傷(その1)

740 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:00:18 ID:yffdd9Lz

「どうしたの冬馬くん? 元気がないようだけど、もう私には付き合って下さらないの?」

 うふっ、と微笑んだ彼女が、上目遣いに柊木冬馬を見上げる。
 左右のサイドヘアーを飾るリボンが、風に煽られたように揺れ、その可憐さに、彼は思わず呆然と息を呑んだ。
 彼女と冬馬とでは二歳しか離れていないはずだが、その角度からだと、途端に幼く見える。にもかかわらず、普段、てきぱきと物事を切り盛りしている彼女の容貌は、冬馬の眼にはとても大人びて映るのだから不思議なものだ。
 だが、顔の角度によって年齢が分からなくなるという要素は、彼女の美貌を一分も損なってはいない。むしろ、幼女のあどけなさと成熟した優艶さという、矛盾する魅力を持ち合わせる彼女の美は、ある種、神秘的といってもいい雰囲気に包まれていた。

 もし、今のシチュエーションが、小洒落たバーで行われた、ブランデーかスコッチ片手の会話なら、彼は、すぐさま現金の持ち合わせと近場のホテルの位置を、脳内で検索しまくっていた事だろう。
 だが、――残念ながら、ここは酒場のカウンターではなく、壁の黄ばんだ彼の四畳半であり、二人の間にある物体は、琥珀色の液体に満たされたグラスではなく、色気もクソもない将棋盤であり、ついでに眼前の美女は――姉だった。


「なんの、まだまだ勝負はこれからっスよ」
 冬馬は、弥生の美貌に圧倒されていた己の心を誤魔化すように呟くと、意識を姉の美貌から眼前の盤上に移す努力をする。

 このままではヤバイ。
 おそらく、あと数手で詰みだ。
 これは、姉には悪いが緊急事態だ。
 まさか、弥生がここまで出来るとは思っても見なかったのだ。
 施設では無敗を誇った彼の将棋。
 中学時代は、こっそり将棋クラブの賭け将棋で、おっさん相手に小遣い稼ぎをしていたほどの彼の将棋。
 この家に引き取られてからは、盤面に駒を配するのは初めてだが、それでもわずか数年のブランクで錆びが浮く程度の実力ではない。そう思っていた。
 その自分を、……まさか姉が、ここまで追い詰めるとは……。

(負けてられっか、くそっ!!)



741 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:01:26 ID:yffdd9Lz

 この姉の長所は、なにも美貌だけではない。
 成績優秀、スポーツ万能、それでいて誰にでも飾らない優しい性格で、学校でも圧倒的な人気を誇る完璧超人であり、さらに家族しか知らないが、株式売買で8桁もの個人資産を所有するほどの、抜け目のない投機家としての一面すらある。

 弥生を将棋に誘ったのは、別に他意はない。優等生で鳴らした姉に一泡吹かせてやろうなどという意図は、冬馬には皆無であった。――そのはずだった。
 だが、追い詰められて初めて、少年は自分が意地になっている事実に気付く。
 敗けられない。
 敗けたくない。
 だが、ムキになればなるほど頭は煮詰まる一方だ。
 そのときだった。
 荒々しい足音と共に、ノックもなしに部屋の扉が蹴り開けられ、もう一人の少女の声が彼の後頭部を直撃する。


「ちょっと二人とも、もういい加減にして下さい! そろそろ夕食の時間だってことは時計見れば、お分かりになるでしょう!?」


 うるせえ、黙っていろと言いたいところだったが、この情況ではむしろ天の声だ。
「葉月、いいところに来た! 知恵貸せっ!!」
「はっ!?」
「来月分のバイト代の三分の一で、オマエを参謀に雇ってやる。だから手ェ貸せっ!!」
 一瞬、ぽかんとなる妹――葉月。

 確かに葉月は、その頭脳の冴えだけを見れば、おそらく姉以上だ。
 いまだ中学生でありながら彼女は、その学術論文がすでに学会で高い評価を受けるほどの天才少女であり、現在でも、弱冠14歳の若さで、某有名大学の研究室に定期的に参加を請われているほどのIQの持ち主なのだ。
 さらに、才色兼備は姉の専売特許ではない。
 姉ほどの可憐さや優艶さはないが、それでも彼女のキリッと引き締まった容貌は、弥生とは違うクール系の美しさをたたえている。おそらく男装に身を包めば、ヅカファンが泣いて喜ぶ麗人が、そこに誕生するはずだ。



742 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:02:45 ID:yffdd9Lz

 その妹の、戸惑うような視線が姉に向かうと、弥生は微笑みながら小さく手を振った。どうやら弥生としては、ここで妹が参戦することに全く頓着はないらしい。
 次に将棋盤に移った葉月の視線は、局面を一瞥すると、フンと鼻を鳴らした。どう贔屓目に見ても冬馬の劣勢は覆うべくもない。
 葉月の、涼やかな目元に嗜虐的な光が宿り始める。

「何ですか、これ? 兄さん、確か貴方『俺は強いぜぇ』とか言ってませんでしたっけ?」
「うっ……」
「挙げ句の果てに、敗けそうになったら他人に頼ろうなんて、みっともないにも程があると思いませんか?」
「うっ……」
「こんな情けない方が兄だなんて、悲しくて涙が出そうなんですけど、ちょっと外で泣いて来ていいですか?」
「てっ、手を貸すのか、貸さねえのか、ハッキリしろよっ!」
「いいですよ」
「えっ?」
 葉月の口元から、皮肉めいた歪みが消えた。
 そこにあったのは、意地悪をした分、優しくしてやるよと言わんばかりの温かい微笑。
「そのかわり報酬はちゃんと戴きますからね。あとで値切ろうなんてセコイ真似は許しませんよ」


 それから、さらに十五分後。結局、食卓に顔を出す気配が皆無な子供たちに業を煮やした母親が、怒りで顔を真っ赤にしてダイニングからやってきたとき、……勝負はまったく進んでいなかった。

「だから、――さっきから言ってるでしょっ! ここで金を動かさなきゃ、七手先で飛車に入り込まれてしまいますって!!」
「わっかんねえ野郎だなっ! 攻撃は最大の防御だろうが!」
「そんなこと言っているから陣形に隙が出来るんですよっ!! 姉さんは力押しで勝てるような相手じゃないでしょっ!?」
「甲羅に頭すぼめて勝てる相手でもねえだろうがっ!!」

 次の一手をめぐって果てしない口論を続ける二人の兄妹を見て、母親はぽかんとなり、そんな母親に弥生は、楽しくてたまらないといった笑顔を向けた。




743 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:03:26 ID:yffdd9Lz

「葉月、風呂空いたぜ」

 リビングでだらしなく寝転がりながらテレビを観ていた彼女に、カゴメのトマトジュースを片手にした兄が声を掛けた。
「そこの思春期の人、姉さんの後だからって、お湯、『汚して』いないでしょうね?」
「安心しろ。取り敢えず湯舟にゃ洩らしちゃいねえよ。換気扇も回しといたし、陰毛も回収しておいたから大丈夫だ」
「そういうことは、夜中にこっそり自分の部屋でして下さいよ、もう~~」

 無論、冗談である。
 この少年は、自分のすぐ後から妹が入浴すると知っていて、風呂場で自慰行為をするような嫌がらせはしない。つまりはシモネタ混じりの、家族の罪なきじゃれあいに過ぎない。
 葉月は首を持ち上げ、声の方角を見る。
 そこには、いまだ湯気立ち上る少年の体があった。

 年齢相応に引き締まった筋肉を持つ、小柄な体格。運動部には所属していないものの、彼は自他共に認める、ずば抜けた運動センスの所有者だった。
 その相貌こそ姉妹のような美形ではないが、球技大会や体育祭で常に花形となる冬馬という少年は、彼女たちほどではないが、かなり人気が高い。文化祭で行われた“校内イケメンbest10”というアンケート企画にも、彼の名はしっかり入賞していたくらいだ。
 葉月にしても、彼に渡してくれとラブレターを級友に託されたことも、二度や三度ではない。中高一貫教育の私立校に通う三人であれば、葉月の通う中等部にも、当然、兄の顔は知れ渡っていた。
 だが、妹は思う。
 彼に求愛する友人たちは、兄の、あの裸形を見ても、態度を変えずに恋文をしたためることが出来るだろうか、と。

 おそらく母の血を引いたのだろう。彼の肌は、女の子のように色白だった。
 それも、雪のような無機質な白さではない。上質の練り絹のような、体温のぬくもりを感じさせる白さであり、その薄皮一枚下に、鮮血の彩りを意識させるような、そんな白さだった。
 だからこそ、これ以上はないほどに目立つのだ。
 その背や胸、肩に刻まれた、無数の傷痕が。
 過去に彼が味わってきたであろう、地獄のような虐待の痕跡が。



744 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:04:39 ID:yffdd9Lz

 学校のイジメごときでは、到底追いつかぬ大量の傷。
 打撲痕、裂傷、火傷、擦過傷――傷が治りきらぬうちに同じ箇所に新たな傷が作られ、その傷が癒えぬうちに、さらに傷が上書きされる。そんな風に量産された無数の傷痕は、キャンバスとなった冬馬の色白の肌を、恐ろしいほどに醜くデコレートする。
 そして、背中に大きく刻まれた「犬」の文字と、胸板に焼き付けられた「ドレイ」の文字が、それらの“ただの傷”を、さらに毒々しく演出していた。
 膨大な量の暴力を日常的に、そして長期的に受容して初めて完成される、一個のオブジェ。

――それほどの無残な肌を、彼は無雑作に晒して歩く。
 無論、ただ単に彼が無神経なわけでも、開き直れる程に心が強靭なわけでもない。
「こんなもん、ホクロやニキビと一緒だよ。気にしなきゃ気にならない。落書きだらけのトイレでもクソは出来るだろう? そういうものさ」
 真夏の盛りに、その裸身に扇風機の風をあびつつ、かつて冬馬はこともなげに言った。だが、自分をトイレに例える言い草が、彼のもつ自虐意識を象徴しているようで、葉月は、たまらなく切ない気分になったものだった。

 そうなのだ。当たり前だ。気にならないわけがない。気にせずに済むわけがない。
 昔の傷痕など歯牙にもかけない態度をいくら気取ろうが、彼が自分の醜い肉体に、たまらないほどの劣等感を抱いている事は、家族にとっては周知の事実なのだ。
 その証拠と言ってはなんだが、姉妹は知っている。彼が無雑作に肌を晒すのは家族だけだということを。水泳の授業は全て欠席し、仲のいい友人から誘われた海水浴を嘘の法事をでっちあげて断ったことも。

 何故知っているのか。どうやって、弟のプライベート情報を、姉妹が入手したのか。
 それはこの際、問題ではない。
 葉月は、ただ心配だったのだ。――無残極まりない過去を持つ、この兄が。
 彼にはこれ以上、辛い目にあって欲しくない。姉妹は切にそう願っている。だから、冬馬の日常に絶えず気を配り、彼から可能な限り目を離さない。
 それは、愛ではない。――と葉月は思う。
 敢えて「愛」という言葉を当てはめるならば、これは家族愛だ。男女のそれとは断じて違う。それ以上の感情ではない。いかに血縁ではないとはいえ、家族相手にそういう情愛を抱く酔狂さは、――弥生はともかく――葉月は持ち合わせていないつもりだった。



745 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:06:56 ID:yffdd9Lz

「あ、これ」
 冬馬が一枚の封筒を投げて寄越す。
「今日預かってきたんだ。忘れねえうちに渡しとくぞ」
「また?」
「ラブレターなんざ、貰えるうちが華だろうが」
「……そんな華、いりません」


 さきほど前述したが、葉月としても、冬馬や弥生に対するラブレターを託される事は、決して珍しいことではない。
 だが、この兄に対して、葉月が恋文を素直に預かる事は、まずない。自分の想いくらいは、他者に頼らず、自分で直接告白すべきだ。そう主張して、そんな仲介の依頼は突っぱねてしまう。

 当然、告白の仲介を拒絶された級友たちは、彼女に非難を浴びせる。
 なによそれ、ブラコン?
 その歳になっても、お兄ちゃんが恋しいの? 兄貴が他の女に盗られるのが、そんなに嫌なの?
 そう言われたことも数え切れない。
 だが、それでも葉月は態度を変える気は決してない。
 なぜなら彼女自身、おのれの意見の正しさを心から信じているからだ。
 その証拠に、葉月が仲介を拒否する恋文は、冬馬に対するものだけではない。弥生に宛てたものでさえ、それを預かる事を断固として認めない。少女独特の潔癖さが、そういう他力本願な態度を許さないのだ。
 だがら、こうして第三者から自分へのラブレターを、ぬけぬけと預かってくる兄を見ると、葉月は無性にイライラしてしまう。

「何度も言っているでしょう。わたしはこういうものを受け取りません」
 葉月は、手紙を取り上げると、中身を読みもせずに丸めてゴミ箱に放り投げてしまった。
「うわっ、ひでっ」
「自分の気持ちくらい自分の口から伝えられないような男に、興味はありません」
「でも、読むくらいはいいんじゃね? せめて、誰からかくらいは確認してやれよ」
「興味のない人間の名前なんか、知りたくもありませんっ!!」
 そう怒鳴りながら、兄のトマトジュースをひったくると、一気に飲み干し、
「お風呂入って来ます!!」
 と、彼女はスチール缶をテーブルに叩きつけ、荒々しく立ち上がった。



746 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:07:57 ID:yffdd9Lz

「葉月ちゃん、さっきリビングで何を怒ってたの?」

 浴室の外の脱衣場。そこから扉越しに弥生の声が聞こえた。
 この優しい姉は、第二次反抗期真っ盛りの妹が、兄と喧嘩しないように、常に気を配っている。
「何でもないです。姉さんには関係有りません」
 言ってしまってから、口調に険がありすぎた事を感じた葉月は、一呼吸置いて、言い直した。
「……兄さんがまた、わたし宛のラブレターを持って帰ってきました」

 扉の外の姉は、黙して答えない。
 葉月は続けた。
「わたしは、求愛の行為とは本質的に、本人同士の直接的なコミュニケーションによって為されるべきだと思っています。兄さんは自分の行為に、なぜ不快さを覚えないのでしょうか?」
「……」
「仮に、そのような直接交渉の勇気を持たないような男性が、わたしに欲情することに、兄さんは何も思わないのでしょうか? そのような男性と、わたしとの“男女の出会い”を仲介する事に、兄さんは何の感情も覚えないのでしょうか?」
「葉月ちゃんだったら、どう?」
「え?」
「冬馬くんと葉月ちゃんの立場が、もし逆だったなら」

 立場が逆だったならという姉の言葉が、一瞬ぽかんとなったが、ややあって葉月は答えた。
「わたしなら……いやです」
「いや?」
「はい。自分の想いを自分で伝えられないような女性を、兄さんに紹介する気はありません。そんな女性に兄さんを幸せに出来るはずがありませんし、兄さんが、そんな女性を選ぶとも思えませんから」
「でも、その女性を選ぶかどうかは冬馬くんが決める事よ。幸せかどうかを判断するのも、貴女じゃないわ。たとえ、どういう出会い方であったとしてもね」
 その瞬間、虚を突かれたような顔をした葉月だったが、そんな自分の挙動を振り払うように、彼女は思わず扉の向こうの姉に向けて声を荒げていた。
「それでも、嫌なものは嫌なんですっ! 嫌なものは嫌だから仕方がないんですっ!!」


「……葉月ちゃん」
「なんです」
「それは、嫉妬よ」



747 傷(その1) sage 2008/10/20(月) 16:09:14 ID:yffdd9Lz

 葉月の顔から血の気が引いた。
「貴女は、直接相手に告白する勇気を持たない、そんなどうでもいい人たちに怒っているんじゃない。あなたが怒っているのは、何の抵抗も葛藤もなく、自分に男をあてがおうとする冬馬くん。そうでしょ?」
「……ッッッ」
 そうでしょ? と問われたところで、葉月は答える言葉を持たない。出来ることは、ひたすら口をパクパクさせるだけだ。
「でもね、葉月ちゃん」
 風呂場の扉が開いた。
 温かい湯気に満ちていた浴室に、たちまち冷たい外気が流れ込んでくる。
 だが、そんな外気さえも暖めるような、子供のごとき笑顔で弥生は言った。


「それでいいのよ」
 凝然と、凍りついたように動けない妹を前に、姉は言葉を続けた。
「貴女は、正しいわ」


 意味が分からない。
 いや、それは嘘だ。
 姉が言いたかったこと、それはもう分かりきっている。
 葉月が何度諌めても、決して翻そうとはしない弥生の想い。
 彼女はこう言ったのだ。
 妹に男を紹介しようとする兄の無神経さに苛立つのは、当然だと。
 立場が逆だったなら、兄に自分を紹介してくれなどと言う女性に、怒りを覚えるのは当然だと。
 だが、その理屈を正当化するためには、理屈の根底に流れる一つの感情を認識せねばならない。
 すなわち、家族のそれではなく、男女の愛。

「姉さんっ、何度も言いますが、わたしたちは家族なんですよっ!! それを無視して、そのような言葉を語るべきではありませんっ!! そのような事は許されないんですよっ!!」


「……そうよね。葉月ちゃんなら、やっぱり、そう言うわよね……」

 そう言った弥生の顔は、さきほどまでの無邪気な笑顔ではなく、むしろ寂しげな、何かを諦めたような表情であった。
「お風呂、邪魔してごめんね」
 取り繕うように言うと、弥生は静かに浴室の扉を閉め、立ち去った。

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最終更新:2008年10月26日 20:40
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