桜藤祭 隠し
「ふふふふー。どーよ、私の言った通りだったでしょ?(≡ω≡.)d」
「ちぇーっ! 賭けはちびっ子の勝ちかー(-3-)」
「それだけかがみは、私のこと愛してるのさ~ヽ(≡ω≡.)ノ」
放課後の教室。
唖然とするかがみを前に、こなたとみさおが緊張感のない顔で茶番のネタを明かす。
こなたが求めて、かがみがキスをするかどうか──
どちらがかがみに好かれているか試すための、学食一週間分の食券を賭けた勝負。
結果は、こなたの勝ち。
かがみがこなたの偽りの告白を受け入れ、唇を重ねた。直接の接触は、寸前にみさおが下敷きで遮ったが。
性質の悪い悪戯だ。
そんな物を親友に仕掛ける事への罪悪感が、こなたにも無いではなかった。
が、煽り合い意地を張り合って頭に血が上っていたこなたは、感情のまま事に及んだ。
かがみがどう思うかを、敢えて頭の端に追いやって。
──それがどんな結果を招く事になるのか、全く知らないまま。
パンッ パァンッ
強い衝撃が走り、小気味いいほどの高く弾ける音が響く。
みさおと能天気なやり取りを交わしていたこなたは、体が天地を失い、何かに激しくぶつかるのを自覚した。
一瞬、何が起こったか分からなかった。
気がつくと、こなたはみさおと一緒に机と椅子を巻き込んで床に倒れていた。
耳がキーンと鳴り、目が涙で滲む。
頬が急激に熱と痛みを持ち始め、口と鼻の奥に鉄錆の臭いが湧き上がる。
かがみに思い切り撲たれたのだと気づいた瞬間、こなたは自分たちに向けられた恐ろしく硬質な目に射竦められて、息を飲んだ。
「かが……み……」
「ひ、ひぃらぎ……」
こなたは、ここに至ってようやく、自分たちが予想を遥かに超えてかがみを怒らせてしまっていた事を悟った。
かがみは身動き一つ出来ない二人に一瞥をくれると、そのまま無言で教室を出て行った。
愚か者に一切の自己弁護を許さない、完全な拒絶がその背中にあった。
「お、お姉ちゃん……っ、お姉ちゃん、待って……」
かがみとこなたたちを見比べたつかさは、
「ひどいよ、二人ともっ!」
普段、おっとりと下がった眉を吊り上げて言い捨て、小走りに姉の後を追った。
こなたとみさお、そして事の次第を見守っていたみゆきがその場に残る。
そのみゆきも、重い溜め息をついた。
「……無理もありませんね。私はかがみさんの行動を全面的に支持します」
「み、みゆきさん……」
「正直、傍から見ているだけでも極めて不快でした。賭け事で人の心を嘲弄するような行為は、人間として最低です」
這いつくばる二人を見下ろす眼鏡の奥の瞳は、かがみに負けず、限りなく冷たい。
「まさか、泉さんがそんな事をするとは思いませんでした。今後のお付き合いについても、少し考えさせていただきますので」
普段からは想像もつかないような峻烈な声で切り捨て、みゆきも鞄を持って去っていった。
取り残されたこなたたちは、がっくりと肩を落とした。
頬は激しく痛んだが、それ以上に心が痛い。
「あー……バカやっちまった……。ひぃらぎがあんなに怒ったとこ、久しぶりに見たぜ……」
しょげかえったみさおがぼそりと口にする。
こなたもさすがに軽口を叩く元気はなかった。
怒りっぽいと評されるかがみは、それだけにその場その場で発散させ、怒りがあまり持続しないタイプだとこなたは思っていた。
だから今回の賭けの真相を知って怒ったとしても、ちょっと怒鳴られて、拳骨一つ喰らうくらいで済むんじゃないかと踏んでいた。
要は甘く見ていたのだ。
しかし、さっきのかがみの顔には、鋼鉄の無表情があった。今まで見た事のない顔だ。本気で怒っていると言うことなのだろう。
それは誰のせいでもない、自分たちがもたらしたものだった。
改めて考えてみると、酷い事をしたと思う。
売り言葉に買い言葉の果てに、甚だいい加減な気持ちで臨んだこなたの演技に、かがみは真剣に付き合い、悩んでくれた。
それに対して自分たちは、目の前で「冗談ですよー」とおどけて見せたのだ。
よくある漫画やアニメの1シーンのように、冴えない生徒を偽りのラブレターで呼び出して、
“プッ、なにこいつマジになってんの? キモッ!”
と集団で囃し立てるような、下衆で下劣な行為と全く変わらない。
かがみだけではない。つかさやみゆきが憤慨するのも当然だった。
つかさは姉の事を一番大事に考えているし、みゆきも道理から著しく外れた言動に対しては殊のほか厳しい。
友達を深く傷つけ怒らせてしまったと言う遅すぎる自覚が、重苦しくこなたの胸を苛んだ。
「……みさきち。かがみにちゃんと謝ろう」
「だな……」
もう食券とか、どちらがかがみに好かれているかとか、そんなことはどうでもよかった。
自業自得とは言え、こんなことでかがみを失うのは嫌だった。
なんとか、土下座でもするから、許してもらおう。つかさにも、みゆきにも。
こなたはそう思った。
しかし、それは叶わなかった。
物音を聞きつけたクラスメイトたちの視線を浴びながら、こなたたちはとぼとぼと昇降口に向かった。
すると、外がやけに騒がしい。生徒たちが激しく行き交っている。
「ん? なんだぁ?」
「部活で誰か倒れたのかな。あ、黒井先生ー!」
血相を変えて職員室を出入りする教師の中に、ロングヘアをうなじで纏めた担任の姿を見つけて呼び止める。
「……っ、泉と日下部か……」
「なんかあったんですか?」
こなたの問いに、黒井は酷く辛そうに視線を逸らした。
その表情の中に、こなたたちに対する痛ましさを見つけて、背筋に嫌なものが走る。
(え……。なに……)
恐ろしく重苦しい何かがこなたの足元からぞわりと這い登る。
「……ええか、お前ら。落ち着いて聞くんやで」
沈痛な面持ちで、黒井が口を開く。
「さっき……校門前でな……」
聞きたくない。聞きたくなかった。
だが、下から這い登ってきた冷たい物が体を縛り付け、こなたは耳を塞ぐ事さえ出来ない。
「……柊たちが……トラックに……」
黒く尾を引くブレーキ痕。
歪みひしゃげたガードレール。
粉々になったガラスの破片。
電柱に突っ込んだトラック。
飛び散る赤い斑点。
放り出された三つの鞄。
生徒たちの遠巻きの人だかり。
傷だらけで泣き叫ぶ黄色いリボンの少女。
それを必死で押し止める眼鏡の少女。
──彼ら全員の視線の先にある、真っ赤に染まり、ぴくりとも動かない、倒れた姿。
長い黒髪の養護教諭が震える手で何かを調べる。
しかし、すぐに隣の小柄なそばかすの教師に向けて首を振る。
とても、とても悲しそうに。
長い髪を二つに結んだ少女が、養護教諭の手で静かに瞼を閉じられた。
高良みゆき。全身数ヶ所に擦過と打撲。軽傷。
柊つかさ。腰椎破裂骨折による脊髄損傷。重傷。
柊かがみ。大腿動脈破裂による多量失血とそれに伴う多臓器不全。即死。
雨の病室。
ベッドを囲むカーテンは堅く閉ざされている。
──トラックが突っ込んでくるのに、もうちょっと早く気づけばよかったんだけどね。
みんなあんまり周り見回す余裕なかったからね、あの時。
あはは……。
……だからかな、余計にこう思っちゃうんだ。
あんなことさえなかったらって。
そうすれば、あの時あの場所にいなかったのになって。
…………。
……お姉ちゃんね。最期に「寒い」って言ってた。
即死って言っても、一秒とか二秒で死ぬわけじゃないんだよ?
握った手がね、少しずつ冷たくなってくの。
それで、さいごに「さむいよ、こなた」って……。
……ひどいと思わない?
手を握ってたのはわたしなのに。
…………。
だから……ね?
お願い。
──もう二度と姿を見せないで。私が死ぬまで。
その声は、とても静かで、穏やかで、澄んでいて。優しくすらあって。
こなたは顔を上げることさえ出来なかった。
あれからこなたは何も感じなくなった。
五感は周りの出来事を知覚しているけれど、心がそれを認識しない。
意味のあるもの、必要なものとして捉えられない。
“泉と日下部のせいで柊が死んだ”
事故直後から、学校でそう噂されるようになった。
あの日、かがみとこなたたちが喧嘩していた事が、目撃したクラスメイトたちによって校内に知れ渡ったのだ。
無論、知れ渡った所で、こなたたちが何の法の咎めを受けるわけではない。
事故が起こった原因と、事故現場に居合わせた理由は、全く別だから。
理屈で考えれば、それは当然の事。
しかし、感情は理屈では決して治まらない。
十八歳の少女の、唐突で理不尽で衝撃的な死に、誰もが分かりやすい「元凶」を求めた。
だが、トラックの運転手もまた、事故で既にこの世の人ではない。
すると、より身近な生者へと負の感情の矛先は向けられる。
つかさがそうしたように。
こなたの周りからは誰もいなくなった。
それでもみさおはあやのが支えていた。
が、みゆきはもうこなたを支えてはくれなかった。
かがみへ
ごめんなさい。
あの時のことを謝らせてね。
わたし、かがみにひどいことしたよね。
ぶたれて、怒られて、当然だと思う。
心から反省しています。
許してくれなくてもいい。
ただ、せめて謝らせてください。
本当にごめんなさい。
……ほんとはね。
あの時、わたし、胸がドキドキしてたんだ。
かがみの顔が近づいてきて、なんだかすごく甘いにおいがして。
お芝居なのに、顔が真っ赤になって、頭もクラクラした。
結局、みさきちが割り込んできたけど。
なんかあのままキスしちゃってもいいな、って思った。
ううん、しちゃってもいいなって言うか……
したかった……のかも。
ほんとだよ?
そんな気持ちになったの初めてで、すごく照れくさくなって。
ごめん、ふざけてごまかしちゃった。
ほら、わたしリアル百合趣味ないってことにしてあるし、みんなも見てたしさ。
でも、かがみだったらよかったんだ。
かがみなら……
……ああ、ダメだな。自分のことばっかりだ。
言い訳しか言ってないじゃん、わたし。
そんなの、理由にならないよね。
今さら何言っても遅いよね。
ごめんね、かがみ。
ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。
ごめんなさい。
──送信。
かがみの携帯は棺に納められて焼かれた。
多分、もう解約されているだろう。
それでも、こなたはそのメールを送らずにいられなかった。
いつだってアドレス帳の一番上に記されていた、一番大切な名前に向けて。
メールを送り終えたこなたは、浴室に向かった。
冷たい水を張っておいた湯船に、着ていた服ごと浸かる。
よく磨いた出刃包丁をその手に握りながら。
今、家には自分しかいない。
先週、つかさが死んだ。
母親が果物を剥くために持ち込んだナイフを使って、頚動脈を切った。
……多分、本当は腿の動脈を切りたかったんだろうな。
こなたはそう確信していた。
──もう二度と姿を見せないで。私が死ぬまで。
つかさはそう言った。
もう、いいよね?
ごめんね。かがみと同じ死に方をするのを、どうか許して下さい。
こなたは包丁を両脚の腿に突き立て、捻り、肉を深々と抉った。
水の中に赤い大きな花が咲く。
強烈な衝撃が身体を垂直に貫く。
痛かった。
すごくすごく痛かった。
が、どうでもよかった。
しばらくすると、真っ黒な喪失感が襲ってきた。
握る手が力を無くし、包丁が高い音を立てて落ちる。
見上げる天井が薄暗くぼやける。
冷たいはずの水が冷たさを失う。
何もかもがゆるゆると闇の中に抜け落ちていく。
が、それもどうでもよかった。
このまま、消えて無くなってしまえばいいのだ。
赦しも何もない、永遠の闇の中に。
全身を冒す無感の中で、ただ一つ。
初めてで、そして最後になった、かがみの唇の温もりを──
こなたはぼんやりと思い出していた。
最終更新:2024年04月21日 21:51