運命の先にあるもの ~Let_Love_be_Your_Destiny
「とある二人の七夕物語」のラストが
どうにも中途半端に思えたので、その続編ということで。
どうにも中途半端に思えたので、その続編ということで。
深遠の渕から、御坂美琴の意識がゆっくりと戻ってきた。
薄く目を開くと、まだぼんやりする視界に入ってきたのは、彼女の大好きな上条当麻の顔。
少し焦ったような、それでいて安心した優しい笑みを浮かべる彼の顔に、美琴は素直に微笑み返す。
まだふわふわとするような浮遊感に、彼女は自分が今、どこで何をしていたのか覚えがない。
ただ愛しい彼の腕に抱かれて、彼の顔をじっと見つめていることだけは分かっていた。
(あれ?私、まだ夢を……見てるのかな……?)
無言のまま、じっと自分を見つめる上条の瞳に魅入られて、彼女も同じように彼の瞳を見つめ返す。
上条の漆黒のように深く、微かに薄く青と茶が混じるような輝きに濡れた瞳が、彼女をぐっと引き込むような強い力でつかまえている。
(――当麻の睫毛、長いのね。それに目が優しい……。あ、当麻の瞳に、私、映ってる……)
思わずぽつりと漏らした呟き。
「――御坂美琴は、上条当麻が好き……」
彼の顔が、少し驚いているように見えた。
そんな彼の表情に、彼女はくすりと小さく笑みをこぼす。
夢だと思っている彼女は、その呟きを止めない。
「私、こんなにも当麻のことが好きなのにね。当麻は全然気付かないんだもの……」
「――俺も、美琴が好きだ。大好きだよ」
その言葉に、美琴は思わず手を伸ばし、上条の頬にそっと触れた。
掌から伝わる肌の感触が、彼女の心を蕩けさせる。
「――ずっと聞きたかったの、その言葉。これが夢でなかったら、どれだけ私は幸せになれるのかな……?」
「――ッ」
「――当麻、好きよ……大好き……愛してる」
「――美琴……」
「――私には、それだけあれば、何もいらない……」
「――美琴!」
「――だから今は一緒にいて欲しいの、当麻。せめて目が醒めるまで、一緒に……」
「――おい!美琴!しっかりしろ!大丈夫か……?」
「――って、え?えええぇ!?」
がばっと飛び起きて、周囲を見渡した彼女は、まだ何がなんだかわからないような顔をしていた。
そんな彼女を見て、上条はほっとした様子で、大きく息を吐く。
「え、私、何してた?」
「漏電させちまって、ごめん。ちょっと調子に乗ってやりすぎた……」
彼がとっさに出した右手のおかげで、部屋の家電への被害は、ほとんど無かった。
寮全体のブレーカーも一度は落ちたものの、すぐに自動復旧したようで、今は何の支障も起きていない。
すまなそうな顔で、上条が美琴の髪を、いとおしそうにそっと撫ぜている。
そんな彼の労わるような手つきは、彼女の気恥ずかしさを温かく包み込んでいた。
「ううん、私の方こそ、ごめん。それより私、さっき何を言って……うあああああぁぁぁぁぁ!!」
先程の自分の言葉を思い出し、急に恥ずかしくなった美琴は、彼に背中を向けて俯いた。
赤くなった顔を、両手で隠すようにして、細かく肩を震わせている。
上条は、そんな初心な反応をみせる彼女の様子がいじらしく感じられて、美琴の頭をわしゃわしゃと撫ぜながら言った。
「――俺だって、美琴とずっと一緒にいたいんだぞ」
そう言われた彼女の肩の震えが止まる。俯いたままの美琴の顔が、ゆっくりと上条のほうへ向く。
彼に撫でられると、彼女の中から、安心感と、幸福感が湧いて出て、ますます涙が零れそうになる。
上条の手で頭を撫ぜられたまま、彼女は潤んだ目を上目遣いにして、彼を見つめて言った。
「――ほんと?」
「ああ、ほんとさ。むしろずっと一緒にいてくれよ」
「――う、嬉しいよ。当麻ぁ……」
目じりに溜まる涙を拭きながら、美琴がぎこちなく笑っている。
上条は彼女のそんな仕草が可愛く思えて、ますます気持ちが惹かれていくのが分かった。
心の奥から、溢れ出る気持ちが抑えられなくて、彼は撫ぜていたその右手で、彼女の体を引き寄せると、その胸に抱き締めた。
「やっと……つかまえたぞ、美琴」
最初の内、彼の腕の中であたふたしていた彼女も、上条にそう耳元で囁かれた瞬間、ぴたっとその動きを止めると、おずおずと彼の背中へ腕を廻していく。
そうして美琴もその腕に力を込めると、彼の身体をきつく抱き締めた。
「私もよ、当麻。もう絶対逃がさないんだから」
自然と彼女の口からそんな言葉が零れ出た。
ぎゅっと抱き締められて、美琴はなんとも言えない温もりと安らぎを感じて目を瞑る。
上条の腕の中にいる時、彼女は自分の中の奥深いどこかで、小さくコトリと何かが動いたような感覚にとらわれた。
(あれ……もしかして、私……どこかで……)
先程、彼に指を舐められた時に溢れそうになった熱くどろりとした得体の知れない何かとは違う、ほんのり甘酸っぱいような小さなかけら。
一瞬だけ交わった道のどこかで出会った時に、記憶の彼方に置いてきたもの。
ひどく懐かしく思われるものの、彼女にはどこの何かは思い出せなかった。
それでも忘れずに、ずっと仕舞い込んできたそれは、2つとない大切な宝物であることだけが分かっていた。
「絶対に、逃がさねえし、離さねえ。――もう二度と……」
同時に上条の口から無意識に零れ出た言葉。
もう二度となんて、記憶を失った彼から出るはずのない言葉。
失われた脳細胞ではないどこかに、大切にしまってあった思いが、彼からその言葉を引き出していた。
「美琴……」
背中に廻された彼女の腕が、自分の身体をきつく締め付ける力を、彼は心地よく感じていた。
絶対に逃がさないと言われ、ますます自分の心が彼女にとらわれていくことが心地いい。
自分の心が誰かのものになるという感覚が、これほど甘美な幸福感をもたらすことを、彼は初めて知った。
(恋に落ちるって、こういうことなんだな……)
美琴の言葉と心が、自分の中へじんわりと染み込んで来るのを味わい、自分の言葉と心が、彼女の中へ染み込んでいくのを感じる。
ならば行き着く先が地獄であろうと、天国であろうと、彼女と一緒であれば、何も恐れることはない。
「美琴、大好きだ……」
同時に零れる言葉とため息が、2人を甘く包み込む。
頭の中がじんじんと痺れたようになり、2人の心と心が重なり合って1つになった。
「とう……ま……」
「みこ……と……」
気がつけば美琴が上条の顔を見上げている。
上条も美琴の顔をじっと見つめている。
視線と視線がねっとりと交差して、互いの思いを伝え合う。
美琴は胸の高鳴りを押さえられず、上条もまた、同じだった。
彼女の喉が、何かを飲み込んだかのように、小さく上下した。
上条の腕が、彼女の背中を支えるようにその体を抱えると、ゆっくり自分の方へ引き寄せていく。
美琴は彼の目から視線を逸らすことなく、背中にあった手を、彼のうなじへと廻している。
上条の顔が、ゆっくりと彼女の顔へ近付いていくと、美琴は静かに目を閉じた。
熱い吐息が僅かに感じられた瞬間、上条が美琴に、やさしく口付ける。
軽く触れるだけの滑らかな感触。
よくファーストキスは甘酸っぱいレモンの味と言うけれど、伝わってくるのは、くちびるの柔らかさと温み。
美琴は、これが上条の唇だと思っただけで、漏電と共にまた、気絶しそうになったが、それをぐっと押さえ込んだ時、自分の中で、何かが壊れてしまったような感覚に襲われた。
気を失う直前に感じた、彼女の中にどろりと溶け出したものが、その空洞へ流れ込むと同時に、再び彼女の中で形を成していく。
同時に彼女の胸の深い所にストンと落ちてきて、何もかもがすっきりと収まったような心地よさを感じていた。
それまでとは違う、新たな『自分だけの現実(パーソナル・リアリティ)』が美琴の中に再構築されたのだ。
彼女は自分の中に認めた莫大な感情が、その芯として自分を支えていることを、もう一度自覚していた。
(――ああ、私、こんなに……当麻のこと……愛していたんだ……)
くちびるが離れるまで、とてつもなく長い時間のように感じられたが、実際はほんの数秒だったのだろう。
上条も息を詰めていたようで、くちびるがはなれた瞬間、2人とも深く息を喘がせていた。
ほんの僅かな距離に、相手の息遣いを感じるだけで、お互いの感情がますます昂ぶっていくのがわかる。
交わした目線がくっきりと熱を帯びていき、潤んだ瞳が情欲の在りかを指し示す。
それでも初めてという恥じらいが、辛うじて2人をその欲望から引き離していた。
どちらからともなく、再びゆっくりとくちびるを重ねていく。
舌を絡ませるような深いそれでなく、くちびるで触れ合うだけの優しいキス。
上条も美琴も今は目を閉じて、口の辺りのふるふるとした感覚器官から伝わってくる、ひりつくような熱っぽさと、ふるふると崩れていきそうな、柔らかい感触を味わっている。
余分な力が抜けたように少し開いた唇が、敏感な粘膜を刺激するうち、少しずつ漏れ出した唾液の潤滑油がその快感を高めていく。
濡れて吸い付くような水音と高音。ときおり水が跳ねるような促音に、甘く漏れる吐息と喘ぎ。
彼とキスを重ねるたびに、美琴の中で新たな『自分だけの現実(パーソナル・リアリティ)』の再構築が次々と繰り返され、上条への愛が零れるように、その中へと注がれていく。
やがて彼女の愛は『自分だけの現実(パーソナル・リアリティ)』から溢れ出て、彼へと向かうと、それが呼び水のように上条の心の中からも、美琴への愛情が溢れ出てきた。
そうして2人は溢れ出る愛を分かち合うように、何度もその唇を貪り、重ね、吸い合うことで、十分にその欲求を満たしていた。
やがて一瞬にして燃え上がった2人の激情は、追加される燃料もなく、燃え尽きるように消えていく。
離れた唇の間に渡された、銀色に光る淫靡な糸の恥ずかしさが、火がつきそうな2人の情欲の導火線を引きちぎった。
美琴が目を潤ませて、恥ずかしさで赤くなった表情を隠すかのように、もう一度上条の胸に顔を埋める。
腕の中の彼女から漂う微かに甘い香りが、同じように赤い顔をした上条の鼻腔を痺れさせた。
その痺れを取り除くかのように、彼は何度も大きく息を吐く。
彼女も上条の胸に抱かれながら、彼と呼吸を合わせるように、気持ちを整えているようだ。
そこには先程までの燃え上がるような雰囲気は残らず、いつしか甘さとほろ苦さだけの落ち着いた空気に戻っていた。
やがて冷静になった2人には、身体に感じられる相手の体温と鼓動が、本当に懐かしく思われていた。
「記憶には残ってないのに、やっぱり心のどこかに残っていたんだな」
上条のその言葉に、美琴がはっと顔を上げて、彼の顔を見た。
「どういうことなの?それ……」
上条と美琴が、ここ学園都市で出会ったのは、2年前のこと。
それから1月ほどで彼は記憶を失い、彼女との思い出も全て無くした。
だからこそ、心に残るものという言葉を聞いたとき、僅かな期待と共に、思わず彼に問いかけた。
「もしかして、記憶を失う前の事?」
「いや、そうじゃないんだ。ごめんな」
「あ、ううん。気にしなくていいから……」
美琴が上条から離れるように体を起こすと、そっと彼の右手を両手で包むように握った。
もしかして上条に、記憶を失ったことを責めたように取られはしなかったかと思い、彼女は言葉を選ぶ。
こういう時、ちょっとした言葉の行き違いで、気まずくなるのは出来る限り避けたい。
お互い相手を思う気持ちが強いのは、これまでの付き合いでよくわかっているから。
「――ごめんね。責めてるわけじゃないの。自分でも分かっているんだけど……その、ごめんね」
少し後悔したような、それでいてわずかにどこか残念そうな表情をする美琴が、上条の胸を切なくさせる。
だからこそ彼は、持ち前の優しさを最大限に使うことで、真摯に彼女へ向き合うことを選んだ。
「ありがとう。大丈夫だよ、美琴。俺だって、同じ立場なら、同じように思うだろうし、大切な思い出は失いたくないってのも、よくわかるから」
「うん、ありがとう。やっぱり当麻は優しいのね」
「美琴は俺の大切な人だから、悲しませたくないってだけさ……」
「当麻だって私の大切な人だから、悲しんで欲しくないの……」
この2人のやり取りは、早くもバカップルの片鱗を表し始めたと言うべきか。
「――それで、さっきの心のどこかにってのは、どういう意味なの?」
美琴が散らかった部屋を片付けながら、上条に問いかける。
縫いかけの浴衣も、きちんと畳紙(たとうがみ)に仕舞いこんだ。
彼も試験勉強途中の参考書などを、一旦テーブルから片付ける。
そうして、上条が棚から取り出したのは雑誌サイズの大きな茶封筒だった。
「これ、見てくれよ」
彼が封筒の中身をテーブルの上へと取り出した。
その中から出てきたのは、大量の写真。
どの写真にも、全て上条の姿が写っている。が、写っている彼はどれも、幼い子供の姿をしていた。
ツンツンした髪型は今とあまり変わりが無さそうだが、顔は童顔で幼く、ちょうど幼稚園から小学生にかけての年頃だった。
「これ、写ってるの、全部当麻?」
「そうだ。全部、ここ(学園都市)に来る前の俺の写真、なんだそうだ」
そう言いながら美琴へと笑いかける。
「記憶の穴埋めにでもならないかと思って、少し母さんに送ってもらったんだけどさ」
何の心配もないよと言いたげな彼の表情に、一瞬どうしようか迷った美琴は、安心したように笑みを返しながら、写真に手を伸ばした。
「――見てもいいかな?」
「おう、遠慮しなくていいぞ。なにか気がついたことがあったら教えてくれ」
「うん」
上条も美琴も、学園都市に来たのは、小学校への入学時という早い時期からだ。
だから彼の入学前の写真は全て、実家の方に残っている。
「私も当麻も実家が近所だから、もしかしたら二人が一緒に写っている写真、あるかもね」
彼女の何気ない発言に、上条の目が泳いでいたことに、美琴は気が付かなかった。
美琴は1枚ずつ、ゆっくりとその写真に目を通していく。
髪型は今とあまり変わりがないようで、特徴的なつんつん頭は、幼少時からその存在を誇示するように、いつも彼と共にあった。
ただその写真に写る上条の表情は、幼い顔立ちの割りに、どこか影を帯びていて、仮面のような作られた笑顔が、彼女には痛々しく感じられた。
以前に彼から打ち明けられた、上条の幼少時に、彼の周りに起きた様々な出来事。
父から聞いたと彼は言っていたが、その内容に、美琴には大きなショックを受けたことがあった。
疫病神と呼ばれ、非難、中傷など様々な悪意を受けて過ごしてきた、幼少時の上条のことが悲しく、そして余りにいとおしくて、その時美琴は彼を抱き締めて涙した。
多分家族以外の者から、そのように涙を流されたことは今まで無かったのであろう。
人の不幸を背負い、自分が傷つくのを厭わなかった彼の本質は、ある意味寂しがり屋なのだ。
他人が彼の不幸に巻き込まれて、自分から離れていくことを度々経験していた彼にとって、どんな目に合おうとも、変わらず傍にいてくれる、そんな彼女のことを、大切な存在だと思うようになった。
それから少しずつ、彼は彼女に対し、鈍感と言う偽りの衣を脱いで、素の自分を見せるようになっていった。
この時、彼女が見ている写真に写った幼い少年は、そんな仮面の裏に深く傷ついた心を隠し持っていただけでなく、体にも多くの傷を負っていたのだ。
腕や足に包帯を巻いた痛々しい姿の写真も多く、中には車椅子に乗った写真もあった。
それだけで美琴は、上条の不幸体質といわれるその境遇が、並大抵のことではないことを、改めて実感すると共に、こんな年端も行かない子供に、過酷な経験を与えていた現実が我慢ならなかった。
この写真に写る子供が、その過酷な現実に負けていれば、今彼女の横にいる男は、ここにいなかったかもしれない。
そうなれば、自分もこうして彼との幸せな時間を過ごすこともなく、この街のどこかで屍をさらすことになっていたかもしれないと思うと、胸が苦しくなり、涙が零れてきた。
そんな彼女の様子に、上条はちょっと驚いたような顔をして、あわてたように気遣いを示す。
「――俺はちゃんとここにいるから」
その一言で、美琴の気持ちが救われたように楽になる。
この男は――、と彼女は思う。
答えが必要な時に、ちゃんとその答えを用意してくれている。鈍感だなんてとんでもない。
人を見て、時を見て、心を見ているからこそ、その力で洗いざらい全て救い上げることができる。
真っ直ぐな思いが支えるその力を振るい、自分が傷つくのを厭わずに、敵対する者さえも救っていくのだ。
「うん、そうね。当麻はちゃんとここにいるもの」
だから、いつも優しい彼の気遣いには、笑顔で報いよう。
「私と、一緒にいてくれて、ありがとう……」
彼には、笑顔こそが似つかわしい。
それに自分の笑顔も含まれるのなら、尚更だと彼女は思う。
「――好きよ、当麻。愛してる……」
そうしてもう一度、彼女は愛を込めてキスをする。
「実はまだ写真があるんだけどさ……」
そう言いながら、上条がもう1つ封筒を出してきた。
今度の彼は、なにやら子供のように、ワクワクした表情を見せるいたずら小僧のような顔になっていた。
上条がその封筒から取り出したのは、少し古ぼけたような2枚の写真。
「――これ、見つけちまったんだよ」
1枚目はそれは公園の遊具で遊んでいる、2人の幼い子供の写真だった。
美琴には、そこに写っていた人物に見覚えがあった。
つんつん頭をした幼い少年の隣に写る、ぴんとアホ毛を立てた少女。
幼稚園児ぐらいの少年より、さらに幼いその少女の顔は……。
「え?打ち止め?ううん、もっと小さいし……って、ええっ!?」
そこに写っていたのは紛れもない、御坂美琴の幼少時の姿だった。
「ほんとにあったんだ。写真……」
「見つけたときはさすがにびっくりしたぞ」
美琴はじっと、その写真に見入っている。
そこに写った2人の顔は、子供らしい明るく無邪気な表情をしている。
特に少年の方は、他の写真のように、どこか影のある表情でも、仮面のような笑いが張り付いた顔でもない、実に楽しげな顔だった。
「ね、この時の当麻って、楽しそうな顔して写ってるのね。他の写真とは全然違うじゃない」
「そうなんだよな。この時は本当に楽しかったんだと思うぞ」
もはや上条の記憶から失われてしまった彼の昔の姿。
それでも写真の中の少年の顔を見るだけで、その時の彼の心情が伝わってくるようだ。
本当に、その時の彼は、楽しくて、幸せな時を過ごしていたのだろう。
2人の間に何があったのか、美琴は自身の記憶を探ってみたが、全く思い出せなかった。
そもそも上条との記憶自体、学園都市で出会った時からのしか無いのだ。
「ごめん。私、全然覚えてないや……」
もしも記憶にあったなら、もっと早くに上条との繋がりを、得ることが出来たかもしれない。
彼女にはそれが、本当に残念に思えて仕方がなかった。
過去に互いの人生が交差したことがあったのなら、もっと素敵な関係を、もっと早くに結ぶことが出来たかもしれないと思い、彼女は肩を落としていた。
「そんな小さい時のことなんて、普通は誰も全く覚えていないんじゃねーのか?」
そんな美琴の落胆振りに、上条はぽんぽんと彼女の頭を撫ぜる。
「だから気にすんなって……」
「うん……」
笑顔を崩さず、上条は彼女の顔を窺っている。
「むしろ上条さん的には、こっちの写真を見て欲しいのですけど……」
そう言って彼が見せたもう一枚の写真。
そこに写っていたのは、小さな七夕飾りを持った幼い少女の姿と、その前に立つ、ずぶぬれになっている、同じくような幼い少年。そして彼がその手に持っているのは一枚の短冊。
少女の顔は今にも泣きそうな、それでいてどこか嬉しそうな顔をしていた。
彼女と一緒に写る少年は、照れたような、それでいてどこか幸せそうな笑顔をして、手に持った短冊を、目の前の少女に渡そうとしているように見えた。
もちろん、幼い少女は御坂美琴で、幼い少年は上条当麻なのは言うまでもない。
写真に写る幼い美琴の顔に浮かんだ表情から、彼女は昔の自分が何を思ったか、記憶の糸を手繰り寄せようとした。
その瞬間、美琴は、つい今しがた自分の中の奥深いどこかで、コトリと動いた何かを、はっきりと自覚する。
(――思い出した!そうだ私、あの時……)
それは恋とも言えないような、おそらくは幼い憧れか、あるいは一種のフラグのようなものか。
「そうだ、私、何があったかは覚えていないけど、この時から当麻のことが気になってたんだと思う」
記憶には残っていないが、その時感じたまだ幼かった美琴の想いは、ずっと彼女の心の奥に眠っていた。
「そうか、そうなんだ。記憶には残っていなくても、やっぱり想いみたいなのは残るんだな。ちょっと安心したよ」
そう言う上条の顔は、やはり何かを納得したような面持ちをしていた。
「ほんとにどうしたの、当麻。やっぱり何か隠してる」
美琴が心配するような顔つきになる。
だから上条はそれ以上、彼女を心配させないように、早々に白状することに決めた。
「実はこの写真、美鈴さんが送ってくれたんだけどさ、見た瞬間にわかっちまったんだ。
――俺の心のどこかに、ずっと美琴のことが残ってたってことがさ。
記憶の方は失っちまったけど、その時の自分の感情は失わずにいられた。
だから『妹達』の時に、俺はお前のことが心配になったし、本気でお前のことを失いたくないって思えたんだ。」
上条は、じっと美琴の瞳を見ながら言葉を繋いでいく。
揺るぎなく、淀みなく、そして迷いなく。
「――俺は、なんとしてもお前を助けたかったんだ。それは多分、美琴が俺の大切にしていたい居場所だと、思ってたからだと思う」
好きだとか愛してるとかいった、そんな甘い想いでなく、かつて孤独に苦しんだ者が、やっとの思いでたどり着いた結論。
だから上条は、全てきっぱりと彼女に白状する。
隠そうと思えば、隠しおおせたことでも、美琴には隠したくないと彼は思っていた。
大事なことだからこそ、大切な人を信じて、全て話そうと。
それが正解かどうかはわからない。
でも必要なことだと思ったからこそ、彼は何の迷いもなく、真っ直ぐに突き進む。
「俺はどうやら最初、お前と一緒にいることが、自分の幸せだと感じてたみたいなんだ。
美琴のことを好きになる前に、俺は自分の為に、自分の居場所を守るために、お前を助けたんだろうってさ。
こんな自分勝手な俺だけど、お前と一緒にいたい……んだと思う。
俺はこれからも、逃げこむ場所をお前に求めてしまうかもしれない。お前を傷つけてしまうかもしれない。
俺はお前と一緒なら、間違いなく幸せになれる。
だけど俺はお前を本当に幸せに出来るかは……正直わからない。
なぜなら多分、俺の不幸に巻き込んで、お前まで不幸になっちまうから。
お前、そうなっても俺と一緒に、いてくれるか?
俺と一緒に、たとえ地獄の底でもついてきてくれるか?」
上条の正直な告白が、美琴の胸を切なく抉る。
言葉の裏側にある、彼がこれまで生きてきた道程。
自分の周りのものに裏切られ、蔑まれ、悪意を突きつけられてきた少年が、心の底から求めていたものが、今、目の前にあるというのに、彼はそれを手にするのに躊躇うような、か弱く、儚い心の持ち主なのだ。
幸せを求めて求めて、ついにここまで来たにもかかわらず、最後まで求めきれずにいる、ヘタレで弱虫な彼が、こうしてやっとの思いで踏み出してきたその一歩が、美琴には切なくて、抱き締めたい気持ちで一杯になる。
彼は、自分だけが不幸を背負い込むことで、他人の幸せを守ろうとするような人間だ。
自分が誰かを助けることがあっても、誰かが自分を助けることはありえない、そんな悲しい幻想にとらわれてきた人間なのだ。
だから彼女は思う。そんな上条の幻想を、私がぶち殺してやらなければならない、と。
過ちては則ち改めるに憚ること勿れ、だ。
「当麻は……間違ってると思う」
「そうか。人を不幸にさせてまで、自分の幸せを求めるなん「それが間違いだっつてんの!」てこと、えっ?」
「――私はね、アンタが、当麻が幸せなら、それだけで幸せなの。
当麻が笑ってくれるなら、私も笑っていられる。
当麻が一緒にいてくれるなら、私は地獄の底だって怖くない。
むしろ、私がアンタのことを、地獄の底から引きずり上げてあげるから。
例え世界の全てが当麻の敵に回ったとしても、私は永遠に当麻の味方でいるの。
これまでも、そしてこれからも、当麻を傷つけるものから、絶対に守り抜くって決めてるの。
――御坂美琴は、上条当麻とその周りの世界を守るって誓っているのよ」
その時の美琴の姿に、上条はただぼうっと見惚れていた。
彼が知る、誰よりも雄々しく、誰よりも凛々しく、そして誰よりも美しい彼女の姿に、言葉もなくただ見惚れるだけだった。
「あのさ、ちょっと母さんに写真のこと、聞いてみるわね」
「お、おう……」
美琴は携帯を取り出すと、彼の傍を離れ、玄関先へ向かう。
上条はまだどこか、ぼうっと惚けたような表情のまま、黙って彼女の後姿を見送った。
彼女は胸が高鳴るのを感じながら、電話を掛けると、向こう側の反応を待つ。
やがて呼び出し音が数コール鳴った後、彼女が聞きなれた声が響いてきた。
「やっほー、美琴ちゃーん。いきなりどうしたの?電話なんて……」
美琴の母、御坂美鈴だ。
「もしもし、お母さん?写真のことでちょっと聞きたいんだけど……」
「何?当麻くんに送った写真のことかにゃーん?愛しの彼の部屋から掛けてるとか?もしかして今までお楽しみだった?うはっ、想像したら、ママ、興奮してきちゃった、なーんてね。いっひっひ……」
「うぐっ……」
相変わらず変に鋭いツッコミとテンションでもって、美琴を翻弄する。
そのツッコミが、どことなく番外個体を彷彿とさせるのが、DNAのルーツを感じさせる所以だ。
「それで彼といちゃいちゃしてたの?彼の腕に抱かれながらとか?いやーん、ママ、この年でおばあちゃんと呼ばれるなんて、複雑ぅー♪」
「い、いい加減にせんかぁ!このバカ母ァ!!」
「あっはっはっ。ほらほら、このくらいでカッカしないの。そんなんじゃ、当麻くんとの仲なんて、いつまでたっても進展しないわよ」
「カッカなんてしてないわよ。それに当麻とは、その……もう進展してるから……」
言いよどんだ美琴の言葉に、美鈴が電話の向こうで笑った気配がした。
「ふっふーん。まあ、詳しいことはまた今度、聞かせてもらうとして。で、あの写真のことだっけ……」
「そうそう、あの写真!一体あれ、どうしたのよ……」
話を上手く本題へと引き戻すことが出来たと思い、ほっと安心した美琴だったが、後日、美鈴から根掘り葉掘り聞かれる羽目になろうとは、夢にも思っていない。
「――私も詩菜さんに聞かれるまで、全く覚えてなかったんだけどね……」
美鈴の説明によれば、美琴が幼稚園の時、近所の公園で、上条と数回一緒に遊んだことがあったこと。
美琴が初めて作った七夕飾りを持って、その公園に行った時、短冊が風に飛ばされたのを、上条が池に飛び込んで、無事に拾い上げてくれたこと。
それからほんの数回、顔を会わせる程度で、2人の幼少時の邂逅は終わったこと。
「――と、言うことなのよ。」
「そうだったんだ。私まったく覚えてなかった」
「そんなの普通は覚えてないわよ。幼馴染っていうわけじゃなかったし、昔のことだからね」
「そうだけどさ。でもこればっかりは忘れたくなかった……かな」
「ね、美琴ちゃん。こんな言葉、知ってる?一度は偶然、二度は必然って……」
「――三度は奇跡、四度は運命、だっけ?」
「そう。それが運命だって分かるのは、それまでの積み重ねがあったからよ。大切なのは、これから先の未来であって、過去じゃないの。
運命なんて、より良い未来を作るための道具に過ぎないからね。今を大切に出来ない人には、運命なんて味方してくれない」
美鈴の声の調子が変わった。
「だから美琴ちゃん……」
友達のような親子から、娘を思う母親へと変化した美鈴から、愛情たっぷりのアドバイス。
「――当麻くんとの未来を大切したいと思うなら、これもその運命だってことを信じてなりふり構わず、とことん突き進んでしまいなさい。絶対に彼の手を離しちゃダメよ。ま、多分彼の方が離さないとは思うけどね」
「うん、大丈夫。絶対に離さない……」
「――それと詩菜さんからの伝言。当麻くんのこと、よろしくだって」
「ありがとう、お母さん。詩菜さんに伝えてもらえるかな……」
美琴は、いつも自分たちを思ってくれる親達へ、感謝の言葉を伝える。
気持ちは言葉にしないと伝わらない。
だからこそ彼女は、はっきりと、自分の気持ちを、そして覚悟を、誰にもわかるように言葉にしたのだった。
「――絶対に、当麻を幸せにしてみせるから、大丈夫ですって」
「ふぅーん。美琴ちゃん、なかなか言うじゃない……」
美鈴が電話の向こうでニヤニヤしているのが伝わってくる。
「――で、あんた達、籍だけでも入れとく?式は学校出てからでも遅くはないけどね」
「なっ!せせせ籍ってーー!?」
美鈴からの、唐突な言葉に美琴がどぎまぎする。
電話の向こうの彼女は、さしずめ猫科の獣が、哀れな獲物をいたぶるような感じでいるのだろう。
「美琴ちゃんも、16歳なんだし、当麻くんだって18歳でしょ。だからもういつでも結婚できるわよ」
「い、い、いやあのそのけ、結婚はまだ、はは、早いって……」
「ふっふーん?美琴ちゃん。『まだ』なのね。ならいつ頃ならいいのかにゃーん?」
「ううう……知らないっ!切るわよもう……」
「あっそうそう。パパ的には、当麻くんが娘さんをくださいって挨拶に来るよりも、美琴ちゃんが当麻くん連れて、私、この人と結婚しますって報告に来る方が、良いんだって……」
ぶちっと電話を切ると美琴は、はぁっと深く息を吐いた。
美鈴とのやり取りは、いつも美琴の方が一方的に翻弄されてしまい、最後までイニシアティブを美鈴に握られたままで終わる。
そうして美琴が隠そうとしていたことも、結局洗いざらい白状させられて、全て美鈴にばれてしまう。
「美鈴さん、なんだって?なんか母さんの名前も出てたようだけど」
「ん、アンタ達は腐れ縁みたいなモンだから、さっさと入籍でも何でも、とことん突き進んでしまいなさいだって」
ぶほっと上条が吹いた。
「みみみ、美琴サン。この年で結婚というのは、上条さん的にヒジョーにハードル高いんですケド……」
彼はあたふたとしていたが、それでもその目は、彼の中に何か据わったものがあるかのように真剣だった。
そんな上条の目に宿る光の向こうに、美琴は彼の本心と覚悟が見えたように思い、安心と信頼を覚えている。
だから将来へ向けて、今という時を、2人で着実に積み重ねていきたいと、彼に伝えようと決めた。
「あったりまえでしょ!私たちまだ学生じゃないのよ。やっと恋人になったばかりなんだからね」
「そうだよな。やらなきゃいけないことはたくさんあるし、もう少しいろいろ楽しみたいとも思うし」
「そうよ。ゴールへ向けて、一つ一つ片付けていきましょ」
「そうだな美琴。俺たち、何も急ぐことはないんだよな」
上条も美琴も、顔を見合わせて、笑顔になった。
今日一日で、2人はどれだけの笑顔を見せ合うことが出来るようになったのだろう。
「試験、終わったらさ。まずは夏休みの計画たてましょうよ」
「おう、いいぜ。海へでも行くか?」
「海!行きたい!行きたい!!連れてってくれるの?」
「インデックスや打ち止めたちも一緒にな」
「もちろんよ。私達だけってのも気が引けるもん。でも2人っきりの時間も作ってね、当麻」
「わかってるさ、美琴。なんなら面倒事は一方通行にでも押し付けちまえばいいよ」
打ち止めと番外固体、インデックスと妹達らに翻弄される最強超能力者の姿を想像して、2人は黒い笑みを浮かべている
テメェら、ブッ殺すという言葉が、どこかで聞こえたような気がしたが、気にしないことにした。
「なぁ、美琴。一度は偶然、二度は必然、三度は奇跡、四度は運命って聞いたけど、その先はなにか、わかるか?」
「愛、じゃないかしら。どんな運命にだって負けない愛ってあると思うから」
「じゃ、俺の右手でも、お前との愛は断ち切れなかった、ってことか?」
「ううん、むしろ当麻の右手のおかげで、私たちの愛が強まったんだと思うの」
美琴はそっと両手で、上条の右手を愛おしむように包み込む。
彼と彼女、そして多くの人を助けてきたこの右手のおかげで、2人はこうして、ここにいられるのだということが、美琴には感慨深く感じられた。
「あのね、当麻、聞いてくれる?」
「なんだ?美琴」
「実はさ、私、さっきのキスで『パーソナル・リアリティ』が変わっちゃったみたいなのね」
「――えっ!それは大丈夫……なのか?」
上条が心配そうに美琴の顔を覗き込む。
「うん、大丈夫、だと思う。むしろ能力の制御がしやすくなるとか、漏電も少なくなる感じがするの」
そう言って、上条を安心させるような明るい笑顔を見せる。
彼も彼女の笑顔を目にすると、ほっと安心したように笑った。
「私、当麻といろいろな経験をしたら、もっともっと新しい自分が見つけられそうな気がしてるわ。
キスだけで、『自分だけの現実』が変わっちゃうなんて、思いもしなかったけどさ。
もちろんそういうのだけじゃなくって、デートだったり、勉強だったり、もっといろんな思い出を作りたいなってね。
だから今年の夏は、今までとは違う、特別な夏にしたいなって思うの……」
そんな彼女からの提案に、上条も自分の気持ちを素直に伝えていく。
「俺だってそうだよ。美琴と一緒に、今回限りの特別な夏を過ごしたいってな」
「――それで、1つお願いがあるんだけど……」
急に頬を赤らめて俯いた美琴が、もじもじしながら、上目遣いで上条へと聞いてきた。
彼女に見つめられて、上条も何か察したように、頬を染める。
「当麻が試験、頑張ったらさ、ご褒美に、わ、私と、ひと夏の経験っての、どう……かな?」
「――み、美琴さん、大胆なお願いですこと……」
「私、当麻とは、たくさんたくさん愛し合いたいし、当麻のこと、もっともっと知りたいなって思ったの。とことん突き進んじゃえって母さんにも言われちゃったし……」
「えぇーーっ!?美鈴さんまで、何を言っちゃってくれるんですかぁぁーー!!」
「当麻になら私の全部、あげちゃってもいいって思ってる。だから、その、もらってくれると嬉しいかな」
「いや、健全な思春期男子高校生としちゃ、彼女とそういうのは、願ったり叶ったりですけどね……。
まぁ、そのことも試験終わったら、2人で考えようぜ。だから今はまず、期末試験に集中しませんのこと?」
上条が赤くなった笑顔で、美琴の身体を力強く抱き寄せる。
言葉で確かめられないものを、その手で確かめようとするかのように。
美琴も頬を赤く染めて、されるがままに彼の身体に寄り添った。
彼の腕の中で、自分と上条の心を重ね合わせるかのように。
期末試験が終われば、上条当麻の、高校生活最後の夏休みが始まる。
期末試験が終われば、御坂美琴の、高校生活最初の夏休みが始まる。
それは2人の人生でただ一度しかない、初めて恋人同士で過ごす、特別な夏の始まりを告げる。
「あのさ、美琴。1つ教えて欲しいんだけど」
「なあに?当麻」
「恋愛に赤点ってあるのか?」
「んー、恋はいつもぶっつけ本番だって言うけれど、私だって初めてだからわかんない。でも……
――もし赤点とったって、2人きりで追試と補習するから、何も心配いらないよね♪
~~ THE END ~~