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三つの鎖 3 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/10(火) 00:12:34 ID:vQ9fj4LH
三つの鎖 3
今と違って、昔僕と妹は仲が良かった。
物心ついた時から梓はいつも僕についてきた。昔から気難しい子だったが、僕の言う事だけは不思議と素直に聞いた。
僕は腕白な子供だったからよく外で遊んだ。春子は僕以上に腕白でお姉さんぶる性格だったから、よく僕と梓を連れて遊びまわった。
外に出ても梓は僕にべったりしていた。そのことでよくからかわれたが、僕はからかわれる理由が分からなかった。梓はずっと僕にべったりだったから、それが普通だと思っていたのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕が小学校に上がってから梓と一緒にいる時間は減った。次の年には梓も小学校に通いだした。家でべったりな梓も、学校で一緒にいることはあまりなかった。
それでも家に帰れば梓は相変わらずくっついてきた。春子も相変わらずお姉さんぶって僕たちの様子を見てくれた。
僕の母さんは梓を産んでから亡くなったらしい。だから僕も母さんの記憶はほとんどない。僕たちの面倒を見てくれたのは京子さんと村田一家だった。
京子さんは父さんの高校の時からの知り合いらしい。今は父さんと再婚している。梓は京子さんの事をお母さんと呼ぶ。梓にとって、もの心ついた時から面倒を見てくれたのだからそうなるだろう。
反対に僕は京子さんをお母さんと呼ぶことはない。何だか僕を生んでくれたお母さんに申し訳ない気がするからだ。
僕の家でお母さんの話題が出ることはない。父さんも語ろうとしない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕が小学校三年生の時に柔道を始めた。きっかけはテレビで見た柔道の試合だった。人が投げられるのを見て、子供心に格好いいと思ったのだ。
僕は京子さんにねだって柔道を教えている教室に連れて行ってもらった。その教室は市民体育館で子供を中心に柔道を教えていた。
僕は柔道に夢中になった。技を覚えるのに、技を磨くのが楽しかった。
その時は気がつかなかったが、梓はそのころからさらに気難しくなった。
梓は一人で家にいることが多くなった。春子が遊びに来ても気難しく黙ったままだった。
村田のおばさんも心配し、梓を市民体育館で行われる合気道の練習に連れて行った。村田のおばさんとおじさんは大学の時に合気道部で知り合ったらしい。外で体を動かせば少しはましになると思ったのだろう。
村田さんの判断は正しかった。梓は少しだけだが明るくなった。その頃すでに合気道を始めていた春子はよく梓の面倒を見た。はたから見れば姉妹に見えただろう。
この頃から梓は家の家事を手伝うようになった。京子さんも村田のおばさんもこの時期は忙しく、なかなか僕と梓まで手が回らなかった。春子が料理を得意とするのも村田の家の家事を手伝っていたからだ。
僕が中学生に上がる頃には梓がほとんど一人で家の家事を行っていた。
中学で僕は当然のように柔道部に入部した。そこでも僕は典型的な部活馬鹿だった。
僕は柔道部でさらに上達した。僕の身長はすでに中学で一番だった。先輩でも僕には勝てなかった。
中学一年の時点で柔道が強い高校の関係者から声を掛けられていた。僕は有頂天だった。梓の事は頭から消えていた。
この頃梓が何をしていたか全く知らなかった。練習で夜遅くに帰った僕は梓の作った料理を食べ、風呂に入ってすぐに寝るという生活を繰り返していた。
そんな生活に転機が訪れたのは僕が中学二年生の夏だった。
ある日練習行こうとした僕に京子さんから電話があった。春子が救急車で運ばれたと。
柔道を始めてから春子に会う機会も減った。春子も村田の家の家事を手伝っていたかのもある。それでも春子は時間を作っては僕と梓の世話を焼いた。
僕は生れてはじめて柔道の練習を休んで見舞いに行った。
見舞いに行ったとき、春子は手術が終わって寝ていた。
あの時の春子は忘れられない。春子は僕にとって幼馴染というよりお姉さんのような存在だった。小さい時から僕と梓の世話を焼いてくれた。いつも元気で明るかった。その春子が青い顔をして死んだように眠っていた。僕には衝撃的だった。
次の日、僕は柔道の練習に行ったが、全く集中できなかった。柔道の練習で集中できなかったのは生れて初めてだった。
練習後見舞いに行った。春子はまだ寝ていた。
村田のおばさんとも話した。おばさんにとって春子は一人娘だ。やつれていたが気丈にふるまう姿が印象的だった。何があったかは話してくれなかった。
ある日、村田のおばさんから電話があった。春子が意識を取り戻した。幸一君に会いたいと言っていると。
479 三つの鎖 3 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/10(火) 00:14:55 ID:vQ9fj4LH
僕はすぐに病院に向かった。
春子は目を覚ましていた。相変わらず顔色は悪いが、意識ははっきりしていた。
春子は村田のおばさんに僕と二人きりにしてほしいと言った。おばさんは何も言わずに二人きりにしてくれた。
春子が話してくれたのはにわかには信じがたいことだった。梓が夜の街を徘徊し、絡んでくる者を片っ端から叩きのめしていること。春子はそれを知って、梓を止めようとしたこと。梓と喧嘩になって、春子は頭から投げ落とされて今に至ること。
呆然とする僕に春子は泣きながら言った。
「幸一君、ごめんね。頼りないお姉ちゃんでごめんね。私じゃ梓ちゃんを止めれなかった。頼りないお姉ちゃんでごめんね」
最後に、春子は梓を助けてあげてと言った。
僕は病院を飛び出した。
春子から聞いた場所を僕は走りまわった。春子のいう場所は、繁華街の近くで治安が悪い。そんな場所を一人でうろつく梓が心配でたまらなかった。
僕は春子の言うことが信じ切れなかった。僕自身柔道をやるから分かるが、人を投げるというのはとても難しい。技だけでできる者はほとんどいない。
実際に柔道がうまいのは大柄で力のある者が多い。柔道の試合が体重別で分けられるのも、体格と体重が違いすぎると投げることが難しいからだ。それなのに中学一年生の梓が大の男を投げ飛ばすなど信じられなかった。
運よく僕は梓を見つけた。何人もの不良が走り回っているのを後からつけた結果だった。
僕が見たとき、梓は十を超える男に囲まれていた。
すぐに僕は飛び出した。梓を抱え脱兎の如く逃げ出した。梓は信じられないぐらい軽かった。
幸いにも逃げ切ることができた。これは運が良かった。いくら鍛えているとはいえ、人一人を担いで大の男の集団から逃げ切るのは難しい。
振り切った時、僕と梓は公園にいた。梓は不機嫌そうに僕を見上げていた。
僕は梓を抱きしめた。泣きながら謝った。梓も僕の背中に腕をまわして抱きついた。梓の体は燃えるように熱かった。
気がついたら僕は地面に叩きつけられていた。激痛に声も出ない。突然の事に受け身を取れなかった。
苦痛にもがく僕を梓は見下ろした。
「今更何を言ってるの兄さん。もう遅すぎるのよ」
僕は間に合わなかったことを知った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その後の事は覚えていない。気がついたら梓と一緒に家に帰っていた。
次の日僕は退部届を出した。周りはいろいろ聞いてきたし留まるように言われたが、僕は耳を貸さなかった。
その日から僕は家事を始めた。梓が非行に走ったのは家の事をすべて押し付けていたと思ったからだ。
家事がどれだけ大変か僕は思い知った。こんな大変なことを、梓は何も言わずにやってくれていたのだ。
梓は僕に冷たかった。僕との会話は無視か罵倒かのどちらかだった。作った料理もまずいと言った。実際まずかった。
春子は無事に退院した。幸い後遺症が残ることはなかった。春子は知らない誰かと喧嘩したと周りに説明した。
この頃父さんと京子さんが結婚した。二人は何も知らなかった。僕たちも何も言わなかった。
僕は京子さんと春子に家事を教わった。教える側が優秀だったのだろう。僕の家事は上達していった。
同時に僕は勉学にも励んだ。梓の兄として恥ずかしくない男になろうと思ったからだ。
梓との仲は冷え切ったままだったが、自分でも気がつかないぐらい少しずつ改善していった。以前にも増して春子が家の様子を見に来てくれたのと京子さんの存在が大きかったと思う。
本当に時々だが、梓が家事を手伝ってくれることもあった。手伝ってくれる回数は少しずつだが増えていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
480 三つの鎖 3 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/10(火) 00:18:11 ID:vQ9fj4LH
ある日、僕は学校で用事があっていつもより少し遅い時間に帰った。
いつもは学校が終わるとすぐに家に帰るが、この日は少し遅れて校門を出た。僕はいつも一人で帰る。梓と一緒に帰ることはない。春子も生徒会やら委員会で忙しかった。
帰り道は学生と買い物に行く主婦でごった返していた。
僕はそこで梓を見つけた。
梓は一人で人ごみの中を立ち尽くしていた。
僕は梓のそばに駆け寄った。
「大丈夫?」
梓は無表情に僕を見上げた。
「その、嫌なことでも思い出したの?」
梓は人ごみを嫌う。その理由は、あの日僕が梓を見つけたときに男たちに囲まれていたのを思い出すからと思っていた。
あの時の梓は中学一年生だ。大の男に囲まれて恐怖を感じないはずがなかった。今でも背筋が寒くなる。あの時、見つけるのが遅かったらどうなっていたのか。
僕と梓の間に沈黙が走る。
雑踏の中でも沈黙ははっきり感じた。
梓は何も言わない。下を向いたままで。
「…先に帰るよ」
背を向けて歩き出そうとした瞬間だった。
梓はうつむきながら僕の袖を握った。
僕は驚いた。
梓は僕を嫌っている。
それは仕方がないことだ。僕はずっと梓をほったらかしにして家事を押し付けていたのだから。
それでも今は僕を頼ってくれた。
それは僕を赦したわけではない。ただ単に嫌なことを思い出して心細かっただけなのかもしれない。
それでも僕は嬉しかった。
「帰ろう。梓」
僕は涙をこらえて言った。
二人で一言も言葉を交わさずに帰った。それでも僕は嬉しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
平穏な日々が続いた。
僕は高校に進学した。梓と話すことはほとんど無かったが、時々家事を手伝ってくれた。
時々僕は早朝にランニングをしていた。柔道をやめて以来、運動する機会は減った。もともと体を動かすのが好きだった僕は、体を動かしたいと思うときは走った。
そして走った後、庭で柔道の練習をした。
無論、一人でできることなどたかが知れている。足捌きの確認、型の確認。その程度だ。
なんだかんだで僕は柔道を忘れる事が出来なかった。
ある日、珍しく梓が話しかけてきた。
「柔道をしたいの?」
僕の心臓は凍りつきそうだったが、言葉は自然に出た。
「昔は夢中だったけど、今は全然」
嘘だ。だがそれを気付かれてはならない。僕は柔道に夢中だったせいで梓を一人にした。梓は僕が柔道を忘れられないのを快く思うはずがない。
「何で?忙しいから?」
梓は無表情に尋ねる。
「別にそういう訳でもないよ。今は家事も楽しいし。最近料理も分かってきたしアイロンも上手くなったでしょ?」
梓は無表情に僕を見つめる。きれいな顔だなと脈絡なく思った。
「それに今は柔道よりも家をしっかり守って梓に苦労をかけないほうが大事だよ」
この言葉に嘘は無い。柔道にかまけて梓に苦労をかけた事を僕は後悔している。
今は柔道よりも、梓に苦労をかけたくない。
僕は走った後に柔道の練習を行うのはやめようと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
481 三つの鎖 3 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/10(火) 00:20:25 ID:vQ9fj4LH
その日の晩に梓は僕を深夜の公園に呼び出した。
梓は僕に道着の上を渡し着るように言った。
はおった僕に梓は無表情に言った。
「兄さんの好きな柔道をしよう」
梓は僕の胸倉をつかみ投げ飛ばした。僕は自然に受け身をとった。
あの日梓に投げられた時は全く反応できなかったのに、柔道をやめた今は反応できたのは不思議だった。
僕は立ち上がり言った。
「梓。僕は柔道はやめたんだ」
梓は耳を貸さずありとあらゆる技で僕を投げた。
僕は驚いた。梓の投げは柔道でない投げもあった。おそらく昔梓が習っていた合気道だろう。
それ以上に梓の投げは上手だった。僕が投げられたことのない投げだった。
僕のように体格がいいとどうしても体格に頼る。これは間違いではない。柔道では「柔よく剛を制す」という言葉が有名だが、「剛よく柔を断つ」という言葉もある。力も技も大切ということなのだ。
現実問題として、体格と体重が違いすぎると投げるのが難しい。柔道の試合が体重別なのもこれが理由だ。
しかし梓の投げは違った。梓は小柄で細身だ。僕と梓の身長差は20cmを優に超え、体重も30kgは違うだろう。
にもかかわらず梓の投げはそれを感じさせない。まともに勝負しても勝てる気がしなかった。
春子が言っていた、深夜を徘徊しては絡んできた男たちを片っ端から投げ飛ばすというのも、今なら信じる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ある日、梓は僕に市民体育館での柔道の練習に参加するように言った。
僕は驚いた。その練習は僕も知っている。参加者は大学の体育会の柔道部や現役警察官など猛者ばかりだ。高校生が参加できるような練習では無い。
にもかかわらず参加は許されていた。父さんの口添えがあったのを知った。
渋る僕に行くように梓は強く言った。梓が何でこんな事をするのか分からなかった。
それでも久しぶりの柔道は楽しかった。結局僕は柔道が好きだった。
だが昔の過ちを繰り返すことはしなかった。家事と勉強は柔道以上に真剣に行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
一年が過ぎ、梓が僕とおなじ高校に入学した。
梓は相変わらず冷たい。それでも、少しずつだが仲を改善できているように感じる。
高校二年で初めて春子と同じクラスになった。小学校も中学校も同じ学校だったが、不思議と同じクラスになることはなかった。
春子は相変わらず僕と梓の面倒を見ようとする。春子自身は生徒会に入りそれなりに忙しい日々を送っている。梓を生徒会に勧誘しているらしい。
梓のせいで入院しても、春子は優しかった。相変わらず梓と僕を妹弟のように接する。今回初めて同じクラスになってからは特に僕の世話を焼きたがる。正直恥ずかしいが、春子には恩もあるし感謝もしている。これぐらいは好きにさせてもいいかと思う。
高校になってから比較的穏やかな日々が続く。色々な部活や活動に勧誘される。僕はすべて断った。柔道と家事と勉強で精いっぱいだと思ったからだ。
高校で僕は有名な存在らしい。仕方がないかと思う。僕の身長は180cmを超える。立っているだけで目立つ。毎日のように妹のクラスに弁当を届けているせいでシスコンと言われているが。
そんな生活も耕平のおかげで穏やかなものだった。中学の時からの友達で今も続いているのは耕平だけだ。僕は中学の時は本当に何も見ていない子供だった。柔道の腕を鼻にかけて調子に乗っていた僕は、柔道をやめてから続く友達はほとんどいなかった。
数少ない例外が耕平だった。
耕平に僕と梓の関係を話したことはない。それでも耕平は何も尋ねず、何かと気をまわしてくれる。春子も同じだ。そのおかげで穏やかで楽しい日々が続く。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
この穏やかな日々の果てに梓に赦してもらえる日が来る事を僕は望んでやまない。
だけど僕は分かっていた。当たり前のような日々は、いつ砕けるかも分からない脆いガラスのような存在であることを。
それならば、梓が赦してくれなくても、この日々が続く事を心のどこかで臨んでいることに僕は薄々気が付いていた。
最終更新:2009年11月22日 20:21