265 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:20:35.93 ID:ZqEP/v7T
透徹とした陽射しに世界が浮いていた。
高く遠い白雲の群に、蒼穹を行く飛行機の線。
空と大地が見はるはかす彼方まで世界を切り分け、蒼緑の線が真っ直ぐに飛んで境界を交える。
透明感のある陽光が生命の緑を輝かせ、明るく澄んだ視界を、噴きだす汗と陽炎が濁す季節。
見上げれば白蒼の空、見詰めれば目を焼く太陽。
見渡せば濃く青く茂る草葉。
燦燦と日の笑う日本的な夏────────土の匂う田舎道で開いた手を、生温い風が緩く撫でる。
「おーい」
どこからかミンミンと響くセミの声。
掲げ、左右に振った手から落ちる影は、ぐっと色濃い。
自己主張の強いお天道さまは遮るとそれだけ世界が暗く、同時に翳った視界の中、すっと頭の冷える気がして心地良かった。
言葉そのままの手旗で合図する度、太陽が隠れては顔を出す。
幾度も切り替わる明暗は、茹だるような暑さの中、意識を保つ貴重な刺激だ。
「おー・・・・・・・・・・はろん、つっきー」
「もう。その呼び方はやめてったら」
人の疎(まば)らな通学路。
アスファルトで舗装もされず、木々や畑に挟まれた、車1台が通るかの狭い道。
呼びかけた相手は振り向くと、その声のように頼りない足取りで向かってきた。
純白を基調に、縁(ふち)を取る水色で暑気を払う女子制服が太陽を頂く。
降り注ぐ陽射しを受け流すスカートは青く浮き立ち、
膝下にほんの少しかけられた陰影から伸びる足は艶かしく、袖から出る両腕は輝かしく、白い肌からは生気が匂う。
ただ。
暑さにやられての、寝起きのような気怠げな声だけが、見た目の涼気を下げていた。
「詩姉(しいねえ)」
「んーぅ?」
ふらつく首で支える頭部に、乱れ気味のボブカットと半眼の双眸を載せて。
詩姉────姉である葉木鳥 詩歌(はぎとり しいか)の顔が、右に傾く。
「? ぅーん」
そのまま、ぐりん、と半回転で左に行ってから、元の位置へと戻った。
半落としの目蓋(まぶた)の、更に下から視線が上がる。
「熱いよねー。太陽。・・・・・・・・・何さ?」
「太陽はいつでも熱いから、それ自体は夏の暑さに関係ないけどね。
うん。ちょっと、元気ないかなって」
「・・・・・・・・・・ーお」
不可思議な発声の同意に首肯が続くと、縦に曲がった首をそのまま地面を向き、隠れた顔がゴシゴシと擦られる。
「っんー。いやぁいやあ。
明日から夏休みと思ったら、少しでも早く夏休みを楽しみたいあまり、テンション先取りしちゃってねえ。
つい徹夜して、もう」
266 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:21:26.96 ID:ZqEP/v7T
もう一度僕を見た
姉さんの目は開かれていたけど、だいたい会話文三行目めくらいの頃にはもたなくなっていた。
「ねむくてくむね」
一瞬、魂が抜けたかのようにがくんとフラつき、言い終えた口から、長く細い吐息が夏空へと上る。
「むうぅうぅう。ヤバい。この眠気はマジでヤバいよー。
ねえつっきー、月陽(つきひ)、月陽様。
どうかこの姉の眠気か重量を学校まで肩代わりいや肩車してくれませんでしょうかー?」
「こらこら。
確かに明日からは夏休みだけど、今日は学校、そのための終了式なんだから。ちゃんとしないとダメだよ姉さん」
「半徹くらいで寝るか起きてるか迷った挙句、寝ないでかつちょっとだけ早めに出て学校で寝ようと思った私がバカだったかー。
・・・・・・おおっと手が滑ったー」
うへあー、と吐息気味の声に遅れて抱きついてこようとする姉。
芯のない上体と共に揺れながら繰り出された両手はゾンビのようで、思えばそれはそれで夏の風物詩であるホラーのようでもあったけど、
単に疲労しているだけの姉の力は弱く、軽く払うと横に流れてつんのめった。
「わっとっと」
「ほら。ちゃんと立って」
右手に持った学生鞄の重さで重心が寄り、転びそうになったところで肩を掴んで引き寄せる。
眠気のせいで体に意識が行き届いていないのは確かなようで、予想より重い手応えの代わりに、反射的な抵抗もなかった。
「え? わっ────あう」
倒れようとしていた体を後ろから引っ張られ、
その場でターンする形でこちらに向く────────タイミングで眠いまま揺らされたせいかカクンと姉さんのヒザが抜け、
ぶつかるように、こちら側へと倒れこむ。
「あ。ごめん」
服越しにボクの胸へと顔が沈み、生地を抜けて「わぷっ!?」という声と吐息が伝わる。
「けど、これで目は覚めたんじゃない?」
「うう。つっきーがいぢめる。弟がグレた・・・・・・死にたい」
「前は夏休みまで死ねないって言ってたじゃない」
余裕ある姉の抗議に気持ち小気味良く返して、体を離す。
「うだーぁ」
姉は心底ダルそうだが、それを声にして訴える余力はあるようだった。
「唸る元気があるなら大丈夫だね。ちゃんと自分で歩きなよ?」
「つっきー、ここは給食のオカズとデザートで手を~」
「だーめ。それに小学生じゃないんだから。今日は午前中で終わるし、学食も購買も開いてないよ」
そもそもうちの学校に給食制はないので、姉の訴える通り、確かに睡眠不足で意識まで参っているのかもしれない。
それとこれとは別だけど。
267 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:23:29.06 ID:ZqEP/v7T
「ほら。手は打たないけど、代わりに引いてあげるから。
頑張って自分の足で夏休みを迎えに行こう」
「あうおうえぉ~」
関節の具合が怪しい姉の手を取って歩き出す。
触れてみると汗を浮かべたこちらに比べ、握った手は少し冷たくて涼やかだった。
前から体温の低い人ではあったけど、徹夜で更に体調を崩しているのかもしれない。
先に出た姉に追いつくのに時間がかかったし、通学路も既に半分くらいまでは来ている。
戻るにも距離は同じだ。なら、万一の時のためにまだ保健室のある学校を目指すのが正解だと思う。
「せめて鞄は持って上げるから」
どの道、人一人を背負って歩くことも出来ないし、両親も今頃は職場への準備中だ。
田舎道の交通量じゃあ運よく気前のいい車が通るのも期待できないから、出来るのは急ぐことぐらい。
本格的に熱射病にでもなりそうだったら、救急車に頼るしかないけれど。
「今日からしばらくは学校ともお別れなんだし。
さ、2人で行こう────────姉さん」
「おー」
受け取った鞄を手に足して、もう片方で姉の手を引く。
我が姉ながら情けない限りだけど、普段はもう少ししっかりしているし、こんな日だからこその気の緩みと思って笑うとしよう。
「・・・・・・」
今日は終了式。明日からは夏休み。
行く道に緑が濃く、見える空は青く高い。
両親の方も休みになれば、家族水入らずで出掛けることもあるだろう。
今日一日、いや午前中の半日だけを行って過ごせば、帰りも2人。
(姉さん、出不精だからな。何て言って外に出せばいいか)
僕たち姉弟の夏が、始まる。
268 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:25:01.80 ID:ZqEP/v7T
学校長による長い挨拶に始まった終了式が、予定通り学校長による長いお別れの言葉に終わって。
幾らかの仮眠────居眠りともいう────を取り、1学期最後の教室や校内の清掃作業を済ませた頃には、
葉木鳥 詩歌の頭も幾らかの冷涼さを取り戻していた。
(今朝のはどう考えても醜態だったなぁ)
掃除で体を動かしたこともあり、五感、思考ともにそこそこに冴え、かえって夏らしい辺りの熱気や降りかかる日差し、
夏休みを前にした同級生たちのざわめきがよく感じられる。
(『月陽ちゃん』どうしてるかなー)
勢いも荒くがたがたと椅子を引いて立ち上がり、足早に、あるいはゆっくりと旧友と談笑しながら教室を出て行く足音と話し声。
先ほどHRを終えて夏に解き放たれた学生たちは、早くもそれぞれが憚りなく大連休を謳歌するための行動に移っていた。
帰宅を優先し身軽になってから午後より友人と繰り出す者、今まさにその予定を話し合っているグループ、以上のいずれでもない一匹狼。
おおよそ25名前後で1教室を、学年で2つ。
これが彼女の通う田舎校の小学から高等まで通じる大体の編成であり、分散していくその輪の中にあって、彼女は今一人、のんびりと椅子に座っていた。
(夏休みはどうしよっかね)
その姿を評すなら、同じ単独行動をしている者でも一匹狼というよりは暢気な羊に近い。
同級生たちがそれぞれに帰っていく放課後にして夏休み、
詩歌はスカートの端ごとはしたなく足を前に投げ出して椅子に腰掛け、背を丸めながら机に頬杖をついていた。
全身がだらしなく弛緩しており、一人なら一人なりに趣味に没頭するなどの予定を決めている一匹狼なはぐれ者と違い、
こちらは群からはぐれた羊がぼうっと草をムシャりながら牧羊犬を待っているに等しい。その隣に、朝────の登校────を共にした弟の姿は無い。
何と言ったところで詩歌と月陽は姉弟であり学年が違うため、彼女の弟の姿は基本的に学び舎の別の場所にあり、
どこか頭の緩い姉を案じた弟が彼女を迎えにやってくる、というのが姉弟の下校の習いである。
よって彼女は終了式という学生有数の晴れやかな日においてまで、主に本人も気付かぬ怠惰により、習慣のまま弟を待っていた。
(あんまり外に出るとダルいけど、月陽ちゃんに太った? とか聞かれるのも勘弁。
却下却下。家族で旅行くらいはあるとして、月陽ちゃんに買い物でも手伝ってもらおうかな~。
・・・・・・水着とか?)
にへら、とその顔が笑う。
そして『いやんいやん』とボブカットを振り乱して軽く悶えると、
途中、動かした視界に誰も映らなくなっていたことに気が付き、首を傾げた。
「およ?」
長期休暇前の最後の清掃を経て、けれど1学期分の傷みと思い出を残した教室の内部。
カーテンを引いた窓からは全開の日差しが床を射し、反射して電灯に当たって光らせている。
窓ガラスの向こうからは遠く蝉の唱和が聞こえており、校内で小さく響いていた。
彼女が覚えてない名前の蝉の鳴き声をたっぷり数回分ほど聞いて、ようやく詩歌は辺りの静謐に気付く。
269 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:26:52.26 ID:ZqEP/v7T
「およよ?」
横に傾げた首を後ろに捻ると、目視した壁掛けの時計ではHRの終了から10分近く。
本日はどの学級学年も進行は同じであるし、遅くなければ、いつもなら弟が来ている間隔だった。
「何か用事かな~」
それだけ確認すると、幾つかのプリント類を詰め込んだ学生鞄を手に取り、既に一つしか開いていない出入り口に向かう。
弟にも都合があるし、友人と話し込んだり、
時によっては所属する委員や日直の関係で教師から放課後に用事を申し付けられたりして、来れない、もしくは遅れて来ることがある。
あるいは、学年の違いによるその日の授業数の違いからくる放課後の訪れのズレなど。
そういう場合は────弟の月陽が非常に悩むが────幾らか待って沙汰がなければ、姉一人で帰宅する取り決めになっていた。
長子たる詩歌からすれば憤懣たるところもあるが、
彼女自身その抜けた性格には自覚があるし、可愛い弟と共にする時間をみすみす減らすのも惜しい。
彼女の好きなことと言えば弟たる月陽を可愛がることと彼に構われることであり、
よって現状では言いたい文句を胸に秘めて膨らますに留め置いていた。
余談だが、彼女の人生最大の不満は、小さい頃は幾らでも呼ばせてくれた『月陽ちゃん』という愛称を、
思春期の訪れとともに弟に禁じられたことにある。
「一人で帰るのも久し振りぶり」
扉を閉めて蒸し暑い廊下を行きながら、廊下側の窓の外、青空に向けて思考を飛ばす。
葉木鳥 詩歌は弟のことが大好きだ。
彼は姉のダメだったり抜けているところをよくフォローしてくれるし、
それも今朝のように甘やかさず、厳しすぎずの親切な距離で接してくれる。
本人は大抵のことは人並より上手く出来るし、それでいて性格は控えめで爽やかなのが、姉の中の女子的評価では高ポイントだった。
自慢の弟である。正直言って嫁にでも婿にでも欲しい。
詩歌と月陽は2人とも進路が進学志望であり、余程のことがなければ経済事情的にも将来2人暮らしだが、
弟が同居してくるまでの一年間をどうするかというのが、目下両親の悩みごとだった。
詩歌が志望校に受かったら先に地理を憶えさせる名目で弟を派遣して一緒に物件を探させる話もあり、
その実、諸々の契約や生活環境の整備を姉に任せるのは不安、という考えである腹は彼女も把握している。
ただし彼女もその辺の危惧は同じであるし、
何より受けるものを受けた後の時期を2人の住まい探しで弟と共に出来るのはハッピーなので、
今のところ賛同の意を諸手で示していた。
暢気、陽気、空気。
それが彼女の性格と、主にそのオーラについていけるものがいない級友内での扱いである。
1○歳にして趣味の構成がネットサーフィンと家庭用ゲームで二分される乙女であるため、
特に地方都市の更に遠方の田舎では無理からぬことだった。
「ん~~~?」
そんな彼女が二階にある教室を出て廊下を渡って階段を下り、悠々と靴箱の前で履物を換えた後、
持って帰らなければ一夏放置されることになる上履きを自然な動作で置き去って校庭に出た時、
炎天下の直射日光の中、視線の先に移ったのは愛する弟の姿だった。
ちょうど校門を出るところのようで、
270 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:28:20.81 ID:ZqEP/v7T
「あれ?」
しかし出た先で右に曲がってしまう。
詩歌の少し頼りない頭脳によれば記憶された帰り道は左であり、彼女は今日一番の角度で、首を横に傾けた。
更には弟の横では影が動いており、校門を構成する塀ですぐに途切れたが、衣服は女子の制服に見えた。
弟と影と、二者の距離は近く、また弟の姿も追うように影の方向へ消えたため、
女子らしき何者かが帰宅とは別の向きへ弟を先導しているかにも思える。
「・・・・・・・・・」
しばし姉の胸中にざわめきの風が吹き、心中が陽炎の如く揺れた。
「んーーーぅ?」
校庭と校舎を囲む塀、壁に沿って植えられた幾つかの樹に留まる蝉の声が響く中、
しばし、正午近い真夏日を頭上に置いて熱を上げる。
詩歌には別段、姉を迎えに来なかったことや、それを放って何かをしている弟を咎めようという心算はない。
弟が姉を大切にしてくれるように彼女は彼を大事に想っているし、
そのプライベートも他家の兄弟姉妹よりは尊重している。
蔑ろにされたとか、気に入らない、ということではない。
むしろ。
「何だろ?」
不意に生じた感情が何で、何故なのか、他ならぬ本人にも判然としなかった。
故に。
「────────うん。行ってみよっ」
弟の私生活を侵すというよりも、自身にも理由の分からない意識の波紋を解明するために。
彼女は先ず何となく、彼女らしく、深く考えずに弟の後を追うことにした。
珍しく、弟に関することにだけ発揮する行動力を発揮して。
彼女は、追ってしまった。
その恋に向かって。
行き着いたのは、姉弟の通う学校の裏に茂る林の中だった。
田舎にあっては活用する術がなく、また景観の一つとして、学生のための緑を残す名目で放置された木々の林立。
登れるほどには高く、しかし登るには不親切な掴みのない幹から伸びた枝葉が、幾重にも折り重なって空を隔てている。
夏の眩しい木漏れ日がさらさらと隙間から注ぐために明るさはあり、
ただ濃密な土と植物の匂い、視界を満たす木立の感覚が遠近をズラし、
果ての見通せない奥行きが、どこか陽の下とは違った感覚を意識に抱かせていた。
通う校舎をぐるりと取り囲む壁を、正門から出て半周分と少し。
程なく到着したのは近所の子供の遊び場にして虫取り場の一つで、
しかしながら夏休みを迎えたばかりの学生が連れ立って向かうには不釣合いなスポット。
271 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:31:12.41 ID:ZqEP/v7T
「どうしたのかなー?」
学校を囲む塀はそれぞれ一辺が相応に長く、しかも付近を通ると隠れる場所が何もないため、
随分と距離を開けての追跡となってしまった。
弟ともう一人────尾行しながら確認した────先行していた女子は、既に中に入っている。
場所といい組み合わせといい、特に相手の片割れが彼女の弟ということもあり、
詩歌の頭脳では珍妙、という感覚がアスファルトにかけた水の如く煙を上げていた。
よく知る人間の追尾を始めた時点ですわ『探偵物!?』と浮かんだ興奮は既に日光に焼かれており、
気だるい意識で体感する体内温度は発汗を受けてなお上昇中にある。
それでもなお足を進める気力の源泉を、彼女はまだ知らない。
「昔、月陽ちゃんと遊んだっけ」
近場の子供ならおおよそ共通する思い出を引きずり、葉鳴りする影の中へ頭を入れた。
視界が一気に翳り、同時に強い木漏れ日のおかげで瞳が明暗の調節に戸惑う。
枯れた物、落ち立ての物、茶と緑の入り混じった木の葉を稀に木の根ごと踏みつけて行く。
獣道、というよりは近所の子供の踏み分けた道が続いており、ふと思いついて脇に逸れた。
よほど人目を忍ぼうと思わなければ対象はある道を真っ直ぐに進んだはずで、
幾ら周囲が薄暗いにしても正直に進めば見つかるだろう。
他人といるところを尾行などとバレた日には弟の拳骨をもらうこともあり得たので、
姉は弟にして大事な人間に折檻されるという二重の恐怖を回避すべく、
出来るだけ足音を殺しながら木々の隙間を縫うことにした。
林の中は人の暮らしから遠いだけ田舎においても静かで、外部より暗い視界は他の五感を研ぎ澄ます。
幸いに外ならば生温いとしか感じないよく風が木々の上を浚い、ざわめく枝葉が足音を消してくれるため、
警戒しつつも足早に進むことができた。
ほどなく、木や地面とは違う色彩を捉えた気がして、足を止める。
耳を澄ますと、女性のものらしき高めの声が聞こえてきた。
「・・・・・・く館の裏とかって定番だけど、誰か残っている人がいるかもしれないし。
他の生徒に見られるの、恥ずかしいから。ここなら、誰も来ないかなって・・・・・・」
傍の木の幹に背を預け、半身を出して視線を送る。
来たことのある子供には目印の一つになる、林の中でほんの少し開けた、最も木漏れ日を浴びる歪な円形のステージ。
距離の分、幾本かの樹木で切られ、狭められた視界の奥にスポットライトの如く光を浴びて立つ誰か。
詩歌と同じ作り、同じ学校の制服を着た女生徒だった。
遠いせいで全体がはっきりとしないが、ぱっと見て見覚えは薄い。
在籍数の少ない学校であるために同学年の顔くらいは記憶しているし、
学年が違っても一度も見たことのない顔というのは少ない。
とすると、一つか二つ下か。
状況で見て、弟と同じ学年の可能性が高かった。
「それよりも。こんな所まで連れて来て、何の用なのかな?」
と、件の人物の声がする。
詩歌の視線が音源を求めて走り、意識の集中が上がった。
が、どうやら女生徒から少し離れているようで、木による死角に入るのか姉からは見えない。
「雉間さん」
弟────────月陽の言葉はそこで止まる。
272 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:33:57.08 ID:ZqEP/v7T
(雉間・・・・・・?)
記憶を検索して。
(クラスメイト。だっけ)
過去の会話から、思い当たる存在を挙げる。
姉の知らない、行かない弟の教室での話を家で聞く時に、出たことのある名前の気がした。
日直か何かでのペアでもあったか。
そう言えば、弟が風邪を引いた時に届け物をしてくれた級友がそうだったような。
名前と人物は分かったが、しかし状況との繋がりの不明さが、詩歌の頭に混乱を付する。
「えーっとね。分からない、かな?」
可愛らしい声音が響いた。
照れと媚と主張と、僅かの抗議を含んだ。
見れば、手を後ろに、腰を曲げ、視線の先の誰かを上目で見るかのような姿勢。
「うん、分からない、じゃなくて決められないよね。
どうなのか。ちゃんと言わないと・・・・・・告白、しないとさ」
背を戻し、居住まいを正しての内容には緊張の色。
浅く早く息を吸い、胸に手を当てて目を閉じる。
「雉間さん?」
セリフの変わらない弟の声には困惑の調子が混じった。
それを聞いた相手の方は、ふっと双眸を開き、正面にいる彼を見詰めて。
「私、雉間 ■■■はずっと月陽くんのことが好きでした!
私と、付き合ってくださいっ!」
────────暗転。
音がする。
音がする、音がする、音がする。
揺れる音、擦れる音、震える音、噛み合う音、漏れる音。
バラバラな音が、肉の上げるそれぞれの音が、千切れた意識を接着する。
「ぃ、ぁ」
一瞬、暗闇が視界を覆った。
林の薄暗さ、なんてものではなく。
刹那で深海まで落ちて海面を見上げたような、秒の間に両目を失ったような。
天地が砕け、足が浮き、体が飛びながら落下したかの如く。
あり得ないはずのことを体験した衝撃が全身を打ち据え、過ぎてなお痺れとして絶え間なく震えを起こしていた。
木に預けた背が感触を失って揺れている。
いつの間にか握り締めていた拳の爪先が肉を引き、込めた力に関節が軋みを上げている。
力の全てが両手に吸われたかのように、感覚の消えた他の部位が支えを求めてカタカタと震えていた。
歯の根が噛み合ってカチガチと連続で鳴り立て、肺が刻まれた呼気を吐き出す。
273 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:36:05.19 ID:ZqEP/v7T
「ぁ────────あー?」
何が起きたか以前に、自分に何が起きているのか理解できない。
何がどうなってこうなっているのか。
(確か、あの女の子が、月陽ちゃんに■■しようとして・・・・・・)
意識に、電流。
脳が焼けたような頭痛が彼女を襲う。
ギリギリと、その記憶を閉じる万力が持ち主の頭蓋を締め上げていて。
(っ・・・・・・の。ふざけるなぁあっっっ!!)
事実と、痛みと。言葉はどちらに対して吼えたのか。
兎に角、意識は忘れるなどと許さぬと、弟に関することを失わぬと、彼女の方がそれを壊した。
「こく、はく」
ぜい、と。喘ぎながら搾り出す。
(そっか。そうだ。月陽ちゃんがコクハクをされて)
酷薄と黒白と刻薄と文字が躍る。
(告白されて)
誤魔化しさえ捩じ伏せ、100倍にも思えた数秒を経て、ようやく事実を見詰めた。
「え────────なんで?」
見詰めた事実は、ただ彼女の意識が認めるものではなくて。
「なんで月陽ちゃん告白されてるの?」
彼女の認識を露呈させる。
「なんで」
先程の痛みに対するよりも長く、ずっと長く時間を置いて。
それでも、出たのがそれだった。
「何で、月陽ちゃんが、告白」
口にすることで、無理矢理に現実を精神に染み込ませる。
無意識に。だからこそ抵抗なく。
「────────」
ぽっかりと。
口を開け、呼吸を止め。
木漏れる日の光の先、切り取られた夏の空を見上げる。
そこには、風が流れていた。雲が通っていた。空は青かった。
その全てを、認識しない。
何も何もない世界の中で、ただ自分だけがある。
そんな無しかない、何も無いせいでかえって集中した時間を過ごして。
274 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:42:25.96 ID:ZqEP/v7T
「何で・・・・・・? 私」
彼女は根本的な問題に立ち返った。
同時に愕然とする。
彼女は驚いた。何に? 弟が誰かに告白されたことに。
彼女は驚いていた。誰に? そんなことに驚いた自分に。
何故?
何故? 何故、何故か?
そもそもどうして、姉である自分が、弟が告白されたという事実にこうも動揺しているのか?
理由/原因は明白だ。
これまで弟が誰かに告白する、されるという事態を、彼女は考えたことがなかった。
そのことに驚く。
そう、理由/原因は明白だ。
では、理由/原因の理由/原因は?
明確ではない。
自分の弟が誰かに告白する/されるなど、想定するまでもなく常識。
いつかは訪れる必然。
いや、そもそも。
弟の事前に、自分のそれからして考えたことがあって通常。
だが────────ない。
なかった。
彼女の中には弟の恋愛に関してはおろか、自身のそれを思考したことすらなかった。
「ひゅっ」
息を飲む。
自分は弟+(と)自分の恋愛に関して考えたことがない。考えたこともない。
では何故か?
それは何故か────────────────不明。
分からない。分からない。分からない!
彼女、葉木鳥 詩歌の心が、生まれて初めて、そして最大の悲鳴を上げる。
「ぎ、ぁ」
胸が裂けた。
彼女の精神の、肉体ならその部位に当たるパーツが弾け飛んだ。
押し上がり、膨れ上がり、生まれようとするモノの圧力を受けて。
だが生まれない。
それは殻に包まれている。それは押さえつけられている。それは何かに封じられている。
故に孵化なくして外界に出ることはなく、飛翔なくして生くること叶わず、開封しなくては生じない。
殻の名は常識であり、押さえているのは倫理道徳であり、封じているのは法だった。
膨張の内圧と封殺の外圧が鬩ぎあって苦痛を生む。
それを消し去るには、生まれたモノを真に産み出すには、今この瞬間にも自身を殺しかねない痛苦を殺すには、
それを塞ぐ鍵を開け、扉を外に放たねばならなかった。
鍵の名は狂気。
故に彼女はその何たるかを自覚し、自認し、自己にしなければならない。
276 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:50:38.78 ID:ZqEP/v7T
「ぁ、ぁ、ぁ」
現在進行形で彼女はそれに失敗している。
許されない許されない許されない。
そんな他人の声が、刻み付けられた教えが、彼女の内から湧いていた。
何を何に対して何で言っているのか、彼女には既に不鮮明。
内界の軋みに、在るものの崩壊に、破綻の修繕と構築の切り貼りを耐えるに手一杯で、とても考える余力はない。
狂気とは最初からそう在るもの、あるいはそう成るもの。
でありながら後者は、狂気とは正気から移るものでありながら別物への変化であり、
そこにある断絶を手助けなく踏み越えることは至難も至極。
要は不可能。
常識に生きてきた人間が突然に非常識に馴染むことは不可能であり、それが可能なのは土台が違うそもそもの狂人。
状況に他人に天運に天性に負ぶさり抱えられて初めて、人はそれまでと全くの別物にたどり着ける。
彼女は狂気に気付かなければならない。
何故それがそうなのか、何がそうなのかを知らなければならない。
だが生来の狂人でない彼女が自力でそうするには、彼女の抱えるものは遠かった。
あと一押し。
ほんの僅か、論理立っていなかろうと破綻していようと、閃きのような一手さえあれば辿り着く。
天啓のような、託宣のような。
そんな幸運。
しかし舞台は森にもならぬ林の中、役者は3人、されど彼女は他の2人に知られていない。
無論第三者四者が登場するような神のご都合はなく、彼女は独り。
そんな状況で彼女に味方する幸運、常識においては奈落へのとどめとなる凶運があるのか?
────────ある。
天啓は天でも地でもなく、横合いから彼女を殴りつけた。
277 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:52:22.28 ID:ZqEP/v7T
結局、葉木鳥 詩歌は、
彼女の弟のクラスメイトからクラスメイトである彼女の弟への告白という、
客観的には微妙極まりない絵図の展開からどれほどの時間を停止していたのか。
少なくとも、告白した少女に対し、受けた方が理由を聞くなり困惑を示すなりする時間は過ぎただろう。
結果として。
「好きだから。月陽くんのことが好きだから。
気付いちゃったから、言わないと苦しいし、
伝えて、付き合って欲しいから告白したの」
肝心の弟の言葉を不覚にも省略し、一方で幸運にも、彼女の世界はそこから再開した。
詩歌の一連の狂態は、あちらの2人がお互いの目の前に集中していたこと、
衝撃と苦痛とゆえに詩歌が大声を上げることが叶わなかったことにより、幸い気付かれずに済んでいた。
(・・・・・・)
聞こえてきた声。
そも詩歌の痛みを作り出した原因を産んだ少女の言葉。
自らに向けられていない想いの丈を、それでも意識に受けた彼女は。
(好きだから)
ありふれたそんな言葉に、不思議と意識を寄せていた。
(好きだから。好き・・・・・・だから)
当然の話だ。
好意があるから、それを伝える。
伝えて、結ばれたいと想い、願う。
恋の携わる限り、誰もが行い、行われていること。
(好きだから。私は)
恋に、想いに悩むのは相手のことが好きだから。
そんな必然を、真理を前に、詩歌は自分を照らし合わせて。
じゃあ私は? なんて可愛らしく、ほんの少しの脱力と共に、乙女チックに思ってから。
(私────────『も』・・・・・・?)
鍵を、外した。
278 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:54:49.60 ID:ZqEP/v7T
葉木鳥 詩歌は弟のことが大好きだ。
それは生まれてからずっと、Likeという意味で。
詩歌は彼女の弟────葉木鳥 月陽────以上に姉や家族にって良い弟はいないと思っているし、
流石に世界一とまでは言わないが、男としてもいい線にいると考えている。
仮に世界の誰にとってそうでなくとも、彼女にとってだけは弟は素敵な男の子だった。
そんな弟を彼女は姉として家族として個人として人間として愛してきたし、今日もその想いは変わらない。
慈愛で友愛で姉弟愛で
家族愛で隣人愛で人類愛で博愛で、凡そあらゆる「性」なき愛で彼女は弟を愛し続けてきた。
ただし。
それは今日までの過去であって今日からの未来ではなく、昨日までの事実であって明日からの現実ではない。
一般的な兄弟を姉妹を、兄妹を姉弟を見ればわかるように、子供同士の家族の関係とは特に流動的だ。
さっきまで仲良く遊んでいた幼子が次の瞬間には喧嘩していることなど珍しくない。
兄弟姉妹間での愛憎は子供が子供である間に目まぐるしく変化するものであるし、
稀なことではあるが『反転』もすれば、元あったモノの変化と言うよりも『追加』されることもある。
恋と愛は矛盾しない。
人間として敬愛していた相手に恋を抱くことがあるように、優劣はあっても並存はする。
なら。
それが家族愛と異性としての思慕との間に起こっても────────ないということは、『無い』とする。
静止した木々の間で、詩歌は息吹を感じた。
それは芽吹くものの産声。
認められ、理解され、受け入れられたモノの、殻が割れる音。
ただし、それは鳥の雛ではなく。
殻は殻でも蛹の殻。
何年も地中にあって育ち、不完全ながらも変態を遂げて変貌する存在。
夏の代名詞。
この季節にそれとなり、求愛に泣き叫び、そしてそれとして死ぬ生物。
元の愛を残したまま、新たな変化で恋を得た。
それはまるで蝉のような、恋の歌。
「私、月陽ちゃんのことが好きなんだ」
告げる。
誰かにではなく、今は愛し恋する弟にでもなく、ただ己に。
口にした認識は実感として溶けて、嘘のように彼女へと馴染んだ。
「愛してるだけじゃなくて・・・・・・好、き」
あえて可愛らしく、ちょっと上げて発音をしてみる。
声は小さく。
だけど、自分自身には十分に響いた。
「ふふ、ふ。うふふふ、ふ」
理解してみれば何のことはない。
好きだから。
何もかもが、一切合財、ただそれだけの話だった。
279 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:56:43.29 ID:ZqEP/v7T
弟のことが好きだから、他との恋愛なんて考えなくて。
弟のことが好きだから、誰かと弟の恋愛なんて考えなくて。
弟のことが好きだけど、弟との恋愛なんて考えられなくて。
弟のことが好きなのに。
弟のことが好きなのに、弟のことを愛するばかりで。
そんな自分が可笑しくておかしくて異常(おか)しくて、
信じるどころか考えてみることさえできなくて。
それで。
とうとう、こんなところまで来てしまった。
「ふふ、ふふふふっ。ぷふっ! ぷふあはははははははっ!」
右手で腹を抱え、左手で口を押さえた。
笑う嗤う哂う咲う嘲う。
可笑しくて堪らない。
オカしくて堪えられない。
「あー・・・・・・・・・」
爆発させると止まらないから、ガス抜き程度に笑い散らして。
べったりと唾液のついた手を口から離し、スカートでゴシゴシと擦る。
それでようやく、生まれ変わって初めて見る気持ちで、恋しい弟とそばの女の方を向いて。
「雉間さん、だっけ? ありがとう。お礼は言っとくね」
瞳の死んだ笑顔で、殺す/感謝する相手を見詰める。
混沌の笑みだった。
そこに感情の色は無く、しかしおぞましい、いまだ何をどこまで焼くかも定かでない意志が燃えていた。
湧き上がる感情を押さえ込み、ぽっかりと空いた穴にありったけのどす黒いものを詰めて。
280 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:58:16.74 ID:ZqEP/v7T
きっとそれは、死刑囚に最後の晩餐を施す気分で笑んでいる。
感謝する、だが殺す。
感謝する、けど殺す。
感謝する、しなくても殺すと。
殺意が固まりすぎて、決定事項の他などどうでもいいから。
冷静になれて振り切れて、詩歌にも分かっていた。
すっきりした頭で掘り出した記憶から考えても、おそらく弟は告白を受ける。
姉としては誇らしく愛らしく素晴らしく爽やかでイケメンでスキルがあって飾らなくて謙虚で最高で最愛で恋しい弟な弟だが、
さっぱりし過ぎるくらい爽やかで能力があって顔のいい人間というのは、田舎過ぎる田舎だとかえって倦厭されるところがある。
芋っぽさや土っぽさのない人間は浮くとでも言えばいいのか。
都会に上京して慣れてない地方民の振る舞いというか。
とにかくそんな感じで、弟は少々恋愛に疎かった。
良すぎる性格も、それ目当てで異性に近付いたりしないさせない方向で作用したのかもしれない。
ので、わざわざ夏休み直前、このタイミングで決意を固めてきた相手、
緊張を全開にしながらも正面からアタックしてきた子を、無碍に扱うとは思えなかった。
相手が並一通りの対応で退くとも。
そう考えれば今日、この日この時、この時間に自分がいられたのも類稀な幸運ではなかったか。
そんなことを思うし、ある意味でそれは間違っていない。
もしも彼女がこの光景を直接目にしなかったなら。
その場にいるのではなく間接的に知ったのなら、こうはならなかった。
芽吹いた芽は、芽吹いただけでまだ小さく、同時に弱い。
これで彼女が大事な弟の口から交際の事実を告げられたなら、
彼女は弟の前であるだけに最大限に姉としての立場を発揮し、その意識からその恋を祝福しただろう。
口にした言葉は、反故にはできても戻せはしない。そして、一度零した言の葉を破るには勇気がいる。
もし、彼女がこれを知るのが直接、この場でなかったのなら。
鬩ぎあう意識と無意識は、彼女が祝福を口することで後押しを受け、
他ならぬ弟に向けた言葉を反故にする勇気は、姉には持てなかっただろう。
ならば芽吹いた恋と────────嫉妬の芽は伸びきらぬまま手折られ、
二度と種を開くことはなかったはずだ。
要はタイミングと確率の問題。
稀有な土壌が埋めていた珍しい種が、すんでのところで世に出る機会を得たという。これはそれだけの話。
「んー?」
不意に。
隠れていた木の幹に、どこからか飛んできたセミが止まった。
珍しいな、と詩歌は思う。
田舎で夏のセミなど珍しくはないが、この林の辺りではあまり見かけなかった。
この林は近所の子供の遊び場にして昆虫コレクションの狩場であり、
コレクションなどとは言ってみても、アリの巣穴に水や爆竹を突っ込むような虐殺場でもある。
この辺では、特にタチの悪い子供がセミを捕まえ、適当な壁や、アスファルトの道路に叩きつけて殺す、という遊びをやっていた。
そこまで来ると少数派だが、そのために遊び場を探し回った連中が目をつけたのがこの林で、
カブトやクワガタを狙う傍ら、自慢にならない邪魔者の駆除とばかりに殺し回ったことがあり、
たまたま子連れで遊びに来た大人が林中に投棄されたセミの死骸の山に驚いて、
まさか変質者────小学校で飼われてる動物を殺したりする────でもいるのかとPTA、学校全体の議題、問題になったことがある。
そのせいでこの林で生まれたセミが壊滅して次が生まれなかったのか、
生物的な本能や何らかの手段で危険を知って回避しているのか、この林に限ってはセミは相当に少なかった。
今の彼女にとっても、それはどうでもいいことだが。
彼女が斟酌しないよう、セミも彼女の事情は知らない。だから鳴く。
281 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 02:00:23.89 ID:ZqEP/v7T
セミが鳴く。セミが泣く。セミが哭く。
それを詩歌は聞き。
喧しさに、見つかるかと思って捕まえて握り潰す。
木の葉でも掴むような、枯れた音を立てて鳴き声は止まった。
地下で数年を過ごして地上にようやく出た命を一瞬で潰し殺し、滲んだ体液と一緒に死骸を振り捨てる。
またスカートで拭い、余計に汚れがついたと、彼女が感じるのはその程度だった。
見直してみて、今や雉間何某(なにがし)の前には弟が歩み寄っており、身振り手振りからは承諾の様子が伺える。
それを見て、くすくすと、セミの鳴き声より不快な、濃く森に染みる笑みを、姉は漏らした。
生まれるのは祝福のはずだった。
満ちるのは誇らしさであるはずだった。
叫ばれるのは歓喜でなければならなかった。
大好きな弟が告白されている。
大好きな弟が誰かに好かれている。
大好きな弟が誰かに愛されている。
それが実るのか続くのかは分からないけれど。
彼女の愛する弟に、彼女以外の人間が好意を寄せていることは、
弟を愛する彼女の価値観と、その弟そのものの価値を肯定するものだ。
嗚呼、だから/なのに。
私はこんなにも奪いたい。
282 名前:蝉恋歌 ◆lnx8.6adM2 [sage] 投稿日:2012/06/29(金) 02:04:00.92 ID:ZqEP/v7T
それは秘してきたものに非ず、この瞬間に生まれ出たモノ。
「なに」
それは産声を上げた感情に対して。
「何なの?」
それは弟の前に立つ女に向けて。
「なーにっかなー?」
あの女、と。唇が歪む。
「何にしよう?」
それは狂気の/凶器の選択。
「あ。お夕飯もだ」
そんな家庭的な悩みも同列に並べて。
歳相応に家事を任され学ばされている長女は、弟に振舞う料理と、その彼女の解体の仕方を平行させる。
壊れたものは戻らないし、羽化したセミは蛹にならない。
「先ずはそっちの準備をしないとね」
夏の風物詩にして代名詞でもある蝉というものは。
長年を地中で過ごし、人でさえ気の遠くなるような時間を経て地上で羽化を迎え、人間にはあまりに短い残りの生を鳴いて過ごす。
ただ、その鳴き声は蝉以外の存在にとっては必要でもなければ美しくもなく、時に煩わしくさえあるものだ。
よって特に好まれる虫に比べ、彼らはぞんざいに扱われることが多く、彼女がしたように、短い寿命を更に一瞬で握り潰されることもある。
それは真っ当な倫理観に立てば、残酷だといって差し支えないだろう。
しかし。
同時に事実として忘れてはならない側面もある。
蝉の寿命は、たとえ生き延びても一夏に過ぎない。
だから。
常識という人の立つ場所から飛び立った彼女が、そこに戻れることも、長く留まれるわけもなく。
「ふーんふっふふーん♪」
まるで今を鳴く蝉のように。
長年を経て夏に羽化し、
夏の終わりに死ぬ恋が────────始まる。
最終更新:2012年07月15日 22:57