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筒井城の戦い - (2008/01/18 (金) 06:38:14) の編集履歴(バックアップ)


筒井城の戦い

筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)は永禄7年に織田家と姉小路家の間で行われた戦いである。
後の日本の情勢に大いに影響した。

概要

この戦いの前に尾張を武田5万、伊勢を北条3万の兵で同時に攻められた織田家は敗走し、残った2万の敗残兵と将が筒井城に逃げ込んだ。
さらにタイミングで雑賀衆が筒井城を襲撃し、織田家は辛うじて撃退したものの多くの負傷兵を抱えさらに物資兵糧は尽きかけていた。
この状況に乗じた姉小路家の竹中重治浅井長政朝倉宗滴が率いる2万9000の兵が筒井城を急襲、
対して織田信長は良く将兵を統率し、矢弾が尽きてもつぶてを投げつけるなど激しく抵抗した。
しかしながら、結局は兵糧が尽きて抵抗することができなくなり、開城することとなった。

この戦いは雑賀衆が和泉岸和田城と大和筒井城の連絡を遮断することにより兵糧攻めの形となった。城そのものに大きな損害を与えず、こちらの損害も小さくて済み、多くの投降兵を手にすることが出来る兵糧攻めの有効性が再確認された戦いでもある。戦いの種類としては武田、北条に敗れた織田家の掃討戦であるといえる。

姉小路側の戦略

この戦いにあたって竹中重治は急場にもかかわらず幾重にも策をめぐらしている。例えば、雑賀衆に岸和田城と筒井城の連絡を絶たせて、物資の運搬を阻害していること、完全に城を包囲せずに筒井城に各地からの敗残兵がよりいっそう集まるように仕向けて兵糧をより一層枯渇させようとしていることである。
結局はこの策があたって織田家はさらに多くの兵と将を失い、再起不能な状況にまで追い込まれたこととなる。
また、城を無傷に近い形で落すことにより武田北条連合軍の西進を防ぐことを狙ったとも言われている。もし、力攻めで城を大きく傷つけていたら、姉小路軍が筒井城を落城させた直後に北条氏康が攻めてきて、姉小路家が支えきれずに城を失っていた可能性もあったからである。


織田軍の団結に関する逸話

織田勢は既に尾張、伊勢で大敗ており、姉小路勢と戦った兵士の多くは辛うじて武器を持てるだけで弓すらも満足に引けないような怪我を負っている者も多かったらしい。さらに一度に多くの兵がなだれ込んできたため、筒井城に常備していた兵糧物資もすぐに底を尽き、和泉からの物資の搬入も出来ない状況であった。
このような状況下でも配下の部将達は勇敢に立ち向かった。自身の愛馬を割いて兵の糧とした将も多かったという。
また兵士も少しでも戦える兵士は勇敢に戦い、戦えない者達も城内の草の根を掘り木の皮を剥いで戦える者たちに食料を供給したという。
しかしながら最終的には戦える者がいなくなり、開城せざるをえない状況に追い込まれた。この時に入城した者の報告によると、すでに衰弱して足腰が立つ兵は稀であり諸将も辛うじて槍を杖にして立っているような状況であったという。
しかし、軍全体がこれほど衰弱していたのにも関わらず、戦意は旺盛であった。戦後処理で捕虜になった武将達は仕官の勧誘を受けたが一切応じず、岸和田城の落城して織田家が滅亡したときに初めて登用に応じたという。
ちなみに開城する寸前に織田信長は僅かな護衛と将を引き連れて城を脱出したが、雑賀衆の関を突破する際にも護衛兵が犠牲となり、結局は岸和田城にたどり着けたのは僅か数人であった。

このように織田軍は信長に対する狂信的とも言えるほどの忠誠心で固く団結していた。
なぜこれほどの忠誠心を得ていたかは分かっていないが、やはり本人に資質によるところが大きいだろう。


この戦いの影響

この戦いに敗れた織田家は多くの領土と兵を失い大半の武将が捕虜になってしまったため大いに弱体化された。織田家は岸和田城に篭って抵抗を続けるも、結局は姉小路家によって滅亡させられることとなる。

対して、姉小路家は主だった織田家家臣の大部分を捕虜にし、多くの兵を手に入れた。また、大和一国を確保することにせいこうした。しかし、なによりも大きかったのは筒井城をほぼ無傷で手に入れたことにより、武田北条連合軍の西進を食い止めたことである。
この戦い以前に北条は霧山御所を落していた。北条氏康は西進して筒井城を確保する予定であったが、姉小路軍がほぼ無傷で筒井城を落してしまったため、断念せざるを得なくなった。もし北条家が筒井城を落していれば、武田軍が北条家に道を借りて京に上洛していたことは十分に考えられる。また、北条家の近畿における勢力もより安定しただろうことを考えると、この筒井城の戦いは規模こそ小さかったものの、天下の趨勢に大きな影響を与えたことになる。