迷虚妄動—池袋消失トリック—
登場人物
長谷村美樹彦…絞殺魔。『A級殺人鬼KY-017』。
長谷村夏菜子…長谷村美樹彦の妻。故人。
〼虚迷言…メイド。『謎掛』。
一丸可詰丸…絞殺魔。大学生。
「」…メイド。『秘密主義者』。
井野上義昭…ベテラン警察官。
近津飛鳥…一丸可詰丸の後輩。故人。
目次
《長谷村夏菜子》
《迷図謎掛》
《長谷村美樹彦》
《歪な共犯者》
《長谷村夏菜子》
◆ ◆ ◆
鳥の鳴く声が聞こえる。
女の子を苦しめるのが好きだった。
子供の頃から近所の子の首を絞めて遊んでいた。
息が出来無いのに必死に呼吸しようとしたり、泣きながら抵抗するのに自分が全然離さないと、さらに必死に抵抗するのが気持ち良かった。
肌と肌の間に力を込めるとき、途方もなく興奮した。
これが結構体力を消耗するので、女の子たちにはいつも腹を立てていた。
初めて人を殺したのは、高校生の時だ。
陸上部の先輩のユニフォームがとても良かったので、ついやり過ぎてしまった。
滅茶苦茶気持ち良かった。
しかしこれは、陸上部の先輩があまりにも綺麗だったし、普段は練習にストイックに打ち込むくせに、自分が誘ったら人気の無い部室までのこのこついて来るのが悪かったと思う。
鳥の鳴き声が聞こえる。
このとき、やるなら最後までやった方があと腐れが無いし、誰にも言いふらされる心配も無いという、今となっては当たり前の事実に気が付いた。
何より首を絞めた子がちゃんと死んでくれるのは気持ちが良い。
さらに面白いことに、死体をそのままにしたら、翌日なんと陸上部の顧問が逮捕された。
これには思わず笑った。
自分にそんな才能があるなんて。
印象を良くするだけで人は軽く騙される。疑いすらしない。
自分のルックスは悪くないし、人当たりも良くしている。
内心、他人のことは見下しているが、それだってお互い様だろう。
外面さえ取り繕えば、疑われるのは自分以外だ。
しかし、初犯以降は死体を隠すことを忘れなかった。
どうやら自分にはそちらの才能もあったようで、隠した死体はまず見つからなかった。
見つけたとしても自分以外の誰かが逮捕された。
あるいは警察が間抜けだったのか。
鳥の鳴き声が聞こえる。
大学では3人と付き合い、1人殺した。
頭の悪い尻軽女で、親が不動産屋を経営しているとかいう、好景気に乗っかって享楽に興じてるだけの、実に良い女だった。
何より良かったのは首を絞められるのが好きという点だ。
他の子と違い、彼女は首を絞めると喜んだ。
まあ、そんな彼女も犯行現場を見られたので殺したのだが。あのときは向こうも泣きながら滅茶苦茶喜んでくれたに違いない。
鳥の鳴き声が聞こえる。
大学を卒業して貿易関係の商社に入った。
営業でまあまあの成績を収めつつ、合間合間に首の手触りの良さそうな女を見つけては絞殺した。
そんな生活を1年ばかり続けていたところ、実家の親から見合いをしないかと言われた。
正直興味がなかったが、相手が父の取引先の、それも経営者の末娘らしく、断れば世間体が不味いのだと説得された。
世間体か。
うん、世間体なら仕方がない。
俺も世間体は大好きだ。
そんなわけで、よく知りもしない相手と見合いをした。
相手は短大を卒業したばかりで、まだ20歳だという。
人当たりが良く、心優しい性格なんだそうだ。
現れたのは、和服を着た長髪の和風美人だった。
——「紹介します。娘の夏菜子です。この子はですね、人当たりが良く、誰に対しても——」
——「あーあ、面倒くさいわ」
田舎くさい関西弁で言うと、娘は自宅の居間にいるかのように、両脚を開けっぴろげに投げだして、床に座り込んだ。
長細い脚が露わになる。
和服を着ているとは思えない振る舞いだ。
唖然としていると、娘は自分を睨みつけてきた。
——「アンタが美樹彦さんか」
——「ええ。長谷村美樹彦です」
——「あのぇ、貴重な時間を潰して来とんねん。単刀直入に言うわ。うちが長谷村夏菜子んなんのに、求める条件は一つ。夫婦は平等であること。亭主関白も、かかあ天下もウチは好かへん。だから同じように、どっちも好かん奴しか、うちは好きひん。それが受け入れられへんねやったら、話ぃナシや」
どこの言葉だ。
だが、言わんとしていることは解った。
——「良いじゃないですか。夫婦同権。好きですよ、そういうの」
——「ほぉ。よー分こおとるやん。じゃあこれからよろしくお願いしますね?美樹彦さん」
——「ええ。こちらこそ、末永くよろしくお願いします。夏菜子さん」
これが妻との出会いだった。
こうして自分は、伊那夏菜子と婚姻を結んだ。
妻の変な関西弁は、それ以来聞いたことはない。
鳥の鳴き声が聞こえる。
◇ ◇ ◇
しばらく自宅に帰っていない。
10日前から、自分はアンティーク喫茶『迷宮入り』に監禁されていた。
そこで〼虚迷言さんに世話をされながら——
——「」さんに、暴力を振るわれていた。
ちゃんとした人にならなければ。
自分は迷言さんが好きだ。
ならば、ちゃんと人にならなければ。
——「端的に言うと、皆殺しですよ。お客様、一丸可詰丸様」
——「そう。東京中の殺人鬼を、全員殺すんです。殺すと言ったら殺すんです。生活に邪魔な存在じゃないですか」
——「そうですね、立ち退き工事みたいなものですよ、ご主人様」
〼虚迷言さん。『謎掛』。
謎の多い彼女について分かっているのは、いつも快活な笑みを浮かべていること。
そして、謎掛けやクイズで遊ぶことを好み、一方で事件や犯罪を嫌い、遠ざけること。
そう、遠ざける。
臭いものに蓋、とも言う。
「家?燃やしたよ?一丸可詰丸、ご主人様」
切りそろえられた短い茶髪を揺らしながら、あたかもその発言が当たり前であるかのように、メイド服を着た「」さんは臆面もなく言った。
なんでもない、ごくありふれた昼過ぎの出来事だった。
「」さん。『秘密主義者』。
秘密の多い彼女について分かっているのは、いつも不敵な笑みを浮かべていること。
そして、全てを遠ざけること。
「え、燃やしたんですか?」
「燃やすよ?だってご主人様はほら、もう帰らないじゃん」
困る。勝手にそういうことをされるのはとても困る。
いくら自分が迷言さんの道具になるしかないとはいえ、道具になろうとしているとはいえ。
それではまるで、自分の生活が浸食されていくようで、とても嫌だ。
だから、自分にしては珍しく、「」さんに意見した。
「帰りますよ。それに、あれアパートだから火をつけると他の人も巻き込まれますって。翁名さんも」
「でもさ、ここで暮らさねえの?ご主人様はさ——」
——「迷言と、一緒にさ」
彼女はそう言った。
嗚呼、そうか。
自分はもうずっとここで迷言さんと一緒に暮らすのか。
一緒に暮らしたいな。
「暮らします」
「じゃあ一件落着じゃねーか。まあ心配すんなって。ご主人様ん所のアパートはさ、アタシの《秘密隠匿》で、ぜーんぶ隠しといたから」
「」さんは手をヒラヒラと振るい、そして反対側の人差し指を口元へ運ぶ。
そうか、と勝手に納得する。
「」さんの《秘密隠匿》。
その本質は、情報隠蔽能力だ。
姿も、音も、臭いも、感触も、味ですら、
すべての情報を『秘密』の中へと放り込んでしまう。
誰に気付かれることもない。
「あのさ、ご主人様。アタシの能力で『秘密』にされたものは、人であれ建物であれ、絶対に誰にも知覚することは出来ねえ。だから、今、アパートから火が出てることはおろか、そこにアパートがあることすら、誰にも分からなくなるんだよ」
「そう、なんですね。それはまるで」
——「迷言さんの《迷図謎掛》と、良く似ていますよね」と、自分は言った。
彼女は、悪戯っぽく笑う。
「そうだよ?アタシの《秘密隠匿》と迷言の《迷図謎掛》は、本質的には同じ能力だ。ただ、迷言の場合は隠した痕に『謎』が残る」
謎か。
「あの黒いシルエットですね」
周囲を見渡す。『迷宮入り』の店内にはアンティークの類や、黒い立方体が無造作に置かれている。
それがもう、どれなのか分からなくなったが、嫉妬美さんも混ざっている。
「そうそう。難儀な奴だよなあ『謎掛』は。平穏無事な生活を望んでる癖に、自分が最大限愉しむことも忘れちゃいねえ。なあ、ご主人様、お客様も」
——「コレと同じことを池袋でやるつもりなんて、正気の沙汰じゃねえよ」と、「」さんは不気味に笑った。
「そう、ですね。でも自分は迷言さんの道具ですから。彼女を最大限愉しませる方法を提案しないと」
「ぶはっ!だからってさあ〜、池袋全体を《迷図謎掛》で覆うなんて考えるかフツー!?犯罪者全部閉じ込めて始末しちまえば平和な世界になるとか、危険思想もいいとこだぜ!」
——それは
——あなたが、自分から迷言さんに提案するよう、強制したんじゃないか。
とは、言わなかった。
「ご主人様もだんだん迷言の気持ちが分かってきたよなあ?あいつは騒ぎ立てられるのが、何より嫌いだ。警察の失態?殺人鬼の飽和?殺人鬼同士での戦闘?ハハハハハハハ!そんなものに巻き込まれちゃかなわねえ。そうだな、警察も殺人鬼も、全部消えて貰わなくちゃな!」
「」さんの言う通りだと思う。
迷言さんは自分の周囲で騒ぎが起こることを嫌う。
静かな生活を、好む。
だが、今の東京は殺人鬼たちで溢れかえって、遂には殺人鬼同士で殺し合いを演じる始末だ。
だから彼女は、積極的に、街から殺人鬼を排除する決意をした。
なら、迷言さんのために、殺人鬼たちを全員殺して、静かな暮らしを手に入れなければ。
迷言さんが最大限愉しめるような形で。
「ふふ、だがしかし、だ。ご主人様よぉ。池袋に殺人鬼を集結させるとか、無理なんじゃねえか?そうだ!なぁ、A級殺人鬼って知ってっか?」
唐突に出てきた単語に、つい戸惑ってしまう。
A級殺人鬼?
A級、殺人鬼。
そう言われて、記憶の中に、ふと思い当たるものがあることに気がつく。
そうだ。
1ヶ月ほど前だったか。
そのニュースは騒がれていたから、新聞もテレビも観ない自分も、その話題は耳にした。
「A級殺人鬼の長谷村美樹彦!捕まえることも、邪魔することも出来ない殺人鬼。有名人だから知ってるよな?なあ、」
——「ご主人様、東京の殺人鬼を全部殺すってのは、その長谷村美樹彦も巻き込むってことなんだぜ?」
女性の首を狙う絞殺魔。
しかし、もっと恐ろしいのは、
彼の犯行に、誰も彼も、一切の抵抗が出来ないことだ。
彼の殺人に抵抗する人間は全部死ぬ。
取り押さえようとした警察官も大勢死んだらしい。民間人も死んだらしい。
長谷村美樹彦を邪魔する人間、危害を加えようとする人間は、それを行動に移した瞬間、
不可思議な力で、体を破壊される。
まるで念力のような力で。
嗚呼。
長谷村、美樹彦さん。
そんな名前だったのか。
自分の中で雑多に捨て置かれていた情報同士がくっ付いて、名前と顔が一致する。
——そうだ。
——ならば、自分はもう、
——長谷村美樹彦さんに、会ったことがあるではないか。
——あの人だったのか。
「会ってます…その人と。」
「…ふうん?」
自分が長谷村美樹彦に初めて会ったのは、まだ8月の暑い夏の日だった。
会ったというか、図書館でたまたま出会ってしまっただけなのだけれど。
「また《歪な共犯者》か?ご主人様が何を考えてるのか知らねえけどよ。まあ、話には続きがあってな」
「続き、ですか?」
「そう。近津飛鳥って、知ってるか?」
近津——
——どうしてその名前が、
——今出てくるんだ。
——近津飛鳥。
「ち、ちか、つ、飛鳥」
「知ってるよな。なんせその少女は、つい一年前迄、ご主人様と同じ高校の後輩だったんだからな」
自分は思い出す。
——「えー、めちゃめちゃ女装似合ってるじゃないですかぁ、先輩」
——「マジで興味あったら言ってくださいよ?良ーいバイト先とか知ってんですからぁ。え?興味なーい?残念〜」
——「大きなお世話だよ、近津さん。それより進級は大丈夫なの?」
——「大丈夫でーす。アーシこう見えて勉強のできるオトモダチは確保してるんでー」
——「結局他人頼りか」
——「いーじゃないですかー。それよりバイトしましょうよー。マジでその格好カワイイですから」
すっかり存在を忘れていた。
自分が三年の時、文化祭委員会のメンバーで、同担だった一年生。
自分に女装をさせ、変なバイトをさせ、バイト代2万までピンハネした元凶でもあるのだが、それは今はどうでも良い。
「ニュースで実名報道されてたぞ。死んだんだよ。一ヶ月前」
近津飛鳥。
確か、仲間内での呼び名は
「長谷村に殺されたんだよ。その女」
と、その時。
不意に、
振り向く。
そこに何かがあった筈はない。
ある筈はないのだ。
ある筈が、ないのに。
——茶髪の女子学生が、そこに立っていた。
「ち、ちか、近津、チカちゃん」
——チカ——近津飛鳥が、そこにいた。
「先輩」
「な、」
「はじめまして」
「なんで、なにが、」
「はじめまして。長谷村夏菜子、です」
チカちゃんは、両眼が亡くなった虚ろな顔で、理解しがたい自己紹介をした。
《迷図謎掛》
◆ ◆ ◆
結婚して以降、夏菜子は人前で洋服を着るようになった。
しかし自宅の中では、常に和装を保っていた。拘りらしい。
言葉遣いは、初めて会って以降、いつも標準語である。
むしろ、丁寧な口調を崩さなかった。
「私は妻ですから。他所様に見られて恥ずかしくないようにしないと」
それが妻の口癖だった。
「良いじゃないですか。夫婦同権。好きで良き妻を演じさせていただいているんです。好きにさせてくださいな」
「そうか。なら、俺も良き夫を演じさせて貰おうかな」
本心からの言葉だった。
「そうですか。何よりです」
妻が笑うと、首を絞めたくなった。
鳥の鳴き声が聞こえる。
夏菜子と結婚して以降、人を殺す回数が目に見えて減っていることに気が付いた。
首触りの良さそうな女の子を見かけても、夏菜子の笑顔がチラついた。
——夏菜子の方が良いな。
そう思うと、不思議と優越感に浸れた。
勿論、夏菜子の笑顔より綺麗な首の女の子は全員殺した。
だが、やがて夏菜子の笑顔を思い出すことの方が多くなった。
彼女が笑う場面が、増えたせいだ。
無理に笑っているような笑顔だったが、自分に合わせてそうしてくれているのが嬉しかった。
——そんなに、綺麗な首ではないのにな。
絞殺頻度は、目撃者を含めても週二人のペースにまで激減していた。
一度、夏菜子に対して辛抱堪らなくなったことがある。
死なれると世間体が悪いので、妻に頭を下げて首を撫でさせてもらった。
思った通り、全然満足できないような、至って普通の、あまり綺麗ではない首だった。
夏菜子は、今まで見せたことの無い赤面をしていた。
——「こんな趣味があったんですね」
——「…すまない」
——「良いんですよ。好きなだけ触って頂いて…変態」
その時の妻の真っ赤な笑顔を見てから。
どんな首の綺麗な女の子にも、満足できなくなってしまった。
鳥の鳴き声が聞こえる。
二ヶ月後、妻の妊娠が発覚した。
その時の妻の喜びようと言ったら、
思わず、殺してしまいそうになった。
抱きつく形で、全力でごまかしたら、夏菜子は一層笑ってくれた。
——「やだ美樹彦さん。子供の名前はどうしましょう」
どうしよう。
女の子を絞殺するより、
妻の笑顔を優先するようになってしまった。
初めて意図的に、人を殺す回数を減らした。
このまま減らせば、月一人のペースにまで落とせる。
鳥の鳴き声が聞こえる。
そう思っていた矢先、仕事で一人の女の子と知り合った。
この頃はまだバブル景気で、自分はもう貿易会社を辞めていた。
おもちゃ会社に転職し、前職での英語と中国語の経験を活かし、海外商品の翻訳作業の仕事を担当していた。
地味だが、決して需要の無くならない良い仕事だ。
その女の子は、自社の新しい商品の業務提携会社の営業担当だった。
「お久しぶりですね。美樹彦さん」
その首触りはよく覚えていた。
子供の頃に、よく首を絞めて反応を楽しんでいた女の子だ。
良い首だ。
名前はなんだったか。それはどうでも良いか。
小学生に上がる前、首を絞めすぎて、何処かへ引っ越してしまった。隣に住んでた女の子だった。
よく覚えているよ。
彼女の首は変わってなかった。
俺はその女の子を飲みに誘った。
何回か飲みに行って、話を聞き出した。
「奥さんが妊娠してるのに、よく誘えますね」
三回目に飲みに行ったとき、彼女の口からそんな話が出た。
「はは、まあ疚しい事なんてないから。それより、昔のこと覚えてる?」
辛い記憶だから封印しているのか。彼女は当時、俺がいつも首を絞めていたことを忘れているようだった。
思い出させてやろうか。
うん。そうしよう。
思い出させた。死んだ。
結婚してから1年。このペースなら、妻の笑顔とも折り合いをつけて幸せになれると思った。
鳥の鳴き声が聞こえる。
◇ ◇ ◇
長谷村夏菜子と名乗ったチカちゃんは、虚ろな眼窩を露出させた異常な姿で、青ざめた顔を向けていた。
「突然、ごめんなさい。主人の話が聞こえたもので。こんなこと、普段はしないんですけど」
近津飛鳥、チカちゃんは、
聞いたことのない声色で、話し始めた。
「長谷村、夏菜子、さん」
「ええ。美樹彦の妻です」
違う。
断じて違う。
目の前にいるのは、自分の元後輩、近津飛鳥の筈だ。
その彼女が、全然知らない人の声で、
声帯のつぶれた、ガラガラの声で、
長谷村美樹彦の妻を名乗っている。
否。
それだって、近津飛鳥も、死んだのではなかったか?
だとしたら、今、目の前にいる存在は——
——誰なんだ?
そもそも人なのか?
近津飛鳥の青ざめた首には、クッキリと、手形が付いていた。
「へぇ、そういう系ね」
振り向くと、「」さんは悪魔的な笑みを浮かべていた。
造作もなく近津飛鳥に近寄ると、歯を剥き出しにして笑った。
嘲笑している。
「夫が殺すたび、能力が、だんだん強くなってまして、こう、こうして、まだ消化しきれてないチカさんの姿を、借りることが出来たんです」
「どうでも良いよ。そんなことは。アンタもどうでも良いんだろ?『秘密』で良いんだよ、そんなことは。さっさと用件を言え」
「夫、おっとの、話をされていたもので。長谷村美樹彦を、こ、殺すとか。ねぇ詰丸先輩?女装が似合ってますよ?マジでこっち、こっちに来て下さいよ。どうせ彼女もいないんでしょ?先輩カワイイ、から」
長谷村夏菜子を名乗る近津飛鳥は、
急に近津飛鳥の声になった。
いつか聞いた台詞を、壊れた人形のように繰り返している。
「先輩カワイイ、から、こっちに来て下さいよ。首が、キレイ…だから、おっと、夫を、美樹彦を、殺すんですか?カワイイ先輩?確か、そう聞こえたんですけれども」
再び、聞き慣れぬ、潰れた声。
美樹彦を、殺すんですか?
だが、何だこれは。
長谷村夏菜子か
近津飛鳥か
どちらが、尋ねているんだ。
嗚呼。
そうか、分かった。
唐突に思い至る。
これは、
——長谷村美樹彦の、何らかの能力か
なら、なら
——悪霊。
——邪魔する者は、皆殺し。
成る程。
自分たちは、意図せずボーダーの上に——立っていたのか。
この場合、
「殺す」と答えれば、殺されるのだろう。
「殺すう?長谷村美樹彦をぉ?ハハッ何だよ〜、それはアンタの勘違いだ。ハセムラカナコさん。聞いて驚くなよ。こいつらは美樹彦を殺すんじゃねえ」
——「東京中の殺人鬼を、一人残らず殺すんだ」
「」さんは不敵な笑みを崩さない。
チカちゃんは、瞳のない目で、自分を睨んだ。間違いない。
睨まれて、いる。
「そう、それ、それなんですよ。夫を殺すなら、あなた達を殺せば、す、済む話なんですけれど。あなた達は、東京中の殺人鬼を、殺すとか。だから聞きたくて」
「な、何を…ですか?」
「ふふっ先輩、敬語なんか使っちゃって。ええ、その殺す対象には、夫は含まれるんですか?ふ、ふふっ含まれるなら、殺します。含まれないなら」
「さあ?それは『秘密』って奴だ。でも良いこと思いついた。アンタ、さっさと東京から消えろ?Y市だっけ。どうでも良いや、横浜へ帰れ」
「」さんは、笑みを一切崩さない。
指を口元に遣って、ひたすら笑っている。
目の前の幽霊を、冷笑している。
「さて、これは困」
「アハッ!アハッハッハッハッハ!ハハハハハハハ!ハーハッハッハッハ!!!!」
幽霊の喋ろうとしたところへ被せるように、
彼女は声をあげて笑った。
嘲弄している。
「ハハハハハ!ハハハハハハハハハ!殺された、女子学生ごときが!ハハハハハハハ!」
「あの」
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!ヒーヒッヒッヒッヒッ!ハハハハハハハ!アハハハハハハ!」
甲高い笑い声が室内に響き渡る。
異常な笑い声に、異常な光景。
多分、彼女は心の底から笑っているのだ。
死んで長谷村夏菜子に取り憑かれている、チカちゃんを。
気が付けば、目の前にいたはずの近津飛鳥のような、長谷村夏菜子のような幽霊は、姿を消していた。
「ヒーッヒヒヒ……あのさあ、結構期待してたんだよ。ニュースで話題のA級殺人鬼!殺された被害者は何とご主人様の高校時代の後輩!不可解な能力!邪魔する奴らは皆殺し!いやいや、色々予測はしてたんだよ?でもさ、話をしたらっ…ククッ話をするだけで、」
——「マジでノコノコ出てくるとは思わないじゃん!迷言も大喜びだろうぜ!」
何を言ってるんだ、この人は。
何がしたいんだ、この人たちは。
「いやぁ面白れーな。見たろ!?アレが長谷村美樹彦の能力だろうぜ!殺そうとした瞬間に殺される、最凶最悪のチートカウンター霊能力!しかも聞いていたよりパワーアップしてるよな!?いやぁハハ…」
「」さんは指を口元に置いたまま、ニンマリと笑っている。
「…ぷっ、馬鹿じゃねーの。」
——そういうことか。
——ここで自分は、「長谷村美樹彦を殺そう」と言わなければいけないんだ。
——これまでもそうだった。
——迷言さんの望むことを言わないと、
——迷言さんの望む行動を取らないと、
——自分は害される。
——なら、迷言さんの望む行動を取らなければ。
——害獣駆除ようなものだ。
——彼女は多分、長谷村美樹彦で、愉しもうとしているのだから。
——ずっと、自分は、殺人鬼から迷言さんを遠ざけるために、生かされていると勘違いしていた。
——だけど、違う。
——そんなはずはなかったのだ。
——自分は、殺人鬼を、迷言さんのところまで引っ張り出す役目を負わされてたのだ。
ごめん、美樹彦さん。
チカちゃんも、ごめん。巻き込んで。
自分には〼虚迷言が好きだという感情しか許されていないから。
死んでくれ。
「あの、「」さん。迷言さんを呼んでくれませんか?長谷村美樹彦さんを、池袋に呼び出しましょう。ええ、殺すんですよ。無敵の殺人鬼を」
池袋の人たちも。
《長谷村美樹彦》
◆ ◆ ◆
鳥の鳴き声が聞こえる。
鳥の鳴き声が聞こえる。
家に帰ると、玄関に妻が立っていた。
妻が、俺を睨むように、呆然と立ち尽くしていた。
「ただいま。ごめん、遅くなって」
怒っているのか、悲しんでいるのか。
妻は、感情の読めない表情で、俺を見つめている。
「どうしたんだよ。そんなところに立ってさ。ああ、そうか。そうか。何も言わなかったのは謝るよ。でも、付き合いってのがあるだろ?」
「見ました」
夏菜子は、それだけ言って、また再び黙り込んでしまった。
ああ、そうか。これは毅然とした表情なのか。そう思った。
「見たって、何をさ」
心臓が高鳴る音が聞こえる。
何だ。恋か?これは。
いや。違う。
この高鳴りは、焦っているのか。俺が。
俺はこんなにも矮小な人間だったのか。
「何か秘密のある人だな、というのは初めから分かっていました。正直言って私、嫉妬してたんです。だから、悪いと思ったけど、後を付けてみたの、そしたら」
「何も言わずに俺の後を付けたのか?悪いと思うならさ、何でそんなことするんだよ」
「黙って——下さい。言い訳は聞きたくありません。あなたが秘密を教えてくれないなら、私から寄り添う姿勢を見せないと、そう思ってました。実際、言葉遣いを正して、外面も正せば、あなたは次第に心を開いてくれた。ただ共に並んで歩めることが、嬉しかっただけなんです」
「……」
俺は黙れと言われたので、黙っていた。
「数日前から、他の女の影が見えているのに気付いてました。気付かれないとでも、思ってましたか。ムカついたので、現場を押さえて引っ叩いてやろうかと、そしたら、」
——美樹彦さんが、その人の首を——絞めて、殺してしまいました。
「殺しは月に2人のペースまで落ちてる。このまま減らせば」
そのとき、夏菜子の平手が俺の頬を勢いよく打った。
なんだ。こいつ。
「この人殺しッ!汚らわしい!近づかないで!」
「はァ?何言ってんだよ、夏菜子」
「命は粗末にしてはいけないの!どうしてそれが分からないの!?」
「ムカつくなぁ〜!そういういいセリフを言うなら、最後まで泣いちゃダメだろ。台無しだ」
「警察にはもう連絡してあります。直にあなたを捕まえに来るでしょう。あなたは罪を償うの!私に人は殺せない。お腹の子は、あなたの知らない何所か遠い場所で産みます」
「そんな、そんなことして、悠里が可哀想じゃないか」
「悠里ですって?ふふっ!見くびらないで!!この子はあなたのことを知らせず、私が立派に育て上げてみせます!」
「…あのさぁ、さっきから聞いてりゃベラベラ、ベラベラと。警察が来る?あーそう。俺のことはどうなってもいいわけだ。じゃあ最後に、さ、」
「やめて…近づかないで!近寄らないで!やめて!やめて!」
この時に至り、自分は妻のことを愛していたのだなあ、と気付いた。
自分が涙を流せないことが悲しかった。
だが、笑わない夏菜子に価値はない。
元々首が綺麗でもない女だし。
アレ?首を絞めてやる理由がないじゃないか。
愛してはいるが、あまりにも無価値な女。
ただの目撃者程度の存在。
なんだこいつ?
なんで、こんな奴の首を絞めないといけないんだ。
◇ ◇ ◇
〼虚迷言さんは案外早く準備を終えて、夕暮れ時には帰ってきた。
自分を椅子に縛り付けた縄を解くや否や、開口一番、迷言さんは嬉しそうに礼を述べた。
「ありがとうございます、お客様。ふふ、一丸可詰丸様。『秘密主義者』から聞きましたよ。長谷村夏菜子氏が、現れたんですね」
自分は迷言さんに抱擁されながら、10日ぶりの開放感を感じていた。
この10日間。着替えのときも風呂のときも、常に体のどこかを縛られていた。
「迷言さん、提案があります。」
「さて、何でしょうか?」
「長谷村美樹彦さんを、殺しましょう」
自分は、迷言さんが動きやすいように、そう提案した。
そうしなければ、暴力を振るわれるからだ。
彼女は人差し指を口元に当てて、静かに笑う。
「さて。それは『謎』です」
——賢しいな。
そんなところも大好きだ。
迷言さんは、自ら手を下すことを嫌う。
正確には、自分に手を下させることを好む。
「お客様。物騒なことを申さないで下さいな。人を殺めるなど——そんな大それたこと。ましてやA級殺人鬼に手を出すなど」
どの口が言うのか、
彼女は自分の首に細い腕を回す。
胸の薄さを改めて実感するとともに、ほんのり気道を塞ぐように、やや強めに首が締め付けられる。
「ダメですよ。愉しむんです。長谷村美樹彦さんも、長谷村夏菜子さんも、近津飛鳥さんも、私も、お客様、ご主人様も。だから殺せないんです」
「わ、わかりました。愉しみましょう。徹底的に。いけ、池袋まで、長谷村美樹彦さんを連れ出すんです」
それが、迷言さんの望みだから。
迷言さんは優しげに腕の力を緩める。
袖から手首がチラリと覗く。
「"殺せない"んですよ——」
その手首には
——紫色の手型がハッキリと霊障れていた。
「ふふ、どうやらすでに、私も長谷村夏菜子さんに"手を付けられていた"ようですね——」
——「詰丸様、ご主人様も。」と、迷言さんは人差し指で自分の襟元を引っ張る。
「痛っ」
「ほら、包帯と痣だらけで分かりにくいですけれど、肩周りにかけて手型がビッシリと。さっきよりも濃くなっている。」
霊障。
既に、チカちゃんが現れた時に。
「迷言さん。逃げ場が、亡くなりましたね」
「ふふ。さて、これは『謎』ですね」
迷言さんは人差し指を地面に向けた。
すると、真っ黒い皮膜のようなものが、自分と迷言さんの二人を包んでゆく。
これは、《迷図謎掛》だ。
「私の《迷図謎掛》は、外側から見た全てを真っ黒な視覚情報に転換します。でも、内側から見れば何の変哲もない、いたって普通の光景しか見えないんです。ふふ」
——「内側から、《迷図謎掛》を逆向きに貼り付けない限りは、ね」
——迷言さんは、笑顔で言った。
そうだ。
《迷図謎掛》を外側にだけ貼り付ければ、その内側は能力の効果範囲外となる。
結果——マジックミラーみたいなことになる。
しかし、黒い皮膜の内側をも《迷図謎掛》で満たすとき。
その中では、あらゆる情報が遮断される。
文字通り迷宮に閉じ込められる。
「長谷村美樹彦さんは、都合よく見つかるでしょうか」
「それは『謎』、と言いたいところですけど、難なく見つかるでしょうね。長谷村夏菜子さんは私たちに文字通り『手』をつけたわけですけど、何もしなければ、それ以上のことは出来ないわけですから。何もしなければ」
「じゃあ」
「ええ、お互いに抜き差しならぬ状況ですので、手を下すのは夏菜子さんではなく、必ず美樹彦さんとなるはずです」
玄関のノック音が室内に鳴り響いた。
扉を叩く。
扉を叩く。
扉を叩く。
「え」
「お客様、頑張って、逃げるんですよ」
扉を叩く。
扉を
「ごめんください」
扉の向こうから声がする。
初老男性の、渋めのトーンだ。
聞き覚えがある。
「長さん、いきなりこんなところにどうしたんだ!!かっ帰ろう!何が、一体、長さん!!連絡がつかないんだ。こんなこと、今までだって一度もなかったじゃないか。訳が」
——「訳が、わからないよ!」
人生に疲れた、酒焼けした、何かを諦め続けてきたような、知らないおじさんの声。
扉を叩く。
強く扉を叩く。
「ですから、お客様。今までと同じように、長谷村美樹彦氏と付かず離れずの距離感を保つことが、とても重要なんですよ」
「距離、って」
「ええ。今朝からずっと、お客様と美樹彦氏は、抜き差しならぬ距離感ではないですか。鬼ごっこはずっと前から、始まっていたんですよ」
「長さん!やめてくれ!その先に何があるというんだ!あんた訳がわからないよ!いくら不可触を決めた警察でも、監視をやめるわけにはいかないんだ!俺は止められないから!頼む、俺の、俺のいる前でだけは、やめて欲しい!!」
「気付いていなかったのは、」
「ええ、お客様だけです」
迷言さんは、笑顔を崩さない。
アキバカラ、イケブクロマデ、鬼ゴッコ。
「ほらお客様!早く動かないと!でも大丈夫!何となれば、私の《迷図謎掛》で小石ほどの大きさの『謎』になれば、背後から一撃!何てことも出来るんですから!」
扉を叩く音が聞こえる。
扉を叩く音が大きくなる。
「ごめん、ください」
こんなもの、抵抗すら出来ないのに
——対抗、出来るのか?
「出来ますよ、お客様ふふっ」
迷言さんは、明るく笑いかけ、背後から自分の手を取る。
そして、まるで人形を操るみたいに、歩き始める。
「こう見えて、自分の能力には自信があるんです。舞台は池袋!池袋まで行けば——楽しい楽しい脱出ゲームの、始まり始まり。きっと、楽しくって、美樹彦氏も人を殺すことを忘れてしまいます」
迷言さんが足を踏み出す。
自分も合わせて足を出す。踊るように。滑稽に。
殺人鬼から、逃げるように。
勝算が雑すぎる、と言おうとしたが、迷言さんが人差し指を立てたから、自分は口を閉じた。
「知ってますか?楽しいと人間は死ぬんです。本当ですよ?」
歩く。歩く。迷言さんに操られて。
扉を叩く音がする。
知らないおじさんの喚き声が聞こえる。
逃げる。逃げる。殺人鬼から。
二人で踊るように、逃げる。
勝手口から、自分たちは外に出た。
「この絞殺鬼ごっこは、池袋に着くまでに追いつかれたら負けです。ルールは簡単。美樹彦氏の能力に対抗するために、あらゆる手段を試していくだけ。選択肢を間違えればゲームオーバー、死にます」
「死って」
勝手口から外に出て、道路を歩く。
歩調はすでに、かなり速いペースまで上がっている。殆ど走っているようなものだ。
さっきまでいた場所から、豪快に何かが破壊される音が聞こえる。
「美樹彦氏の霊能力は——魔人能力なので、ルールがあります。『美樹彦氏の殺人を邪魔する者は全部死ぬ』。例外はありません。直接危害を及ぼさなくても、逮捕しようとしただけで警官隊が全滅した例もあるそうです。あっそこの曲がり角を右です」
自分は、迷言さんに抱きつかれて、密着しながら、手取り足取り、全力で殺人鬼から逃げている。
なんだこれは。
「じゃあっ、ハァっこうして逃げるのも、不味いんじゃないですか!?悪霊に、っ邪魔してるって思われたら」
「ええ、『邪魔』かどうかを判断するのは悪霊さんですから、もし、このままお客様が殺人鬼から逃げ切れば、その瞬間に殺されるでしょうね。悪霊の、長谷村夏菜子氏に」
「そんな——」
息が続かない。
なのに、迷言さんは息一つ乱れていない。
視界がブレる。体幹を維持できないからだ。ここがどこか、よく分からない。
雑踏が、見える。
自分たちは、雑踏の中を紛れ込んで走る。
どうやら、自分と迷言さんは、
迷図謎掛で、本当に小石程度の黒い影に見えているようだ。
通行人の誰も、自分たちに気がつく様子はない。消防士や警察官もいるのに、まるで気付いていない。
その代わり、すぐに遠くから、悲鳴と、叫び声、破壊音が響き渡った。
やがて、静寂。
不意に静まりかえった街中に、だんだん、マラソンランナーのような息遣いが聞こえてくる。
追いかけられている。
真っ暗闇の中、不規則に乱れた息遣いしか聞こえてこない。
「繰り返しますが、お客様。安心してくださいな。長谷村美樹彦の殺害対象に入っているうちは、悪霊もまた、お客様に手出し出来ませんよ。『誰も長谷村美樹彦の殺人を邪魔できない』。悪霊とて、手出しは出来ないんです。ルールに例外はありませんから」
そんな、
そんな、対処法が
「…ハアッ……ハアッ息がっ…」
「無敵の能力の論理的欠缺ですねえ。邪魔者を全部殺す能力なのに、当の能力者本人が邪魔だなんて。ほんとうに、美樹彦氏を立てるためだけの能力なんですねえ。良妻というか、父権主義というか」
そんなことを言っている場合ではない。
息が続かない。
足を止めたくて止めたくて堪らない。
のに、脚は迷言さんのペースに合わせて、止まれない。
殺人鬼も怖い。
しかし、これは
やがて美樹彦さんに追いつかれるから、悪霊に殺されないだけじゃないか!
迷図謎掛で東京中の殺人鬼を殺すという、迷言さんの脅し。
それに対抗して、変なことをすれば即座に呪い殺すぞ、という、悪霊からの脅し。
抜き差しならぬ状況。自分たちを殺すために動き出した、長谷村美樹彦さん。
逃げる自分——逃げている限り、悪霊だけは手出し出来ないという膠着状態。
今どのくらい走っているのか。全然わからないけれど。
日はもうとっぷり沈んでしまった。
「全ては、迷図謎掛であの霊に対抗しうる、という前提で成り立つんですけどね。あら」
その時——公園を通りかかった——
——路上に、茶髪の女の子がいた。
——チカちゃんだ。
「うっ」
瞬間、
首から背中にかけて、異様な雰囲気を感じ取った。
まるで汚い布で包んだ氷を皮膚の下に入れられたみたいな、嫌な悪寒。
視界が吹き飛ぶ。
転んだから
道路が、爆発した。
違う。
車が頭上を飛び越え——目の前に墜落したのだ。
「せんぱァい、だぁれ、その女」
——見えている。
——チカちゃんには——長谷村夏菜子には、迷図謎掛が見えている。
「うう、うおえええええ」
あまりにも気持ち悪くなって、自分は口から吐いた。
口から出てきたのは。黒く濁った墨のような液体。
それに混じって、目玉。多分、チカちゃんの。
本物の目玉だ。芋虫みたいな感触だな——
「ああぐっ、おおおおおおえ」
悪寒が止まらない。
死ぬ。
呼吸が凍てついて死にそうだ。
「ああ、あああああああ、うわああ」
道路を塞がれた。
迂回しないと、
すぐ後ろには、
長谷村美樹彦が立っていた。
「ひっ」
「ああっ、ハアッ、ゼェッゼヒッ、ハアッ、フゥッ、ああっ」
歳のせいか。息つぎ、息つぎに苦労している。
美樹彦さんは。自分達を見ていない。
見えてないのか。
しかし。その表情は——
——誰かの話に耳を傾けているような?
「そこに、いるの、かい?」
「お客様——」
「ああ、右だね?右に、フゥッいるんだ、ね」
作業服を着た、初老の男は、紳士然として、何もない方向を見つめる。
「何?ハアッ、反対側かい?ハアッ、そそっかしいなあ」
「お客様——」
「ハアッ、ハアッ!そこ、かな!?」
紳士然とした男は——長谷村美樹彦は——A級殺人鬼KY-017は、こちらを向いた。
手を伸ばす。
彼の手が、自分の耳を掠る。
「お客様——迷図謎掛なら悪霊に気付かれないという前提が、崩れてしまいました」
迷言さんは、口から黒い液体を吐き出した。
笑いながら、
彼女は崩れ落ちる。
動かない
「あああああああ」
道路に崩折れた迷言さんを自分は受け止める。
どうして、殺人鬼なんかを殺せるなんて思ったんだろう——
——逃げなければ。
迷言さんを抱きしめたまま、這いずるように、逃げた。
美樹彦さんの荒い息遣いが聞こえる。
離れないと。離れないと。
ここから、離れないと。
荒い息遣い。
「お客、様……」
迷言さんが、震えながら人差し指を自分の口に当てる。
口から鼻から、黒い液体と血が垂れ流れている。
手首。紫色の手型はもはや、骨まで折ろうと締め付けるように浮かび上がっていた。
邪魔なんてしてないのに——
自分たちは、殺人鬼に絞殺されるしかないのに——
——「夫が殺すたび、能力が、だんだん強くなってまして」
長谷村美樹彦が人を殺すたび——
——悪霊が、強くなっている?
悪霊から、こちらを邪魔することは、出来るのか!?
「お客様、おそらく、すべての手立ては通じません。逃げて…ください逃げるしか…」
殺人鬼の荒い息遣いが聞こえる。
静寂の中。
と、そのとき。
バツンと、
何かを断つような音がして
——チカちゃんが
——チカちゃんなのか?アレは?いや違う
——遠くから、人影が
——這いずるような音
——音と、映像のリズムが合わない
——すごい速さで、こちらに向かっている。
——電灯が不自然に明滅
足元に激痛を感じる。
何だ。何がおこっ
はっ
ははっ
「《長谷村夏菜子》っ」
自分の両足首が、無くなっていた。
血がドボドボと出ている。
「ハハハハハハハッ!アハハ!」
——見えない人影?
——何も見えない。近づいていると思っていたのは、何も見えない存在だった。
——見えない《長谷村夏菜子》
——悪霊が霊視える
自分は諦めたように笑っていた。
「いいえ、迷言さん。ひとつだけ、」
——「ひとつだけ、長谷村美樹彦に対抗する術が——ありましたよ。」
自分は、力なく項垂れる迷言さんを抱えながら、地面に無様に転がりながら、言った。
嗚呼。
この女は、
こんなときでも、自分に決断させるつもりなんだな。
荒い息遣いが聞こえる。
背後に。背後に、長谷村美樹彦が立っている。
「ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!」
荒い息遣いが——聞こえる。
「ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!」
目の前には、見えない《長谷村夏菜子》。
背後には、荒い息遣いの長谷村美樹彦。
無敵の能力に対抗するには
——遠距離からの狙撃は引き金を引く寸前に狙撃手が死んだ。
——飯に毒を盛ろうとした時は、毒薬を取り出す寸前に刑事が死んだ。
なら
迷言さんが自分を使うのではない。
——自分が、迷言さんを使えばいいんだ。
自分が迷言さんを使って、迷図謎掛で長谷村美樹彦の生殺与奪を奪えば——
「迷言さん、大好きですよ」
——自分は死ぬけど、迷言さんは生きられるかもしれない。
自分には、迷言さんが好きだという選択肢しか許されていないから。
それが、人としての役割だ。
自分は、歪みきった笑顔で迷言さんを見つめる。
血まみれでも美人だな。
「自分のものになってください」
「良いですよ、お客様。詰丸様」
迷言さんは、快活に笑っていた。
嬉しいから笑うとか、諦めて笑うとかではない。
心の底から、楽しくて、楽しくて、仕方のない顔だ。
なんで笑っているんだ。この人は。
「ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!」
長谷村美樹彦の顔が、覗き込む。
「ハアッ!ハアッ!ハアッ!」
痩せた顔。
端正な顔。
老けた顔。
殺人鬼の顔。
どうして——
——どうしてこの男は、泣いているんだ。
「ハアッ!ごめん、ハアッ!ハアッ!ハアッ!ハアッ!ごめん、ごめん」
号泣している。
心の底から嫌そうに、泣いている。
「ひっ」
「ごめん、なさいっ」
一度ひるんだときには、もう遅かった。
その汗だくの手が、自分の首を掴む。
掴っぐっむむ
いつの間にか、迷図謎掛が解除されていて、美樹彦さんにも、自分たちは見えている。
迷言さん。
迷図謎掛で、美樹彦さんを殺すんだ。
たったそれだけ、言えばいいだけなのに
——翁名若菜。
——「おかえり。まるまる。さて、今日はどんな風に私を殺すの?」
——「死ねよ」
——「はあ?」
——鏡に映った自分は、苦痛に歪んだ泣き顔をしている。
眼前の美樹彦さんは、苦痛に歪んだ泣き顔をしている。
——「はぁっ?ちょっ?何よ、そんな怖い顔して。ちょっ…やめて、近づかないでよ、ほんとやめて、」
——「いやっ!近づかないでよ!いやあっ!いやあああああああ!」
いやだ
——「ぐっむっんん!んんー!んんー!」
「やめて!やめて!」
息が出来ない。
——首絞めって、全力疾走しているみたいに体力を使うのか。
——彼女が暴れる。自分は翁名若菜の口を無理やり押さえて、
——何度も何度も殴って、無理やり黙らせる。
自分は暴れた。長谷村美樹彦は自分の口を無理やり押さえて、
何度も何度も殴って、無理やり黙らせた。
——馬乗りになって、両手で首を締める。
馬乗りになって、両手で首を締める。
——眼から零れ落ちた涙が翁名若菜の顔に掛かる。本当に嫌そうに、彼女は両手両足をバタバタと暴れ回す。
眼から零れ落ちた涙が自分の顔に掛かる。本当に嫌そうに、自分は両手両足をバタバタと暴れ回す。
息が
死
迷言さん。
「あぁっ!そういうことだったんですねえ!」
迷言さんが、
愉しげに、長谷村美樹彦を覗き込む。
「いやぁ、警察のファイルを読んだ時から、そんな気はしていたんです!悪霊の能力は分かるとして、人格まで常識人になるなんて!」
立っている?
迷言さんは、立ってしゃがみ込んで、長谷村美樹彦を覗いている。
気力だけで、無理やり立っている。
「その顔ぉ、殺人鬼のしていい表情じゃありませんよお。本物のシリアルキラーは、涙なんて流さない筈です!あなたも、きっと昔はそうだったんでしょう?」
長谷村美樹彦の手が止まる。
手が、
止まるなんてこと。あり得るのか?
「私、人生で初めて男の人に告白されちゃって、舞い上がってるんです!——その表情は《長谷村夏菜子》の影響ではありませんね?」
長谷村美樹彦の表情は
「ずばり、精神汚染能力!生前の長谷村夏菜子氏の——さしづめ《長谷村美樹彦》の影響でしょう?」
美樹彦さんの表情が固まる。
——《長谷村夏菜子》
——《長谷村美樹彦》
「気付いてましたか?もうとっくに池袋に付いていましたよ」
殺人鬼の荒い息遣いが聞こえる。
否。
殺人鬼の荒い息遣いしか、聞こえない。
いつの間にか、それ以外の声は、何も無い。
〼虚迷言。
嘘ノ謎。
街中が、発狂していた。
《歪な共犯者》
妻の細い首。
全然栄養が足りていない。
なんて不細工な首だ。触り心地が悪い。
苦労かけてしまっていたんだなあ。
もう妻の笑顔を見れないと思うと、流石に涙までは出ないが、非常に残念な気持ちだ。
夏菜子が両手両足をジタバタと動かす。
殺虫剤をかけた虫みたいだ。
なのにどうしてだろう?
どうして自分は、この女を愛しているのだろう——?
本当に嫌々、人を殺している。
目撃者を殺すときだって、こんなに嫌ではない。
多分、本当に価値がないからだ。
ただただ疲れるだけの作業。警察に逮捕されるまで、ただの八つ当たり。
と、その時。
泣いて暴れていた夏菜子が、突然動きを止めた。
死んだわけではないだろう。
だが妻は、右手を高く上げると、
俺の顔を、ガシリと掴んだ。
「ああっ?がっあっ!あっ!あっ!あっ!」
奇妙な感覚があった。
頭に靄が掛かって、道が塞がれるような感覚。
自分は、妻の首を締めようと力を込める。
だが、出来ない。
道の途中に妻がいて、立ち塞いでいる。
「あっ!あっ!あっ!あっ!あっ!」
孫悟空の輪?
頭に激痛が走る。
人を殺してはいけないという、当たり前の観念。
俺は。急にすごく嫌な気分になった。
何で。何で。何で。何で。何で。
何で。何で。何で。何で。何で。
何で。何で。何で。何で。何で。
何で。何で。何で。何で。何で。
何で。何で。何で。何で。何で。
何で。何で。何で。何で。何で。
何で。人を殺したらダメなんだ?
「あああっ!あああああああ」
思わず、妻の首を絞める手を離してしまう。
そのまま、そうすることが当たり前だったかのように、グッタリと倒れる妻を抱き留めようとする。
これからは良い夫になろう。
罪を償って、殺した人たちに、死ぬまで謝り続けよう。
はあ?何を考えているんだ?俺は?
「夏菜子っ!」
「嫌っ」
触ろうとした俺の手を、夏菜子は汚らわしいもののように叩いた。
涙を流して、怯え、俺から距離を取っている。
「これは?——お前が?」
「ううっ…ううっ…ぅぅぅ」
妻の潰れた声帯から、獣のような唸り声が聞こえる。
俺を恐れている。
「これは?話に聞く魔人能力か?今目覚めたのか?この感覚は何だ?これは」
「……」
俺に、償えと言うのか。
ただそれだけのために、能力に開眼したのか。
なんで——
妻は。
「….うっぅ…ぐっ、」
「夏菜子」
「大っ嫌い!」
潰れて嗄れた喉から、俺を罵倒する声が聞こえた。
なんて、身勝手な女だ。
こんなとき、追い詰められた夫を健気に支えるのが、妻の役目ではないのか。
何が夫婦同権だ。俺に勝手に倫理観を押し付けて、自分は好き勝手するのか。売女が。
阿婆擦れ。ゴミカス。クソ女。
殺したい。殺せない。
女は男に尽くすべきだ。
俺の邪魔者を排除しろ。
人を殺したい。でも出来ない。
俺の女なら、月に一度くらいは許すべきだ。
俺もそのくらいは譲歩してやるって。言ってんのに。こいつは。
クソ女。クソ女。クソ女!
俺の邪魔者くらい、全員ぶっ殺すくらいしろ!
警察も全員殺せ!
代わりにお前が逮捕されろ!
全力で愛しているから。お前だけしか愛していないから。
夏菜子、愛してる。一生俺の世話をしろ。
関西弁なんか死んでも喋るな。
俺の大好きなお前の笑顔を、永遠に俺だけに向けていろ。
笑うだけの装置ごときが。
俺は自分の本性が怖くって、涙を流した。
ごめん。ごめん。
何を謝ってるんだ?俺は。
人を殺したい気持ちに、なりたい。
『あなた』
後ろから、
嗄れた妻の声が聞こえる。
目の前に、妻がいるのに。
「….夏菜子?」
「…?」
『はい。長谷村夏菜子です』
夏菜子が——俺にもたれ掛かっていた。
いつも笑っている、魅力的な笑顔の夏菜子が。
『あなた。この女を殺しましょう』
「かっ夏菜子を!?いや、俺は——」
『殺すんですよ。夏菜子は私ですよ。あなたの、あなただけが大好きな、大好きな夏菜子です』
「夏菜子——」
嫌だ。
人を殺してはいけない。いけない。
俺はもう、人を殺せないのに——
ものすごく夏菜子を殺したくなってきた。
『手をね、こう、力を入れるんですよ。ほらほら、早く押さえつけないと抵抗されちゃいますよ』
「夏菜子——」
——大好きなのに。
「嫌っ近づかないで!」
大好きな夏菜子の声ばかり聞こえて——
大嫌いな夏菜子の声が聞こえない——
夏菜子が怯えている。心が張り裂けそうになる。
「ひっ」
嫌だ
『大好きよあなた』
「くうっぐうううう」
『大好きよ』
「んっかっ、かっ、かっ、」
妻の顔面が紫色に染まってゆく。
嫌だ。涙が止まらない。嫌だ。
殺したくない。絶対にぶっ殺してやる。
夏菜子。知ってるかい。
人が窒息死するときはねえ。
こんな風に、喉が潰れて。押さえつけた隙間から、空気が漏れだすんだよ。
ほら。
嗚呼、嗚呼——
「きゅうううううう」
——鳥の鳴き声が聞こえる。
『ええ。勿論知っているわ。大好きよあなた』
夏菜子は、俺だけに笑顔を見せていた。
鳥の鳴き声が聞こえる。
◆ ◆ ◆
あれから何年経った?
鳥の鳴き声が止まない。
どれだけ逃れようとしても。
絶対に妻は付いてくる。
『あなた。あの女よ。殺して。私のために』
そんなことを、月に一度は言ってくる。
貞淑で心優しい妻。
俺のことが大好きな妻。
いつも笑顔を俺だけに見せてくれる妻。
『あなたっ!早くあの女を殺して!早く!あなたのためなの!!早く殺してええ!!!』
そして今。
夜中の街中で、池袋なのか。ここは。
妻は、いつもより口喧しく、女を殺せと喚いている。
殺したくない。殺したくない。殺したくない。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。
『なんで先にあの女を殺さないの!?そっちは後でいいの!!美樹彦さん!なんで、なんで、なんで——』
殺す。
今朝、妻はいきなり、男女を殺せと言ってきた。
それが俺のためなんだと。
よく出来た妻だ。危険を察知して、知らせてくれるとは。
妻はどんどん便利な女になっていく。
嫌だったけど、追いかけて追いかけて。
追いかけた先に——女が二人いた。
ひとりは、黒髪の長いメイド服を着た女。右手の小指がない。
正直、首は趣味じゃない。
もう一人は、白髪混じりの髪をツインテールに纏めた、これまたメイド服を着た女。見た目よりも若い。
痩せて線が細いのに、体型がしっかりしていて、身体中痣だらけだ。
右眼はアイパッチをしていて——くり抜かれているのか。
顔中包帯と絆創膏だらけで、顔つきがわからない。
日常的に虐待を繰り返されているのだろう。左手首から先が無い。包帯を何重にも巻いている。右手の小指もない。
両足首から先は、さっき妻がもぎ取ったので、無い。
首は——なんて嗜虐心をそそる首なんだ。
『美樹彦さん!そいつは男なの!女のほうよ!女を殺して!』
知ってる。でも俺は、もう手を止めていた。
「じゃじゃーん!ドキドキ体力レース〜パチパチパチ〜です」
女、黒髪の女が、巫山戯た調子で言った。
ああ、成る程なあ。
「お客様、詰丸様!迷図謎掛が悪霊に通じないことが判明した時点で、私たちのあらゆる対抗手段が無駄だと判明しました!」
「迷言さん」
「はい!お客様!お客様の覚悟も虚しく、全ての手段が悪霊によって潰えた——だから、これは長谷村美樹彦氏が、自分で勝手に、選んだ選択肢なんです!」
成る程なあ。
「だって私たちが選んだ手段は全部潰えちゃったんですから。この結果は、美樹彦氏の意思によるものなんですよ!私たちはもう逃げるか、——」
——「長谷村美樹彦の仲間になるしかないんです」
『駄目よ!受け入れちゃ駄目!あの女はあなたを害するつもりなの!騙されないで!』
妻が甲斐甲斐しく忠告する。
「いいや、違うよ」
「だからドキドキ体力レースなんです!周りをご覧下さい!」
俺は周囲を見渡す。
周囲には
黒い立方体で出来た不出来な人形達が、痙攣しながら転がっている。
暗くて全然分からなかったけど。
ずっとそこにいたのか。
何人、何十人、何百人、何千人、何万人、何十万人もの人々が。
みんな——こんな黒い立方体の塊にされているのか。
あちこちの建物が燃え盛っている。
電柱は倒れ、ありとあらゆる車は事故を起こしている。
死体も沢山、転がっている。
なんで気付かなかった?いや——
——これらの光景もまた、今の今まで黒い立方体に包まれていたのか。
夜闇に紛れたら、黒い立方体は目立ちにくい。
「最初はですね、池袋全体を包んで、脱出ゲームを用意していたんです。楽しいですよ?外からも内からも迷図謎掛を満たして、視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚も痛覚も——ありとあらゆる情報を遮断する、池袋脱出ゲームです」
女が、人差し指を頭上に掲げる。
すると、出来の悪い人形達の首から下が溶けてゆき——学生服を纏った、スーツを纏った、私服を纏った、警察官の服を纏った人々の肢体が露わになる。
みんな不自然に痙攣して頭には黒い立方体が嵌ったままだ。
「でも、美樹彦氏は来ないし。誰も脱出出来ないし。無駄になってしまったんです。このために、池袋の警察官も全員いなくなってもらって、警察本部にだって一先ず消えてもらったんですよ?」
息を切らして、刑事、井野上義昭——イノさんがこちらに向かって走ってくる。
「ははっ、ハアッハアッ!ははっハアッハハハハハハハ!なんだ、コレは!アハハハハハハ!アハハハハハハ!ハハハハハハハ!」
イノさんは、笑っている。
「なんだこれは!どうりで警察本部と連絡が付かないわけだ!こんなこと出来る奴がいたら!昼間の警備なんてなんの意味があるというんだ!!ハハハハハハハ!こいつはおかしい!」
イノさんは、辺りに転がっている、セーラー服を着た黒い立方体の頭の学生を指差した。
「長さんっ!見ろ!アンタのせいだぞ!アハッ!ハッ!ハッ!こいつらは全員!アンタに縊り殺されるためにここへ来てるんだ!!そうに違いない!!ハハハハハハハ!」
俺のために
全員、俺のためにここにいるのか。
「大正解です、義昭氏。みんな朝から池袋を出られずに、ずっと待っていたんです。突然五感を全部剥奪されるとですねえ、嫉妬美さんみたいに強い人もいますけれど、それでも一晩持たないんです。心が壊れてしまうんですよ」
池袋の人間が、
全員、池袋の昼間人口何十万の人達が
その中の何万人もの生き残った首の綺麗な女の子達が、
みんな!
俺に絞殺されるためだけに、今ここにいるのか!!
「だから、池袋から脱出できなかった可哀想な皆さんをどうしても、私の意図するところでは、ないですよ?」
女が、俺に近寄り、耳に息を吹きかけるように、優しく呟く。
「もし断るなら、ずっとこの調子で、あなたの周りの人間を壊し続けます。だって、それはあなたの邪魔には一切ならないんだから。だから美樹彦氏。さあ、あなたの体力が尽きて死ぬまで、人を殺し続けてくださいな」
『駄目よ』
夏菜子
『その女はあなたが疲弊して死ぬまで、人を殺させるつもりよ』
「その顔を写真で見たときから、ずーっと気が付いてましたよ。『あ、この人、殺したりないんだあ』って」
『明確な害意を以て、あなたに人を殺させているだけ。口車に乗っては駄目よ』
「良いじゃあないですか。倫理観のブレーキなんて壊してしまえば。ほら、周りを見てくださいな。壊せるんですよ。みんな、みーんな壊れちゃってるじゃないですか。月に一人なんて、本当はとても満足出来ないんでしょう?」
『あなた、お願い』
「その悪霊を捨てて、私の側に付くだけで、文字通り死ぬまで人を殺せるんですよ?誰にも止められない。破格の条件じゃあないですかねぇ」
『あなた——』
「煩えな」
俺が一言文句を言うと、
夏菜子は押し黙った。
「さっきからベラベラ、ベラベラと。亭主に向かって何様のつもりだ貴様。いつから俺に命令できる立場になった!?ええっ!おいっ!」
俺は走ってその辺の立方体頭の女の首を掴む。
全然首の感触がない。女の能力か。
なのに、なんでだこれは
今までで、一番気持ちが良い。
『ああ!やめてあなた!やめて!やめてやめてやめて!ああああああ!』
夏菜子の声が聞こえる。
笑顔の固定された夏菜子が断末魔を上げる。
「ふふっお客様。詰丸様。そこに馬鹿がいますよ。殺しの邪魔をする無敵のカウンター能力なんて——じゃあ、殺しの手伝いをすれば良いんですよ。明確な害意でね」
「嗚呼…この場合、悪霊は害意のある迷言さんを殺さないといけない。それがルールだから。でも」
「ええ。私を殺すと、悪霊は長谷村美樹彦の殺しの邪魔をすることになりますねえ。だから、私を殺す行動を取ろうとした瞬間、《長谷村夏菜子》は自分で自分を破壊してしまうんですよ」
メイド達が会話をしている。
その横で、夏菜子が、自分で自分の顔面を掴んで、引きちぎっていた。
本当だ。馬鹿がいる。
夏菜子はこの世のものとは思えない叫び声を上げ、ドロドロに分解して引き摺り込まれていった。
「体の不調も治りましたね。悪霊退散、悪霊退散っと、ふふっ」
女は、快活な笑みを浮かべてこちらに歩み寄ろうとする。
と、そこへ尖った破片を持った井野上刑事——イノさんが俺の方へ突っ込んできた。
「死いぃーーーねえええええーーーーっ!」
破片が脇腹に刺さって、俺は倒れこむ。
再び破片。今度は右太腿に突き刺さる。
「死ねっ!死ねっ!お前なんて死んでしまえ!死んだほうが世界のためだ!今まで殺し続けてきた人たちに土下座しろ!地獄に落ちて永劫苦しむんだ!死ーーねー!」
刺さる。刺さる。
——「おめでとう、長さん! 本当におめでとう。ささ、もう一杯、もう一杯!」
俺はイノさんを抱きしめる。
——「いいじゃん、いいじゃん。今日はお上の奢りだよ、税金で酒が飲めるチャンスだよ?」
そうですね。今日くらい、たくさん飲みましょう!
そうか。そうだったのか。
「イノさん。アンタが本物の夏菜子だったんだなあ。どおりで。長い付き合いになるわけだ。なあ、何十年」
「ひっ、何を、何を言って、」
「今度は途中で止めずに、最後まで締めてやるから。愛してるよ、夏菜子」
「どこにそんな力がっ、やめデェっギイィィィィイ」
——「よっ!長さん!良い飲みっぷりだネェ!」
「ガァァァァァァ」
殺す。全員殺す。
池袋の人間を全員殺す。
もう夏菜子の笑顔は見えない。
俺には人を殺すという選択肢しか残されてないから。
◆ ◆ ◆
沢山時間をかけて、街中の人間を沢山殺した。
その間中、ずっと股間の疼きが収まらず、俺はずっと、ずっと興奮しっぱなしだった。
最高の夜だった。
不意に、女が目の前に立った。
人差し指を俺に向けると、
「ふふ。これで全ては『迷宮入り』——」
それきり、目も、耳も、鼻も、口も、皮膚も、神経ですら。
何にも効かなくなった。
何にも感じなくなった。
「夏菜子!おーい夏菜子!何処にいるんだ夏菜子ー?出ておいでよー」
俺は叫んだような気がするが、俺の叫びは俺にすら届かない。
何にも聞こえないんだから。
俺は叫んだ。叫び続けた。
立っているのか、座っているのか、転んでいるのかすら分からない。
何も見えない。自分の姿すら見てない。
泣き叫び続けていたら、目の前に親鳥が現れた。
キーキー五月蝿い親鳥め。締めて卵ごとスクランブルエッグにしてやる。
駄目だよ。そんなことしたら。
鳥。鳥。鳥。鳥。
親鳥が沢山いる。
五月蝿くって叶わない。
嗚呼、雛鳥
ここは雛鳥の口の中か
「いいいやああああああああ!!!いや!やめて!餌にするのはやめて!!お腹の子だけは殺さないでー!!夏菜子ーーーー!!何処にいるだ夏菜子ーーーー!!助けて!いやあ!いやあ!父さん!母さん!なんで自殺なんてしたの!?置いてかないで!お腹の子だけはやめやめててててて家から出てって!!悠里!悠里!悠里!悠里!悠里!悠里って名前の由来知ってるか!?殺した女の子の赤ちゃんの名前なんだ!!俺はこんなに罪悪感を感じてたんだヨォォォーーー!なんでバブルは弾けちまったんだよ!どうして会社は俺を捨てたんだ!俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺はこんなにも繕ってきたのに!みんなが俺を虐めるんだ!!関西の人間は心が冷たいから嫌いだ!結婚なんてまだしたくない!!世間体なんて大っ嫌いだあ!遺族に毎日手紙を書くから!俺だけは他の殺人鬼と違う!!無敵の能力!最強の男!どうだ!父さんは強いだろう!?街を守るヒーローなんだ!パパは抱っこしてくれないから嫌いだ!先輩!練習頑張ってまっすっよっねっっへっ誰だよ!?誰なんだお前は!!俺は俺は俺は叫んだ!みんな死んでくれーーー!!悠里!夏菜子!パパ!パパ!パパがね!ぼくの首をギュッてしてくるの!ぼくね!ギュッてされたら気持ち良いけど!ギュッてされて泣いちゃった!うううううーううーううー頑張ってまっすっううーー!!きゅうううううう」
俺は
◇ ◇ ◇
結局、壊れてしまった美樹彦さんは人を殺し続けた。
滅多刺しにされたにも関わらず、執念というか、妄念というか、兎に角、最期まで動き続けた。
最期は、手を止めたところで迷言さんによって出来の悪い人形にされた。
しばらくして小刻みに震えだしたが、やがて静かに動きを止めた。
その直前、
彼はもう泣いてはいなかった。
泣きながら、笑っていた。
目が、喜びに輝いていた。
自分は殺人鬼の歓びに膨らんだ股間を見て、本当に気持ち悪いと思った。
——長谷村美樹彦さんと初めて会ったのは暑い夏の日の図書館でのことで、
——その日、返却待ちの図書を持って来たのが、偶々美樹彦さんで、
——ちょっと雑談でも、という運びになり、
どうでもいいか、そんなこと。
心底どうでもいい。
追いかけられて、池袋の手前に出来ていた人だかりを通ったとき——警察官や、消防士までいた。
あれはまあ、こういうことだったんだろうな。
それでも殺戮は0時30分くらいには止んだ。
出血多量。疲労困憊。加齢による体力低下。精神的ショック。日常的な飲酒。
そんな人間が、急に運動なんかしたらどうなるか。自分にもわかる。
急性心臓ショック。
長谷村美樹彦を止めようとする警察の努力は、決して無駄ではなかったのだ。
知らないおじさんだって、あの人が長谷村美樹彦を刺したりしなければ、あとどれくらいの人が手に掛けられたか分からない。
それでも、例え美樹彦さんが途中で手を止めようとしても、出来なかっただろう。
だって、自分の能力は《歪な共犯者》。殺人事件が起こる能力。
厳密には自分の眼の前で殺人が起こる確率を高めるという能力なのだが——自分が近くにいる限り、長谷村美樹彦は池袋民の絞殺を途中で止められる確率は下がる。
〼虚迷言さんの策は、池袋に自分と美樹彦さんが辿り着いた時点で完成していたのだ。
迷言さん——
「お客様っ」
迷言さんは、操り人形みたいに自分を抱えて、心底嬉しそうに笑っていた。
「見てくださいほら、お客様の足首からの出血が止まってますよ!きっと、悪霊がいなくなったからでしょうねえ。大好きっ!ほら、ぎゅーって」
迷言さんが抱きついてくる。相変わらず貧相な体格の感触で心を癒される。
「人を愛するってこんな気持ちなんですねえ!これは人として愛着が湧いてしまいますねえ!私、子供の大好きなシャープペンシルを無くしてしまったんですけど、それが戻ってきた気分です!」
「自分も愛してますよ」
「…はいっ!」
愛しているから。
誰かこの異常女を止めてくれ。
池袋…被害甚大。殺人鬼同士が対決。死者、行方不明者、怪我人多数。警察官の被害も多数。建造物多く損壊。事故多数。被害額計測不能。発狂した人々の救出が待たれる。また、周辺に集まっていた見物客や警察、消防なども不審死した。
地下鉄…被害甚大。地下鉄全線で死者、行方不明者、怪我人多数。警察本部内部に「予備として準備した」との不審な書き置き有り。一刻も早い運転再開が待たれる。
警察本部…建物一部にて警察官の被害多数。内部資料の幾つかが持ち去られる。
《長谷村悠里》
オギャア、オギャア。