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三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:33:18 ID:eD5W3CBc
夏美ちゃんを家まで送った後、僕と春子は梓を探していた。
でたらめに探しても見つかるとは思えないので、春子の犬のシロに梓の匂いをたどらせている。シロが鼻をクンクンさせながら歩く後を僕たちは歩き続けた。
シロは賢いし鼻もきく。以前に僕が落とした携帯を探す事も出来た。もともとお金持ちの番犬としての訓練を受けていたらしい。何の因果か春子の家にいるけど。
脳裏に過去の光景が浮かぶ。まだ幼い僕と春子と梓。先代のシロも含めてかくれんぼをした日々。僕と梓がどれだけうまく隠れても春子はシロに頼んで僕たちを見つけた。
「梓ちゃんどこにいるのかな」
春子はつぶやいた。少し疲れているように見える。朝から探しているのだ。シロが励ますようにワンと鳴いた。
「分からない」
ひとりごとだったのかもしれないが僕は答えた。春子は大きくため息をついて肩を回した。相当疲労しているようだ。シロが心配そうに春子を見上げる。
視界に自販機を確認する。
「春子。ちょっと休憩しよう」
僕は自販機に駆け寄りスポーツドリンクとお茶を購入した。
スポーツドリンクを春子に放る。春子は受け取った。
「ありがとう幸一君」
おいしそうに口にする春子。僕も飲む。
「幸一君」
春子は僕を見た。
「梓ちゃんの事どう思っているの?」
真剣な瞳。
「僕にとって大切な妹だよ」
そう。梓は僕の大切な妹。例え何があっても。
春子は微笑んだ。
「私にとっても大切な妹だよ。そして幸一君は大切な弟」
かすかな頭痛。春子の白い体が脳裏に浮かぶ。僕に覆いかぶさり淫靡に微笑む春子。
「ふふ、そんなににらまないでよ」
春子はおかしそうに笑う。何がおかしいのか。
「そのうち教えてあげるよ。私が幸一君を襲った理由」
春子が僕の頬に手を伸ばす。僕は一歩下がって避けた。
「そのうち、ね」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
梓は私を冷たくにらんでいる。突然の事で頭が
真っ白になる。
何で梓が私の家にいるのか。鍵がかかっているのにどこから入ったのか。
梓の腕が私に伸びる。反転する視界。背中に衝撃。
「げほっ!」
床に背中から叩きつけられる。痛みに視界がにじむ。
痛い。投げられるのがこんなに痛いなんて。立ち上がることもままならない。
そのまま梓はもがく私を引きずった。
突き飛ばされ私は床を転がった。涙でにじむ視界に映るのは自分の部屋。昨日お兄さんと結ばれた場所。
「気分はどう?」
頭の皮が剥がされたような痛み。梓が私の髪をつかみひっぱる。
「つっ!やめてっ!」
頬に走る鋭い痛み。梓は私の頬を手加減なしに叩いた。
「そんな事聞いてないわ」
梓は私を見下ろす。瞳が暗い光を放つ。込められた壮絶な感情に悪寒が走る。
「私の兄さんと寝たんでしょ」
下腹部を容赦なく蹴られる。
「かはっ!」
痛い。蹴られた場所を抑えうずくまる。
「ねえ。どうなの」
梓の足が私の手を踏みつける。容赦なく体重をかけられている。痛みに声も出ない。
さらに下腹部を蹴られた。鈍い衝撃と鋭い痛みに息もできない。梓は執拗に私の下腹部を蹴った。
「ここに兄さんのを出してもらったの」
私は梓を見上げた。怒りと憎しみに燃える瞳。
「聞いてるの?」
私の手にかかる体重が消える。その次の瞬間、梓に突き飛ばされた。
床を転がる私に梓は馬乗りになった。
「何か言ったらどうなの!?」
梓の怒声に体が震える。
私の顔をつかむ梓の両手。そのまま梓の方に向きを変えさせられる。
8 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:35:37 ID:eD5W3CBc
「ねえ。どうだった?兄さんに犯されたんでしょ?気持ち良かった?嬉しかった?キスされた?さわられた?抱きしめられた?」
頬をつつむ梓の両手が熱い。瞳は怒りと嫉妬に燃え私を射抜く。
あまりの恐怖に声も出ない。
「何か言ったらどうなの!」
悲鳴ともつかない梓の怒鳴り声が私の部屋に響く。
私は言葉を発した。私の声はどうしようもなく震えていた。
「梓はお兄さんが好きなの?」
唇をかみしめる梓。頬を挟む梓の手が離れ私の頬を容赦なくはたく。頬に鋭い痛みが走る。
「うるさい。そんな事は聞いてない」
私は頭を横にふった。
「何でこんな事をするの?」
再び梓は私の頬を挟んだ。頬をつつむ梓の両手に力がこもる。
「夏美が兄さんを誘惑するからよ。兄さんは私のものなのに」
梓の瞳が暗く輝く。
「夏美に分かる?兄さんはずっと私のそばにいてくれた。ずっと私に優しくしてくれた。一時期そばにいてくれなかったこともあるけど、今はずっとそばにいてくれる。私が望むのはそれだけなの」
そう言って唇をかみしめる梓。
「なのに。夏美は奪うんだ。私の兄さんを奪うんだ」
私の顔をつかむ梓の手が震える。燃えるように熱い梓の両手。まるで梓の怒りの熱さ。
やっぱり、梓はお兄さんが好きなんだ。その気持ちをずっと隠していたんだ。
「梓はすごいよ」
私は自然にそう口にした。梓は虚を突かれたように私を見つめ返した。
「お兄さんの事がずっと好きだったのに、その気持ちをずっと隠すなんて。私にはできないよ」
「黙って」
下腹部に鈍い衝撃と痛みが走る。梓の膝が私の下腹部を蹴り飛ばした。
私はむせながらも言葉を紡いだ。
「私には無理だよ。好きって気持ちを伝えたらお兄さん困ると思った。お兄さんだけじゃなくて、梓やハル先輩とも気まずくなると思った。でも気持ちを抑えられなかったんだよ」
私の初恋。苦しくて切ない毎日。
梓の手が私の頬をはる。鋭い痛み。口の中が切れる感触。それでも私は言葉を紡いだ。
「お兄さんを好きになって毎日が不安で怖かった。今日は私の事を変に思われなかったかな、明日は会えるのかな、お兄さんは好きな人がいるのかな。そんな事ばかり考えていた」
好きな人の事を考えるだけで胸が締め付けられる。
「今も怖いよ。ハル先輩みたいな美人な人が幼馴染で、梓みたいな綺麗な妹と一緒に住んでいて。私なんかすぐに飽きて捨てられるんじゃないかってすごく不安だよ」
お兄さんはそんな人じゃないと分かっていても消えない不安。恋は人を積極的にするなんて嘘だ。私は怖くて仕方が無い。
「なのに梓は我慢して。お兄さんに迷惑をかけないように頑張って」
自分よりも相手を優先する気持ち。
私はお兄さんが好きだ。恋している。
でも、梓はきっとお兄さんを愛しているんだ。
「ごめんね。梓のお兄さんを好きになってごめんね」
私の頬を涙が伝う。
「それでもお兄さんを諦められなくてごめんね」
梓が何かを言おうとして口を開いた。
その時、ドアが開く音。
「梓!夏美ちゃん!」
私の好きな人の声。梓は唇をかみしめ私を放した。
足音が近づく。梓は背を向け私の部屋の窓から出て飛び降りた。
その直後、お兄さんが入ってきた。
「夏美ちゃん!」
お兄さんは私を抱き起こした。
「私は大丈夫です」
私は無理やりほほ笑んだ。喋ると口の中の切れた場所が痛む。お兄さんは私の頬にふれた。梓に叩かれた場所。
「梓だね」
違うと言おうとして言えなかった。お兄さんの瞳があまりに悲しそうで下手な嘘はつけなかった。
「ついさっきまで梓はここにいました」
私はお兄さんを見つめた。
「今なら間に合うはずです」
お兄さんは私に頭を下げた。
「ごめん」
私に背を向けお兄さんは部屋を出た。
「春子!シロを借りる!夏美ちゃんを頼む!」
足音が小さくなって、聞こえなくなった。
ハル先輩が入ってきた。心配そうに私を見つめる。
9 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:39:21 ID:eD5W3CBc
「夏美ちゃん立てる?」
私はうなずいて立ち上がった。お腹の痛みに足がふらつくのをハル先輩は支えてくれた。
梓は私に何て言おうとしたんだろう。それが気がかりだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕はシロを先導に走った。
近くに梓がいるせいか、シロは迷いなく走る。倉庫街に向かっているようだ。大きな倉庫がたくさんあるが、最近はあまり使用されていなくて寂れている。人気は少ない。
角を曲がってついに梓を見つけた。背を向けて走る小さな背中。
走りながら携帯を取り出し春子にメールを送る。倉庫街で梓を見つけたと。
梓は走るのが速いが、僕ほどではない。もうすぐ追いつく。
もう同じ過ちは繰り返さない。
僕は口を開いた。大切な妹の名前。
「梓!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
兄さんが私を呼ぶ声。
足を止め振り向いた。シロと一緒に兄さんがいる。
私を無表情に見つめる兄さんの瞳には苦悩と悲しみが渦巻いている。
兄さんは再び私を追ってくれている。なのに何でだろう。何でこんなに虚しいんだろう。
(梓はすごいね)
夏美の声が脳裏に蘇る。
(お兄さんの事がずっと好きだったのに、その気持ちをずっと隠すなんて。私にはできないよ)
違う。
(私には無理だよ。好きって気持ちを伝えたらお兄さん困ると思った。お兄さんだけじゃなくて、梓やハル先輩とも気まずくなると思った。でも気持ちを抑えられなかったんだよ)
私は単に怖かったんだ。兄さんを好きと言って、断られるのが怖かったんだ。好きなのに、断られるのが怖いから言えなかったんだ。
(お兄さんを好きになって毎日が不安で怖かった。今日は私の事を変に思われなかったかな、明日は会えるのかな、お兄さんは好きな人がいるのかな。そんな事ばかり考えていた)
私も同じ。毎日が不安だった。兄さんの罪悪感に付け込んで従わせても、兄さんの心は私に向いていない。
(今も怖いよ。ハル先輩みたいな美人な人が幼馴染で、梓みたいな綺麗な妹と一緒に住んでいて。私なんかすぐに飽きて捨てられるんじゃないかってすごく不安だよ)
兄さんにひどい事をして嫌われるのが怖かった。それでも兄さんをそばに置きたかった。だから毎日ひどい事をした。
(なのに梓は我慢して。お兄さんに迷惑をかけないように)
違う。我慢できなかった。だから毎日迷惑掛けた。
(ごめんね。梓のお兄さんを好きになってごめんね)
夏美は悪くない。人の気持ちを抑えられないのは私もよく知っている。私もそうだから。
(それでもお兄さんを諦められなくてごめんね)
私も諦められない。でも気持ちを伝える勇気も無い。私は兄さんに断られるのが怖くて、兄さんの勘違いに付け込んで私のそばに縛り付けた。ずっと現状維持を望んだ。
夏美は違った。この虚しくても温かい日常を捨ててでも、自分の気持ちを伝えた。正直な心のうちを兄さんにさらした。未熟でも身勝手でも、等身大の自分を好きな人に伝えた。
私はただ、兄さんの勘違いに付け込んだだけ。そして今、兄さんは勘違いに気がついただけ。
当然の結末。
でも。それでも兄さんを諦められない。
「兄さん」
愛しい兄さん。私をずっと見てくれた優しい兄さん。
兄さんは私の気持ちを何も知らなくて、私は兄さんに私の気持ちを伝えていない。だからこんな
歪な関係しか築けなかった。
今さら私の気持ちを伝えても何かが始まるとは思えない。それでも、伝えなければ何も変わらない。
伝いたい。兄さんに私の気持ちを知ってほしい。
私は兄さんを見つめた。兄さんは目をそらさない。
「お願い。私のそばにいて」
兄さんの瞳の色がかすかに揺れる。
「夏美と別れて。私のそばにいて」
ただ兄さんに縋りつき、騙し、傷つけた。私の歪んだ愛を包んでくれた兄さん。私は兄さんのそばにいたい。それだけが私の願い。
「兄さんが望むなら何でもする。もう兄さんが家事をしなくてもいい。兄さんが望むなら抱かれてもいい。兄さんのためなら何でもする」
兄さんは悲しそうに私を見る。哀れな妹を見つめる瞳。
そう。哀れな妹。女ではない。
「だからお願い。私のそばにいて。そばにいさせて。私だけを見て」
私の頬を涙が伝う。分かっていた。今さらだ。今さら遅すぎる。
「好き。兄さんが好き。愛してる。だから」
それ以上、私は言えなかった。私を見つめる兄さんがあまりに悲しそうだったから。
「梓」
私を見つめる兄さん。いつものように困って悲しそうな表情ではなく、悲哀に満ちた瞳。
10 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:42:23 ID:eD5W3CBc
「僕たちは兄妹だ。例え何があっても」
予想できた当然の結末。
兄さんは優しい。だからこそ、私の歪んだ願いは受け入れない。あるいは、昔からもっと素直になっていれば違っていたかもしれない。
結局、兄さんにとって私は妹でしかない。
すべては後の祭り。
「梓。帰ろう」
兄さんは私に手を差し伸べた。
あの手をつかめば、少なくとも妹として兄さんのそばにいられる。そうすれば昔のような関係に戻れるかもしれない。大好きな兄さんに甘える事の出来た日々。
私以外の女と一緒にいる兄さんを見守ることしかできない日々。
兄さんと夏美が男女の関係でいるのを見続ける日々。
お似合いの二人。誰もが祝福する恋人。
それを見る事しかできない日々。
嫌だ。私には耐えられない。
兄さん。ごめん。
私は兄さんに近づき腕をつかんだ。肘関節を極め、へし折るつもりで投げた。
軽い投げ応え。兄さんは極まった肘が緩む方向に自ら跳び逃げた。大きく転がり私と距離をとる兄さん。
兄さんは跳んだ勢いのまま立ち上がり構える。無表情に私を見つめる瞳が悲しみに染まる。
ごめん。馬鹿な妹でごめん。兄さんが他の女のものになるなんて、私には我慢できない。
私のものにならないなら、誰にも渡さない。
だから。
兄さんを殺して私も死ぬ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
梓は本気だ。
それほど梓の投げは危険だった。自分で跳んで逃げなければ僕の肘はへし折られただろう。
僕を見つめる梓。その顔は涙でぬれている。諦めと絶望が渦巻く瞳。
「梓。やめるんだ」
力なく首を振る梓。
「兄さん。ごめん」
僕の言葉は届かない。
「梓。帰ろう」
それでも僕は繰り返す。
「兄さん。馬鹿な妹でごめん。でもね、私耐えられない。兄さんが他の女と一緒にいるなんて、兄さんが私のものにならないなんてむりだよ」
梓は笑った。悲しい笑顔。
「だから。兄さんを殺して私も死ぬ」
梓は本気だ。
僕は覚悟を決めた。辺りに人気は無い。逃げるにしても今背中を向けるとやられる。携帯を取り出して連絡する暇などない。僕が梓を力ずくで止めるしかない。それ以外に方法は無い。
地面は硬いコンクリート。ガラスの破片が散乱している。古びたトラックの周辺に大量の空き瓶がある。誰かが遊び半分に割ったのだろう。
投げるのは絶対だめだ。コンクリートの地面に叩きつければ例え受け身をとっても怪我をする。ガラスで切る可能性もある。
既に僕の背中はガラスで切れて出血している。決して浅くはない。
地面に押さえつけるのも危険だ。ガラスで切れば怪我する。ガラスの破片は刃物より恐ろしい。
ならば方法は一つしかない。梓を絞め落とす。
梓は制服のカッターシャツだ。襟をつかむのは難しいし、つかんでも破れる可能性がある。
背後に回って腕で絞めるしかない。
頭は梓を取り押さえる方法を冷静に考えつつも、心には強烈な感情が渦巻いていた。
梓。そこまで追い詰められているのか。追い詰めたのは僕なのか。
僕が柔道に夢中だったせいで梓は荒れ、柔道をやめてから梓に柔道を強制され、今その柔道で梓を取り押さえようとしている。
ずっと嫌われていると思っていた妹の僕を求める悲痛な叫び。
何という皮肉。
僕の感情に関係なく梓は踏み込んできた。ガラスを踏みしめる音。
梓の拳が顔に迫る。僕は重心を崩さず避ける。容赦ない当て身。
僕は梓の肩に手を伸ばす。その手を梓は払う。
距離をとる僕と梓。
強い。僕よりもはるかに。
「幸一君!」
「お兄さん!」
僕の名を呼ぶ声。視線を向けない。そんな隙を見せる事は出来ない
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
11 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:45:04 ID:eD5W3CBc
私は一気に踏み込んだ。狙いは鼻。
兄さんの腕が動く。反応は早いが動きが遅い。私の掌底は兄さんの腕に払われつつも鼻の横を打った。
だけど、兄さんは微動だにしない。私の体重と腕力ではこの程度だ。
兄さんはひるまずに踏み込んでくる。しかし踏み込みが浅い。私は難なくさがり、伸びてくる腕を払った。
おかしい。兄さんの反応は早いけど、動くのは腕だけで、体が動いていない。上半身をねじれば避けられるのに。その結果、私の掌底は兄さんの顔を打つけど、急所を外れ効果が無い。兄さんの行動の理由を考え結論が出る。
「そうなの」
これは私への対処法だ。
私の投げる方法は二つしかない。一つは相手の急所を掌底で打ち、姿勢を崩した瞬間を狙う。どんな大の男でも姿勢を崩すことができれば投げられる。
だけど兄さんは私の掌底を必要最小限の動きで避ける。殴れても私の体重と体格だと威力はたいしたことない。結果、姿勢が崩れない。
私の投げるもう一つの方法は、相手の攻める勢いを利用して投げる。攻撃する瞬間が一番無防備。だから兄さんは大きく攻めてこない。私の疲労か隙を待っている。
「ねえ兄さん。私とこうなる事を予想していたの」
兄さんの瞳は揺れるが、動きに揺れは無い。それが何よりも雄弁に語る。
「予想してたんだ。私嬉しいよ」
嘘ではない。兄さんは私と勝負になった時に備え、対処法を考えてくれてたんだ。私の事を考えてくれてたんだ。それが嬉しい。
兄さんは強くなった。
私は本気で攻めているのに、ことごとくさばく。
常に上の者と稽古した結果だろう。自分より強い相手と勝負するのに慣れている。臆することが無い。それに私の体重では当て身に大した威力はでない。結局、素手の戦いは体重がある方が絶対に有利なのだ。
それでも兄さんは私の敵ではない。
わざと隙を見せ、兄さんの攻めを誘う。兄さんは動く。今までにない大きな踏み込み。
つかみにかかる兄さんの腕を抱え、腰を払う。受け身を取れないように抱きしめながら。
そのまま兄さんを頭から地面に叩きつけた。
何かが潰れる音がした。
兄さん。さよなら。
「幸一君!?」
「お兄さん!」
春子と夏美が顔を真っ青にして駆け寄ってくる。
仰向けに横たわる兄さん。頭から血を流しぴくりとも動かない。
「お兄さん、起きてください、お願いです」
夏美が涙で顔をぐちゃぐちゃにして兄さんを揺らす。
春子は真っ青になりながら震える手で携帯を開く。
「いや、いやです、お兄さん、お願いです、死なないで」
夏美の頬を際限なく涙が伝わる。
兄さんの頬を触る。まだ温かい。
これが私の行動の結果。
これが私の望んだ結末。
これで兄さんは誰のものにもならない。
脳裏に兄さんとの思い出が浮かぶ。
甘える私を優しくあやす兄さん。
私に手を差し伸べる兄さん。
私に料理を作ってくれる兄さん。
私の我儘に困る兄さん。
私に優しく微笑んでくれる兄さん。
頬に涙が伝う。もう兄さんは誰のものにもならないんだ。私のものにも。
私はガラスの破片を握った。指が切れ血が流れる。
最後は兄さんのそばで死のう。
そう思ってガラスを喉元に持っていこうとすると、誰かの手が私の腕を抑える。
大きくてごつごつした温かい手。
私の兄さんの手。
「幸一君!?動いちゃだめ!」
春子の叫び。
兄さんは私の指を優しくガラスの破片から離す。私はされるがまま。私の血で濡れたガラスの破片が地面に落ちた。
馬鹿だ。私の兄さんはどこまでお人好しなんだ。私は兄さんを殺そうとしたのに。それなのに。
兄さんの手が私の頬にふれる。温かい。優しく微笑む兄さん。そして眠るように目を閉じた。
兄さんの手が落ちる。
泣き叫ぶ夏美。
春子は兄さんの手首を握り、胸に耳をあてる。
何も触れていない私の手に、兄さんの温もりが残っている。
この温もりもいずれ消える。
当たり前の事実。
分かっていたのに。
12 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:47:43 ID:eD5W3CBc
それなのに嫌だと思ってしまった。
「やっぱりいやだよ」
私は救い難いばかだ。
兄さんが私を嫌いでもいい。私のそばにいなくてもいい。他の女と一緒にいてもいい。
だから。
死なないで。
救急車の来る音が遠くで聞こえた。
私は何もできずに突っ立っていた。兄さんの手の感触と温もりが頬と指に残っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
兄さんは救急車で病院に運ばれた。
結局、兄さんは無事だった。頭がい骨にひびがはいっただけですんだ。経過を見るため病院に一泊することになっただけ。他はすべて軽傷。
最初は信じられなかった。私は殺すつもりで投げた。それなのにこの程度で済んだのはありえない事だけど、結局はそういう事なのだろう。最初から私に兄さんを殺せるはずがなかったんだ。
私の両親には春子が説明した。なんて説明したのかは知らないけど、両親は何も聞いてこなかった。
病院の廊下で看護師の恰好をした京子さんとすれ違った。私にウインクをする京子さん。そういえばここは京子さんが勤めている病院だ。昔、私が傷つけた春子が入院した病院。今度は兄さんを入院させた。
夏美は兄さんの病室にいる。
春子と私は病院の外の公園のベンチに座った。
「梓ちゃん。お姉ちゃんは怒ってるよ」
春子は静かに言った。
「でも幸一君がゆるしてあげてと言ったから、お姉ちゃんからは怒らない。後で夏美ちゃんに謝って、幸一君とよく話し合う事」
シロは慰めるように私に体を擦り付けた。
春子はシロと帰った。シロは私を見てわんと吠えた。頑張れと励ますように。余計な御世話だ。
私は兄さんのいる病室に入った。夏美は兄さんの手を握りベッドに突っ伏していた。私がひっぱたいた頬が赤い。
兄さんの安らかな寝顔。あれだけの事があってなんでこんなに健やかに眠れるんだろう。
私は自分の手を見た。包帯の巻かれた手。ガラスを素手で握ったからだ。ガラスの破片を握った私の手を優しくほどく兄さんの指の温かい感触が残っている。
お互いの手を握り安らかに眠る兄さんと夏美を見ると、寂しく思うけど、仕方がないとも思う。もし私が兄さんの妹でなくても、兄さんは夏美を選んだとはっきり感じた。
私は二人をそのままにして病室を静かに出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
家には春子の料理が用意されていた。置き手紙にはゆっくり休んでよく考えるようにと書いてあった。また春子に迷惑をかけてしまったと思った。
一人で春子の作ったご飯を食べた。面倒くさいから温めなおさなかったのに、温かく感じた。
食後、部屋でずっとぼんやりしていた。兄さんは私の事をどう思っているだろう。
今回の事でさすがに嫌われたかもしれない。私は夏美を傷つけ、兄さんを殺そうとしたのだから。ずっと騙していたのも兄さんは気がついたかもしれない。
部屋にノック。兄さん?
「梓ちゃん。入るよ」
京子さんが入ってきた。
「春子ちゃんから話は聞いたよ」
苦笑いして私の隣に座る京子さん。
「すっきりした顔してるね。憑きものが落ちたみたい」
ずっと疑問に思っていた。私の両親は私の兄さんに対する気持ちに気が付いているのだろうか。特に京子さんは鋭い。
「お父さんは気がついてないけど、私は気がついてたよ」
私の疑問を感じたのか京子さんは言った。
「お父さんは梓の反抗期と思っているけど」
「お母さん知ってたんだ」
「だって梓ちゃん、恋する乙女の眼で幸一君を見ているんだもん。分かっちゃうよ」
京子さんはそう言って笑った。分かっていて放置していたのかこの人は。
「恋って他人に止められると逆に燃え上がっちゃうから」
私には分からない。
「幸一君とよく話し合うんだぞ」
京子さんはそう言って私の部屋を出て行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目が覚めた時、すでに9時を過ぎていた。
下に降りると京子さんの料理が用意されていた。久しぶりの義理の母の料理はおいしかった。
今日は学校に行く気になれなかった。兄さんと話したかった。
何時に帰ってくるんだろう。
13 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:51:58 ID:eD5W3CBc
そんな事を思いながら朝食を食べてからシャワーを浴びた。
兄さんが帰ってきたら何て言おう。まず謝らなくちゃ。
そんな事を考えながらリビングに戻ると兄さんがいた。
いつの間に。
私はその場に立ち尽くしてしまった。
「梓」
私に気がついた兄さんが声をかけた。いつもと変わらない優しい声。
頭に血が昇る。私は兄さんを無視してキッチンで牛乳を一気飲みした。私はばかだ。逃げちゃだめだ。
深呼吸してリビングに戻る。兄さんは困ったような顔をしていた。いつもの表情。怪我は大丈夫そうだ。
「梓。座って」
兄さんは座っているソファーの横をポンとたたいた。私は黙って従った。緊張して体がこわばる。何を言われるのかが怖い。
あれだけの事をしておいて、私は兄さんに嫌われるのが怖い。
私が座ると兄さんは立ち上がり、私の後ろに回った。
兄さんの手が私の髪にふれる。私はびくっと震えた。
そしてブラシで私の髪をといてくれた。
兄さんの手は優しくて温かい。
私は思い知った。私と兄さんはやっぱり兄妹だ。
兄さんも私とおなじ馬鹿だから。
「梓」
何も変わらない兄さんの声。
「謝らないといけない事がある」
違う。謝らないといけないのは私だ。なのに。そうなのに。声が出ない。
「あの日から、梓と向き合うのが怖くて仕方が無かった」
違う。あれは私がそう仕向けたんだ。
「だから僕はずっと逃げた。梓と向き合わずに家事に逃げたんだ。梓に苦労をかけたくないと自分に言い訳して」
私の髪をすく兄さんの手が温かい。兄さんが今どんな顔をしているのか、怖くて見られない。
「ずっと僕が家の家事をして、時々でいいから梓が手伝ってくれる。いつか梓がもう自分を責めないでと言ってくれる日を待つ。いつか梓がゆるしてくれる日を待っていた」
私は分かっていた。分かっていて付け込んだんだ。
「でも薄々と気がついていた。もしかしたら梓は僕の事を嫌っているわけではないのかもしれないって」
兄さんの手が離れる。温もりが消える。
「でも僕は怖くて梓に確認できなかった。違っていたらと思うと、行動できなかった」
私は振り向いた。兄さんの誠実な瞳。
「でも、僕のその臆病さが梓を苦しめた。結局、僕は自分に言い訳して梓に向き合おうとしなかった」
違う。兄さん違うよ。向き合おうとしなかったのは私も同じ。
「梓。本当にすまない」
兄さんは私に頭を下げた。違うのに。兄さんは何も悪くないのに。
「兄さんは馬鹿よ。悪いのは私なのに」
私は兄さんの頬にふれた。昨日、私がえぐった傷跡。
「なのに何でそんなに私に優しくするの」
頬にあてた私の手に兄さんの手が重なる。
「梓は僕の大切な妹だから」
兄さんは笑った。いつもの困った笑顔ではない。温かくて優しい笑顔。
「私は兄さんにひどい事をした」
気にしないでというかのように無言で首を横に振る兄さん。
兄さんの手が温かい。兄さんの手が私の目元をぬぐう。私は泣いていた。
「ひっく、だけどっ、ひっ、わたし、ぐすっ」
涙がとめどなくあふれる。
「今さら、ひっく、わたし、ぐすっ」
兄さんを好きになって。
兄さんを騙して。
兄さんを傷つけて。
今さら何も無かったように過ごすのは無理だ。兄さんがゆるしてくれても、私は私自身をゆるせない。
兄さんは小さく首をふった。
「梓も」
私の頭を優しくなでる兄さん。温かい手。
「自分をゆるして」
ごめんなさい。
「うわぁぁぁぁああ!」
私は兄さんに抱きついた。
「ひっく、兄さん、ぐすっ、ごめん、ごめんなさい、ひっく、ぐすっ、ううっ、あうっ、ぐすっ」
14 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:54:21 ID:eD5W3CBc
ごめんなさい。好きになってごめんなさい。諦められなくてごめんなさい。兄さんの妹でごめんなさい。
「ごめん。何も気がつけなくて」
兄さんは私を優しく抱きしめてくれた。温かい。兄さんの腕の中で、私はずっと泣き続けた。
私の願いは叶わなかった。兄さんにとって、私はあくまでも妹だった。
でもいい。
兄さんが望むならそれでいい。
この人の妹として生きよう。
兄さんが妹として愛してくれるのは私だけなんだ。
そのことに満足して生きていこう。
その後、私と兄さんは二人で登校した。
久しぶりに二人で学校までの道のりを歩いた。
誰もいない道を並んで歩いた。
はたから見た私たちはきっと普通の兄妹に見えただろう。
でもいい。それでいい。
それが兄さんの望みだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
遅れてきた私に奇異の視線が突き刺さる。遅刻したのは初めてだから仕方がないだろう。
夏美が私を見る。ちょっと怒っているように見える。
お昼休み、夏美が近づく。頬と唇には私が傷つけたあと。私は身構えた。
夏美が私に手を差し出す。そこにはお弁当。
「お弁当ないでしょ。一緒に食べよ」
私はまじまじと夏美を見た。そっぽを向いてちょっと恥ずかしそうな夏美。
「お兄さんがゆるしてあげてって言うから、私もゆるすよ」
兄さんが夏美を選んだのも仕方がないと思う。私だったら絶対にゆるせない。
私は弁当を受け取り、ふたを開いた。
おいしそうないい匂い。弁当から漂う匂いは、弁当から出てはいけない匂い。
クラス中の視線が突き刺さる。
「私の得意料理だよ。味わって食べてね」
夏美は誇らしげに胸を張る。
私はスプーンを、そう、スプーンを片手に一口食べた。腹立たしい事においしい。
「おいしいでしょ?」
夏美のカレーは確かにおいしい。
うれしそうににこにこしながら夏美もお弁当を開いた。中身は同じくカレー。夏美はおいしそうに食べる。
「いつもの普通のお弁当でもいいけど、仲直りの証に得意な料理を作ったよ」
私は決意した。夏美に他の料理を教えよう。兄さんにカレーばかり食べさせるわけにはいけない。
そして夏美に感謝した。
兄さんをよろしく。
胸の中で呟いて夏美のカレーを食べた。
辛いのに、少し苦く感じた。
15 三つの鎖 9 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2009/12/20(日) 02:56:15 ID:eD5W3CBc
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕と春子は生徒会準備室でお昼を過ごした。
春子は僕の分のお弁当を作ってくれていた。僕は手をつけず、黙っていた。
「変なものは入れてないから安心して食べて欲しいな」
春子は悲しそうに僕を見た。
「春子には感謝している」
嘘ではない。
小さい時から僕たちを助けてくれた春子。梓の事でも二度迷惑をかけた。
僕は春子を見る。悲しそうな表情。僕の胸に微かな痛みが走る
あの日の事が脳裏に浮かぶ。
「でも、春子が僕にした事を考えると、信用はできない」
春子は立ち上がり僕に手を伸ばす。僕は一歩下がり手を避けた。
「お姉ちゃん悲しいよ」
本当に悲しそうな春子。
「だったら何であんな事をした!」
思わず声が荒れる。
深呼吸して感情を鎮める。
「僕は春子に本当に感謝している。いつも僕と梓を助けてくれた。今回も助けてくれた。家族以外でいちばん身近な女の子は間違いなく春子だ」
でも。それでも。
「今は春子が何を考えているか分からない」
こんなに近くにいるのに、春子を遠く感じる。
物心ついたときからずっと一緒にいたのに。
今も一歩踏み出せば手が届く距離にいるのに、春子がどこにいるのか分からない。
「教えてあげる」
春子は悲しそうに言った。
「今日の夜、私の部屋に来て」
僕は春子をにらんだ。
「大丈夫。家にお母さんもいるから安心して。変な事はしないよ。幸一君も退院したばかりだしね」
行ってはいけない。僕の直感が警鐘を鳴らす。
それでも、逃げるわけにはいけない。
チャイムが鳴る。お昼休みは終わる。
最終更新:2010年01月11日 13:49