老婆心ながら、ちっと忠言させてもらうと、ヒロシはちょっと急ぎすぎかな。今までずっとひきこもってきたんだから、もっとじっくりコトコトいかなくちゃだよ。
 あたしのお爺ちゃんもよく言ってたよ“人生に、抜け道あれども近道なし”ってね。
 あたし達みたいな凡人に抜け道なんて見つけられるはずないんだからさ、地道にゆくしかないのですよ。だからさ──」
 大家さんはいきなり立ち上がったかと思うと、戦隊ヒーローみたいなポーズをとって、
「まずは、お姉ちゃんと目を合わせて話すことから始めようぜ」
 そう言い放った。
「…………」
 しばしの無言の後、僕はがっくりとうなだれた。
 これまで長ったらしくたれてきた講釈の意味が、今わかった。要は、これを言いたかっただけなのだ、彼女は。
 冷静になって振り返ってみると、大家さんの言った論理は勝手なこじつけばかりで遺漏も多い。いわば、勢いに任せた演説みたいな説得だった。あーあーつくづくちゃらんぽらん言いやがって。アホらしい。
「あのですね──」
 調子に乗ってる彼女に釘を刺すために、僕は反論しようと口を開きかける。
 が、大家さんの太陽よりも明るい、天衣無縫な笑みを見ていると、なんだかそんなの全部どうでもよくなってきて、なんとなく可笑しくなってしまって、
「……く、くくくっ」
 そして、僕は、本当に、本当に久しぶりに、ほんのちょびっとだったけど、
「はっ、ははははっ」
 心の底から、笑ったのだった。

 明日も仕事があるから、そう言い残して、大家さんは自分の部屋へ帰って行った。
 彼女は僕と違って、舞台側の人間だった。そこで、大家さんがどのような時を過ごしているのか、僕はよく知らない。だが、きっとそれは、酷く塵労が積み重なるものに違いないだろう。尊敬に値した。
 同時に、僕も再びあの舞台へのぼれるのだろうか、という漠然とした不安が胸を曇らせた。
 が、今になって憂いても仕方がない。大家さんの言葉を額面通りに受けとるのなら、僕はもう進んでしまっているのだ。後戻りは出来ない。
 自分の心に区切りをつけるよう、ドアの鍵を閉めた。
 コタツへ戻ると、寝っ転がって、しばらく電灯の光を眺めた。
 急に、部屋が静かになった。祭りの後のような、ノスタルジックな郷愁が僕を襲う。


453 :ひきこもり大戦記 [sage] :2011/11/03(木) 12:07:02.23 ID:oWnLPT0+ (12/13)
 しかし、僕にはこういう雰囲気のほうが合っていた。昔から、独りを好む男だったのだ。この孤独を愛する気性だけは、未来永劫変わることはないのかもしれない。大家さんといるのは(失礼かもしれないけど)やっぱり疲れる。
 首を動かして、時計を見る。現在の時刻は午前二時。僕の一日は、まだ始まったばかりだった。
 エロゲでもするかな。そう思って、ずっとスリープ状態で待機していたノートパソコンを卓上に置き、なんとどなく開いた。
 ──不意打ちをくらった。僕は、反射的に目を閉じる。幾分か愉快だった気分が、今ので一気に吹き飛んだ。
 忘れていた。たとえるなら、夏休み最終日にやり残していた宿題をみつけてしまったような気持ち。面倒事を後回しにしてきた、過去の自分を恨みたくなる。
 見なかったことにしたい。このままパソコンをシャットダウンさせてしまおうか、本気で悩んだ。けど、そんなことしたって意味がないのはわかってる。
 なら、向き合おう。
 おそるおそる目を開けた。ディスプレイにうつる文字を確認。新着メールが一件。ノートパソコンは、僕にメールの受信を知らせていた。スパムメールは来ないように設定している。そして、僕のメールアドレスを知る人物は、この世に唯一人しかいない。
 僕は震える指でカーソルを動かし、メールの本文を開いた。
 ──明後日、午前一時に伺います。
 メールの内容は“普段”の彼女らしく、簡素で洗練された文体だった。
 差出人に視線を移す。
 視界に飛び込む、武井涼子の四文字。
 届いたメールは、僕の妹からだった。


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最終更新:2011年11月18日 13:18
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