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筒井城の戦い

筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)は永禄7年に織田家と姉小路家の間で行われた戦いである。
戦いの規模自体は小さかったが後の日本全体の情勢に大きな影響を与えた。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・観音寺城兵
攻城部隊:足軽隊10000:竹中重治富田景政ルーミア
火力部隊:鉄砲隊9500 :浅井長政霧雨魔理沙蜂須賀正勝
野戦部隊:騎馬隊9500 :朝倉宗滴アリス・マーガトロイド紅美鈴

織田・筒井城兵総勢18168+傷兵(交戦開始時3582)
守将:織田信長
(12月10日時点で、羽柴秀吉10500、毛利新助5000が鈴木家迎撃、両隊帰還時5252)

織田家は良将が多くいるものの、武田・北条・鈴木・姉小路から一斉攻撃を受けており(この戦いの時点で尾張・伊勢志摩失陥)本来の実力が発揮できる状況ではない。

概要

この戦いの前に尾張を武田5万、伊勢を北条3万の兵で同時に攻められた織田家は敗走し、残った2万の敗残兵と将が筒井城に逃げ込んだ。
さらにタイミングで雑賀衆が筒井城を襲撃し、織田家は辛うじて撃退したものの多くの負傷兵を抱えさらに物資兵糧は尽きかけていた。

この状況に乗じた姉小路家の竹中重治浅井長政朝倉宗滴が率いる2万9000の兵が筒井城を急襲、
対して織田信長は良く将兵を統率し、矢弾が尽きてもつぶてを投げつけるなど激しく抵抗した。
しかしながら、結局は兵糧が尽きて抵抗することができなくなり、開城することとなった。

この戦いは雑賀衆が和泉岸和田城と大和筒井城の連絡を遮断することにより兵糧攻めの形となった。
城そのものに大きな損害を与えず、こちらの損害も小さくて済み、多くの投降兵を手にすることが出来る兵糧攻めの有効性が再確認された戦いでもある。

姉小路側の戦略

この戦いにあたって竹中重治は急場にもかかわらず幾重にも策をめぐらしている。
例えば、雑賀衆に岸和田城と筒井城の連絡を絶たせて物資の運搬を阻害していること、
完全に城を包囲せず、筒井城に各地からの敗残兵がよりいっそう集まるように仕向け、兵糧をより一層枯渇させ尚且つ多くの将兵を投降させようとしていることである。
結局はこの策があたって織田家はさらに多くの将兵を失い、再起不能な状況にまで追い込まれたこととなる。

また、城を無傷に近い形で落すことにより武田北条連合軍の西進を防ぐことを狙ったとも言われている。
兵糧攻めでなく力攻めで城を大きく傷つけしまったら、姉小路軍が筒井城を落城させた直後に北条氏康が攻めてきて、城を盾に戦えず、支えきれずに城を失うことを恐れがあったためだといわれている。


織田軍の団結に関する逸話

織田側の記録によれば、織田勢は既に尾張、伊勢で大敗しており、姉小路勢と戦った兵士の多くは辛うじて武器を持てるだけで弓すらも満足に引けないような怪我を負っている者も多かったらしい。
さらに一度に多くの兵がなだれ込んできたため、筒井城に常備していた兵糧物資もすぐに底を尽き、和泉からの物資の搬入も出来ない状況であった。
このような状況下でも配下の部将達は勇敢に立ち向かった。自身の愛馬を割いて兵の糧とした将も多かったという。

また兵士も少しでも戦える兵士は勇敢に戦い、戦えない者達も城内の草の根を掘り木の皮を剥いで戦える者たちに食料を供給したという。
しかしながら最終的には戦える者がいなくなり、開城せざるをえない状況に追い込まれた。この時に入城した者の報告によると、すでに衰弱して足腰が立つ兵は稀であり諸将も辛うじて槍を杖にして立っているような状況であったという。

しかし、軍全体がこれほど衰弱していたのにも関わらず、戦意は旺盛であった。戦後処理で捕虜になった武将達は仕官の勧誘を受けたが一切応じず、岸和田城が落城して織田家が滅亡したときに初めて登用に応じた。
ちなみに筒井城が開城する寸前に織田信長は僅かな護衛と将を引き連れて城を脱出したが、雑賀衆の関を突破する際にも護衛兵が犠牲となり、結局は岸和田城にたどり着けたのは僅か数人であった。

もちろん、全ての織田軍兵士が勇敢に戦ったわけではなく脱走兵も少なくなかった。筒井城の戦いが終わった後、ほとんどの兵士は姉小路軍に降伏し編入された。
しかし他の軍より遥かに強い忠誠心を持っており、固く団結していたことは確かであろう。なぜこれほどの忠誠心を得ていたかは分かっていないが、本人の資質によるところが大きいと思われる。


この戦いの影響

この戦いに敗れた織田家は多くの領土と兵を失い大半の武将が捕虜になってしまったため大いに弱体化された。
織田家は岸和田城に篭って抵抗を続けるも、結局は姉小路家によって滅亡させられることとなる。

対して、姉小路家は主だった織田家家臣の大部分を捕虜にし、多くの兵を手に入れた。
また、大和一国を確保することに成功した。
しかし、なによりも大きかったのは筒井城をほぼ無傷で手に入れたことにより、武田北条連合軍の西進を食い止めたことであろう。
北条氏康はこの戦い以前に霧山御所を落し、伊勢国も制圧しつつあった。制圧後は西進して筒井城を確保する予定であったが、姉小路軍がほぼ無傷で筒井城を落してしまったため、断念せざるを得なくなった。
もし北条家が筒井城を落していれば、武田軍が北条家に道を借りて京に上洛していたことは十分に考えられる。
また、北条家の近畿における勢力もより安定しただろうことを考えると、この筒井城の戦いは規模こそ小さかったものの、天下の趨勢に大きな影響を与えたことになる。