61 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/28(土) 23:54:22 ID:64sg6+dx
三つの鎖 7
「それじゃあ行ってくる」
「私も行くわ」
食後のお茶の後、父さんと京子さんは立ち上がった。二人ともスーツケースに手をかける。
「京子さん。入口まで持つよ」
僕は京子さんのスーツケースを持った。
「ありがとう幸一君」
京子さんはにっこり笑った。
「幸一」
父さんが僕を見た。
「私たちがいない間、家を頼む」
僕はうなずいた。今日からこの二人は出張だ。といっても明日の夜には帰ってくる。
「春子ちゃんに伝えてあるから、何かあったら頼りなさいね。向こうもご両親が今日の夜いないらしいから、お互い助け合うのよ」
京子さんはそう言って笑った。僕の両親も春子の両親も仕事の関係で家にいない事が昔から多い。そんな時はお互いの家に子供たちが泊まった。子供だけを家に残すのが心配なのだろ。
もう泊まらないような歳になった今でも、大人たちがいない時はお互いに連絡を入れている。
「では行ってくる」
「行ってきまーす」
父さんと京子さんは手を振って出て行った。僕はその姿を見送ると、いつも通り朝の家事をして登校した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
午前の授業が終わり、いつも通り僕は梓の教室にお弁当を届けに行くために教室を出た。
お昼休みの廊下は生徒でごった返している。学食に向かう男子生徒、お弁当を片手に外に向かう女子生徒…etc。
すれ違う生徒たちは僕に遠慮のない視線を向ける。
確かに僕は目立つ。身長はもうすぐ190cmに届こうとする。片手で二つの弁当を持っているのも目立つかもしれない。
しかし今この瞬間に僕が目立っているのは春子が原因だ。
春子は僕の左腕に抱きつきながら頬ずりしている。ものすごくいい笑顔だ。今にも涎を垂らしそうなとろけた表情。
周りの視線が痛い。
「はー。お姉ちゃん幸せー」
僕の腕に胸が当たる。柔らかい。嬉しくないと言えば嘘になるが、それ以上に恥ずかしすぎる。
「春子。お願いだから離して」
何回この言葉を言っただろう。春子の抱きつく力が増す。胸がさらに強く当たる。
「ふふふ。恥ずかしいのですか」
にやにやする春子。
「お願いだから離れて」
僕はため息をついて繰り返した。恥ずかしい。
そんな事を話しながら梓の教室に着く。入口でこっそりのぞく僕。梓と夏美ちゃんを発見。
「春子。離して」
「ふっふーん。ダメです」
「このままじゃ入れないよ」
「最近お姉ちゃんに冷たい罰なのでーす」
離してくれない。
「おにーさーん!」
夏美ちゃんが僕に手を振る。梓が不機嫌そうに立ち上がり近づいてくる。
「春子お願い。離して」
「幸一君の腕ほっかほか」
聞いてない。
春子に気がつく梓。梓がさらに不機嫌になったような気がする。梓は無言で僕から弁当を奪い教室の扉を乱暴に閉めた。
「ちょっと梓!なんで閉めるのよ!」
夏美ちゃんの声が扉の奥から聞こえる。足音が近づいてくる。開く扉。
「おにーさん!今日は一緒に食べませんか!」
夏美ちゃんの笑顔が固まる。
「ハル先輩!何やってるんですか!」
顔を真っ赤にする夏美ちゃん。
目を覚ましたように春子の表情が戻る。
「いけない。新しい世界に目覚めるとこだったよ」
どんな世界だ。
「あれ?夏美ちゃん。梓ちゃん知らないかな?」
「あのですねハル先輩」
62 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/28(土) 23:57:11 ID:64sg6+dx
「あ!梓ちゃーん!」
夏美ちゃんに質問しておいてスルーする春子。僕を放り出して梓に近づく。梓はすでに一人でお弁当を開いていた。
「ちょっとハル先輩!」
夏美ちゃんを無視して春子は梓に駆け寄りそのまま抱きつき頬ずりする。
「梓ちゃーん!幸一君が最近冷たいよー。お姉ちゃん寂しい!」
「うるさい」
春子に頬ずりされて心底うっとうしそうな梓。
「梓ちゃんまで冷たい!てゆうかお昼一人なの?よーし。今日はお姉ちゃんと一緒に食べよ!」
そう言って梓の隣に座りお弁当を開く春子。僕たちを見て大きく手をふった
「幸一君!夏美ちゃん!そんなとこで突っ立ってないでこっちにおいで!」
僕と夏美ちゃんはお互いの顔を見て苦笑した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お兄さんとハル先輩って付き合ってないんですか?」
お弁当を食べ終えて夏美ちゃんが尋ねた。
「付き合ってないよ」
この質問はいろんな人に何度もされた。
「ハル先輩。どうなんですか?」
「好きだし愛してるし大切に思ってるよ」
むせる夏美ちゃん。春子は昔から愛情表現が過激でストレートだ。昔から何度も言われているが、それでも恥ずかしい。
「でもね、それは恋人になりたいって思う訳じゃないよ」
にこにこ笑う春子。
「ええと、好きだけど、あえて恋人にならないってことですか」
赤い顔で質問する夏美ちゃん。
「違うよ。私は幸一君と梓ちゃんが大好き。でも恋人の関係になりたいとか、そういう訳じゃないよ」
春子は言う。
「何でですか?好きなら恋人になりたいとか、一緒にいたいとか、独占したいとか思わないんですか?」
夏美ちゃんは納得していない感じだ。
「あのね夏美ちゃん」
春子は相変わらずにこにこしている。
「私と幸一君と夏美ちゃんは物心ついた時からずっと一緒にいたよ。ずっと独占してたよ。今さら恋人になって独占したいとかは思わないかな。弟みたいな存在ってのが一番しっくりくるよ」
腕を組んで首をかしげる夏美ちゃん。
「よく分からないです。お兄さんはハル先輩の事どう思っているんですか?」
「僕は家族みたいに思っている」
「家族ですか」
きょとんとする夏美ちゃん。
「小さい時からずっと一緒にいたし。僕のお姉さんみたいな存在だよ」
僕の正直な気持ちだ。昔から僕と梓の世話を焼き見守ってくれた身近な人。
「じゃあなんであんなにべたべたするんですか」
夏美ちゃんは不機嫌そうだ。その表情を僕は見たことある気がする。
「お二人の言うとおり恋人じゃなくて姉と弟みたいな関係としてもですよ」
すぐに思い出した。
「姉と弟でべたべたするなんておかしいですよ」
梓の表情に似ている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
あの後、少し気まずいままお昼御飯を終えた。自分の教室に戻って春子と話す。
「夏美ちゃんどう思う」
「どういうこと?」
「嫉妬してたね」
僕もそう思う。春子はにやにやしながら僕を見た。
「もてる男はつらいね」
「まだ決まったわけじゃないよ」
「夏美ちゃんの事が嫌いなの?」
僕はため息をついた。
「嫌いじゃないけど、それだけだよ」
僕の正直な気持ち。妹の友人以上でも以下でもない。
「そう」
63 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/28(土) 23:59:59 ID:64sg6+dx
春子はあっさり引き下がった。午後の授業が始まる。
夏美ちゃんの声が耳に蘇る。
姉と弟でべたべたするなんておかしいですよ。
確かにそうだ。ずっと昔から春子はくっつくのが好きだった。僕にも梓にも。でも春子も僕ももう高校生だ。恋人でもない年頃の男女がべたべたするのはよくない。
何度も春子に言っているけど、春子は笑ってすますだけだ。今日にでも真面目に話をしよう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
授業が終わって耕平と宿題について話していると春子が話しかけてきた。
「今日泊まりに行っていい?」
耕平が噴き出す。クラスメイト達の視線が突き刺さる。僕は大きくため息をついた。
「あのね春子」
「今日はお父さんもお母さんも出張でいないの。一人はちょっと怖いし」
僕を見つめる春子。ざわめく教室。本当に止めて欲しい。
「それに幸一君の家も今日はおばさんもおじさんもいないんでしょ?ご飯作ってあげるから。ね?」
春子はウインクする。可愛くない。
お互いの家に泊まること自体は珍しい事ではなかった。仕事の関係で保護者が家にいない時はよく泊めてもらった。逆に春子が泊まりに来たことも少ないがあった。
しかし、それはせいぜい中学校の時までだ。高校生になってからは一度もない。
春子が耳を寄せる。
「いろいろ話したいこともあるでしょ」
「…分かったよ」
春子の言うとおりだ。いい加減にべたべたするのは止めるべきだときっちり言わないといけない。
「じゃあ生徒会が終わってから行くね。おいしい牛肉があるからそれでローストビーフを作るよ」
そう言って春子は教室を出て行った。
「なあ幸一」
耕平が話しかけてくる。
「本当に村田と付き合ってへんの」
「今日はその質問が多いな」
「いやだってさ。今日は特にすごかったやん」
昼休みの春子を思い出す。確かに高二になってからの春子の行動は少しエスカレートしている。
「同じクラスになったのが初めてだからテンションがおかしいんだよ」
「それもそやな。クラスが違うときにたまに来たけど、その時は今ほどやなかったし」
春子とは高二になってから初めて同じクラスになった。耕平とは今まで何度も同じクラスになっている。だから耕平は僕と春子の関係も知っている。
「でも幸一ええよなー。俺も村田みたいな幼馴染にべたべたされたいでホンマ」
「耕平は彼女がいるじゃないか」
「この前別れたっちゅーねん」
肩を落とす耕平。
「またすぐできるんだろ」
耕平はいつも違う彼女がいる。別れてもすぐに別の彼女ができるのだ。
「まあその話は置いといてや」
耕平が僕を見る。
「ちょっと村田に言っといた方がええで。いくらなんでも今日のはやり過ぎや。教師に目付けられるんもアホらしいやろ」
真剣に耕平が言う。
「ま、今日泊まりに来るんを許したんもそのことを話すためやろ」
僕はうなずいた。
「ま、いちゃつくんやったら他人がいない場所でってことやで」
そう言って耕平は帰った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
気分は最悪だった。
わたくし、中村夏美は帰り道の商店街でため息をついた。
今日のお昼に思い切り気まずくしてしまった。
「どうしてこんな事になったんだろ」
私はもう一度ため息をついた。
あの日、お兄さんが泣いている姿を見てから私はおかしい。べたべたするお兄さんとハル先輩を見ると胸が痛い。
「好き…なのかな」
お兄さんを思い浮かべる。顔が熱くなる。会いたい。
「夏美ちゃーん!」
一人で悶悶していると、聞き覚えのある声が私を呼んだ。
64 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/29(日) 00:02:41 ID:64sg6+dx
「こんなとこで何してるの?」
ハル先輩だ。スーパーの袋を持っている。隣には黒い大きな犬が私を見上げてワンとないた。
「…別に何でもないです」
私はそっけなく言った。だめだ。わたし格好悪すぎる。ハル先輩に嫉妬して冷たくしてしまう。
「幸一君の事考えていたんでしょ」
頬が熱くなる。お兄さんにくっついているハル先輩の姿を思い出す。
「ハル先輩には関係ないです!」
思わずきつい言い方をしてしまう。私は馬鹿だ。醜くてみっともない八つ当たり。
「協力してあげようか?」
私はハル先輩の言った事が分からなかった。
顔を上げると、ハル先輩はにこにこしながら私を見ていた。
「今から幸一君の家に泊まりに行くんだけど、夏美ちゃんも来ない?」
お兄さんの家。泊まり。
その言葉だけで頭がくらくらする。どれだけ妄想しているんだ私。
「幸一君が好きなんでしょ?」
ハル先輩が囁く。
「…何で協力してくれるんですか?」
その言葉は自分の気持ちを認めたも同然だった。
「今日の事を謝りたいでしょ?」
確かに。気まずいままはいやだ。
でも、会って自分の気持ちを抑えられるだろうか。抑えきれずに好きという気持ちを言ってしまうかもしれない。そうなれば今より気まずくなるかもしれない。
それに、もし自分の気持ちを伝えたら梓やハル先輩とも気まずくなるかもしれない。せっかく仲が良くなったのに。
ふとお兄さんの涙を思い出す。あのとき私は涙すら拭けなかった。
忘れていた。好きっていう気持ちの他に伝えたいことがあるんだ。
「来る?」
ハル先輩の囁きに私はうなずいた。
お兄さんに会いたい。会って話したい。
黒い犬がワンとないた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
家のチャイムが鳴る。
「はーい」
僕は掃除機を止めて玄関に駆け寄った。しかし、鍵をあける前に勝手にカギが開いた。
「ちーっす!」
夏美ちゃんがドアを開けてあいさつした。
「夏美ちゃんどうしたの?それに鍵は?」
「お世話になります!」
意味が分からない。
「幸一君」
後ろで春子が変な道具を片手ににっこり笑う。シロもいる。くーんと申し訳なさそうにないた。まるでうちの春子が申し訳ないと言っているようだ。
僕はため息をついた。春子は多趣味で変な特技をたくさん持っている。ピッキングもその一つだ。春子の祖父が鍵屋だった影響もあるだろう。今までにも何度も勝手に上がりこんだ事があった。
「夏美ちゃんを拾っちゃいました」
舌をぺろりと出す春子。可愛くないし意味が分からない。
「まま。とりあえず上がってね」
春子が言う。それは本来僕が言う言葉だろ。
「春子。ピッキングは止めてって何度も言っているだろ。ここは一応警察官の家だよ」
「細かい事は言わないの。これお願いね」
春子は僕にビニール袋を差し出した。僕はため息をついた。父さんに逮捕されても知らないよ。
とりあえず春子の持つスーパーの袋を受け取りリビングに案内する。春子はシロの足を拭いた。シロも家に上がる。
「お兄さんの家って広いですねー。おっ!庭が広い!」
はしゃぐ夏美ちゃん。春子はキッチンでお茶を入れてくれた。今日は割と寒いから熱い緑茶を入れてくれる。
「うわー。ハル先輩、勝手知ったる他人の家ですか」
感心する夏美ちゃん。
「粗茶ですがどうぞ」
コップを渡す春子。粗茶で悪かったな。
「いただきます!…うんめー!」
夏美ちゃんテンション高過ぎ。
「くぅー!胃にしみるぜ!」
「夏美ちゃん。それ緑茶」
65 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/29(日) 00:05:03 ID:FzAfdehw
「この一杯のために生きているべー」
聞いてないよこの子。
「で、今日はどうしたの?」
「はっ!お泊まり会をすると聞いたので私も参加します!」
元気よく答える夏美ちゃん。
「あれ?何で夏美がいるの?シロも」
梓がリビングにやってきて不思議そうに夏美ちゃんを見る。シロがくーんとないた。
「拾っちゃいました」
てへと笑う春子。可愛くない。
「春子。可愛くないよ。まあいいわ。それよりご飯」
興味無さそうな梓。珍しく意見が合う兄妹。もちろん口には出さない。梓を不機嫌にすることはない。
「あずさー。私よりご飯なの」
「当然でしょ」
そっけない梓。
「おにーさーん!梓が冷たいです」
「ええと、うん。ごめんね」
「何その投げやりな態度!兄妹そろってひどっ!」
ショックを受けてる夏美ちゃん。シロが慰めるように夏美ちゃんに体をすり寄せた。ちょっとひどい事したかな。
「はいはい梓ちゃん。すぐにご飯作るからちょっと待ってね」
キッチンに行く春子。スーパーの袋を持って僕もついて行く。
「で。夏美ちゃんどうしたの?」
「偶然会ったの。相談されちゃった。謝りたいんだって」
のんびり言う春子。
「ちゃんと謝罪を受け入れるんだよ」
春子は笑いながら食材を並べる。
「ここは任せてあっちに行って」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私はリビングで夏美とのんびりとお茶を飲んでいた。
今日は面白くない一日だ。私の家に春子と夏美が止まりに来るなんて。兄さんと二人でいられるのは家だけなのに。
昔から私と兄さんが春子に家に泊まりに行くことは多かった。春子の家に泊まるに行くのは好きだった。春子はいつも私と兄さんと一緒に寝たがるからだ。そうなると布団を敷いて三人で寝る事になる。一晩中兄さんにくっつける。
「大きい犬だよねー。でも大人しい」
夏美はシロの頭を撫でている。シロは大人しく座って夏美の好きなように撫でられていた。
「お手」
シロはわうと吠えて夏美の差し出した手にお手をした。
「お座り」
シロは足を夏美の手からのけお座りした。
「拍手」
シロは後ろ足で器用に立ち上がり前足を何度か合わせた。残念ながら拍手みたいな音はしない。
「わーお。賢い」
夏美がシロの頭をなでる。付き合いの長い私にはシロが少し迷惑そうにしているのが分かる。と言ってもシロは春子の飼い犬だ。あの春子に飼われているのだ。忍耐力は折り紙つきだ。
「ねー梓。この子のなんていう名前なの?」
「シロよ」
「へ?」
夏美がぽかんとシロを見た。
「君ってシロちゃんっていうの?」
シロはそうだと言うようにワンとないてうなずいた。
「でも君黒くない?」
シュンとするシロ。確かにシロは真っ黒だ。
そんな事を話していると兄さんがお菓子の乗ったお盆を持ってリビングに来た。
「シロは二代目なんだよ。初代のシロが白い犬だったんだ」
兄さんはお菓子をテーブルに置きながらそう言った。
「おにーさん。突然押し掛けてすいません」
夏美は兄さんに頭を下げた。分かっているなら来るな。
「ぜんぜんいいよ。ゆっくりしていってね」
「ゆっくりしすぎた結果がこれだよ!」
「?」
私は兄さんと顔を合わせた。夏美は何を言っているのだろう。兄さんも不思議そうな顔をしている。シロだけは夏美を見つめた。何というか少し呆れたような感じ。
「うわっ!兄妹そろって同じ反応!?かなしー」
66 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/29(日) 00:05:47 ID:FzAfdehw
頭を抱えて大げさに嘆く夏美。意味不明。シロはドンマイと言うように前足を挙げた。
「夏美うるさい」
「梓冷たいよ」
ちょっとうっとうしい。春子が一人増えたみたいだ。春子みたいにうっとうしいのは一人でも十分だ。気のせいか、シロも全くだというようにワンとないた。苦労しているんだろうな。
「お兄さん」
夏美は立ち上がって兄さんの方を向いた。真剣な顔。
「今日は生意気言ってすいませんでした」
夏美は兄さんに深く頭を下げる。突然の事に私は目をぱちくりした。
「ハル先輩とお兄さんの事は二人の問題ですし、お兄さん自身はいつもハル先輩にやめるように言ってますし、私の傲慢でした」
私は合点がいった。夏美が今日来た目的は兄さんに謝りに来たのだろう。今日のお昼の事を気にしているのか。意外と繊細な子だ。兄さんは心が広いからそれぐらいの事を気にはしない。
「そんなに気にしなくていいよ。確かにこの年になって大勢の人前でべたべたするのは良くない事だし」
兄さんは穏やかに答えた。分かっているなら止めて欲しい。私の精神衛生上よろしくない。
「すいませんでした」
「僕は気にしてないから夏美ちゃんも気にしないで」
「はい」
顔を上げる夏美。ちょっとだけ安心した表情。なんか腹が立つ。
「いやー。良かったです。お兄さんに嫌われたと思いましたよ」
夏美は安心したように笑った。その笑顔がむかつく。兄さんに嫌われてしまえ。
「このシスコンにそんな根性ないわよ」
私は罵倒しつつも考えた。兄さんが夏美を嫌う事はないだろう。実際、気難しい私から見ても夏美はいい子だ。
「あずさー。お兄さんに厳しすぎだよ」
夏美は朗らかに笑った。夏美は隠しているつもりかもしれないが、兄さんに好意を抱いているのは丸分かりだ。
しかし私は何の心配もしていなかった。夏美が兄さんに告白しても、兄さんが受けるはずはないと確信していた。
兄さんが私に罪悪感を感じている限り、兄さんは私のものだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
晩御飯はローストビーフだった。ソースまで手作りの力作。シロも食卓のそばでドッグフードを食べいている。
「幸一君?どうかな?」
春子は僕に尋ねた。僕よりもはるかにうまい。僕は無言で食べた。いい牛肉だ。高いんだろうな。
四人と一匹ででたらふく食べた。
「ぷはーっ!ハル先輩ごちそうさまでした」
「お粗末さまです」
春子はにこにこしながらお皿を洗っている。僕がやると言っても聞かなかった。昔の事が脳裏に浮かぶ。家事を始めて間もない頃、二人でキッチンに並んで料理を教えてもらった日々。
「あーずーさーちゃーん!私のご飯どうだった?」
「…牛肉も悪くないわね」
そっけなく答える梓。僕の次にたくさん食べたくせに。
「何よ兄さん」
「何でもないよ」
僕は笑った。梓が不満そうな顔をする。最近、梓と何気ない会話が増えた気がする。
「ちょっとデザートにアイス買ってきます。みなさん何がいいですか?」
夏美ちゃんが立ち上がる。今日はちょっと寒いのに。まあいいけど。
「バニラ」
「私も」
春子と梓が答える。
「お兄さんは何がいいですか?」
「僕も行くよ」
夜に女の子が一人で歩くのは危ない。夏美ちゃんは驚いたようだがすぐに笑った。
「お願いしますねお兄さん」
「兄さん」
梓が睨む。
「襲っちゃだめよ」
「はいはい」
笑いながら僕と夏美ちゃんはリビングを出た。
シロが玄関まで見送ってくれた。気をつけてというようにワンとないた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
67 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/29(日) 00:07:54 ID:FzAfdehw
「ハル先輩の料理すごかったですね」
アイスを買った帰りに僕らはのんびり歩いていた。
「僕に料理を教えてくれた一人だから」
「昔から仲いいんすね」
朗らかに笑う夏美ちゃん。お昼のように不機嫌そうに言うことはない。
「お兄さん」
改まって夏美ちゃんが言う。
「あの日すいませんでした」
あの日。
「梓を背負って帰った時の事?」
「はい」
夏美ちゃんが謝る理由が分からない。
「あの時、お兄さんの涙を見て、私涙を拭こうと思ったんです」
ぽつりぽつりと言う夏美ちゃん。
「でもできませんでした。なんか恥ずかしくて」
夏美ちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「そう考えるとハル先輩ってすごいですよね。もしハル先輩がいたら涙拭くだけじゃなくて抱きしめますよ」
「ありがとう」
僕は言った。
「涙を拭こうと思ってくれたその気持ちだけでもうれしいよ」
そんな事を言ってくれた人はいなかった。本当なら年下の女の子にそんな事を言われるのは情けない限りだ。それでも不思議と温かい気持ちになれた。
「お兄さん」
夏美ちゃんは立ち止った。僕も立ち止まる。
「お兄さんの涙だけじゃなくて、苦しみも拭いたいんです」
僕は夏美ちゃんの顔を見た。真剣な眼差し。気持ちは嬉しかった。でも僕の答えは決まっていた。
「夏美ちゃん」
夏美ちゃんは少し緊張していた。
「気持はすごくうれしい。そんな事言ってくれたのは夏美ちゃんが初めてだ」
心がくすぐったい不思議な感覚。嬉しいのか恥ずかしいのか分からない。
「確かに僕は悩みがある。夏美ちゃんから見れば苦しんでいるように見えるのかもしれない。でも、それらは僕自身で解決しないといけない事だ」
梓に家事を押し付けていた事。そして梓が非行に走った事。僕は何も気がついていなかった事。その結果、梓は僕を嫌っていること。
これはすべて僕の責任だ。そして僕一人で解決しないといけない。
辛くないと言えば嘘になる。梓は僕を嫌ったままだ。家族に嫌われ続けるのは苦しい。
いつか昔のように仲の良い兄妹に戻りたい。それが無理でもせめて梓にゆるして欲しい。僕が願うのはそれだけだ。
「一つだけ聞かせてください」
夏美ちゃんは僕の顔を見上げながら言った。まっすぐな瞳。
「お兄さんの悩みが解決される事を、お兄さん自身は信じているのですか」
胸に鈍い痛みが走る。脳裏に冷めた梓の表情が浮かぶ。
僕の悩みが解決するという事は、梓と仲直りする事。
無意識のうちに目を背けていた考え。梓がゆるしてくれる日は本当に来るのだろうか。僕には来るとは思えない。一生、梓に嫌われるとしか思えない。
考えるだけで身が竦む恐ろしい未来。震えそうな自分を必死に抑えた。
「お兄さん」
両手に温かくて柔らかい感触。夏美ちゃんが僕の両手を握っていた。
「私はお兄さんの悩みが解決されると信じています」
真っすぐで澄んだ瞳が僕を見上げる。
「信じています」
夏美ちゃんの言葉が心にしみわたる。恐怖が薄らいでいく。
不思議な気持ちだ。夏美ちゃんは僕と梓の関係を何も知らないはずだ。仮に知っていたとしても何も関係ない。それなのに夏美ちゃんが信じると言ってくれただけで不思議と胸が軽くなる。
僕自身が信じたくても信じられない事を信じると言ってくれた夏美ちゃん。ふれる手の温かさが頑張れと勇気づけてくれるように感じる。
それが泣きたくなるほど嬉しい。
「…ありがとう」
僕はそっぽを向いた。梓ちゃんの顔を見るのが気恥ずかしかった。
「生意気なこと言ってすいません」
夏美ちゃんはそう言って笑った。
「お兄さんにもう一つ伝えたいことがあります」
「何?」
「私はお兄さんが好きです」
僕は夏美ちゃんの顔を見た。夏美ちゃんは顔を赤くして恥ずかしそうに笑った。
「でも、私のこの気持は、お兄さんを信じるのとは全く別です」
好きだから信じるのではない。信じるから好きなのではない。
68 三つの鎖7 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/11/29(日) 00:08:32 ID:FzAfdehw
あくまでも好きという気持ちと、信じるという気持ちは別。
「だから返事は今じゃなくていいです。むしろ今はいやです。なんだかお兄さんの涙に付け込む気がします」
まっすぐに僕を見る夏美ちゃん。
「本当は別の機会に気持ちを伝えたい方がいいと思いました。でも、私がお兄さんを好きな気持ちと、信じる気持ちは違う事だけ知ってほしかったのです」
夏美ちゃんは僕の事情には一切関係ない。僕と梓の問題は当事者二人の問題だ。
それでも僕は夏美ちゃんの言葉を嬉しく思った。僕が信じられない事を信じていると言ってくれた。
「ありがとう」
僕はそれだけ伝えた。夏美ちゃんは僕の手を握ったまま笑った。温かい笑顔。
夏美ちゃんが手を離そうと力を緩めたとき、僕は思わず握り返してしまった。夏美ちゃんが驚いたように僕を見る。
自分自身の行動に驚く。僕は何をやっているんだ。
すぐに手を離そうとしたら今度は夏美ちゃんが握り返してきた。赤くなった顔でそっぽを向く夏美ちゃん。
結局、家に着くまで僕らは手をつないだままだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最終更新:2009年12月15日 14:27