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月山富田城の戦い - (2008/05/22 (木) 02:30:20) の編集履歴(バックアップ)


月山富田城の戦い

月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は永禄10年に尼子家と姉小路家との間で起こった戦い。

参加兵力及び戦力評価

姉小路・鳥取城兵43059+傷兵、此隈城兵
旗本隊   :足軽隊18500:姉小路頼綱遠藤直経ルーミア
第一鉄砲隊:鉄砲隊5000:斎藤利三明智秀満リグル・ナイトバグ
騎馬隊   :騎馬隊8289:磯野員昌海北綱親紅美鈴
第二鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登稲富祐秀遊佐続光

八橋城兵14177(5月5日出撃)
後詰鉄砲隊:鉄砲隊7857:一色義道原長頼浦上宗景
後詰本隊 :足軽隊6320:三木顕綱江馬輝盛別所就治

尼子・月山富田城兵33860
第一迎撃部隊:足軽隊9000:尼子晴久
第二迎撃部隊:足軽隊9000:尼子義久山中幸盛
第三迎撃部隊:足軽隊6500:佐世清宗

姉小路軍は各軍団長が戦線を離れたものの、姉小路頼綱が陣頭に立ったため士気旺盛である。加え、美濃・北近江衆の精鋭、播磨衆がいるため、戦力としてはなかなかのものである。
対する尼子軍はいくらか不本意な戦であるためか、士気はあまり高くない。しかしそんな中でも山中幸盛配下は士気・練度共に高く侮れない存在である。

概要

姉小路頼綱は出雲侵攻の足がかりに別所就治に八橋城築城を命じた。城は三月初頭完成し、これを受けて3月5日、鳥取城より頼綱は総勢4万余の軍で月山富田城へ進軍した。この報を受け取った尼子家は美保関港に最低限の守備兵を残してほぼ全軍を月山富田城に集結させた。月山富田城はその城下が鉄砲櫓と弓櫓が複雑に配置されている難攻の城であり、姉小路軍も当初は城下の一部に火をかけたのみで積極的に城攻めを行なえなかった。3月30日、尼子軍はほぼ全軍をもって城下町の外まで迎撃している。これは、尼子軍は一部を除いてな士気も低く、長期戦となれば諸将が分裂する恐れがあったので、迎撃して勝てばよし、負けても余力を残して敵を城下に引き込み地の利を生かして篭城をするという策をたてていたと言われている。4月10日交戦開始。尼子軍の先鋒は尼子晴久の嫡子義久を擁した山中幸盛隊9000であった。姉小路軍磯野員昌隊は突出した山中幸盛隊と佐世清宗隊の間に割り込んで山中隊を孤立させようと試みたが、鉄砲櫓の支援を受けた佐世隊と尼子晴久隊の連携の前に被害の拡大が予想されたため、断念せざるを得なくなった。しかし、姉小路軍の鉄砲隊の実力は尼子方の予想以上であった。山中隊は佐世隊、晴久隊の盾となる形でその集中砲火を受けつつ戦線を維持したが、瞬く間に撃ち減らされ、10日後敗走した。晴久隊がこの敗走を助けたので山中隊は無事月山富田城までたどり着けたものの、今度は晴久、佐世隊の退路を磯野隊及び姉小路頼綱本隊が断った。尼子方は晴久が鉄砲隊の攻撃に耐えつつ、佐世隊が退路を塞ぐ姉小路軍にしきりに攻撃を仕掛けていたが、磯野、頼綱隊は鉄砲櫓の被害を受けつつも佐世隊の攻撃を受け止め、逆に反撃を加えた。5月1日、晴久隊佐世隊共に壊滅し、晴久は僅かな近習を従えて月山富田城に敗走した。
5月10日攻城戦開始。姉小路軍は後詰も次々に着陣した。城下の鉄砲櫓や弓櫓によって姉小路方は被害は相当な被害をうけたという。しかし、月山富田城は攻城戦開始よりわずか1ヶ月で落城した。これは姉小路軍が5万もの大軍だったこと、先の迎撃で尼子側の被害が尼子方の予想より遥かに大きかったので月山富田城ほどの巨城を守るほどの兵がいなかったこと、月山富田城がやや古い城で鉄砲対策が完璧でなかった事等の理由が考えられる。尼子晴久は捕虜となるも解き放たれ、尼子義久は山中幸盛に守られて美保関港へむかった。


この戦いの影響

尼子家は主力を完全に喪失、降伏を受け入れる他なくなる。
姉小路家は毛利との本格的な交戦状態に入る。

逸話