飛鳥家(旧泉家)。居間。
シンが休日の午後を謳歌していると。十歳になったばかりの娘、マユが唐突にこう言った。
「私のお母さんってどういう人だった?」
シンは読んでいた義父の新作小説から目を離し、どこまでも妻の姿に似てきた娘に視線を移す。
「どうしたんだ? 急にそんな事言い出して……」
「だって私、母さんの事、よく知らないし」
「……そうか」
思えば、
こなたがいなくなってから十年の時が経とうとしている。
マユとてもう十歳になるのだから、自分の母親の事が気になり始めても不思議じゃない。
というか、今までこういう質問が無かった方が不思議である。
「こなたの事、聞きたいか?」
「うん」
興味津々な表情を浮かべたマユが、シンを覗を込んだ。
そんなマユの行動に促されて、シンは、妻こなたの事を思い描いてみた。
「そうだな、こなたは……」
言いかけて、シンは困った。自分の子供に言えるような、こなたの特徴が思い浮かばない。
それでも、シンはひとしきり唸って考えてみたが、思い浮かぶこなたの特徴に、健全なものが全く無い。
「お前のお母さんは……そう、背が小さかったな。ほんと子供みたいな奴で――」
「それは写真みれば分かるって。私が聞きたいのはお母さんの性格とか、どんな生活をしてたとか、そういうのだよ」
ますます、難解な質問をぶつけてくる娘に、シンは渋い表情を浮かべた。
(言えってのか……あの自堕落な生活模様を父の口から娘に言えと言うのかこの娘は……)
なるべくなら、娘の中の母親像というのを壊したくない。
「な、なぁ。どうしても聞きたいのか?」
「どうしても! ってわけじゃないけど、ふと気になったの……」
「世の中には知らない方か幸せな事もあってだな……」
「何それ~」
マユはぷぅ、と頬を膨らませた。
「お父さん。私にだって母さんがどんな人だったか聞く権利があると思うんだけど?」
「いや、言わないとは言ってないじゃないか。ただ、お前の母親は少し特殊……いや、個性的でな、説明が難しいんだ……」
シンが、どう言えばいいのか困り果てていると、
トゥルルルルル。
電話が鳴った。
「マユ。ほら電話だよ」
「はいはい、分かってる」
マユは気の無い返事をしながら、居間の受話器に手をかけた。
「はい、飛鳥です……あ、
ゆたかおばさん♪」
マユの声が、とたんに明るくなる。
電話の相手は、今や名実共にシンの親戚である小早川ゆたかのようだった。
(ゆたか。ナイスタイミングだ)
シンはホッとして胸を撫で下ろす。
なぜなら、マユのゆたかに対する懐きようは凄まじい。
その最愛のおばさんからの電話だ、マユは今までの父とのやりとりなんて即座に頭から吹っ飛んでしまっただろう。
「わかった。じゃあ待ってるね♪」
それからマユは、ひとしきり喋った後、受話器を置いた。。
「ゆたか、なんだって?」
「私に、買い物一緒に行く? っていう確認の電話。私が行かないって言ったらそのまま買物に行くつもりだったみたい」
「で、行くのか?」
「うん、行く♪ だからもうすぐ家に来るって。あと、今日も晩ご飯作ってくれるみたい」
「そっか……。ありがたいけど、こう毎日だと迷惑じゃないのかな」
と言う父を横目に、マユは大きなため息を吐きながら、ヤレヤレ、と首を左右に振った。
「お父さん。鈍いよねぇ……」
「何が?」
「ゆたかおばさんみたいな可愛い子……じゃなかった、美人が何のためにいつもご飯を作ったり、
掃除しにきたり、私たちの世話をしてくれると思ってるの?」
マユは腰に手を当て、指を突き出す。こういう仕草は黙ってても母親に似るので不思議なものである。
「そうだな、あいつの優しさに甘えてばかりで悪いよなぁ。いつか何かお返ししないと」
「お父さん……そりゃ、ゆたかおばさんが優しいっていうのもあるだろうけどさ……」
「?」
「……おばさん可哀想」
「はっ? なんで?」
「お父さん。おばさんの事、どう思ってる?」
「なんだよ急に……」
「聞かせて!」
シンはその有無を言わさない口調に押されて、思わず後ずさる。
マユはジッとこちらを見つめている。とにかく何か返事をしないとマユは引かないだろう。
そう思い、シンはゆたかの事を真面目に考えてみた。
すると、まず最初に思い浮かんだのは、マユの育児の事だった。
こなたがいなくなってから、
そうじろうは「山で静かに暮らしたい」と言って、田舎へ行ってしまった。
今では自給自足の生活を送りながらも作家の仕事を続けていて、新刊を出す度に本を送ってきてくれる。
もちろん、シンとしてはそのまま、そうじろうと一緒に暮らしていたかった。
だが「もう、この家にいるとツライ」と言われてしまうと何も言えなかった。
そのため、シンは正真正銘一人でマユを育てる事になった。
経験した事の無い子育てという名の戦争と、仕事の両立は思いの他難しく、
それに身を置いたシンが身心共にボロボロになるのに時間はかからなかった。
そんな時、一番親身になって助けてくれたのが、ゆたかだった。
ゆたかがいたから今のマユがいる。ゆたかがいたから今の自分がある。
「……ゆたかは、俺にとって大切な人だよ」
シンは思ったことを素直に口にした。ゆたかをどう思っているかと聞かれれば、やはりこの一言に尽きる。
「本当!? じゃあ問題無いじゃん。私の家族計画!」
マユは、なぜか満面の笑顔を浮かべて喜ぶ。しかし、彼女は忘れていた。
目の前にいる男は史上最強の鈍感男である事を……。
「お前の家族計画は知らないが、俺にとってゆたかは本当に大切な人だよ。“妹”みたいなもんだし」
「……い、妹」
マユは糸の切れた操り人形のように、がっくりと肩を落とした。
しかし、そこはあの同人のためなら徹夜もなんのその、という我慢強いこなたの血を引く娘。
めげずに質問の難易度を下げて、再チャレンジを行う。
「ね、ねぇ……なんでおばさん結婚しないと思う?」
「さぁ、何でだろう?」
実際、ゆたかはこの十数年で綺麗になった。
まぁそれでも相変わらず身長はちっちゃいが、私服で歩いても、もう小学生に間違えられる事は無くなった。
そういえば昨日の夕食の時も、
(シンお兄ちゃん! 私ね、この前、中学生に間違えられたんだよ♪)
と、うれしそうに話していた。ちなみにマユはその隣で苦笑いだった。
もちろん、シンだって突っ込み所は満載だと思ったが、ゆたかが笑ってるならそれで良い。
文句がある奴は前に出ろ。そんな気分である。
「あれだけ綺麗になればモテないわけ無いと思うけどな」
シンは兄馬鹿全快で言った。しかし、それはマユの期待した言葉では無かったらしい。
「当たり前でしょ!」
マユは、親じゃなかったら『あんた、馬鹿じゃないの!』とでも言いだしそうな勢いでシンに詰め寄った。
「お父さん! 他に思いつかないの!? ゆたかおばさんが結婚しないり・ゆ・う!」
「そんなの、分かるわけ無いだろ……」
「じゃあ、考えて!」
マユは父から受け継いだ、燃えるような赤い瞳でシンを睨む。
シンは、なぜ娘がこんな事を言いだすのか意味が分からず、ただ呆けるだけだった。
だが次の瞬間、シンは閃いた。
「……分かった。お前淋しいんだな」
「は?」
父の呟くような言葉によって、マユの目は点になった。
「ダメだぞ。ゆたかだっていつか結婚して家庭を持つんだ。そうなったら今みたいに、
お前にかまってられる時間が減るのはしょうがないんだろ。淋しいだろうけど、
本当にマユがゆたかおばさんの事を大好きなら、その時は笑ってお祝いするんだぞ」
シンはワガママを言う我が子を、たしなめるように言う。
というか、シンからしてみれば、実際にたしなめているつもりである。
だが、悲しいかな、シンはマユと話が噛み合っていない事実には全く気付かなかった。
「あ、あのさ……おばさんが結婚しても、わたしが淋しくならない方法があること気付いてる?」
よく見ると、マユの口元はヒクついていた。
「はっはっはっ。そんな魔法みたいな事あるわけないじゃないか。ホントにマユは甘えん坊だなぁ」
シンは、そりゃもう朗らかな笑顔で言った。
「もういいよ! でも、私は私なりに頑張らせてもらうからね!」
マユは地団駄を踏みながら怒鳴って、そっぽを向いた。どうやら本気で怒らせてしまったようである。
ピンポーン。
その時、来客を伝える電子音が鳴った。
「あっ、ゆたかおばさんだ♪」
マユは今までの憤りなどなんのその。軽やかに黒い長髪を翻し、小踊りしながら玄関に駆けていった。
そして、シンは居間に一人残された。
「やれやれ、マユの寂しがりやな性格にも困ったもんだ」
シンは半眼でため息を吐きつつも、娘の重圧から解放された事に安心感を抱く。
しかし今日。マユのゆたかに対する懐きようはホントに凄まじいと改めて感じた。
父親の自分よりゆたかの方に懐いている、というのはちょっと内心複雑だが、それは、
「悲しい事でも何でもないよな」
ゆたかは、仕事の都合がつかなかったシンの代わりに授業参観に行ってくれた事もあった。
遠足や運動会なら弁当は作って来てくれるし、色々女の子に必要なものは買い揃えてくれる。
その他、色々、母親みたいな仕事を喜んで引き受けてくれる。
(いや、みたいな、じゃなく実際マユにとっては母親なんだろうな……)
いくら、大人びた発言が出来たとしてもマユはまだ十歳。甘えたい年頃なのは否めない。
淋しい思いはさせていると思う。しかし、ゆたかがいるお陰で、マユはその淋しさを紛らわす事が出来ている。
しかし、それだけに、もし、ゆたかが誰かと結婚なんてことになったら、マユは寂しい思いをするかもしれない。
だから、マユはゆたかの結婚に対してあんなに不安になっているのだろう。
というか、実際そうなったらシンも寂しいし、結婚式で泣かない自信も無い。
それだけ、自分はゆたかを可愛がっていたんだな、とも改めて感じる。
「フッ、だが安心しろマユ。ゆたかと……俺の妹と結婚するなんて男がでてきたら、俺がしっかりと値踏みしてやるさ。
兄としてじっくりとな……」
と、シンは不適に笑いながら、核心を捉えているようで色々突っ込み所が満載な解釈をした。
にしてもこの男、下手に頑固な父親よりタチが悪い。
「それにしても、母親か……」
とても大きな存在である。
「ま、俺が再婚でもすればいいのかな。なんて、相手がいなきゃ出来ないな、ハハ」
それに、自分はまだ、こなたを忘れるには若すぎる。そう思う……。