何かのプロローグ 2
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
上条当麻が自室の風呂場に引きこもったその頃。常盤台の学生寮、その一室から深いため息が聞こえてきた。それこそまるでこの世の終わりのように。何か、抱えている重いモノから逃れようとする感じだ。
ため息をつくと幸せが逃げるとか、不幸がやってくるとか、そういう話がある。
が、この少女、御坂美琴にとってはそれはどうでもいいことだった。ため息もしていないのに不幸がやって来る人物なら身の回りにいる。特段気にすることもないだろう、と。
それ以上に、彼女の心情は不幸のどん底だった。ヤケである。どうにでもなれ、という思いもある。もうこれ以上不幸にはなれないだろう、と。投げやりな態度だ。
西洋風に整えられた、必要最低限のモノしか置かれていない室内。そこに美琴は一人。
大理石の床を叩く水音が反響する。耳を澄ますと鼻歌も聞こえる。多少なりともルームメイトに対して嫌味を思ってしまう。
が、すぐに思い直す。自分を責める。自分が嫌になる。それの繰り返しだ。
無意識に浴槽の扉に背を向けてしまう。
「なんで素直になれないんだろ……………」
自分の膝と膝の間に顔をうずめる。
現在地は彼女のベットの上。そこに体育座りをしている格好だ。目に自分の膝と、白いシーツ、たたまれた布団が見える。
帰ってきたままの格好だった。わざわざ着替える気にもなれない。お風呂に入る気にも。
制服のスカートがめくれる。太ももが露わになった。暖房特有の生暖かい空気に触れる。不快感を感じた。
が、スカートを直す気にもなれない。
感情が表に出ようとしている。理性という名の防壁にヒビが入る。そこから感情が漏れ出す。
目の前の景色が一瞬滲んだ。
素直。
その二文字。たった二文字が出来ない。普通に接することが出来ない。気持ちと裏腹の言葉、行動ばかりしてしまう。アイツを前にすると何を言っているのか分からなくなる。そして最後には電撃。その繰り返しだ。
超能力者?常盤台のエース??御坂様???超電磁砲????学園都市の頂点?????
それがどうした。
何も出来ないではないか。自分は無力だ。目の前の少年一人相手にするだけでこのザマだ。これでは超能力者もクソもへったくれもない。何と馬鹿げた代名詞の数々。
同級生に見せて上げたい。自分を様付けで呼ぶあの子たちに。高校生の男子一人も相手に出来ないこの自分を。訳の分からない感情に蝕れている自分を。心臓が高鳴り、自分の考えていることさえ分からなくなってしまうこんな自分を。
…………見せてやりたい。
彼女の心の内に渦巻く莫大なその感情。自身のパーソナルリアリティさえも簡単に打ち砕いてしまうその感情。その名前も、それが意味することも、それが何につながるのかも、美琴は知らない。気づけない。知るのが怖い。一歩を踏み出せない。何より、認めるのがイヤ、いや、嫌。
彼といると心が安らぐ。ポカポカする。居心地がよかった。心の中の痛み、重石、代名詞に彩られた画面を脱ぎ去り、ありのままでいることができた。一人の少女として。そこに。
心の底から安心できた。その場所に居たかった。隣に立っていたかった。彼が何処かに行こうとするなら付いて行きたかった。守りたかった。失いたくなかった。
アイツと話したい。一緒にいたい。
が、口から出て来る言葉は真逆のモノ。態度は邪険に。行動は電撃に。
素直になれない自分が嫌になる。
自己嫌悪。後悔。自分を責める。
その繰り返しだ。何度も、何度も。
負の連鎖に美琴は入り込んでいた。
これほどまでに無力感を感じたことはなかった。絶対能力進化実験のとき、あの地下街で引きとめられなかったとき。それ以上の無力感に苛まれる。
負の感情はため息となり口から出る。
「はぁぁぁぁぁ…………」
深い、深いため息。
そしてそれを心配する声が。
「………大丈夫ですの?? お姉様………」
白井黒子が何時の間にか後ろに立っていた。全く気がつけなかった。それこそ空間移動(テレポート)を使ったのではないか、というほどに。
風呂上がりだからか、頬は紅潮し、髪の毛に少し水気が残る。そのクセのある髪の毛をゆっくりと梳かしていた。
モコモコとしたピンクのフリースの寝巻き、肩の上に真っ白なタオルをかけている。
いきなり話しかけられたからか、ドキッとしてしまう。それを悟られないよう、言葉でごまかす。
「べ、別になんでもないわよ!!大丈夫だか……」
「上条さんの事ですの⁇」
「っ!!!!!」
息が詰まる。図星だった。相手に突き抜けだったことに驚く。心臓がドキンと跳ね上がる。口から出てきそうだった。ゴクリとつばを飲み込む。胸が苦しくなった。酸欠状態の金魚のように、パクパクと口を開ける。
一方、その様子を見た白井は、またか、と少し呆れてしまう。その様子に対しても、御坂美琴という一人の少女に対しても。
ここ二週間、彼女は毎日のように落ち込んでいる。夜にはその様子が顕著になる。朝には少し元気になり、放課後はどこかに出かけていく。そして帰って来るとこの調子だ。
落ち込み方はかつてあの夏に見たモノとは違う。疲労も、ツラさも感じられない。感じるモノは悩ましげな、そしてはかない何か。人類の根幹に位置し、人が一度は通るモノ。それらを内包した表情。
風紀委員(ジャッジメント)として、この学園都市の監視カメラにアクセスすることが多い彼女は、その落ち込む原因を知っている。
実にお姉さまらしいと思った。普段隠している美琴の表情を白井は知っている。中身はただの女の子だ。か弱い、普通の。
守りたい、補助したい、助けて上げたい。白井は思う。第三次世界大戦から帰ってきた時ような、の美琴の表情などもう見たくはなかった。
「ですから、何度も言いました通り、自分に素直になるしか………」
「分かってるわよ!!それぐらい………」
美琴の言葉。最初の強い語尾はしりすぼみとなる。声が小さくなっていった。
抱え込む膝をさらに自分に引き寄せる。顔を膝にうずめる。膝とおでこが重なった。かかとと太ももがくっつく。
自分の後ろを見たくなかった。
自分でもそれくらい分かっている。分かっているけど出来ないのだ。自覚している事を言われ、つい荒い口調になってしまう。自分を心配してくれた後輩に対して当たるなんて………
自分を攻める。嫌になる。
胸の奥が鋭く痛んだ。
「………ゴメン、黒子。アンタに当たっても何もないのに……せっかく心配してくれたのに………私ってダメだね………ホントに、ホントに……」
「…………………」
白井は何も言わない。否、何も言えない。口に出せない。
「何が超電磁砲よ………何が常盤台のエースよ……くっだらない!! ………何一つ出来やしない。たかが二文字の言葉が実践出来ない!! 何も……なぁんにも……出来ない……………ゴメンね、黒子」
「別に構いませんわ。お姉様の悩みは黒子の悩みでもありますから」
ニコッと、白井がやさしく微笑んだ。
笑顔でそう言ってくる白井に美琴は胸の奥が締め付けられる思いだった。こんないい後輩に当たってしまった自分を反省する。
「ねぇ、黒子。素直って、どうしたらいいのかな」
「自分の思った事をそのまま言うことですわね。上条さんはお姉様を対等な立場で接してくださるのですよね。なら、ありのままに。それが一番かと………」
「うん………」
白井の言っている事をそのまま実践できたらどれほどいい事か。超能力者としてのプライドも、何もかもをかなぐり捨ててありのままで。
上条が一人の女の子として美琴に接してくれるなら、美琴は一人の女の子としてそこにいたかった。上条の隣で笑っていたかった。ずっと。ずっと。
しばしの沈黙の後、美琴が言った。
「………私にできるかな?……」
「お姉様……お姉様に出来ない事など今までおありになりましたか?どんな困難でも打ち破るのが御坂美琴では無かったのですか?」
真剣な顔つきで白井が言った。
また沈黙が続く。
「………黒子、ちょっと一人で考えさせてくれない??」
「分かりました、お姉様。どうか自分の気持ちの整理をなさってくださいな」
そう言って白井は自分の首にかけてあったタオルを自分のベッドに放り投げた。柔らかい音を立ててタオルがベッドに落ちる。
白井は自分の机にゆっくり向かって行った。履いていたスリッパのパタパタという音が響く。
「ありがとう、黒子………」
小さな声で美琴はつぶやいた。
(………お姉様もご自分の気持ちを自覚なさればいいものを………)
そう思いながら白井は自分のノートパソコンを開いた。
学園都市の科学が二、三十年先を掌握していようが、ハードの形は中々変わるものではない。白井のそれも学園都市の「外」と形状はあまり変わっていなかった。
側面のスイッチを押してそれを起動させる。静かなモーター音と共に画面が明るくなった。
(そもそもあれで好きという感覚を認めないというのも…………まぁ、お姉様らしいというか………)
白井は美琴の気持ちをよく知る理解者の一人だった。美琴の性格が素直じゃないというのはとうに把握している。さっさと認めてしまえば楽になるものを、と思う。
しかし、これは美琴自身の問題なのだ。白井がそれを言ったところで解決にはなるまい。これは美琴本人が自分で気づかなければならない問題なのだ。白井に入り込む余地はない。自分にできるのはただ壁の外から応援する事のみ。これほどまでに無力感を味わった事は無かった。
白井自身、美琴に対して友達の一線をはるかに超えた感情を胸に抱いている。友達というにはあまりに重すぎ、器に入りきらない感情。そして、いま美琴の心の内にあるそれに近い感情。
それを白井は押し殺していた。
自分はお姉様を支え、助ける存在なのだ。そのお姉様の気持ちのベクトルが定まったのなら、自分は引かなければならない、と。そう心に決めて胸の内の感情を無理矢理押し殺していた。決して迷惑は掛けまい、と。心に誓って。
だが、いくら自分の気持ちを押し殺そうが、押し殺そうとした分だけ、またそれは強く跳ね上がってくる。そして、心の中の痛みは消える事はない。複雑な感情が彼女の心の中を駆け巡る。彼女もまた、美琴と同じように悩んで、苦しんでいたのだ。誰にも相談出来ずに。板挟みの状態になりながら日々を生きていた。
彼女がある意味、一番辛いのかもしれない。
白井の指がキーボードにおかれた。なめらかに指が動く。目線は画面に向けられたまま。画面が黒い文字で覆われていく。
彼女の所属する風紀委員(ジャッジメント)の報告書だった。画面上に次々と文章が作成されていく。
キーボードを叩く音だけが部屋を支配していた。お互いに何もしゃべる事はなかった。
「……黒子………」
どれくらいたっただろうか。
美琴が白井を呼んだ。その声に白井はキーボードを打つ手を止める。美琴の次の言葉を待った。
「ごめん、先に寝るね」
「別に構いませんわ。いい夢を、お姉様」
「うん……おやすみ、黒子……」
お互い目を合わせる事はなかった。白井は美琴の方を向かなかった。美琴がこちらを向いたかどうかは白井には分からない。
白井は美琴の悲しい顔を見たくなかった。自分の気持ちを押し殺した上で、そんな顔を見る事など出来なかった。一種の防衛本能なのかもしれない。
後ろでカサカサと乾いた音が聞こえた。布団がかけられる音だった。やがてそれはモゾモゾと動く音に変わり、そしてそれも聞こえなくなった。
白井は美琴がお風呂に入ってない事に気づいた。おそらく着替えてもいないだろう。だが、それを指摘できるほど白井は強くはなかった。
ノートパソコンを静かに閉じた。椅子から立ち上がり、壁際のスイッチまで歩いていく。電気が消された。部屋が暗闇に包まれた。
白井が振り向いた時、始めて白井の目に美琴の顔が映った。涙こそ流していなかったものの、何かに耐え忍んでいる顔だった。胸に痛みが走る。白井はそれをしばらく見つめていた。
部屋は完全な暗闇ではなかった。窓から月明かりが差し込んでいる。部屋の床をちょうど窓の形に光がくり抜いた。
白井は窓に近寄り、レースのカーテンをそっと開けた。窓に手を当てる。外の寒さを反映してそれは冷たかった。
窓から見えたのは第七学区の未来的な街並み。そしてそのビルの頂上付近に存在する月だった。上条と美琴が追いかけっこをしていたころ東の地平線にあった月は今は天頂と地平線の中間地点にまで上り詰めていた。
月は満月より少し欠けている状態だった。。左側が欠けているところを見るに明日か明後日が満月かな、と漠然と白井は思った。
漆黒だった空は月明かりに照らされて青白くなっていた。
月から窓ガラスに反射する自分に焦点をずらす。月が背景に、自分の姿が主人公となった。白井はしばらくその顔を見つめた。はかなさ?おぼろげ?言葉で表現できない何かがそこに写っていた。それでいながら、どこか芯を持っているような………
(まったく、私は何を考えているのやら………)
自分自身に呆れ、苦笑する。
やがて白井は窓から手を離し、カーテンを元に戻した。自分の机に戻る。人工的な暖かさが少し不気味に感じられた。机のスタンドをつける。部屋の一角だけが明るくなった。
ノートパソコンを開き、報告書の作成を続ける。幸い、就寝時刻まではまだ時間がある。今日中に終わらせなければ。明日の事と、頭にお花を載せた少女のことを考える。
手が動き始めた。なめらかに。
先ほどより静かに、部屋にタイピングの音が響いた。
結局、机のスタンドが光を失ったのは日付が変わってからだった。その頃には月は天頂より、冷たい空気に包まれた、静かな学園都市を照らしていた。
二人は引き合わない。
反発した磁石は、近くにあった、二人を慕う様々なモノを傷つける。
誰も報われない。
誰も幸せではない。
いつの日か、二人が結ばれるまで。
この話は終わらない。
ーーーーーーーendーーーーーーーー