翼を広げて 2
観覧車を降りても、美琴は何だか暗いままだった。
そんなに俺が怖がってる写真が欲しかったのかコイツはと思いつつ、上条は背後を見上げた。
観覧車は先ほどの故障がなかったかのようにゆっくりと回り続ける。
「御坂、ちょっと待った。こっち来い」
「何?」
「良いからこっち。……すいませーんそこの人、これお願いできませんか?」
上条は美琴を呼び止め手招きすると、二人のそばを通りかかったカップルの男の方に声をかけた。男は上条が掲げるデジカメを見て得心したように頷き、受け取ったデジカメの設定をちょいちょいといじりだした。
「え? あの、アンタ何やってんのよ?」
「何ってほら記念写真。何かあの人カメラ詳しいみたいだから頼んじゃおうぜ」
男がカメラを掲げ『笑ってくださーい』と二人に声をかける。
「笑えよ御坂。せっかくここまで来たんだ。観覧車をバックに記念に一枚残そう」
「あ、う、うん。そうね、記念に一枚ね、そうよね」
上条は美琴の目の高さに合わせるように少しかがむと、カメラに向かってVサインを作る。美琴はすき間を空けて上条の隣に立ち、同じくVサインを作った。
カメラを持った男は左手で美琴に『もう少し寄って』と指示を出す。
美琴は逡巡した後、少しだけ上条のそばに寄ると先ほどと同じようにVサインをした。
『それじゃ行きまーす。はい、チーズ!』のかけ声と共にシャッターは切られた。
「ありがとうございました」
上条が男からデジカメを受け取りながら礼をする。美琴もそれに合わせて頭を下げると男は美琴に『頑張れ』と手を振って、彼女のそばに駆け寄っていった。
「どれどれ……おー、バッチリ写ってんぞ」
上条が液晶画面をのぞき込んで笑顔になる。
「あの人カメラ詳しいんだな」
美琴も上条の隣からのぞき込むように液晶画面を見る。
「アンタ知ってて頼んだの?」
「んにゃ。たまたま通りかかったから頼んでみたんだけど、カメラ受け取ったらぽちぽち設定いじってたからもしかして詳しいのかなって」
観覧車を背にしたその写真は、光源が少ない夜間だというのに、まるで昼間に撮ったかのように笑顔の二人を鮮やかに映し出していた。
「なあ、観覧車だけで良かったのか? 他にアトラクションとか回っても……」
「ううん。観覧車だけで十分」
上条は美琴と腕を組み、夜更けの街を歩く。
現在時刻は一一時五〇分。
第六学区のテーマパークからまたしてもここまで歩いてきて、上条は再びうだー、と呟きを漏らした。
美琴はそんな上条に苦笑する。
「なあ御坂。寮の門限は本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫よ。今日はそう言う日だから」
「……その『そう言う日』ってのはどういう日なのか俺にちゃんと説明してくれよ」
上条は美琴を見て渋い顔を作る。
場合によっては寮監のところに顔を出して頭を下げた方が良いよなと、上条は考える。どんな言い訳ならこんな深夜まで美琴を連れ回した事を許してもらえるだろうか。
上条と美琴の足は例の分かれ道に差し掛かる。
そこで美琴が歩みを止めた。
「御坂? ちゃんと寮まで送るから……」
「ううん、ここで良い」
「ここで良い、ってお前こっから走って帰りますとか言って俺に若い力を見せつけるつもりか?」
「そうじゃないわよ」
「じゃあ何なんだよ」
「私、寮には帰らないの」
「帰らない、ってじゃあどこに帰るんだよ」
「常盤台中学に私の籍はもうないの、昨日卒業したから」
「……卒業?」
だってお前今二年生で卒業っつーたら来年の話、と言いかけた上条の口を美琴が片手で塞ぐ。
「昨日付けで卒業したのよ。……明日学園都市を出るから」
「学園都市を……出る?」
美琴は上条から離れると、上条に向き直るようにして立つ。
「そう。私、いくつか論文を書いたんだけどそのうちの一つが学会で目に止まったみたいでね。学園都市と提携している外の都市の大学から客員准教授として来ないかって誘いを受けたのよ。研究テーマは『筋ジストロフィー』」
きん……じす? と上条の口が音もなく動く。
「私がDNAマップを提供したのは、筋ジストロフィーの研究と病理克服のためだった。……悪用されて妹達が作られたのは、アンタも知ってるわよね? 日本じゃこの分野の研究で最大手だった水穂機構が手を引いて下火になりつつあるけど、外じゃまだ多くの人たちが戦ってる」
美琴がつい、と瞳を上げる。
「今度こそ、私はこの手を差し出す相手を間違えない」
自らの魂をそこに込めるように。
「今度こそ病に苦しむ人たちを助けてみせる」
「御坂……」
「と言っても客員だからそんなに長い間外に出てるわけじゃないんだけど。そうね、たぶん二年くらいかな。私まだガキだもん」
踊るように、美琴は両手を広げその場でくるりと回って背中を向ける。
上条の視線を避けるように空を見上げて
「昨日までホント大変だったんだ。残り一年ある教育課程を三ヶ月に短縮したもんだから毎日課題提出に特別授業に試験とギッチギチのスケジュールでさ。アンタが補習で大変大変って騒いでるのがちょっとわかったような気がするわよ」
美琴は何かを思い出すように苦笑した。
「三ヶ月、ってじゃあお前……その、話は」
「そう。去年受けたんだ。学校側にも相談して、統括理事会にも話が行ってさ。学園都市の学生が学園都市の外に出るのは結構大変なんだけどね。いろいろあったけどやっと飛び級で卒業の準備が整って、ようやく外に出られるようになった」
美琴は照れくさそうに人差し指で頬をかいて
「ごめん。話をするのがすっかり遅くなっちゃって。アンタに相談したら決意が鈍りそうだったから」
「それじゃお前があんなに疲れてたのって、授業のスケジュールを圧縮したからだったのか?」
「そ。さすがの美琴さんもあれには参ったわ。もうしんどいの何の」
もうあんな事は二度とごめんだと、美琴は上条にペロリと舌を出して笑う。
「それとね、アンタにはもう一つ話があんのよ」
「もう一つ?」
「そう。……アンタ、ここで回れ右して」
「何で」
「いいから」
美琴に言われたとおり、上条は美琴に背中を向ける。上条が向いた方角は上条の暮らす寮に続く道だった。
不意に暖かい何かが上条の背中に寄り添う。
「こっち向くんじゃないわよ。向いたら即座に雷撃の槍をお見舞いしてやる」
「御坂?」
上条の背中にしがみつくように、美琴が立つ。
「私は……アンタが好き。御坂美琴は上条当麻が好き。すごく好き。世界で一番アンタが好き。アンタの全部が好き。アンタの癖も髪も声も好き。誰よりも何よりも好き。好き。好き。大好き……いつからかわかんないけど、気がついたら私のココロん中はアンタでいっぱいになってた。毎日毎日アンタの事ばかり考えて、毎日アンタの事で頭がいっぱいだった。無我夢中だった。恋人ごっこの時も、大覇星祭の時も、罰ゲームの時も、一端覧祭の時も、クリスマスも」
「…………」
「ほら、やっぱりアンタは何にも言ってくれない。そうじゃないかと思ったんだ、この朴念仁。アンタは私の気持ちなんかこれっぽっちも知らないし気づいてもいない」
「御坂……それは」
「やかましい! 最後くらい黙って人の話を聞けっ!」
美琴が後ろから上条をギュッと強く抱きしめる。
「アンタと一秒たりとも離れたくない。ずっとずっとそばにいたい。アンタを私のものにしたい。私はアンタのものになりたい。それは私の本当の気持ち。でももう決めたんだ。私は私の夢を追いかける。……、御坂美琴は上条当麻から卒業するって」
「…………」
「昨日付けで学校は卒業したから、私は今ホテルに寝泊まりしてる。寮の荷物は実家に送り返して、生活に必要なもんはもう向こうに送った。あとは身一つで渡るだけ。……わかってると思うけどここで変な気を起こすんじゃないわよ。今日はアンタとの最初で最後のデートなんだからきれいに終わりましょ」
上条の背中から熱が離れた。
美琴は上条から二歩離れた場所に立ち、携帯電話をポケットから出して着信画面を開いて時間を確認する。
「今日は私のわがままに付き合ってくれてありがとう。最高のホワイトデーだった。でも、シンデレラの魔法はおしまい。シンデレラの勇気も、これでおしまい。……五、四、三、二、一。今ちょうど一二時。ホワイトデーもこれで終わり。本当に楽しかった……きっと一生忘れない」
美琴は携帯を折りたたみ、ポケットにしまった。
「アンタは今から三〇数えて。数え終わるまで絶対に振り向くんじゃないわよ」
「御坂?」
「数えて…………これが最後のお願い」
「……、一、二、三…………」
美琴は何かを言いかけ、それを振り切るように唇を噛みしめ、踵を返して走り出した。
タタタタという軽い足音が上条の立つ場所から、分かれ道から遠ざかっていく。
「…………………………………………二七、二八、二九、三〇」
数え終わって、上条は後ろを振り向いた。
まるで最初から誰もいないかのように、そこにはもう誰もいなかった。
上条は放心状態のまま、美琴が駆けていった方角を見る。
少し離れた位置に設置された街灯が照らす先には、誰の姿も見えない。
今追いかければ間に合うかも知れない。
けれど、追いかけて何を言えばいいのか。
上条はポケットから携帯電話を取り出す。そこには美琴の番号とメールアドレスが登録されている。しかし今かけてもきっと着信拒否されるだろうという事は容易に想像できた。
美琴の覚悟は並大抵ではない。若干一四歳の少女が右も左もわからない世界に飛び出そうというのだから、生半可な気持ちでは決断できなかったはずだ。
「馬鹿、野郎……」
誰に向けられた言葉なのか、上条の口から呟きが漏れる。
一度だけ携帯を強く握りしめると、上条は登録番号のリストを開く。心当たりのあるそれにカーソルを合わせ、上条は電話をかけた。
今は一二時〇五分。
こんな夜更けに電話をかければかけられた相手にとってはいい迷惑だが、そんなことにはかまっていられない。
☆
三月一五日、午前一一時。
第二三学区にある国際空港のロビーに、御坂美琴は立っていた。
見送りの申し出は多々あったが、一人をのぞいて美琴は全員断った。
「黒子、アンタいつまでも泣いてるんじゃないわよ。何もこれが今生の別れってわけじゃないし」
「お姉様! そんな事を言われても黒子は、黒子は……」
「あーはいはいうるさいなぁ。これだから見送りはお断りだっつーのに」
美琴は白井黒子の頭をよしよしと撫でる。
「元気でね、黒子。アンタには本当に世話になったわ。ここらで一区切りつけて、アンタもそろそろ変態から卒業しなさい」
「お姉様! またそのようなご無体な事を……」
そろそろ絞れるんじゃないかと思うほど涙で重くなったハンカチを顔に押し当て、白井はさめざめと泣く。
「いや、卒業の方はホントに考えんのよ? それじゃそろそろ私行くからさ」
「お姉様。お待ちになってくださいまし! わたくしの話はまだ終わっていませんの!」
カートを引いて出入国ゲートに向かおうとする美琴を、白井が渾身の絶叫で呼び止める。
「えぇ? まだ何かあんの? 生水は飲まないしお腹出して寝たりもしないしマンガも一日一時間までにしとくわよ?」
「お姉様、黒子からの餞別を受け取って欲しいですの」
「餞別? アンタまだ何か用意してんの? 防御力ゼロの変な下着なら勘弁……」
白井が指差す彼方を、つられて美琴は見る。
そこには息を乱し、どれほど離れた距離でも射貫くほどの視線で美琴を睨み付ける、ツンツン頭の少年が立っていた。
「ジャストタイミング、ですわね。あの殿方に最後を持って行かれるのは癪ですけれど、きっとお姉様にはこれが一番でしょうから」
「嘘……何でアイツが……あの馬鹿がここにいんのよ」
「搭乗時間まであと一〇分ありますの。お姉様との名残は惜しいですけれどここでバトンタッチいたしますの。本当に……つくづく腹が立つ類人猿です事」
上条が美琴に駆けよるのとほぼ同じタイミングで、白井は空間移動した。
「見つけたぞ、御坂」
上条は美琴の肩をガシッと掴む。
「な、何でアンタがここにいんのよ。どうやって出発時間を……」
「ああ大変だったさ。小萌先生から始まって警備員やってる先生を紹介してもらって、そこから風紀委員で電話番号を教えてもらえそうな奴を紹介してもらって、最後にお前の出発時間を知ってそうな白井にたどり着くまですげー時間がかかった。白井からも今日のこの時間を聞き出すまでケンカして。おかげで俺は完徹で、ついでに言えば今日の補習はサボりだサボり」
「ああ、朝黒子がホテルのロビーで電話越しに口ゲンカしてた相手ってアンタだったんだ。く、くだらないわね。そんな労力を裂く暇があったらとっとと学校に戻んなさいよ。補習受けないとアンタ進級がヤバいんじゃないの?」
アンタってばつくづく馬鹿よね、と美琴は上条に肩をすくめてみせる。
「ああ進級はヤバいさ。でも小萌先生や他の先生にも頼んだ。今日は大事な日だから遅れるのは許してくれって」
「……、アンタ、何を」
「俺はまだお前に言ってねえ事があんだよ。それを言う前に勝手にどっかに行くんじゃねえ!」
「今さら何を言うつもりよ。私は聞く耳持たない……」
「ごちゃごちゃうるせえよ! いいから黙って聞け!」
上条が美琴を一喝する。
「御坂。俺の事を好きだと言ってくれてありがとう。お前が俺の事をそこまで思ってくれてるなんて知らなかった。……、気づかなくて悪りぃ」
「…………」
「俺から言える言葉は今これしかねえんだ。正直今でも混乱してる。明日からお前に会えないなんてまだ信じらんねーし」
「…………」
「お前昨日、期間は二年っつったな? ……二年の間に必ず返事する。だからそれまで勝手に卒業すんじゃねえ」
「…………あの、それって」
「行ってこい、御坂。俺はお前を止めない。お前の決めた夢だから応援する。お前はお前の信じた道をどこまでも真っ直ぐ歩け。俺はどこにいてもお前を応援するから」
「うん。……ありがとう」
美琴は上条の腕の中に飛び込んだ。
少しだけ泣いて、美琴は顔を上げる。
「行ってくるね。私の夢のために」
涙の残る瞳で気丈に笑うと、美琴は一人背筋を伸ばして歩き出し、振り向かず出入国ゲートをくぐり抜けた。
「……白井。いるか? お前、御坂の後ろで俺達のやりとり見てただろ。これがお前の知りたかった真実だよ」
上条が周囲を見渡すとブン! という羽音のような音色が耳をかすめ、白井が上条の隣に現れた。
「本当に図々しい類人猿です事。朝早くからお姉様の出発時間を教えろだなんて。こんな時でもなければ貴方を八つ裂きにしてますの。初春も初春ですわ、わたくしの電話番号をこんな類人猿にのこのこ教えるなんてどうかしてますの」
白井が憎々しげに上条を睨む。
その手には金属矢が握られ、発射態勢を整えていた。
「お前に迷惑かけた事は謝る。今すぐその金属矢で俺を好きなだけ刺せよ」
「貴方に私の能力が通用しない事は十分承知しておりますの」
白井は心の底から憎々しげに舌打ちして、金属矢をホルダーに納めた。
「貴方には結標淡希の件で大きな借りがありますから、今回で帳消しにさせていただきますの。……それで、お姉様と貴方の関係って結局何だったんですの?」
「戦友だろ。……今はな」
上条は空港のロビーから彼方の空を見上げた。
鉄の機体は翼を広げて、上空へ駆け上がる。
未来へ旅立つ戦友の夢と想いを乗せてはるか彼方の異国の空へ。
行き先を違えぬように、ただ真っ直ぐに。
☆
オーストラリア・シドニー。
美琴はとある大学の研究室にいた。
予定の二年は過ぎたがやりがいのある研究は順調に進み、もうすぐ成果も上げられそうなところまでこぎ着けた。
伸びた髪を後ろで一つにくくり、眼鏡をかけ白衣を着た美琴は机の上の山積みの書類とマグカップと無数のペン、そして白い小さなフォトフレームに囲まれている。
エコロジーが叫ばれて早数年。いい加減紙で何かをどうこうするのは止めた方が良いんじゃないかと思いながら、美琴は一つ一つのデータに目を通す。
フレームの中に収まっているのはVサインをするあの日の美琴とツンツン頭の少年のツーショット。壁に投げつけられたり叩き割られたりしたそれは代を変え形を変え、美琴の机の上に今も置かれている。
我ながら子供っぽい恋だったと、美琴は思う。
たった一七歳で何を達観したんだろうと自分を笑いながら、美琴はフォトフレームを伏せ、手元の書類にまた目を落とす。
――Genius(天才)。
学園都市から大学にやってきた美琴を、周囲の人はそう称えた。
客員准教授待遇でありながらそれ以上の結果を残す美琴を学会は称えた。
何を言ってるんだろうと美琴は思う。
学園都市の科学力、技術力は外の世界の二〇年、三〇年先を行っている。これくらいで天才などと呼ばれるようでは困る。学園都市のレベルに並べずとも尻尾に追いつくくらいの気概は見せて欲しい。
水穂機構の撤退が学会にとってそれだけ大きなダメージだった事が、外の世界に出てきた美琴には痛切に感じられた。彼らが道を過たず研究をまっとうに進めていてくれれば、美琴は今頃こんなところにいなかった。違う人生を送っていた。
全てはifの物語。
それは美琴があの日選んだ答えではない。
美琴は夢を叶えるためにここにいる。
無情に死んでいった妹達のためにも、そして何より命を救われた自分自身のためにも必ずやり遂げてみせる。
何を犠牲にしても。
「お姉様。お客様がお見えになりました、とミサカはうんざりしながらお姉様にご報告申し上げます」
研究室のドアを二回ノックして、御坂妹が入ってきた。
ここにいるのは学園都市で御坂妹と呼ばれている一〇〇三二号ではなく、ミサカ一七〇〇九号だ。彼女は昔の美琴の姿そのままに成長し、ここでは素性を隠して美琴の双子の妹兼助手として働いている。
「アンタがうんざりって言う事は、ハロルドのクソ親父か。……一人?」
「はい。一人です、とミサカは簡潔にお答えします」
「毎回毎回アンタに相手させんのはアンタがかわいそうだし、ここらで私が出てって追っ払ってやるわ。ホントムカつくのよあのエロ爺。私達はアンタのお人形さんじゃないっつーの」
ハロルド、というのは美琴達の研究のスポンサーの一人だ。
金回りは良いのだがやたらと研究室に顔を出したがりついでにセクハラしてくるので、美琴としてはとっとと手を切りたいと思っている。おまけに結婚しないかと迫ってきたので美琴は御坂妹と二人がかりで高圧電流を流し『忘れられない人がいるんです。ごめんあそばせ』と言って再三に渡り迎撃している。
美琴は髪を束ねていたゴムを外し眼鏡を机の上に置くと、足音荒く研究室を出た。
「ハイ、ミコト。ご機嫌麗しゅうって奴かい?」
「ハイ。あいにくと気分は最悪ね」
他の研究員と挨拶を交わして、美琴は敵のいる第八応接室を目指す。
――いっぺん砂鉄の剣で痛い目見せたろかあのクソ親父。
ノックをし、深呼吸をして顔の表情を整え、美琴は極力にこやかに敵地へ足を踏み入れる。
敵であり味方でもある男を迎え撃つ、美琴の孤独な戦争が始まった。
「こんにちはMr.ハロルド。あいにくですが私これでも忙しいので五秒以内にここからとっとと出て行けこの野郎」
「御坂、俺ヒアリングは苦手なんで悪りぃけど日本語で頼む」
「…………?」
大学では御坂妹を相手にする時以外使う事のない日本語が、御坂妹以外の声で聞こえてきた。
「あれ? ……どちら様?」
「どちら様? じゃねえよ」
椅子から立ち上がった男は、
「久しぶりだな、御坂」
「……アンタ、どうやってここへ……?」
上条当麻は写真と同じ笑顔で美琴に笑いかける。
写真の面影はそのままに、三年ぶりに見る上条は背丈が伸びていた。美琴と並ぶと身長差は一五cmほどに開いている。
「アンタ、どうやってここへ来たの? 学園都市の生徒は簡単には学外には出られないはずでしょ?」
「ああ。だから裏技使った。パスポートに出入国スタンプなんて押されてない、正真正銘の裏技だ」
「…………」
美琴は言葉も出ない。
上条を指差し口をパクパクとさせ、信じられない物を見る目で上条を見つめる。
「三年前の返事をしにきた。……テメェ何が二年だ。手紙を出しても返事をよこさねえからこっちから来てやったぞ。向こうで御坂妹から全部聞いた。お前の研究はもうすぐ区切りがつきそうだって。だから御坂、……帰ってこい」
「か、か、帰ってこいなんて簡単に言わないでよ。アンタは私が何をしにここに来たか知ってんでしょ? 私の事応援してくれるって言ったのはどこの誰?」
「御坂妹に全部聞いたっつってんだろ。お前の今やっている研究は区切りがつけば学園都市でも続けられる。戻ってこいよ、御坂」
「戻ってこいって簡単に言うけど、学生でもない私がどうやって……」
「聞いた話じゃこの大学は長点上機学園と学術提携してるんだってな。そのつてを使えばお前は学生として復帰できるし、お前の学力なら高認の試験を受けてこっちの大学を受験する事もできんだろ。それがダメでも、お前の居場所は俺が必ず用意する。だから御坂、帰ってこい。これが俺の答えだ」
「…………」
「ここへ来る前にお前のお袋さん、それから親父さんとも話をつけてきた。夢のために学園都市の外へ出たお前を俺のわがままで連れ戻すんだからそれなりの覚悟はある」
「…………」
「非合法な手段で学園都市を出てきたからお前を迎えに来たなんて事は言えないし、お前にも都合って物があるのはわかってる。だからもう一度だけ言う。御坂、つべこべ言わずに俺のところに帰ってこい」
上条当麻は、御坂美琴に向き直る。
美琴はキッ! と上条を睨み付けるとつかつかと歩み寄り、上条の目の前に立ちふさがる。
ゆっくりとしたモーションで右手を限界まで後ろに引き、引き絞った弓の弦を一息に解き放つが如く猛スピードで上条の右頬を狙い打つ。
殴られるとわかっていても、上条は一歩も引かない。視線を美琴から外さない。
美琴の掌と上条の頬の間で乾いた音が鳴り響く直前で、美琴は動きを止めた。
「その言葉は三年前に欲しかったわよ」
「だろうな。けどここに来るのに三年かかった分、お前の事を忘れた日は一日たりともねえよ。今じゃ文字通りお前の事で頭がいっぱいだ」
「……何でよ」
「結局お前の事が忘れられなかった。あんな強烈な告白されたんだ。他の誰でもダメだ。最初から比較になんねえよ」
「アンタ、私が心変わりしたとか思った事ないの? こっちにはアンタよりいい男がゴロゴロしてんのよ? 自惚れてない?」
「勝手に卒業すんなって俺はあの日言ったぞ。律儀なお前が何も言ってこねえんだ、心変わりなんてあり得ないね。お前は俺にさよならを一度も言ってない。自惚れは間違いじゃないって自信がある」
美琴は上条の頬を打つ寸前で動きを止めていた手を下ろした。
「……………………………………ただ…………いま」
旅立った時と同じように上条の腕の中に飛び込んで、同じように美琴は少しだけ泣いた。
「お帰り。もう一回やり直そうぜ、あのデートから」
「うん」
「お前と行きたい場所がたくさんあんだよ。見たい物もな」
「うん」
「あんな強力無比な告白で落とされて、あれからすっかり俺はお前に夢中だ。今度は俺がお前に好きって言ってやる。誰よりも何よりも好きだって。お前を他の奴には渡さない。絶対だ」
「……………………うん」
我ながら子供っぽい恋だと、美琴は思う。
三年経っても何にも変わってないのだから。
上条当麻で始まって、上条当麻の元から飛び立った御坂美琴の長い旅は遠回りの末終着点にたどり着く。
美琴が密かに願い続けた、帰りたがった夢の場所へ。
☆
「あのさ……日本に帰ってきて早々にこれ?」
美琴は机一杯に広げられた上条のレポートを見て、おでこに手を当てる。
「お前に手伝ってくれなんて頼んでないだろ。これくらい自力でやるって」
「アンタが独力で大学に受かったなんて未だに信じらんないわね。……まさかそれも裏技使ったの?」
「んなもんねえよ! 上条さんはやればできる子なんです!」
帰国した美琴は編入試験を受け、現在は高校三年生。
奇跡的にも大学受験に合格した上条は大学二年生になっていた。
美琴は研究を海外の大学に引き継ぎ、今は充電期間と称している。美琴としてはこちらの大学に進学したら然るべき研究室に入って改めて再開するつもりだ。
美琴の出る幕がなかったとしても、それならそれでいい。大事なのは美琴が成果を独り占めすることではなく、光明を待つ人々に成果を届ける事なのだから。
「ところで、向こうで聞きそびれたんだけど。アンタうちの父さんに何言ったの? こっち帰ってきて電話してみたら青息吐息で激怒してたわよ?」
「普通にお嬢さんをくださいって言っただけだけど?」
正確には上条と美琴の父・旅掛は現地でちょっとした大冒険を繰り広げ、その真っ最中に空気を読まずに『美琴の人生を自分の都合で曲げてしまうからそれに見合うだけ必ず幸せにしますので美琴をください』と言ったら『今はそれどころじゃないこの馬鹿』という状況で二人してインディ・ジョーンズばりの大脱出を計った。
そんな状態でそんな話をされたら普通誰だって激怒するだろう。
「アーンーターはー……当の私に話をしないで勝手にくださいとか言ってんじゃないわよっ!」
「馬鹿止めろ今ここでビリビリすんなっつかそこは三年前と変わってないのかよ!」
電気を帯びた美琴の握り拳を上条がすかさず右手で掴む。
「お前美人になったのにキレやすいのは相変わらずなんだな。しかもキレ方が意味不明だぞ。ムサシノ牛乳飲むか?」
「別に私はキレてるわけじゃないし牛乳はあとで飲むから今グラスに注ぐんじゃないっ!」
ぎゃあああっ! と第五学区の上条の部屋で美琴が吼える。
「……とにかく。それ終わったら出かけるわよ」
「わーってるよ。第七学区から始めんだろ?」
三年前と同じ映画は上映されてなくて、三年前のあのファミレスは別の店に変わって、観覧車は深夜営業してないけれど、あの分かれ道からもう一度始めようと上条は思う。
二つに分かれた道はようやく一つに交わったのだから。
「あ、あのさ。えっと……あああアンタ、あの時観覧車で見た物、その……覚えてる?」
美琴が頬をほんのり赤く染めつつ、どもりながら上条に問いかける。
「あの時観覧車で見たのって、学園都市の景色じゃねーの?」
「……それ以外には?」
「ああ……思い出した」
上条は美琴に気の毒な人を見るような目で笑って
「『実は高所恐怖症でブルブル震えてゴンドラの隅っこでビクビク怯えてた御坂美琴さん当時一四歳』」
「私は高所恐怖症じゃないし勝手に記憶をねつ造すんなっ!」
「ははは、冗談だジョーダン。……、そうだな、観覧車に乗ってから降りるまでの一五分間、お前が見たっていう『あれ』やるか? それとももっとすごい事に挑戦すっか? お前の体力と気力が続けばだけど」
今度はニヤニヤと美琴を見ながら笑う。上条の笑顔の意味を知った美琴の顔がお怒り半分照れ半分で真っ赤に染まる。
「やっ、やれるもんならやってみなさいよ」
「あらー? 良いのかな美琴さーん? 本当にやるぞやっちゃいますよ? スクランブル交差点のど真ん中でキスしろとか自分からバカップルっぽいあれやこれやをリクエストするくせにいつも照れて恥ずかしがって途中でギブアップするのは誰かなーん? お前研究漬けだったから体はともかく頭ん中は一四歳の時から成長してねーんだもんな。強がるなよお嬢様」
「なっ、なっ、なななな何を……あれ? 今アンタ私の事美琴って呼んだ?」
「……さて、何の事やら。さっさとレポート終わらせないと日が暮れちまう」
「あ、こらっ! とぼけんなっ! もう一回ちゃんと呼びなさいよっ! こらーっ!」
上条の部屋の窓辺に、二羽の小鳥が並んで止まる。
二羽はひととき春の陽光を浴びたあと、翼を広げて仲良く飛び立った。