舞い落ちる雪のように Adieu_l'Hiver.
学園都市の空から、静かに雪が降る。
二月某日。
上条は傘を差し、スーパーから寮への帰り道を一人歩いていた。片手に学生鞄とビニール袋をぶら下げているので少々重い。
この道を二つ曲がった先に少し大きめの公園がある。特に用事はないのだが、雪に誘われるように上条の足は自然とそこへ向かった。
「さすがに誰もいねえか……」
無人の公園の入り口で上条は佇む。
降り始めたばかりの雪ははらはらと地面に落ち、あっと言う間に溶けてゆく。この調子では積もるにはもう少し時間がかかるだろう。そう言えば去年の今頃は記録的な豪雪で、公園を分けての一大雪合戦に勤しんだことも今では懐かしく思える。
懐かしく思える過去があることを喜びつつ、上条の胸は少しだけ痛む。今はここにいない少女のことを思うとじくり、と胸の奥がきしむような気がした。
「そう言えばアイツもここにいたんだよな……」
傘を差し、降り続ける雪の中上条は一人佇む。
瞳を閉じれば去年の大雪のあの日に戻れるような、そんな気がして。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……うへー、寒みぃ。こんな日はとっととうちに帰ってコタツで丸くなるに限るよな」
学校帰りの上条当麻の傘に、肩に、つま先に白く雪が積もっていく。歩く速度よりも雪の降るペースの方が早いのか、払っても払っても雪が積もる。うー手が冷てえと思いながら肩先の雪を払い、上条は白く染まっていく街を歩いていた。
人通りの少ない路上にも雪が積もり、気をつけないと転んじまうなそれでなくとも不幸体質なんだからきっと何もしないでも転んじまうぞと、上条は足元の雪を慎重に踏みしめる。
上条の住む寮の近所には少し大きめの公園がある。ブランコと平均台と砂場とジャングルジムとベンチが備えられたどこにでもありそうな公園だ。中高生ばかりの第七学区でこんな遊具を用意した公園って何か意味があるのかと思ったら、どうもよその学区の小学生達が遊び場を求めて時折遠征するらしく、そこに子供の姿が絶えることはなかった。これだけ雪が降ってたらさすがにガキ共もいないだろうとのぞいてみたら、そこでは公園を二分して今まさに雪合戦の真っ最中だった。
おーおーガキ共は元気で良いねえと感心しつつ立ち去ろうとしたところで、どうも見覚えのある常盤台中学の制服を着た奴が雪合戦の面子に混じってるような気がした。とりあえずあれは目の錯覚と言うことにして上条は踵を返すと、背後から雪玉と一緒に
「そこっ! こら待ちなさいよ! アンタ私がいるのに気づいてるくせに見て見ぬふりすんじゃないわよっ!!」
これまた聞き覚えのある声が飛んできた。上条は後頭部にぶつけられた雪を払いつつ
「ビリビリ……お前小学生に混じってこんなとこで何やってんだ?」
「雪合戦に決まってんでしょ! アンタも手伝いなさい! それから私の名前は御坂美琴! わざとらしくビリビリで済まそうとすんなっ!」
上条は、子供達と一緒に雪合戦に興じる御坂美琴が幻ではないことにげんなりした。
美琴からの二発目の雪玉を避けながら、
「ビリビリ、お前が雪玉を投げる相手はその雪壁の向こうであって俺じゃないだろ?」
「だからアンタ、……きゃっ! 暇なら! 手を貸しなさい、よっ!」
上条はえー何で俺が、と応戦する間に美琴は雪玉を作っては投げ、作っては投げを繰り返す。美琴の傍らには放り出された学生鞄があるが、降り積もる雪をかぶってそろそろ実体が見えなくなりそうだ。
「……手伝えって、どういうことだよ?」
「この子達と雪合戦してたんだけど、向こうの陣地の子達が応援呼んできて、人数に差がついちゃったの。人海戦術で押してくるなんてフェアじゃないわよこんなの!」
ほらあっち見て、と美琴が指差す先を見ると
「……何だありゃ、プチスキルアウトか?」
雪壁の向こうに、十把一絡げで小学生達が群れを成していた。その数およそ三〇人前後。その中にはもしもし貴方達ランドセルを背負っていたのは何年前ですかと聞きたくなるようなやけに大柄な『子供』も混じっている。対する美琴側の陣地は、美琴を含めて一〇人前後。多勢に無勢という言葉がぴったり来る。無数に飛んでくる雪玉を避けるべく、慌てて上条が雪壁の影に頭を引っ込めた。
「ツンツン頭のにーちゃん、助けてくれよー!」
「このままじゃ七小の奴らに縄張り取られちまうんだ」
「このアバズレ短パンね―ちゃんが手伝ってくれてんだけどまだ手が足りねーんだよ」
アバズレ言うなっ! と叫びながら美琴がせっせと反対側の陣地へ雪玉を放り込む。
上条は寡兵で大軍に挑む子供達を見て
「……そうだな、昔から『義を見てせざるは勇なきなり』って言うしな。弱きを助け強きをくじく、ここは上条当麻様に任せろ!」
上条は学ランを脱ぎ捨て、傘を放り投げると雪が降るにもかかわらずグイッと腕まくりをした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
冬至をとっくに過ぎたとはいえ、この時期は未だ日が落ちるのが早い。辺りが暗くなってきたのを機に子供達は一人二人と帰っていき、公園には上条と美琴の二人が残された。
雪合戦は七小の奴らと呼ばれていた集団に対し上条と美琴側の小学生達が善戦し、時間切れの引き分けで終わった。能力者の街の雪合戦ともなれば暴風雪だの雹を降らしたり挙げ句の果てには足元の雪を踏み固めて摩擦係数を下げその上を滑ってドップラー効果で『どうだこれが分身の術!』などとと言ったえげつない戦術が採られるのかと思ったが、さにあらず子供達は正々堂々雪玉のみで戦った。たかが雪合戦でそこまで大人げない手段を使うのはとある高校の生徒達だけで十分だ。
最後の子供が帰るのを手を振って見送って、上条は美琴に向き直る。
「あのな、今だから言うけど。……お前何時から子供達に混じって遊んでたんだ?」
「うーん……学校終わって、この辺ぶらぶらしてたらあの子達が雪合戦してたからそれに混じって……」
それってつまりほぼ学校終わった直後って事じゃねーかと、上条はおでこに手をやった。いい歳して雪合戦に夢中になってるお嬢様ってどんなだよと考えると頭が痛くなってくる。
「それと、ここってお前の住んでる寮から結構離れてるはずなんだが。お前こんなところで何やってたんだ?」
「えっと……それは……何だって良いでしょ! たまたまここを通りがかったらあの子達が不利な人数で雪合戦してたから手伝ってあげたの。人数差で負けちゃうなんて悔しいじゃない。……悪い?」
「別に悪くはないけどさ……」
だからって何でそこで逆ギレすんの? と上条は問い質したくなるのを堪え、雪に埋もれた学生鞄と傘を引っ張り出して
「ほれ、お前の鞄と……あれ、お前上着びしょ濡れじゃねーか。何時間雪合戦したらそうなるんだよ」
雪にまみれて色が濃いベージュに変わった美琴のブレザーを指差す。
「あん? ……ああ、これは私の体温が高いから降りかかった雪が片っ端から溶けてこうなっちゃっただけよ」
「体温が高い?」
趣味も思考も子供みたいだけど体温まで子供並みかよと上条が変に感心していると
「私、体内電気をいじって体だけあったかくなれんのよ。だからこれだけ雪が降っても寒くはないんだけど、服に伝わった熱で触れた雪がどんどん溶けちゃうってわけ」
美琴が種明かしをしてみせる。
「だからって、その制服が今ここで乾かせるってわけでもないだろ? その格好のままで歩いてたらみんながびっくりするから、俺の部屋に寄ってけ。すぐそこだし一時間もあれば多少は乾くだろ」
「え? いやだから私は別に……黒子を呼べばこんなのは」
「髪も濡れてっから、タオルくらいは貸してやる。いくら体内電気を操れるっつったって、風邪引かねえ保証はないんだろ?」
ほら来いよ、と顎をしゃくって上条は先を歩き出す。いやあのちょっと待って人の話を聞きなさいよとわめきながら美琴が後に続いた。
「ほれ、んなとこ突っ立ってねえで上がれよ。散らかってっけど足の踏み場くらいはあるぞ?」
「……う、うん。お邪魔します……」
何やら玄関口でもじもじしている美琴に部屋にとっとと上がるよう薦めると、上条は戸棚を漁ってタオルを引っ張り出し美琴の頭にかぶせた。
「その上着貸せ。ハンガーに引っかけて干せばちったあマシになるだろ」
もたもたすんなと美琴からブレザーを奪うように脱がせ、ハンガーに掛けて窓際に干すとエアコンのスイッチを入れる。あれそう言えばインデックスがいないなどこ行ったんだアイツと思いながら、洋服掛けからパーカーを外して美琴の肩にかけた。
「乾くまで代わりにそれ着とけ。靴下も干すなら脱いどけよ?」
「……うん。ありがと……」
「そこにコタツがあるから座れよ。……何飲む? 緑茶とココアが用意できっけど」
「……じゃあ、ココア」
「ほい、了解」
上条はヤカンに水を入れ、ガスコンロのつまみをひねる。流れるような上条の一連の作業に言葉もないまま、美琴はコタツに足を入れ頭にかけられたタオルで髪を拭いた。
「……何かやけにおとなしいけど、お前疲れてんの? 結構長い時間遊んでたみたいだけど」
俺が公園に来て一時間弱だからお前どんくらいあそこにいたんだよ、と台所から上条が美琴に尋ねる。
「……、そうかもね」
心ここにあらずといった調子で美琴が答える。それでいて何だかそわそわしているような落ち着きのなさを伺わせている。
しばらくして、上条の背後でヤカンがピーッと鳴った。
「あ、ココアだったら私が入れる。お台所貸して」
部屋に響き渡る甲高い音に、美琴が弾かれたように立ち上がる。
「? お客さんにやらせんのも何だけど……まあお前がやりたいって言うなら良いか。ココアと砂糖はそこの棚の中。マグカップはその隣に入ってる」
美琴と場所を入れ替えながら、上条は必要そうなものが入ってる場所を教える。
「ああ、あとお鍋貸して。牛乳ある?」
「鍋? 何に使うのか知んねーけど、鍋なら流しの下にあるぞ。冷蔵庫はお前の後ろ」
美琴は冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋に少量注ぐと砂糖とココアの粉を落として溶かし始めた。俺がココア淹れるのと全然やり方が違うなと美琴のやり方を見ていると
「……じ、じろじろ見んじゃないわよ。……そんなに珍しい?」
「ココアってそうやって淹れんのか。俺いつもお湯を直接注いでたから」
「まぁ、味がそんなに変わるわけじゃないけどね。気分の問題よ」
美琴はさらに牛乳を注いでかき混ぜると、沸騰直前で火を止めて二つのマグカップにココアを注ぎ、一つを上条に渡した。
「はい、お待たせ。……味は保証しないわよ」
「…………へえ、うまいな」
淹れ方を変えるだけで安物でもそれっぽくなるんだなと感心しつつ、上条はココアを一口啜る。上条の様子を横目でちらちら伺いながら、美琴もココアを口に含んだ。
沈黙と空白が手を取って踊る部屋の中で、何も言わず上条と美琴はココアを飲む。いつもなら放っておいても美琴が勝手に喋ってくれるのにちっとも口を開かないなんて何だかなあと思いつつ、上条は気になったことを聞く事にした。
「そういやお前、ブレザーは結構濡れてたけどその下のブラウスは大丈夫なのか?」
その言葉で、美琴が羽織ったパーカーの前をガバッと合わせて上条を睨む。
「だ、だ、だだだ大丈夫よ! ……、こっち見んな、馬鹿」
好奇心の強そうな美琴をうちに連れてきたら突然家捜しを始めたりアルバム持って来いとか言いそうなのに今日はやけにおとなしいというかビクビクしてるよなコイツ、と思いながら上条は美琴をちらりと見る。上条と目が合うたびに美琴はすっと視線を外してしまうので、話のきっかけも掴めないまま時間だけが過ぎていく。
ここで上条は、一つの可能性に思い当たった。
「ああ、そっか。お前何かおとなしいと思ったら寒いのか」
「…………はい?」
「コタツに足突っ込んでりゃあったかいだろと思ってたけど、俺のパーカーかぶってても確かにそのまんまじゃ寒いよな。だったら毛布使えよ」
上条は立ち上がると白いシスターに占拠されているベッドから毛布を引き抜き、美琴にかぶせた。手を伸ばしてブラウスの襟に触れるとやや湿っぽい感じが指先に残る。
「お前やっぱりブラウス湿っぽいじゃねえか。寒いなら寒いってそう言えよ。馬鹿だな」
「なっ!? ばっ、馬鹿はアンタでしょ! アンタだってシャツの上から雪かぶってそのまんまじゃない。アンタの方がよっぽど寒いんだから毛布はアンタが使いなさいよ」
「あー、そう言えば俺もシャツが濡れたまんまだった。んじゃ着替えるか」
コタツに座り込んだままぷちぷちとYシャツのボタンを外していくと
「ちょ、ちょ、ちょっと! 何でアンタ人の目の前で着替えんのよ!」
「何って、ここ俺の部屋だけど……?」
美琴が何やらヒステリックに叫び出したので、上条は仕方なく玄関の前で湿ったYシャツを脱ぎ洗濯機の中へ放り込んだ。
部屋に戻ってきた上条に、美琴が毛布をグッと突き出す。
「アンタそんな薄着じゃ寒いでしょ。私は平気だからアンタが毛布かぶんなさい」
「っつーても、御坂もブラウス湿ってて寒いだろ。うちは毛布それ一枚しかないしなあ」
インデックスにベッドを取られ、バスタブで寝ている上条に毛布の割り当てはない。仕方がないので冬場は夏掛けのタオルケットを追加して寝ているという、上条家は家主でありながら家主が追いやられているわびしい現状だ。
「毛布は一つしかなくて、コタツだと背中は暖かくならない。でお前も俺もちっと寒い。と言うことで御坂、毛布半分貸せ」
「い、いいいいやそうじゃなくてだからね、この毛布はアンタが使いなさいよ。もともとアンタのものなんだし、私はほら体内電気をいじれば」
「俺そっち行くから隣少し開けろ」
「だから人の話を聞けっ!」
上条は美琴の言葉を聞き流すと、美琴の隣に座り美琴の肩から毛布の端をつまんで自分の肩に引っかけた。ちょうど一枚の毛布に二人でくるまっているような状態に
「おー、これは大発見。お前の体ポカポカあったかいしこれって熱効率が……御坂? 何でお前すき間開けようとしてんの? 毛布は伸びねえしそんなんじゃ寒いだろ」
「う、うるさいわね! 毛布はアンタのもんなんだからアンタが使えって言ってんでしょ?」
「けどお前、さっきからブルブル震えてるじゃねえか。もっとこっち来いって」
上条は美琴の肩に手を回し、美琴を自分の方へ引き寄せた。
「よし。これで俺もお前もあったかい。完璧だな」
「………………………………な、な、何が完璧よ。わっ、私は、私は別にアンタのことなんか……」
美琴が急に不機嫌になってぶつぶつ言い出したけどまだ寒いのかどうすりゃこのお嬢様は納得するんだよ、と心の中で上条が不平たらたら考えていると、隣からパチパチと至近距離で絶対に聞きたくない音が耳に飛び込んできた。
「ちょっ? み、御坂? お前何かパチパチ言い始めてるけどこれってお前が意図的にやってんじゃないのか?」
「うう……」
「唸ってないで放電を止めろ馬鹿! こんな至近距離でビリビリされたら毛布ごと黒こげになっちまうだろうが!」
上条の叫びが耳に入らないのか、美琴はふにゃーと小さく何事かを漏らしたまま額の前で青白い火花を踊らせる。上条は毛布の端を掴んでいた右手を離し、細い腰に手を回して美琴を抱き寄せ、火花が別の何かに飛び移る前にその閃きを打ち消した。
「……あっぶねえ。お前一体何が気にくわなくて電気を……?」
上条に抱きよせられて、胸元に額を当てるように顔を埋めていた美琴が両手を伸ばして毛布の中で上条を抱きしめ返す。
「御坂?」
「…………何?」
「やっぱり寒いのか?」
「…………」
「お前のブラウスちっと湿っぽいしな。このままじゃいくら体があったかくてもすぐに冷えちまうだろ。俺の右手でお前の能力止めちまってるし、俺のシャツで良かったら代わりに着るか?」
美琴からの答えはなく、上条の背中に美琴の指先が食い込み、回された腕の力が強くなる。
美琴がおとなしくなってくれるならもうこの際何だって良いかと思う上条の鼻先を何かがくすぐる。淡く甘く漂う香りがココアではなく美琴の髪から発せられることに気づき、直後上条の体がギクン! と硬直した。
「み…………御坂」
「……うん?」
美琴の鼻にかかったような声を聞いて、ようやく上条は思い至った。美琴は寒かったり不機嫌だったのではなく、一人暮らしの男の部屋に連れ込まれたと思ってずっと警戒していたのだ。
今頃それは誤解です許してくださいと言って許されるような状況ではないことは、上条自身がよく理解している。服が濡れたことを口実に年端もいかぬ少女をを部屋に引っ張り込んで服を脱がせあまつさえ一つ毛布の中でしっかりと抱きしめているのだから一〇人が見れば一〇人が全員有罪判決を下すだろう。裁判員達の顔はニヤニヤ笑いの土御門元春だったり『ようこそカミやんこちらの世界へ』と笑顔全開の青髪ピアスだったりおでこに青筋三本立てて『また貴様か上条当麻』と激発寸前の吹寄制理にきっと似ているだろう。
考えまいとすればするほどブラウス越しの薄いふくらみや体温、美琴の吐息を意識してしまい上条の鼓動が不規則に乱れる。手を離さなければいけないのに離したくないという理性と衝動のせめぎ合いの中で、上条と美琴の目が合った。
茶色の瞳に映っている姿は誰のものなのかを確認できるほどすぐ近くまで頬をよせ、俺って今こんな顔をしているのかと美琴の瞳の中をのぞき込み、コイツもきっと今俺と同じ事を考えてるなと妙に納得し、そうすることが当然とばかりに上条は美琴に口付けた。
息が苦しくなるまで重ねた唇をようやく離して、もう一度上条は美琴を見つめる。美琴の目に拒否の色はなかった。友達のラインを踏み越えるのは案外簡単だなと上条は思う。
今の美琴なら上条が何を望んでも、何をしても受け入れてくれる。
そんな確信めいた予感と共に上条は美琴の首に掛かったリボンタイを取り去り、濡れてるから脱がさなくちゃなとブラウスのボタンに指をかけ、一つずつゆっくりと上から順に外していく。四番目から先のボタンはスカートの中だったので上条はいったん手を止め、代わりに美琴の襟元を開いた。送り狼ってこう言うのを言うのかなとぼんやり考えながら、上条は腕の中で震える子羊のような美琴の白い首筋に牙を立てる。
そこでバシン! と叩きつけるようにドアが開く金属音と共に
「とうま! 帰ってきてるなら逃げちゃったスフィンクスを探すの手伝って欲しかったか…………も…………」
敬虔なる神の僕にして荒れ野でさ迷える子羊を導くイギリス清教のシスター、インデックスが三毛猫を抱いて帰ってきた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
上条の浅い夢の旅路が終わった。
こうして待っていても、公園には誰も現れない。
上条は傘と荷物を持ち直し、一人寮の自室へと歩き出す。空から舞い落ちる雪はその勢いを増し、溶けるよりも早く道路を白く埋めていく。
あの日、上条は着衣が乱れて言い訳できない美琴を後ろ手にかばってインデックスの噛みつきを浴び、それを見た美琴とインデックスが口論になり、その後上条とインデックスが同居していることを知った美琴が上条に追求を始め、最後はインデックスと美琴からダブルでお説教をくらった。幸不幸のパラメータで比較すれば、踏んだり蹴ったりで圧倒的に不幸指数が高かったと上条はあの日を振り返る。
ドタバタと賑やかで、うんざりするほど不幸だけどどこか楽しかったあの日々はもう帰らない。
彼女はもういない。
全ては終わったのだ。
過去は振り返らない主義の上条だったが、それでも懐かしむことができる思い出を持てる今を幸せだと思った。インデックスの完全記憶能力ではないが、上条の運命が狂ったあの日以来、上条はどんな記憶(おもいで)もできる限り覚えておくようにしている。
あまり防犯の役に立たない寮の入口をくぐり横綱が一人乗ったらワイヤーが千切れそうなオンボロエレベータに乗り込んで七階に着き、自分の部屋の前で鍵を取り出しシリンダーに差し込む。このドアの向こうに誰かがいればこんな事をする必要もないのにと、外気に触れて熱を奪われた鍵の冷たさが上条の胸を刺す。
過去は振り返らない。
全ては終わったことだから。
上条は自分自身に笑顔を作ってドアノブを握り、そこに誰かがいた時のようにただいま、と思い切ってドアを開けた。
他でもない、自分自身のために。
あの日のことを悔いたりなどせぬために。
「お帰り!」
上条が玄関のドアを開くと、部屋の奥で女の子の声がした。タタタ、という軽い足音と共に上条の両肩に手が添えられ、背伸びした彼女が上条の頬にお帰りのキスをした。
「…………御坂? どうしてお前がここにいるんだ?」
去年より少し髪が伸びた御坂美琴がそこにいた。
「どうして? って、今日で受験の日程が終わって『試験の間は会うのを控えよう』ってアンタが言い出した自粛期間も解除になったから、アンタがちゃんとご飯食べてるかどうか様子を見に来たんじゃない」
美琴はもう一度背伸びをして上条の首に両腕を回し、上条の頭を引き寄せて熱を測る時のように互いのおでこをくっつけると
「……会いたかった。アンタにすごく会いたかった。アンタが受験生の私を気遣ってくれるのはわかるけど、電話もメールもダメなんてひどくない?」
「仕方ねえだろ、どっかで制限かけないと歯止めが利かなくなっちまう」
「……誰が?」
「……、前科持ちの俺に聞くんじゃねえ。今だってグラグラ来てんだ」
美琴はクスッと笑う。それから上条の冷え切った両頬に手を添えて
「わ、冷たい。アンタこんなになるまで何してたの?」
その手のぬくもりを少しでも伝えようとする。
「……ほれ」
上条は美琴の手の上から自分の掌を重ね、冷えた頬と合わせてサンドイッチした。
「馬鹿っ! 冷たいじゃないの! 遊んでないで早く上がりなさいよ」
美琴は上条の手を引っ張って靴を脱がせ、荷物を奪い取ると学ランを脱がせてハンガーに掛けた。
付き合う前はわがままに見えた美琴の性格も、いざ付き合ってみると煮え切らない自分をぐいぐいと引っ張ってくれているとわかってありがたく感じる。
――人間ってわからねーよな。
美琴は上条の対面に座ると、おずおずと話を切り出した。
「私は今年で卒業して常盤台の寮を出るじゃない? 進学したらどこかで一人住まいになるんだけど、そしたらここにアンタと一緒に住んじゃ…………ダメ?」
「だ……ダメに決まってんだろ。こんな作りだけどここは一応寮で、二人暮らしは禁止されてんだから」
「隣の部屋は良く土御門が通ってるし、アンタはアンタであの小っこいのと、ど……同棲してたじゃない! 何で私はダメなのよ!」
「土御門のところは義兄妹だし俺とインデックスは同居してたんじゃなくて身寄りがないから匿ってただけだって何度も説明しただろ。それに、俺だって来年になったらここを出るんだぞ?」
あ、そっかと忘れていた事実を再確認した。
今年で高三に進級する上条は進路こそまだ決まっていないが、来年には嫌でもこの部屋を出ることになる。運悪く留年したらその限りではないが、そんな未来は勘弁して欲しいと上条は思う。
「んー、……だったらアンタが私の部屋で暮らすとか。まだ住むところ決めてないから少し広い間取りのところ選ぼうかな」
「選ぼうかな、じゃなくて。まだ合格してもいないんだからそう言うことは考えるんじゃありません」
その言葉に美琴がむー、とほっぺたを膨らませる。
「じゃあ、私が志望校に合格したら考えてくれる?」
「寮は寮に暮らすから寮生活なんであって、お前と一緒に住んだら俺の寮生活はどうなるんだよ。俺寮から追い出されるじゃないか」
「だったら最初から一緒に住めばいいじゃない」
「だから何で話がそこに戻るんだよ!」
何だとコラうるさいわねビリビリ!! と二人の間で険悪な空気が流れてケンカが始まるがそれも一分と続かない。それは、こんな間柄になってお互いのことが少しわかってきたからだろう。
未遂とはいえお嬢様にいかがわしい行為を働いた上にファーストキスを奪ってしまった純情少年上条当麻は、あの日の出来事が魔が差したとか場の空気に流されたとかほんの出来心でしたとは言えず、美琴に『責任を取る』と申し出た。これに対し『じゃ、じゃあ私がアンタの彼女になってあげる。私今フリーだし、年上の彼氏も良いなって思ってたところだから』と切り返して、二人の関係は友達から恋人に変わった。
あの日の出来事を巻き戻すと、美琴は美琴で上条を探して足を伸ばしていたところたまたま見かけた雪合戦に乱入した。その後突然上条の部屋に連れてこられて気は動転電気は漏電理性は崩壊してその時点でとっくに陥落していたのだが、事情が事情だけに上条にずっと片思いしていた事は伏せている。美琴が上条に対し強気に出ているのはこんな裏事情があるからだが、外から見るとどっちがどっちにベタ惚れなのかは一目瞭然だろう。何しろ二日に一度は美琴が何だかんだと理由をつけて上条の部屋に通い、一週間に一度は上条が自室の床に寝る羽目になるのだから。
「……決着つかないわね。私今夜ここに泊まるからじっくり話し合いましょ」
お前さっきは様子を見に来たって言ってたのになんでそれが泊まりになるんだよ、と上条はツッコみたくなるがそれを口にすると言い争いが無限に続くのでグッと堪える。上条当麻の半分は忍耐力でできているのだ。
もっともその自慢の忍耐力も最近では耐久力が落ちつつある。あの日あっさり友達のラインを越えた上条が弾みで『飛んで』しまうのも時間の問題だろう。
美琴はコタツをぐるりと周り、上条の隣に座を占める。そのまま上条に寄りかかると窓の外を見て
「春休みはその……一緒にいても良い? 短い休みだから良いでしょ?」
「嫌だって言ってもお前押しかけてくるからな。それくらいなら良いぜ。でも、何が起きても保証はしねえからな?」
「アンタは『責任は取る』んでしょ? 甲斐性なし。そろそろ勇気見せてくれても良いんじゃない?」
「怖いもの知らずのお嬢様だな。……覚悟しとけよ」
「うん。……、ねえ、雪、降ってるね」
「そうだな。けど明日には止むってさ」
「……去年の今頃の事、思い出すな。アンタ覚えてる?」
「そうだな。俺も思い出してた」
上条は思い出す。
二人がもう友達には戻れない事を。インデックスがここにいない事を。全てが変わってしまったあの日の事を。
学園都市に雪が降る。
あの日の全てを染め消して、白い雪が降る。
上条は心の中でインデックスに手を振ると、隣にいる彼女の肩に手を回した。
完。