196 :
荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:42:15 ID:VLRdzGMA
起きたのは、六時四十分を過ぎたあたりだった。
晴れていた。私はベッドの中で背を伸ばすと、瞬きを繰り返した。まだ、ぼけ
っとしている。
枕元に置いた目覚まし時計は、鳴き疲れたのか止まっていた。六時半にセット
したはずだが、起きられなかったらしい。
しばらく、私は放心した状態で見慣れた天井が眺めた。天井が見え隠れし、ど
んどん暗転する回数が増えていく。
ベッドの中で太股をつねった。そろそろ起きなきゃならない。高校もあるし、
朝の日課もある。低血圧なので、本調子まで二十分ぐらいはいつもかかった。私
はけだるい体をベッドから引っ剥がした。時計を見る。六時五十分になっていた。
のそのそと廊下に出た。すきだらけのパジャマに冷気が入りこんできた。足の
裏にも、フローリングの刺すような冷たさを感じた。靴下でも履いてくればよか
った、と私は思った。低血圧がたたって、思考能力がなくなっていたと言うほか
ない。寒さに中てられて、はじめて脳が動きだした、という感じだ。
部屋へ戻った。椅子の背に掛けていた上着を羽織、タンスの五段目から靴下を
出した。靴下は、指が一つ一つ分かれているものを履いていた。普通の靴下より
暖かいのだ。猫足靴下と勝手に呼んでいる。正式名称は知らなかった。
靴下を履くためにベッドに腰を下ろした。お尻を通して、ベッドの暖かさが伝
わってきた。抗いがたい暖かさだと思ったが、なんとか部屋を出た。いまベッド
に入ったら、十分は確実に起きられない。
一階に降り、洗面所で歯を磨き、顔を洗った。洗顔だけは、毎日欠かしたこと
がなかった。朝と夜の二回。それだけでも、肌の張りやさわり心地が違ってくる。
二階に戻り、私は向かいの部屋に足を踏み入れた。真仁の部屋だった。二階に
私たちの部屋はあり、父と母の部屋は一階にある。真仁とは小学校まで同じ部屋
を使っていたが、中学から別々の部屋になった。
中学に入学したばかりの誕生日だった。四月二十六日。親は誕生日
プレゼント
だと言いたげに個々の部屋を提案したが、私にとっては余計なことでしかなかっ
た。真仁が喜んでいたので、承諾したまでだ。いままでで一番いらないプレゼン
トだった。
私はドアノブを慎重に回し、物音をたてないで侵入した。真仁の匂いがした。
まだ甘い、大人になりかけの匂い。思わず胸が熱くなる。
いかにも真面目な、清潔感のある部屋だった。勉強机に本棚、スケッチブック
に大量の画材。ベッドは窓のちょうど真下にあった。太陽の昇りきっていない、
空色の光が真仁を照らしている。
私はベッドにそっと近づいた。枕元には眼鏡と携帯が置いてある。私は携帯を
手に取り、アラーム機能を切った。これで週二回の朝の日課は邪魔されない。
197 :荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:42:48 ID:VLRdzGMA
私はベッドの横でひざ立ちになると、真仁の顔を覗いた。かすかな寝息も聞こ
える。
思わず頬が緩んだ。可愛い寝顔。何度見てもそう思う。双子なので目鼻立ちは
そっくりだが、それでもどこか違っていた。やさしげな風貌に、栗色でやわらか
い髪の毛。まつ毛も、女の子のように長かった。きっと母に似たのだろう。私は
父譲りの黒髪で、どちらかと言えば勝気である。真仁とは、各パーツでも微妙に
違っていた。あるいは性格の違いかもしれない。
小学校低学年までは、
兄と妹によく間違われたものだった。背も、中学までは
私の方が高かったのだ。それが高校に入って抜かされた。176センチ。今では、
私が見あげなければならない。
私はベッドに手をつき、体を乗り出した。指で真仁の頬をつつく。軽い身じろ
ぎの後、私の方へ寝返りをうった。顔が、眼の前にきた。布団の隙間から、真仁
の体臭がした。
不意に、情欲が私を襲った。抱きしめて、キスしたい。思ったがやめた。六時
五十六分。真仁は、七時に起きる。七時までまだ四分もあるのだ。それまでは、
この寝顔を楽しんでいたい。
四分などあっという間だった。気が付けば十二分経っている。その間に意識も
覚醒した。
私は真仁がもぐっている布団を剥いでいった。肩、胸、腰。布団を静かに置く
と、真仁の顔に自分の顔を近付けた。
薄く開けられた唇に、吸い寄せられていく。息がかかる距離で、私は顔を逸ら
した。いくら好きだからとはいえ、真仁の気持ちを無視したくはなかった。いつ
か思いを告げられる時まで、とっておく。頬にキスし、そのまま抱きついた。
「
姉さん」
真仁の首筋に顔を埋めたところで、真仁は起きた。
「おはよ、シン」
「おはよう。とりあえず、どいてくれないか」
「やぁだ」
体が浮いた。私を首にぶら下げたまま、真仁は体を起していた。
「いま何時かな、姉さん」
眼鏡をかけながら真仁は言った。
「七時十分ですよ」
「また、寝てしまったか」
真仁は目をつむると、額を指で押さえた。それから上を向き、ゆっくりと首を
伸ばしている。血筋なのか、真仁も低血圧だった。そして、それは私のものより
酷い。ほとんど病気にでも掛かったような症状だった。言葉だけははっきりと言
うが、四十分は夢遊病のように、眼を閉じてふらふらしているのだ。表情や挙動
も、生理中の女のように物憂そうにしている。
198 :荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:43:33 ID:VLRdzGMA
本人はちゃんと起きているつもりのようだが、私から見たら心配で仕方がなか
った。通学中、少なくとも駅に着くまではそんな調子が続くのだ。事故に遭うの
ではないかと、気が気でならない。
「ごめんな、姉さん。寝過ごしてしまった」
「じゃあもうちょっとこのまま」
「そんなこと言ってると、三十五分に間に合わなくなるぞ」
「いいよ別に、一本ぐらい遅れても」
「姉さん」
「仕方ないなぁ」
語気が強まったところで、私は真仁を解放した。
「じゃあお姉ちゃん着替えてくるから、シンも着替えなきゃ駄目だよ」
「わかってるよ」
聞くと、私は真仁に背を見せた。
「あ、姉さん」
「ん、なに」
振り向くと、真仁がベッドから立ち上がるところだった。いつもは奥二重の目
蓋が、眠気で二重になっていた。
「ありがとう」
真仁の部屋から出ると、私は自室に入った。
軽い罪悪感が胸の中にあった。今更な感情だとはわかっている。わかっていて
も、止められはしないのだ。寝坊させた真仁に朝からべたべたし、ありがとう、
と礼を言われる。日課と呼べるほどに回を重ねた後では、止めるきっかけさえな
くなっていた。あと一回だけ、と思っていた頃よりも、時間自体も長くなってい
る。
私は上着を椅子の背に掛けなおし、パジャマと靴下をベッドの上に脱ぎ捨てた。
下着だけになった体を、スタンドミラーに晒す。無駄のない体だった。贅肉な
どは一切つけていない。むしろ鍛えてある引き締まった体だった。お腹も、一ヶ
月本気になって鍛えれば、すぐ割れるぐらいにはしてある。
しかし、そこまで鍛える予定はなかった。お腹が割れている女など、真仁は嫌
がるだろう。姉としては受け入れてくれるだろうが、女として見られないのであ
ればまるで意味のない、贅肉と同じようなものだった。
それに体を絞りすぎている、と思うこともあった。贅肉がないのはいいが、私
は胸もなかった。寄せてあげて、やっとBカップになる程度だ。だから真仁は、
私が抱きついても何の反応も示さないのか、と悩みもしたが、気にしないことに
した。
199 :荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:44:19 ID:VLRdzGMA
母は私より胸がないのだ。そう考えれば、この血筋で私はよく育った方だと、
安堵するしかない。
制服を着ると、私は一階へ降りた。真仁はまだ降りてきていなかった。キッチ
ンでは、母が朝食を作っていた。おいしそうなにおいが漂っている。
「あら、おはよう真央」
「おはよ」
席に着いた。食卓には、すでに何品かの朝食が並んでいた。トーストに、ハム
エッグとサラダ。鍋で暖めているのはコーンスープだろう。家族四人、朝食はあ
まり摂らない。父以外低血圧で、朝方には食欲が湧かないのだ。それに父は今、
日本にはいない。
真仁は一分も経たないうちに降りてきて、洗面所へ行った。気付いた母がコー
ンスープを食卓に並べ、タイミングよく三人が席につく。
「母さん、おはよ」
「おはよう真仁」
いただきます、と三人の声が重なった。朝食時には、三人ともほとんど口を利
かない。別に仲が悪いわけではなく、単に口を開くのも億劫なだけだった。向か
いに座っている母も、眠そうな眼を半開きにして朝食を食べている。真仁と同じ
ような症状だった。ただそんな状態で朝食を作っても、料理の味が変わったこと
はない。不思議なものだった。
部屋にまた戻った。首に赤いマフラーを巻き、学生鞄を持つ。結局、真仁と家
を出たのは七時二十二分だった。駅まで十分。いつも乗る電車は三十五分発だ。
私は真仁の表情を盗み見ると、こっそりと手を繋いだ。恋人繋ぎに決め、指を
絡めるようにした。朝ならば、寒かろうが暑かろうが手を繋げた。真仁の低血圧
は年中無休なのだった。
しばらく、真仁の手を引くようにして歩いた。公園、私塾、最近改装したスー
パー。住宅街を抜け、駅までの一本道に出た。真仁は、まだ本調子には戻ってい
ない。
何処といって特徴のない、地方都市だった。自宅から駅とは反対方向に十五分
行くと、埠頭と埠頭倉庫がある。さらに西に行くとマリーナがあり、船やヨット
が停泊されていた。ただ海の街ではない。埋め立てで造られた街で、海岸や浜辺
などはなく、澱んだ海水と浮き沈みするゴミがあるだけだった。
電車には充分間に合った。空いていた席に真仁と腰掛ける。この時間はまだ人
が少なく、次の一本から混みはじめる。噂では、痴漢も出ると言っていた。真仁
もそれを知ったのか、それからは私のために二本前の三十五分の電車に乗るよう
にしてくれた。
200 :荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:45:18 ID:VLRdzGMA
三つ目の駅で、真仁に繋いでいた手を解かれた。もう、眼が覚めてしまったの
だろう。真仁は困ったような表情で顔を赤らめていた。眼が合う。私はニマっと
笑いかけた。ため息を吐き、真仁が顔を逸らす。
「勘弁してくれ、姉さん」
「やだよ、だってシンの手暖かいもん」
もう一度、真仁はため息を吐いた。中指で、眼鏡の位置も直している。
六つ目の駅で降りた。高校周辺は、戦後に造られた街だった。自宅近辺と違い、
建造物もデザインマンションやデパートがあって、比較にならないほど人通りが
多かった。もうすぐ年末ということも、あるのかもしれない。
私はようやく本調子になった真仁と、話しながら通学路を歩いた。他の生徒は、
まばらにしかいない。
「そいえばシン、冬物って買った?」
「いや、まだ。もう買わないでもいいかな、とも思ってるんだけどね。セーター
も、喰われてるのはなかったし」
「でも、背伸びてないの? 一年のときみたいに」
伸びてはいない。私は知っていたが、一応訊いた。
「たぶん伸びてないと思う。それに、伸びるの見越して若干大きめの買っといた
から。そういう姉さんは?」
「私はコートの一着でも買おうと思ってるんだけどね。今年は黒が流行るらしい
し」
「そうか」
「ねぇ、シン」
「なに」
「コート買うときね、一緒に選んでくれないかな」
思い切って、私は言った。真仁が、一瞬私から目線を外した。
「なんで、俺」
「なんでって、そりゃあ男の人の感想も欲しいし。感想訊くならシンかな、って」
「行くのはいいけど。姉さんは、彼氏とか作らないの? たぶん、俺よりも彼し
か何か作って行った方がいいと思うよ。この間も、告白されたって言ってたじゃ
ないか」
「いいの。私にはシンがいるもん」
真仁の顔は、困っているのか照れてるのか、よくわからない表情をしていた。
コートを買う予定など、実のところない。口実として言っただけだった。コー
トを探す振りをして、真仁とぶらぶらする。一緒にいれるなら、言葉など要らな
かった。毎年やっていることだ。そして毎年、似合ってる、と真仁に言われた服
を買ってしまうのだろう。
201 :荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:46:03 ID:VLRdzGMA
高校近くでも、生徒の姿はまばらだった。微妙な時間帯だからだろう、と私は
思った。運動部にしては遅い時間で、一般の生徒なら早すぎる時間だ。
「甘利ぃ」
いきなり、真仁が男に捕まった。肩を組まれるようにされている。知っている
顔だった。クラスでは真仁と行動を一緒にしている、うらやましい男。名前まで
は、思い出せなかった。
「CD、持って来てくれたか?」
「持ってきた。持ってきたから離せ、梶井」
「おぉ、流石」
梶井が真仁を離した。
「じゃあ教室でよろしく。あとそれからおはよう」
言うと、梶井は私に眼を向けてきた。眼を見ても、やはり苗字しかわからない。
「お姉さんも、おはようございます」
「えぇ、おはよう」
梶井が駈け出していった。校門までは、もう眼と鼻の先の距離になっている。
何であの男に時間を潰されなきゃいけないのか、とイラついたが、真仁の手前そ
れを表情に出すことは避けた。
よくわからないが、同い年なのに、真仁の知り合いは私に敬語を使うことが多
い。
下駄箱で靴を履き替え、校舎に入った。
「じゃあ姉さん、また放課後」
「うん。またねシン」
201教室前で真仁とわかれた。201教室にはおとなしめの女生徒がいるだ
けで、他に誰もいなかった。
真仁の教室は202教室だった。二年は全体で十二クラスあり、文系と理系ク
ラスにわかれている。文系十クラスに理系二クラス。一クラスに三十五人前後だ
った。真仁も私も理系だが、姉弟だからクラスは違っていた。
一時間目がはじまるまで、私は教科書に目を通した。予習は毎日欠かさずにし
ている。理系クラスを選んだが、本当は文系科目のほうが得意だった。真仁がい
たから理系クラスにしたのだ。
それにわからないところがあれば、真仁に訊けば必ず理解できた。真仁は、理
系科目では常に三番手以内の成績を修めている。全科目合計では私の方が上だが、
理系科目だけで言えば真仁の方が一枚上手だった。
八時三十五分に担任が姿を現した。学年主任の、融通の利かない婆さんだった。
数学を担当している。ホームルームになると朝鮮放送のように語気の強い口調で、
高らかと連絡事項を読みあげはじめた。
202 :荒野、一人で ◆KYxY/en20s :2007/12/13(木) 03:47:26 ID:VLRdzGMA
授業に関して、言うほど不満はなかった。あるとすれば、真仁と一緒のクラス
ではないことだけだった。それよりも、世間に対する不満の方がはるかに多い。
法が変わらなければ、消えることのない不満。生れた時から、植えつけられた不
満でもある。
真仁のいない授業は、とんでもなく退屈なものだった。
昼食は学食でクラスメートと食べた。中学までは真仁と一緒していたが、高校
に入ってからは別々になることが多くなっていた。真仁にも友達付き合いはある。
それは出来るだけ尊重するようにした。我慢できない寂しさではないのだ。
六時間目が終わると、私は荷物をすぐ整え、隣の教室へ行った。
202教室は、担任が連絡事項を伝えている最中だった。号令が掛かり、生徒
の呟きが聞こえだした。真仁がこちらに気付き、教室から出てくる。
「姉さんのクラス、やっぱり終わるのが早いな」
真仁が言う間、私は眼の端で視線を捉えていた。202教室内の、最前列の女
生徒だ。ショートボブの髪に、気の弱そうな顔立ち。真仁の体越しに眼が合うと、
女生徒が先に眼を逸らした。
私を見ていたから視線が合ったわけじゃない。間違いなく、女生徒は真仁を見
ていた。
「姉さん、帰らないのか」
「あっ、うん。行こっか」
言って、私は真仁に腕を絡ませようとしたが、巧妙に避けられた。真仁が先立
って歩く。
見られている感じが、結局、自宅まで続いた。あの女生徒が尾行してきたわけ
では、もちろんない。問題はあの女生徒が、女の眼で真仁を見ていたということ
だ。
私は自室に入り、制服を脱ぎ捨てた。見られている感じはないが、心の奥底に、
苦々しさが残っていた。
最終更新:2007年12月27日 13:36