巻第九(ここのまきにあたるまき)
雑歌(くさぐさのうた)
泊瀬の朝倉の宮に天(あめ)の下しろしめしし天皇(すめらみこと)のみよみませる御製歌(おほみうた)一首(ひとつ)
1664 夕されば小椋(をくら)の山に臥す鹿の今宵は鳴かずい寝にけらしも
崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の、紀伊国(きのくに)に幸(いでま)せる時の歌二首(ふたつ)
1665 妹がため吾(あ)が玉拾(ひり)ふ沖辺なる玉寄せ持ち来(こ)沖つ白波
1666 朝霧に濡れにし衣干さずして独りや君が山道(やまぢ)越ゆらむ
右ノ二首(フタウタ)、作者(ヨミヒト)未詳(シラズ)。
大宝(だいはう)の元年(はじめのとし)辛丑(かのとうし)冬十月(かみなづき)、太上天皇(おほきすめらみこと)、大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊国に幸ませる時の歌十三首(とをまりみつ)
1667 妹がため吾(あ)が玉求む沖辺なる白玉寄せ来(こ)沖つ白波
右ノ一首(ヒトウタ)、既ニ上ニ見ルコト畢ハリヌ。但歌辞
少シク換リ、年代相違ヘリ。因テ以テ累ネ戴ス。
1668 白崎は幸(さき)くあり待て大船に真梶繁貫(しじぬ)きまたかへり見む
1669 南部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島(かじま)なる釣する海人(あま)を見て帰り来む
1670 朝開(びら)き榜ぎ出て吾(あれ)は由良の崎釣する海人を見て帰り来む
1671 由良の崎潮干にけらし白神(しらかみ)の磯の浦廻(うらみ)を喘(あべ)て榜ぎ響(とよ)む
1672 黒牛潟(くろうしがた)潮干の浦を紅の玉裳(たまも)裾引き行くは誰が妻
1673 風早(かざはや)の浜の白波いたづらにここに寄せ来も見る人無しに
右ノ一首、山上臣憶良ノ類聚歌林ニ曰ク、
長忌寸意吉麻呂、詔ニ応ヘテ此歌ヲ作メリト。
1674 我が背子が使来むかと出立(いでたち)のこの松原を今日か過ぎなむ
1675 藤白の御坂を越ゆと白たへの我が衣手は濡れにけるかも
1676 勢(せ)の山に黄葉(もみち)散り敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ
1677 大和には聞こえもゆくか大家野(おほやぬ)の小竹葉(ささば)刈り敷き廬せりとは
1678 紀の国の昔弓雄(さつを)の響矢(かぶら)もち鹿(か)取り靡けし坂の上(へ)にそある
1679 紀の国にやまず通はむ都麻(つま)の杜妻寄し来(こ)せね妻と言ひながら
右ノ一首、或ヒト云ク、坂上忌寸人長ガ作。
後れたる人の歌二首
1680 麻裳(あさも)よし紀へ行く君が真土山越ゆらむ今日そ雨な降りそね
1681 後れ居て吾(あ)が恋ひ居れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ
忍壁皇子に献れる歌一首 仙人ノ形ヲ詠ム
1682 とこしへに夏冬ゆけや裘(かはころも)扇放たぬ山に住む人
舎人皇子に献れる歌二首
1683 妹が手を取りて引き攀ぢ打ち手(た)折り君が挿すべき花咲けるかも
1684 春山は散り過ぎぬれども三輪山はいまだ含(ふふ)めり君待ちかてに
泉河の辺(ほとり)にて間人宿禰(はしひとのすくね)がよめる歌二首
1685 川の瀬の激(たぎ)つを見れば玉藻かも散り乱れたるこの川門(かはど)かも
1686 彦星の挿頭(かざし)の玉の妻恋に乱れにけらしこの川の瀬に
鷺坂(さぎさか)にてよめる歌一首
1687 白鳥の鷺坂山の松影に宿りてゆかな夜も更けゆくを
名木河(なきがは)にてよめる歌二首
1688 あぶり干す人もあれやも濡れ衣(きぬ)を家には遣らな旅のしるしに
1689 荒磯辺(ありそへ)につきて榜がさね都人浜を過ぐれば恋(こほ)しくあるなり
高島にてよめる歌二首
1690 高島の阿渡(あど)川波は騒げども我は家思(も)ふ宿り悲しみ
1691 旅なれば夜中をさして照る月の高島山に隠らく惜しも
紀伊国にてよめる歌二首
1692 吾(あ)が恋ふる妹は逢はさず玉つ浦に衣片敷き独りかも寝む
1693 玉くしげ明けまく惜しきあたら夜を衣手離(か)れて独りかも寝む
鷺坂にてよめる歌一首
1694 細領巾(ほそひれ)の鷺坂山の白つつじ吾(あれ)ににほはね妹に示さむ
泉河にてよめる歌一首
1695 妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも
名木河にてよめる歌三首
1696 衣手の名木の川辺を春雨に吾(あれ)立ち濡ると家思(も)ふらむか
1697 家人の使なるらし春雨の避(よ)くれど吾(あれ)を濡らす思へば
1698 あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを間使(まつかひ)にする
宇治河にてよめる歌二首
1699 巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見が田居に雁渡るらし
1700 秋風の山吹の瀬の響むなべ天雲翔り雁渡るかも
弓削皇子に献れる歌三首
1701 さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空に月渡る見ゆ
1702 妹があたり衣雁が音夕霧に来鳴きて過ぎぬともしきまでに
1703 雲隠り雁鳴く時に秋山の黄葉(もみち)片待つ時は過ぐれど
舎人皇子に献れる歌二首
1704 打ち手折り多武(たむ)の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
1705 冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾(あれ)ぞ
舎人皇子の御歌一首
1706 ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上に棚引くまてに
鷺坂にてよめる歌一首
1707 山背(やましろ)の久世(くせ)の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり
泉河の辺にてよめる歌一首
1708 春草を馬咋山(うまくひやま)よ越え来(く)なる雁が使は宿(やどり)過ぐなり
弓削皇子に献れる歌一首
1709 御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
題闕
1710 我妹子が赤裳湿(ひづ)ちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無(くらなし)の浜
1711 百伝(ももづた)ふ八十(やそ)の島廻(しまみ)を榜ぎ来(き)けど粟の小島は見れど飽かぬかも
右ノ二首、或ヒト云ク、柿本朝臣人麻呂ガ作。
筑波山(つくはやま)に登りて月を詠める歌一首
1712 天の原雲なき宵にぬば玉の夜渡る月の入らまく惜しも
芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)せる時の歌二首
1713 滝の上(へ)の三船の山よ秋津辺に来鳴き渡るは誰(たれ)呼子鳥
1714 落ちたぎち流るる水の岩に触(ふ)り淀める淀に月の影見ゆ
右ノ三首、作者未詳。
槐本(ゑにすのもと)が歌一首
1715 楽浪(ささなみ)の比良山風(ひらやまかぜ)の海吹けば釣する海人の袖返る見ゆ
山上(やまのへ)が歌一首
1716 白波の浜松の木の手向ぐさ幾代までにか年は経ぬらむ
右ノ一首、或ヒト云ク、河島皇子ノ御作歌。
春日(かすが)が歌一首
1717 三川(みつがは)の淵瀬もおちず小網(さで)さすに衣手濡れぬ干す子はなしに
高市(たけち)が歌一首
1718 率(あども)ひて榜ぎにし舟は高島の安曇(あど)の水門(みなと)に泊(は)てにけむかも
春日が歌一首
1719 照る月を雲な隠しそ島陰に吾(あ)が船泊てむ泊知らずも
右ノ一首、或ル本ニ云ク、小辯ガ作ナリト。或ハ
姓氏ヲ記シ、名字ヲ記スコト無ク、或ハ名号ヲ称(イ)
ヒテ姓氏ヲ称ハズ。然レドモ古記ニ依リテ、便チ
次ヲ以テ載ス。凡ソ此ノ如キ類ハ、下皆焉(コレ)ニ効(ナラ)ヘ。
元仁が歌三首
1720 馬並(な)めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む
1721 苦しくも暮れぬる日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに
1722 吉野川川波高み滝(たぎ)の裏を見ずかなりなむ恋(こほ)しけまくに
絹が歌一首
1723 かはづ鳴く六田(むつた)の川の川柳(かはやぎ)のねもころ見れど飽かぬ君かも
島足(しまたり)が歌一首
1724 見まく欲り来(こ)しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしき
麻呂が歌一首
1725 古(いにしへ)の賢(さか)しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
右、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
丹比真人が歌一首
1726 難波潟潮干に出でて玉藻刈る海未通女(あまをとめ)ども汝(な)が名のらさね
某(それ)の娘子(をとめ)が和ふる歌
1727 漁りする海人とを見ませ草枕旅ゆく人に妻とは告らじ
石川の卿(まへつきみ)の歌一首
1728 慰めて今夜は寝なむ明日よりは恋ひかもゆかむこよ別れなば
宇合(うまかひ)の卿の歌三首
1729 暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ
1730 山科の石田(いはた)の小野の柞原(ははそはら)見つつや君が山道越ゆらむ
1731 山科の石田の杜に奉幣(たむけ)せばけだし我妹に直(ただ)に逢はむかも
碁師(ごし)が歌二首
1732 大葉山(おほはやま)霞たなびきさ夜更けて吾(あ)が舟泊てむ泊知らずも
1733 思(しぬ)ひつつ来(く)れど来(き)かねて三尾が崎真長の浦をまたかへり見つ
小辯(すなきおほともひ)が歌一首
1734 高島の安曇の湊を榜ぎ過ぎて塩津菅浦今は榜がなむ
伊保麻呂(いほまろ)が歌一首
1735 吾(あ)が畳三重の川原の磯の裏にかくしもがもと鳴くかはづかも
式部(のりのつかさ)大倭(おほやまと)が芳野にてよめる歌一首
1736 山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ夏身の川門(かはど)見れど飽かぬかも
兵部(つはもののつかさ)川原が歌一首
1737 大滝(おほたぎ)を過ぎて夏身にそひ居りて清き川瀬を見るがさやけさ
上総(かみつふさ)の周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)を詠める歌一首 、また短歌(みじかうた)
1738 尻長鳥(しながとり) 安房(あは)に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は
胸別(むなわけ)の 広けき我妹 腰細の すがる娘子の
その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば
玉ほこの 道ゆく人は おのが行く 道は行かずて
呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は
たちまちに 己妻離(か)れて 乞はなくに 鍵さへ奉(まつ)る
人の皆 かく惑へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける
反し歌
1739 金門(かなど)にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
水江(みづのえ)の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
1740 春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て
釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる
水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり
七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに
海若(わたつみ)の 神の娘子に たまさかに い榜ぎ向ひ
相かたらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世に至り
海若の 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に
たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして
永世(とこしへ)に ありけるものを 世の中の 愚(かたくな)人の
我妹子に 告(の)りて語らく 暫(しま)しくは 家に帰りて
父母に 事も告らひ 明日のごと 吾(あれ)は来なむと
言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て
今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと
そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来たりて
家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて
あやしみと そこに思はく 家よ出て 三年(みとせ)の間(ほど)に
垣もなく 家失せめやも この筥(はこ)を 開きて見てば
もとのごと 家はあらむと 玉篋 少し開くに
白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば
立ち走(わし)り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ
たちまちに 心消(け)失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ
黒かりし 髪も白けぬ ゆりゆりは 息さへ絶えて
のち遂に 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
反し歌
1741 常世辺に住むべきものを剣大刀(つるぎたち)しが心から鈍(おそ)やこの君
河内(かふち)の大橋を独りゆく娘子を見てよめる歌一首、また短歌
1742 しな照(で)る 片足羽川(かたあすはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上(へ)よ
紅の 赤裳裾引き 山藍(やまゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て
ただ独り い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ
橿(かし)の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく
反し歌
1743 大橋の頭(つめ)に家あらばま悲しく独りゆく子に宿貸さましを
武藏(むざし)の小埼(をさき)の沼の鴨を見てよめる歌一首
1744 埼玉(さきたま)の小埼の沼に鴨そ羽霧(はねき)るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとならし
那賀の郡の曝井(さらしゐ)の歌一首
1745 三栗(みつくり)の那賀に回(めぐ)れる曝井の絶えず通はむそこに妻もが
手綱(たづな)の浜の歌一首
1746 遠妻しそこにありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし
慶雲(きやううむ)三年(みとせといふとし)丙午(ひのえうま)春三月(やよひ)、諸(もろもろ)の卿大夫等(まへつきみたち)、難波に下れる時の歌二首、また短歌
1747 白雲の 龍田の山の 滝(たぎ)の上(へ)の 小椋(をくら)の嶺に
咲きををる 桜の花は 山高(だか)み 風しやまねば
春雨の 継ぎて降れれば 上枝(ほつえ)は 散り過ぎにけり
下枝(しづえ)に 残れる花は しまらくは 散りな乱りそ
草枕 旅ゆく君が 帰り来むまで
反し歌
1748 吾(あ)が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし
1749 白雲の 龍田の山を 夕暮に うち越えゆけば
滝(たぎ)の上(へ)の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり
含(ふふ)めるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに
見せずとも かにかくに 君のみ行きは 今にしあるべし
反し歌
1750 暇(いとま)あらばなづさひ渡り向つ峯(を)の桜の花も折らましものを
難波に宿りて、明くる日還来(かへ)る時の歌一首、また短歌
1751 島山を い行き廻(もとほ)る 川沿ひの 岡辺の道よ
昨日こそ 吾(あ)が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに
峯(を)の上の 桜の花は 滝の瀬よ たぎちて流る
君が見む その日までには あらしの 風な吹きそと
打ち越えて 名に負へる杜に 風祭(かざまつり)せな
反し歌
1752 い行き逢ひの坂の麓に咲きををる桜の花を見せむ子もがも
検税使(けむぜいし)大伴の卿の筑波山に登りたまへる時の歌一首、また短歌
1753 衣手 常陸の国 二並ぶ 筑波の山を
見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆き
木(こ)の根取り 嘯(うそむ)き登り 峯(を)の上を 君に見すれば
男神(をのかみ)も 許したまひ 女神(めのかみ)も ちはひたまひて
時となく 雲居雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして
いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば
嬉しみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ
打ち靡く 春見ましよは 夏草の 茂くはあれど 今日の楽しさ
反し歌
1754 今日の日にいかで及(し)かめや筑波嶺に昔の人の来けむその日も
霍公鳥(ほととぎす)を詠める歌一首、また短歌
1755 鴬の 卵(かひこ)の中に 霍公鳥 独り生れて
己(し)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず
卯の花の 咲きたる野辺よ 飛び翔り 来鳴き響(とよ)もし
橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし
幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたり鳴け
反し歌
1756 かき霧(き)らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きてゆくなりあはれその鳥
筑波山に登る歌一首、また短歌
1757 草枕 旅の憂(う)けくを 慰むる こともあれやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も
秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日(け)に 思ひ積み来し 憂けくはやみぬ
反し歌
1758 筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉(もみち)手折らな
筑波嶺に登りてかがひする日(とき)よめる歌一首、また短歌
1759 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに
人妻に 吾(あれ)も交(あ)はむ 吾(あ)が妻に 人も言問へ
この山を うしはく神の 古(いにしへ)よ 禁(いさ)めぬわざぞ
今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
カガヒハ、東ノ俗語ニ曰ク、カガヒ。
反し歌
1760 男神に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るとも吾(あれ)帰らめや
右ノ件ノ歌ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。
鳴鹿(しか)を詠める歌一首、また短歌
1761 三諸(みもろ)の 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に
秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ
あしひきの 山彦響め 呼び立て鳴くも
反し歌
1762 明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼び立て鳴くも
右ノ件ノ歌、或ヒト云ク、柿本朝臣人麻呂ガ作。
沙彌女王(さみのおほきみ)の歌一首
1763 倉橋の山を高みか夜隠(ごも)りに出で来る月の片待ちがたき
右ノ一首、間人宿禰大浦ガ歌ノ中ニ既ニ見エタリ。
但末一句相換リ、亦作歌ノ両主、正指ニ敢ズ。因
テ以テ累ネ載ス。
七夕(なぬかのよ)の歌一首、また短歌
1764 久かたの 天の川原(がはら)に 上つ瀬に 玉橋渡し
下つ瀬に 船浮け据ゑ 雨降りて 風は吹くとも
風吹きて 雨は降るとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
反し歌
1765 天の川霧立ち渡る今日今日と吾(あ)が待つ君が船出すらしも
右ノ件ノ歌、或ヒト云ク、中衛大将藤原北卿宅ニテ
作メリト。
相聞(したしみうた)
振田向宿禰(ふるのたむけのすくね)が筑紫国に退(まか)る時の歌一首
1766 我妹子は釧(くしろ)にあらなむ左手の吾(あ)が奥の手に巻きて去(い)なましを
拔氣大首(ぬかけのおほおびと)が筑紫に任(ま)けらるる時、豊前国(とよくにのみちのくち)の娘子紐児(ひものこ)に娶(あ)ひてよめる歌三首
1767 豊国の香春は吾家(わぎへ)紐児にいつがり居れば香春は吾家
1768 石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂には出でず心のうちに恋ふるこの頃
1769 かくのみし恋ひし渡れば玉きはる命も吾(あれ)は惜しけくもなし
大神(おほみわ)の大夫(まへつきみ)が長門守に任けらるる時、三輪河の辺(ほとり)に集ひて宴する歌二首
1770 三諸(みもろ)の神の帯ばせる泊瀬川水脈(みを)し絶えずは吾(あれ)忘れめや
1771 後(おく)れ居て吾(あれ)はや恋ひむ春霞棚引く山を君し越えなば
右ノ二首、古歌集ノ中ニ出ヅ。
大神の大夫が筑紫国に任けらるる時、阿倍の大夫がよめる歌一首
1772 後れ居て吾(あれ)はや恋ひむ印南野(いなみぬ)の秋萩見つつ去(い)なむ子故に
弓削皇子に献れる歌一首
1773 神奈備の神依せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
舎人皇子に献れる歌二首
1774 たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼み過ぎむや
1775 泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門(かなど)に近づきにけり
右ノ三首、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
石川の大夫が任(つかさ)を遷されて京(みやこ)に上る時、播磨娘子が贈れる歌二首
1776 絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花咲かむ春へは君し偲はむ
1777 君なくはなぞ身装はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をくし)も取らむとも思(も)はず
藤井連(ふぢゐのむらじ)が任を遷されて京に上る時、娘子が贈れる歌一首
1778 明日よりは吾(あれ)は恋ひむな名次山(なすきやま)岩踏み平し君が越えなば
藤井連が和ふる歌一首
1779 命をしま幸(さき)くもがも名次山岩踏み平しまたかへり来む
鹿島郡苅野橋(かるぬのはし)にて、大伴の卿に別るる歌一首、また短歌
1780 ことひ牛の 三宅の浦に さし向ふ 鹿島の崎に
さ丹塗りの 小船(をぶね)を設(ま)け 玉纏(たままき)の 小梶繁貫き
夕潮の 満ちの湛(とど)みに 御船子(みふなこ)を 率(あども)ひ立てて
呼び立てて 御船出でなば 浜も狭(せ)に 後れ並み居て
こいまろび 恋ひかも居らむ 足ずりし 音のみや泣かむ
海上(うなかみ)の その津を指して 君が榜ぎゆかば
反し歌
1781 海つ道(ぢ)の凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
右ノ二首、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。
妻(め)に与(おく)れる歌一首
1782 雪こそは春日(はるひ)消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
妻が和ふる歌一首
1783 松返りしひてあれやも三栗(みつぐり)の中すぎて来ず待つといへや子
右ノ二首、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。
入唐使(もろこしにつかはすつかひ)に贈れる歌一首
1784 海神(わたつみ)のいづれの神を祈らばか行方も来方(くへ)も船の早けむ
右ノ一首、渡海ノ年紀、詳ラカナラズ。
神亀五年(いつとせといふとし)戊辰(つちのえたつ)秋八月(はつき)によめる歌一首、また短歌
1785 人となる ことは難(かた)きを わくらばに なれる吾(あ)が身は
死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間に
うつせみの 世の人なれば 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み
天ざかる 夷(ひな)治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ
むら鳥の 群立ち行けば 留まり居て 吾(あれ)は恋ひむな 見ず久ならば
反し歌
1786 み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる吾(あれ)を懸けて偲(しぬ)はせ
天平元年(はじめのとし)己巳(つちのとみ)冬十二月(しはす)によめる歌一首、また短歌
1787 うつせみの 世の人なれば 大王の 命畏み
敷島の 大和の国の 石上 布留の里に
紐解かず 丸寝(まろね)をすれば 吾(あ)が着(け)せる 衣はなれぬ
見るごとに 恋はまされど 色に出(い)でば 人知りぬべみ
冬の夜の 明けもかねつつ 寝(い)も寝ずに 吾(あれ)はぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に
反し歌
1788 布留の山よ直に見渡す都にぞ寝(い)を寝ず恋ふる遠からなくに
1789 我妹子が結(ゆ)ひてし紐を解かめやも絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに
右ノ件ノ五首、笠朝臣金村ノ歌集ニ出ヅ。
天平五年癸酉(みづのととり)遣唐使(もろこしにつかはすつかひ)の船、難波よりいづる時、親母(はは)が子に贈れる歌一首、また短歌
1790 秋萩を 妻問ふ鹿(か)こそ 独り子を 持たりと言へ
鹿子(かこ)じもの 吾(あ)が独り子の 草枕 旅にし行けば
竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫き垂り 斎瓮(いはひへ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて
斎(いは)ひつつ 吾(あ)が思(も)ふ吾子(あご) ま幸くありこそ
反し歌
1791 旅人の宿りせむ野に霜降らば吾(あ)が子羽ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)
娘子を思(しぬ)ひてよめる歌一首、また短歌
1792 白玉の 人のその名を なかなかに 言の緒延(は)へず
逢はぬ日の 数多(まね)く過ぐれば 恋ふる日の 重なりゆけば
思ひ遣る たどきを知らに 肝(きも)向ふ 心砕けて
玉たすき 懸けぬ時なく 口やまず 吾(あ)が恋ふる子を
玉釧(たまくしろ) 手に巻き持ちて 真澄鏡(まそかがみ) 直目(ただめ)に見ねば
したひ山 下ゆく水の 上に出でず 吾(あ)が思(も)ふ心 安からぬかも
反し歌
1793 垣ほなす人の横言(よここと)繁みかも逢はぬ日まねく月の経ぬらむ
1794 立ち易(かは)る月重なりて逢はねども実(さね)忘らえず面影にして
右ノ三首、田邊福麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
挽歌(かなしみうた)
宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の宮所の歌一首
1795 妹がりと今木の嶺に茂(し)み立てる嬬(つま)松の木は吉き人見けむ
紀伊国にてよめる歌四首
1796 もみち葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも
1797 潮気立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
1798 古に妹と吾(あ)が見しぬば玉の黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
1799 玉津島磯の浦廻の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹が触(ふ)りけむ
右ノ四首、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
足柄の坂を過ぐるとき、死(みまか)れる人を見てよめる歌一首
1800 小垣内(をかきつ)の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ
白妙の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ
苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 国に退(まか)りて
父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は
鶏が鳴く 東(あづま)の国の 畏きや 神の御坂に
和細布(にきたへ)の 衣寒らに ぬば玉の 髪は乱れて
国問へど 国をも告(の)らず 家問へど 家をも言はず
ますらをの 行きの進みに ここに臥やせる
葦屋処女(あしやをとめ)が墓を過ぐる時よめる歌一首、また短歌
1801 古の ますら丁子(をのこ)の 相競(きほ)ひ 妻問しけむ
葦屋(あしのや)の 菟原娘子(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)を 吾(あ)が立ち見れば
永き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと
玉ほこの 道の辺近く 岩構へ 造れる塚(はか)を
天雲の そくへの限り この道を 行く人ごとに
行き寄りて い立ち嘆かひ 里人(さどひと)は 哭(ね)にも泣きつつ
語り継ぎ 偲ひ継ぎ来し 娘子らが 奥城所
吾(あれ)さへに 見れば悲しも 古思へば
反し歌
1802 古の信太丁子(しぬだをとこ)の妻問ひし菟原処女の奥城ぞこれ
1803 語り継ぐからにもここだ恋(こほ)しきを直目に見けむ古丁子(いにしへをとこ)
弟(おと)の死去(みまか)れるを哀しみてよめる歌一首、また短歌
1804 父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命(みこと)は
朝露の 消(け)やすき命 神の共(むた) 争ひかねて
葦原の 瑞穂の国に 家無みや また帰り来ぬ
遠つ国 黄泉(よみ)の境に 延(は)ふ蔦の おのもおのも
天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ惑はひ
射ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて
春鳥の 哭のみ泣きつつ 味(うま)さはふ 夜昼言はず
かぎろひの 心燃えつつ 嘆きぞ吾(あ)がする
反し歌
1805 別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて吾(あれ)恋ひめやも
1806 あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば心苦しも
右ノ七首、田邊福麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままをとめ)を詠める歌一首、また短歌
1807 鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと
今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が
麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 直(ひた)さ麻を 裳には織り着て
髪だにも 掻きは梳らず 履(くつ)をだに はかず歩けど
錦綾(にしきあや)の 中に包(くく)める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや
望月の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑みて立てれば
夏虫の 火に入るがごと 水門(みなと)入りに 舟榜ぐごとく
行きかがひ 人の言ふ時 幾許(いくばく)も 生けらじものを
何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒く湊の
奥城に 妹が臥(こ)やせる 遠き代に ありけることを
昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
反し歌
1808 勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ
菟原処女(うなひをとめ)が墓を見てよめる歌一首、また短歌
1809 葦屋(あしのや)の 菟原処女の 八年子(やとせこ)の 片生ひの時よ
小放(をはなり)に 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず
虚木綿(うつゆふ)の 籠りて座(ま)せば 見てしかと 鬱(いふ)せむ時の
垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の
臥屋(ふせや)焚き すすし競ひ 相よばひ しける時に
焼太刀(やきたち)の 手(た)かみ押しねり 白真弓 靫(ゆき)取り負ひて
水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競(きほ)へる時に
我妹子が 母に語らく 倭文手纏(しづたまき) 賤しき吾(あ)が故
ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや
宍薬(ししくしろ) 黄泉に待たむと 隠沼(こもりぬ)の 下延(したば)へ置きて
打ち嘆き 妹がゆければ 茅渟壮士 その夜夢に見
取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い
天仰ぎ 叫びおらび 地(つち)に伏し 牙(き)噛み猛(たけ)びて
如(もころ)男に 負けてはあらじと 懸佩(かきはき)の 小太刀取り佩き
ところつら 尋ね行ければ 親族(やがら)どち い行き集ひ
永き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと
処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方(こなた)彼方(かなた)に
造り置ける ゆゑよし聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭泣きつるかも
反し歌
1810 葦屋の菟原処女の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
1811 墓の上の木枝(このえ)靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
右ノ五首、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。
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.巻第十(とをまきにあたるまき)
春の雑歌(くさぐさのうた)
雑歌
1812 久かたの天の香具山この夕へ霞たなびく春立つらしも
1813 巻向(まきむく)の桧原に立てる春霞おほにし思(も)はばなづみ来めやも
1814 古(いにしへ)の人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
1815 子らが手を巻向山に春されば木の葉しぬぎて霞たなびく
1816 玉蜻(かぎろひ)の夕さり来れば猟人(さづひと)の弓月が岳に霞たなびく
1817 今朝ゆきて明日は来(こ)むちふ愛(は)しきやし朝妻山に霞たなびく
1818 子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖(きし)に霞たなびく
右ノ七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
鳥を詠める
1888 白雪の降り敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺(ぬへ)の鴬鳴きぬ 旋頭歌
1819 打ち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末(うれ)に鴬鳴きつ
1820 梅の花咲ける岡辺に家居(を)れば乏(とも)しくもあらぬ鴬の声
1821 春霞流るるなべに青柳の枝くひ持ちて鴬鳴くも
1822 我が背子を莫越(なこせ)の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに
1823 朝戸出に来鳴く貌鳥(かほとり)汝(なれ)だにも君に恋ふれや時終へず鳴く
1824 冬こもり春さり来らしあしひきの山にも野にも鴬鳴くも
1825 むらさきの根延(ば)ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも
1826 春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな
1827 春日なる羽がひの山よ佐保の内へ鳴き行くなるは誰(たれ)呼子鳥
1828 答へぬにな呼び響(とよ)めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに
1829 梓弓春山近く家居(を)らし継ぎて聞くらむ鴬の声
1830 打ち靡く春さり来れば小竹(しぬ)の群(め)に尾羽(をは)打ち触りて鴬鳴くも
1831 朝霧にしぬぬに濡れて呼子鳥三船の山よ鳴き渡る見ゆ
雪を詠める
1832 打ち靡く春さり来ればしかすがに天雲霧(きら)ひ雪は降りつつ
1833 梅の花降り覆ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消(け)につつ
1834 梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ
1835 今さらに雪降らめやも陽炎(かぎろひ)の燃ゆる春へとなりにしものを
1836 風まじり雪は降りつつしかすがに霞たなびき春さりにけり
1837 山の際(ま)に鴬鳴きて打ち靡く春と思へど雪降りしきぬ
1838 峯(を)のうへに降り置ける雪し風の共(むた)ここに散るらし春にはあれども
右ノ一首ハ、筑波山ニテ作(ヨ)メル。
1839 君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消(ゆきげ)の水に裳の裾濡れぬ
1840 梅が枝に鳴きて移ろふ鴬の羽白妙に沫雪ぞ降る
1841 山高(だか)み降り来る雪を梅の花散りかも来ると思ひつるかも
1842 雪をおきて梅をな恋ひそあしひきの山片つきて家居らす君
右ノ二首ハ、問答。
霞を詠める
1843 昨日こそ年は果てしか春霞春日の山に早立ちにけり
1844 冬過ぎて春来たるらし朝日さす春日の山に霞たなびく
1845 鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
柳を詠める
1846 霜枯れし冬の柳は宮人のかづらにすべく萌えにけるかも
1847 浅緑染め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも
1848 山の際に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも
1849 山の際の雪は消ざるを激(たぎ)ちあふ川の柳は萌えにけるかも
1850 朝な朝(さ)な吾(あ)が見る柳鴬の来居て鳴くべく森に早なれ
1851 青柳の糸のくはしさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも
1852 百敷の大宮人のかづらける垂柳(しだりやなぎ)は見れど飽かぬかも
1853 梅の花取り持ち見れば我が屋戸の柳の眉(まよ)し思ほゆるかも
花を詠める
1887 春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく 旋頭歌
1854 鴬の木伝(こづた)ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ
1855 桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ
1856 吾(あ)が挿せる柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
1857 毎年(としのは)に梅は咲けども空蝉の世の人吾(あれ)し春なかりけり
1858 うつたへに鳥は食(は)まねど縄(しめ)延へて守(も)らまく欲しき梅の花かも
1859 おしなべて高き山辺を白妙ににほはせたるは桜花かも
1860 花咲きて実はならねども長き日(け)に思ほゆるかも山吹の花
1861 能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも
1862 雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ
1863 去年(こぞ)咲きし馬酔木(あしび)今咲くいたづらに土にや散らむ見る人なしに
1864 あしひきの山間(やまかひ)照らす桜花この春雨に散りにけるかも
1865 打ち靡く春さり来らし山の際の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば
1866 雉(きぎし)鳴く高圓(たかまと)の辺(べ)に桜花散りて流らふ見む人もがも
1867 阿保山の桜の花は今日もかも散り乱るらむ見る人なしに
1868 かはづ鳴く吉野の川の滝(たぎ)の上(へ)の馬酔木の花は土に置くなゆめ
1869 春雨に争ひかねて我が屋戸の桜の花は咲きそめにけり
1870 春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
1871 春されば散らまく惜しき桜花しましは咲かず含(ふふ)みてもがも
1872 見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも
1873 いつしかもこの夜の明けむ鴬の木伝ひ散らす梅の花見む
月を詠める
1874 春霞たなびく今日の夕月夜(ゆふづくよ)清く照るらむ高圓の野に
1875 春されば木隠(こがく)れ多き夕月夜おほつかなしも山陰にして
1876 朝霞春日の暮れば木の間より移ろふ月をいつとか待たむ
雨を詠める
1877 春の雨にありけるものを立ち隠り妹が家道にこの日暮らしつ
河を詠める
1878 今ゆきて聞くものにもが明日香川春雨降りて激(たぎ)つ瀬の音(と)を
煙(けぶり)を詠める
1879 春日野に煙立つ見ゆ娘子(をとめ)らし春野のうはぎ摘みて煮らしも
野の遊び
1880 春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶこの日の忘らえめやも
1881 春霞立つ春日野を往き還り吾(あれ)は相見むいや年のはに
1882 春の野に心やらむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか
1883 百敷の大宮人は暇(いとま)あれや梅を挿頭してここに集(つど)へる
旧(ふ)りぬるを歎く
1884 冬過ぎて春し来たれば年月は改れども人は古りゆく
1885 物皆は新(あらた)しき吉し唯人は古りぬるのみそ宜しかるべし
逢へるを懽(よろこ)ぶ
1886 住吉(すみのえ)の里ゆきしかば春花のいやめづらしき君に逢へるかも
譬喩歌(たとへうた)
1889 我が屋戸の毛桃の下に月夜さし下悩ましもうたてこの頃
春の相聞(したしみうた)
相聞
1890 春日野に鳴く鴬の泣き別れ帰ります間も思ほせ吾(あれ)を
1891 冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひ渡るかも
1892 春山の霧に惑へる鴬も吾(あれ)にまさりて物思はめや
1893 出でて見る向ひの岡に本繁く咲ける毛桃のならずはやまじ
1894 霞立つ永き春日を恋ひ暮らし夜も更けゆきて妹に逢へるかも
1895 春さればまづ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)
1896 春されば垂(しだ)る柳のとををにも妹に心に乗りにけるかも
右ノ七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
鳥に寄す
1897 春さればもずの草潜(ぐ)き見えずとも吾(あれ)は見やらむ君があたりは
1898 容鳥(かほとり)の間なくしば鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも
花に寄す
1899 春されば卯の花くたし吾(あ)が越えし妹が垣間(かきま)は荒れにけるかも
1900 梅の花咲き散る園に吾(あれ)行かむ君が使を片待ちがてり
1901 藤波の咲ける春野に延ふ葛(くず)の下よし恋ひば久しくもあらむ
1902 春の野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも
1903 我が背子に吾(あ)が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり
1904 梅の花しだり柳に折りまじへ花に手向けば君に逢はむかも
1905 をみなへし佐紀野に生ふる白つつじ知らぬこともち言はれし我が背
1906 梅の花吾(あれ)は散らさじ青丹よし奈良なる人の来つつ見るがね
1907 ことならばいかで植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思(も)へば
霜に寄す
1908 春されば水草(みくさ)の上に置く霜の消(け)につつも吾(あれ)は恋ひ渡るかも
霞に寄す
1909 春山に霞たなびきおほほしく妹を相見て後恋ひむかも
1910 春霞立ちにし日より今日までに吾(あ)が恋やまず片思(も)ひにして
1911 さ丹頬(にづら)ふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひ渡るかも
1912 玉きはる我が山の上(へ)に立つ霞立つとも座(う)とも君がまにまに
1913 見渡せば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か
1914 恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかで暮らさむ
雨に寄す
1915 我妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らに出でて来しかも
1916 今さらに吾(あれ)はい行かじ春雨の心を人の知らざらなくに
1917 春雨に衣はいたく通らめや七日(なぬか)し降らば七夜(ななよ)来じとや
1918 梅の花散らす春雨しきて降る旅にや君が廬りせるらむ
草に寄す
1919 国栖(くにす)らが春菜摘むらむ司馬(しま)の野のしばしば君を思ふこの頃
1920 春草の繁き吾(あ)が恋大海の辺による波の千重に積もりぬ
1921 おほほしく君を相見て菅の根の長き春日を恋ひ渡るかも
松に寄す
1922 梅の花咲きて散りなば我妹子を来むか来じかと吾(あ)が松の木ぞ
雲に寄す
1923 白真弓今春山にゆく雲の行きや別れむ恋しきものを
蘰(かづら)を贈る
1924 大夫(ますらを)の伏し居嘆きて作りたる垂柳(しだりやなぎ)そ蘰(かづら)け我妹(わぎも)
別れを悲しむ
1925 朝戸出の君が姿をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ
問答(とひこたへのうた)
1926 春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄せぬともよし
1927 石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神さびて吾(あれ)やさらさら恋にあひにける
1928 狭野方(さぬかた)は実にならずとも花のみも咲きて見えこそ恋のなぐさに
1929 狭野方は実になりにしを今更に春雨降りて花咲かめやも
1930 梓弓引津の辺(べ)なる名告藻(なのりそ)が花咲くまでに逢はぬ君かも
1931 川上(かはかみ)のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
1932 春雨のやまず降る降る吾(あ)が恋ふる人の目すらを相見せなくに
1933 我妹子に恋ひつつ居れば春雨の彼も知るごとやまず降りつつ
1934 相思はぬ妹をやもとな菅の根の長き春日を思ひ暮らさむ
或本(マキ)ノ歌、
1936 相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく
1935 春さればまづ鳴く鳥の鴬の言先立てし君をし待たむ
夏の雑歌(くさぐさのうた)
鳥を詠める
1937 大夫(ますらを)の 出で立ち向ふ 故郷の 神奈備山に
明けくれば 柘(つみ)のさ枝に 夕されば 小松が末(うれ)に
里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響(とよ)むまで
霍公鳥(ほととぎす) 妻恋(つまこひ)すらし さ夜中に鳴く
反(かへ)し歌
1938 旅にして妻恋すらし霍公鳥神奈備山にさ夜更けて鳴く
右ノ二首ハ、古歌集ノ中ニ出ヅ。
1939 霍公鳥汝(な)が初声は花にもが五月の玉にまじへて貫(ぬ)かむ
1940 朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ
1941 朝霞八重山越えて呼子鳥呼びや汝が来る屋戸もあらなくに
1942 霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く乙女
1943 月夜よみ鳴く霍公鳥見が欲れば今草取れり見む人もがも
1944 藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城(いまき)の岡を鳴きて越ゆなり
1945 朝霞八重山越えて霍公鳥卯の花辺(はなへ)から鳴きて越ゆなり
1946 木高くはかつて木植ゑじ霍公鳥来鳴き響めて恋まさらしむ
1947 逢ひがたき君に逢へる夜霍公鳥他時(あたしとき)よは今こそ鳴かめ
1948 木の暗(くれ)の暗闇なるに霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ
1949 霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは君聞きけむか朝宿(あさい)か寝けむ
1950 霍公鳥花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ
1951 うれたきや醜(しこ)霍公鳥今こそは声の嗄るがに来鳴き響まめ
1952 この夜らのおほつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ
1953 五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも
1954 霍公鳥来居も鳴かぬか我が屋戸の花橘の土に散るも見む
1955 霍公鳥いとふ時なし菖蒲草かづらにせむ日こよ鳴き渡れ
1956 大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとに亡き人思ほゆ
1957 卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥野に出山に入(り)来鳴き響もす
1958 橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで住みわたるがね
1959 雨晴れし雲にたぐひて霍公鳥春日(かすが)をさしてこよ鳴き渡る
1960 物思(も)ふとい寝ぬ朝明に霍公鳥鳴きてさ渡るすべなきまでに
1961 我が衣(ころも)君に着せよと霍公鳥吾(あれ)を頷き袖に来居つつ
1962 本つ人霍公鳥をやめづらしく今や汝が来る恋ひつつ居れば
1963 かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ
蝉(ひぐらし)を詠める
1964 黙(もだ)もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思(も)ふ時に鳴きつつもとな
榛(はり)を詠める
1965 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも
花を詠める
1966 風に散る花橘を袖に受けて君がみ為と偲ひつるかも
1967 かぐはしき花橘を玉に貫きおこせむ妹は贏(みつ)れてもあるか
1968 霍公鳥来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰
1969 我が屋戸の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも
1970 見渡せば向ひの野辺の撫子の散らまく惜しも雨な降りそね
1971 雨間(あまま)明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも
1972 野辺見れば撫子の花咲きにけり吾(あ)が待つ秋は近づくらしも
1973 我妹子に楝(あふち)の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも
1974 春日野の藤は散りにき何をかも御狩の人の折りて挿頭(かざ)さむ
1975 時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しかるべみ
問答
1976 卯の花の咲き散る岡よ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや
1977 聞きつやと君が問はせる霍公鳥しぬぬに濡れてこよ鳴き渡る
譬喩歌
1978 橘の花散る里に通ひなば山霍公鳥響もさむかも
夏の相聞(したしみうた)
鳥に寄す
1979 春さればすがるなす野の霍公鳥ほとほと妹に逢はず来にけり
1980 五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも
1981 霍公鳥来鳴く五月の短夜も独りし寝(ぬ)れば明かしかねつも
蝉(ひぐらし)に寄す
1982 ひぐらしは時と鳴けども物恋ふる手弱女(たわやめ)吾(あれ)は時わかず泣く
草に寄す
1983 人言は夏野の草の繁くとも妹と吾(あれ)とし携はり寝ば
1984 この頃の恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひ重(し)くごとし
1985 真葛延ふ夏野の繁くかく恋ひば実(さね)我が命常ならめやも
1986 吾(あれ)のみやかく恋すらむかきつはた丹頬(につら)ふ妹はいかにかあらむ
花に寄す
1987 片縒(かたより)に糸をぞ吾(あ)が縒る我が背子が花橘を貫かむと思(も)ひて
1988 鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
1989 卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思(かたもひ)にして
1990 吾(あれ)こそは憎くもあらめ我が屋戸の花橘を見には来じとや
1991 霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや
1992 隠(こも)りのみ恋ふれば苦し撫子の花に咲き出よ朝な朝(さ)な見む
1993 よそのみに見つつを恋ひむ紅の末摘花(うれつむはな)の色に出でずとも
露に寄す
1994 夏草の露分け衣着(け)せなくに吾(あ)が衣手(ころもて)の干(ひ)る時もなき
日に寄す
1995 六月(みなつき)の土さへ裂けて照る日にも吾(あ)が袖干めや君に逢はずして
秋の雑歌(くさぐさのうた)
七夕(なぬかのよ)
1996 天の川水底さへにひかる舟泊てし舟人妹と見えきや
1997 久かたの天の川原(がはら)にぬえ鳥のうら歎(な)げましつ乏(とも)しきまでに
1998 吾(あ)が恋を嬬(つま)は知れるを行く舟の過ぎて来(く)べしや言も告げなく
1999 赤らびく敷妙(しきたへ)の子をしば見れば人妻ゆゑに吾(あれ)恋ひぬべし
2000 天の川安の渡りに船浮けて吾(あ)が立ち待つと妹に告げこそ
2001 大空(おほそら)よ通ふ吾(あれ)すら汝(な)がゆゑに天の川道(がはぢ)をなづみてぞ来し
2002 八千戈(やちほこ)の神の御代より乏し妻人知りにけり継ぎてし思(も)へば
2003 吾(あ)が恋ふる丹穂(にのほ)の面(おもわ)今宵もか天の川原に石枕(いそまくら)まかむ
2004 己が夫(つま)ともしむ子らは泊てむ津の荒磯(ありそ)巻きて寝(ぬ)君待ちかてに
2005 天地(あめつち)と別れし時よ己が妻しかぞ手にある秋待つ吾(あれ)は
2006 彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ
2007 久かたの天(あま)つしるしと水無川(みなしがは)隔てて置きし神代し恨めし
2008 ぬば玉の夜霧隠(こも)りて遠くとも妹が伝言(つてごと)早く告げこそ
2009 汝が恋ふる妹の命(みこと)は飽くまでに袖振る見えつ雲隠るまで
2010 夕星(ゆふづつ)の通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士(つきひとをとこ)
2011 天の川い向ひ立ちて恋ひむよは言だに告げむ妻寄すまでは
2012 白玉の五百(いほ)つ集ひを解きも見ず吾(あ)は在りかたぬ逢はむ日待つに
2013 天の川水陰草(みこもりくさ)の秋風に靡かふ見れば時来たるらし
2014 吾(あ)が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人(をちかたひと)に
2015 我が背子にうら恋ひ居れば天の川夜船榜ぎ響む楫の音(と)聞こゆ
2016 ま日(け)長く恋ふる心よ秋風に妹が音聞こゆ紐解きまけな
2017 恋ひしくは日長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべき夜だに
2018 天の川去年の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞ更けにける
2019 古よあげてし服(はた)を顧みず天の川津(かはづ)に年ぞ経にける
2020 天の川夜船を榜ぎて明けぬとも逢はむと思(も)ふ夜袖交(か)へずあらめや
2021 遠妻と手枕交はし寝たる夜は鶏が音(ね)な鳴き明けば明くとも
2022 相見まく飽き足らねどもいなのめの明けゆきにけり舟出せむ妹
2023 さ寝そめていくだもあらねば白妙の帯乞ふべしや恋も尽きねば
2024 万代にたづさはり居て相見とも思ひ過ぐべき恋ならなくに
2025 万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど
2026 白雲の五百重(いほへ)隠(かく)りて遠けども宵さらず見む妹があたりは
2027 吾(あ)が為と織女(たなばたつめ)のその屋戸に織れる白布(しろたへ)縫ひてけむかも
2028 君に逢はず久しき時よ織る服(はた)の白妙衣垢付くまでに
2029 天の川楫の音(と)聞こゆ彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)と今宵逢ふらしも
2030 秋されば川霧立てる天の川川に向き居て恋ふる夜ぞ多き
2031 よしゑやし直(ただ)ならずともぬえ鳥のうら嘆(な)げ居ると告げむ子もがも
2032 一年(ひととせ)に七日の夜のみ逢ふ人の恋も尽きねばさ夜ぞ明けにける
2033 天の川安の川原に定まりて神の競(つど)ひは禁(い)む時無きを 此歌一首、庚辰ノ年ニ作メル。
右ノ三十八首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
2034 織女(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織る布の和布(にきたへ)衣誰か取り見む
2035 年にありて今か巻くらむぬば玉の夜霧隠(がく)りに遠妻の手を
2036 吾(あ)が待ちし秋は来たりぬ妹と吾(あれ)何事あれそ紐解かざらむ
2037 年の恋今宵尽して明日よりは常のごとくや吾(あ)が恋ひ居らむ
2038 逢はなくは日長きものを天の川隔ててまたや吾(あ)が恋ひ居らむ
2039 恋しけく日長きものを逢ふべかる宵だに君が来まさざるらむ
2040 彦星と織女(たなばたつめ)と今宵逢ふ天の川門に波立つなゆめ
2041 秋風の吹き漂はす白雲は織女の天つ領巾(ひれ)かも
2042 しばしばも相見ぬ君を天の川舟出早せよ夜の更けぬあひだ
2043 秋風の清(さや)けき夕へ天の川舟榜ぎ渡る月人壮士(つきひとをとこ)
2044 天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば
2045 君が舟今榜ぎ来らし天の川霧立ち渡るこの川の瀬に
2046 秋風に川波立ちぬしましくは八十(やそ)の舟津にみ舟留めよ
2047 天の川川音(かはと)さやけし彦星の速榜ぐ舟の波のさわきか
2048 天の川川門(かはと)に立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ
2049 天の川川門に居りて年月を恋ひ来(こ)し君に今宵会へるかも
2050 明日よりは吾(あ)が玉床を打ち払ひ君とい寝ずて独りかも寝む
2051 天の原さしてや射ると白真弓引きて隠せる月人壮士
2052 この夕へ降りくる雨は彦星の早榜ぐ舟の櫂の散りかも
2053 天の川八十瀬霧(きら)へり彦星の時待つ船は今し榜ぐらし
2054 風吹きて川波立ちぬ引船に渡りも来ませ夜の更けぬ間に
2055 天の川遠き渡りは無けれども君が舟出は年にこそ待て
2056 天の川打橋渡せ妹が家道やまず通はむ時待たずとも
2057 月重ね吾(あ)が思(も)ふ妹に会へる夜は今し七夜を継ぎこせぬかも
2058 年に装ふ吾(あ)が舟榜がむ天の川風は吹くとも波立つなゆめ
2059 天の川波は立つとも吾(あ)が舟はいざ榜ぎ出でむ夜の更けぬ間に
2060 ただ今宵逢ひたる子らに言問(こととひ)もいまだせずしてさ夜ぞ明けにける
2061 天の川白波高し吾(あ)が恋ふる君が舟出は今しすらしも
2062 機物(はたもの)のふみ木持ちゆきて天の川打橋渡す君が来むため
2063 天の川霧立ちのぼる織女(たなばた)の雲の衣の翻(かへ)る袖かも
2064 古に織りてし服(はた)をこの夕へ衣(ころも)に縫ひて君待つ吾(あれ)を
2065 足玉(あしたま)も手玉(たたま)もゆらに織る絹布(はた)を君が御衣(みけし)に縫ひあへむかも
2066 月日択(え)り逢ひてしあれば別れまく惜しかる君は明日さへもがも
2067 天の川渡り瀬深み船浮けて榜ぎ来る君が楫の音(と)聞こゆ
2068 天の原振りさけ見れば天の川霧立ち渡る君は来(き)ぬらし
2069 天の川渡り瀬ごとに幣(ぬさ)まつる心は君を幸(さき)く来ませと
2070 久かたの天の川津に舟浮けて君待つ夜らは明けずもあらぬか
2071 天の川足濡れ渡り君が手もいまだまかねば夜の更けぬらく
2072 渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音せぬ
2073 ま日長く川に向き立ちありし袖こよひ巻かれむと思ふがよさ
2074 天の川渡り瀬ごとに思ひつつ来しくもしるし逢へらく思へば
2075 人さへや見継がずあらむ彦星の妻呼ぶ舟の近づきゆくを
2076 天の川瀬を早みかもぬば玉の夜は更けにつつ逢はぬ彦星
2077 渡り守舟はや渡せ一年にふたたび通ふ君ならなくに
2078 玉葛(たまかづら)絶えぬものからさ寝(ぬ)らくは年の渡りにただ一夜のみ
2079 恋ふる日は日長きものを今宵だに乏しむべしや逢ふべきものを
2080 織女(たなばた)の今宵逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ
2081 天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ
2082 天の川川門八十(やそ)ありいづくにか君がみ舟を吾(あ)が待ち居らむ
2083 秋風の吹きにし日より天の川河瀬に出立(でた)ち待つと告げこそ
2084 天の川去年(こぞ)の渡り瀬絶えにけり君が来まさむ道の知らなく
2085 天の川瀬々に白波高けども直(ただ)渡り来(き)ぬ待たば苦しみ
2086 彦星の妻呼ぶ舟の引綱の絶えむと君を吾(あ)が思(も)はなくに
2087 渡り守舟出して来む今宵のみ相見て後は逢はじものかも
2088 吾(あ)が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て
2089 天地の 初めの時よ 天の川 い向ひ居りて
一年に ふたたび逢はぬ 妻恋に 物思ふ人
天の川 安の川原の あり通ふ 年の渡りに
大船の 艫(とも)にも舳(へ)にも 船装(ふなよそ)ひ 真楫しじ貫き
旗すすき 末葉(うらば)もそよに 秋風の 吹きくる宵に
天の川 白波しぬぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて
若草の 妻を巻かむと 大船の 思ひ頼みて
榜ぎ来らむ その夫(つま)の子が あら玉の 年の緒長く
思ひ来し 恋尽すらむ 七月(ふみつき)の 七日の宵は 吾(あれ)も悲しも
反し歌
2090 高麗錦(こまにしき)紐解きかはし天人(あめひと)の妻問ふ宵ぞ吾(あれ)も偲(しぬ)はむ
2091 彦星の川瀬を渡るさ小舟の得行きて泊てむ川津し思ほゆ
2092 天地と 別れし時よ 久かたの 天つしるしと
定めてし 天の川原に あら玉の 月を重ねて
妹に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 吾(あ)が衣手に
秋風の 吹きしかへれば 立ちて居る たどきを知らに
むら肝の 心いさよひ 解き衣の 思ひ乱れて
いつしかと 吾(あ)が待つ今宵 この川の ゆく瀬の長く ありこせぬかも
反し歌
2093 妹に逢ふ時片待つと久かたの天の川原に月ぞ経にける
花を詠める
2094 さ牡鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも
2095 夕されば野辺の秋萩うら若み露に枯れつつ秋待ち難し
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
2096 真葛原靡く秋風吹くごとに阿太(あだ)の大野の萩が花散る
2097 雁がねの来鳴かむ日まで見つつあらむこの萩原に雨な降りそね
2098 奥山に棲むちふ鹿の宵さらず妻問ふ萩の散らまく惜しも
2099 白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折らむ置きや枯らさむ
2100 秋田刈る借廬(かりほ)の宿りにほふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも
2101 吾(あ)が衣摺(す)れるにはあらず高圓(たかまと)の野辺行きしかば萩の摺れるそ
2102 この夕へ秋風吹きぬ白露に争ふ萩の明日咲かむ見む
2103 秋風は涼しくなりぬ馬並(な)めていざ野に行かな萩が花見に
2104 朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ
2105 春されば霞隠(がく)りて見えざりし秋萩咲けり折りて挿頭さむ
2106 沙額田(さぬかた)の野辺の秋萩時しあれば今盛りなり折りて挿頭さむ
2107 ことさらに衣は摺らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ
2108 秋風は速く吹き来ぬ萩が花散らまく惜しみ競ひ立ち見む
2109 我が屋戸の萩の末(うれ)長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて
2110 人皆は萩を秋と言ふよし吾(あれ)は尾花が末を秋とは言はむ
2111 玉づさの君が使の手折りけるこの秋萩は見れど飽かぬかも
2112 我が屋戸に咲ける秋萩常しあらば吾(あ)が待つ人に見せましものを
2113 手もすまに植ゑしもしるく出で見れば屋戸の早萩(わさはぎ)咲きにけるかも
2114 我が屋戸に植ゑ生(お)ほしたる秋萩を誰か標(しめ)さす吾(あれ)に知らえず
2115 手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
2116 白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね
2117 乙女らに行相(ゆきあひ)の早稲(わせ)を刈る時になりにけらしも萩が花咲く
2118 朝霧の棚引く小野の萩が花今か散るらむいまだ飽かなくに
2119 恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
2120 秋萩に恋尽くさじと思へどもしゑや惜(あたら)しまた逢はめやも
2121 秋風は日に異(け)に吹きぬ高圓の野辺の秋萩散らまく惜しも
2122 大夫の心は無しに秋萩の恋にのみやもなづみてありなむ
2123 吾(あ)が待ちし秋は来たりぬ然れども萩が花そもいまだ咲かずける
2124 見まく欲り吾(あ)が待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり
2125 春日野の萩し散りなば朝東風(あさごち)の風にたぐひてここに散り来(こ)ね
2126 秋萩は雁に逢はじと言へればか声を聞きては花に散りぬる
2127 秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも
雁を詠める
2128 秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲隠りつつ
2129 明闇(あけぐれ)の朝霧隠り鳴きて行く雁は吾(あ)が恋ふ妹に告げこそ
2130 我が屋戸に鳴きし雁がね雲のうへに今宵鳴くなり国へかも行く
2131 さ牡鹿の妻問ふ時に月をよみ雁が音(ね)聞こゆ今し来らしも
2132 天雲のよそに雁が音聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は
2133 秋の田の吾(あ)が刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞こゆ冬かたまけて
2134 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなべに雁鳴き渡る
2135 押し照る難波堀江の葦辺には雁寝たるらし霜の降らくに
2136 秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし
2137 朝(つと)にゆく雁の鳴く音(ね)は我がごとく物思へかも声の悲しき
2138 鶴(たづ)が音の今朝鳴くなべに雁が音はいづくさしてか雲隠るらむ
2139 ぬば玉の夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てか己が名を告(の)る
2140 あら玉の年の経ゆけば率(あども)ふと夜渡る吾(あれ)を問ふ人や誰
鹿鳴(しか)を詠める
2141 この頃の秋の朝明(あさけ)に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
2142 さ牡鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原
2143 君に恋ひうらぶれ居れば敷(しき)の野の秋萩しぬぎさ牡鹿鳴くも
2144 雁は来ぬ萩は散りぬとさ牡鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり
2145 秋萩の恋も尽きねばさ牡鹿の声い継ぎい継ぎ恋こそまされ
2146 山近く家や居るべきさ牡鹿の声を聞きつつい寝かてぬかも
2147 山の辺(べ)にい行く猟夫(さつを)は多かれど山にも野にもさ牡鹿鳴くも
2148 あしひきの山より来(き)せばさ牡鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを
2149 山辺(やまへ)には猟夫のねらひ恐(かしこ)けど牡鹿鳴くなり妻の目を欲(ほ)り
2150 秋萩の散りぬるを見ていふかしみ妻恋すらしさ牡鹿鳴くも
2151 山遠き京(みさと)にしあればさ牡鹿の妻呼ぶ声は乏しくもあるか
2152 秋萩の散りて過ぎなばさ牡鹿は侘び鳴きせむな見ねば乏しみ
2153 秋萩の咲きたる野辺はさ牡鹿ぞ露を分けつつ妻問しける
2154 など鹿の侘び鳴きすなるけだしくも秋野の萩や繁く散るらむ
2155 秋萩の咲きたる野辺にさ牡鹿は散らまく惜しみ鳴きぬるものを
2156 あしひきの山の常蔭(とかげ)に鳴く鹿の声聞かすやも山田守(も)らす子
蝉(ひぐらし)を詠める
2157 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも
蟋(こほろぎ)を詠める
2158 秋風の寒く吹くなべ我が屋戸の浅茅が本に蟋蟀鳴くも
2159 蔭草の生ひたる屋戸の夕影に鳴く蟋蟀は聞けど飽かぬかも
2160 庭草にむら雨降りて蟋蟀の鳴く声聞けば秋づきにけり
蝦(かはづ)を詠める
2161 み吉野の磯もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ
2162 神奈備の山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや
2163 草枕旅に物思(も)ひ吾(あ)が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも
2164 瀬を早み落ちたぎちたる白波にかはづ鳴くなり朝宵ごとに
2165 上つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕されば衣手寒み妻枕(ま)かむとか
鳥を詠める
2166 妹が手を取石(とろし)の池の波の間よ鳥が音異(け)に鳴く秋過ぎぬらし
2167 秋の野の尾花が末に鳴く百舌の声聞くらむか片待つ我妹
露を詠める
2168 秋萩に置ける白露朝な朝(さ)な玉とぞ見ゆる置ける白露
2169 夕立の雨降るごとに春日野の尾花が上の白露思ほゆ
2170 秋萩の枝もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも
2171 白露と秋の萩とは恋ひ乱り別(わ)くことかたき吾(あ)が心かも
2172 我が屋戸の尾花押しなべ置く露に手(た)触れ我妹子散らまくも見む
2173 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひて萩の遊びせむ
2174 秋田刈る借廬(かりほ)を作り吾(あ)が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
2175 この頃の秋風寒し萩が花散らす白露置きにけらしも
2176 秋田刈る衣手(そて)湿(ひぢ)ぬなり白露は置く穂田なしと告げに来ぬらし
山を詠める
2177 春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも
黄葉(もみち)を詠める
2178 妻籠る矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも
2179 朝露ににほひそめたる秋山に時雨な降りそありわたるがね
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
2180 九月(ながつき)のしぐれの雨に濡れとほり春日の山は色づきにけり
2181 雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは
2182 このごろの暁露(あかときつゆ)に我が屋戸の萩の下葉は色づきにけり
2183 雁がねは今は来鳴きぬ吾(あ)が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも
2184 秋山をゆめ人懸くな忘れにしそのもみち葉の思ほゆらくに
2185 大坂を吾(あ)が越え来れば二上にもみち葉流る時雨降りつつ
2186 秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉(うらば)色づきにけり
2187 妹が袖巻向山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも
2188 もみち葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折り挿頭さむ
2189 露霜の寒き夕への秋風にもみちにけりも妻梨の木は
2190 我が門の浅茅色づく吉隠(よなばり)の浪柴(なみしば)の野の黄葉散るらし
2191 雁が音を聞きつるなべに高圓の野の上(へ)の草ぞ色づきにける
2192 我が背子が白妙衣ゆき触ればにほひぬべくも黄変(もみ)つ山かも
2193 秋風の日に異(け)に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり
2194 雁がねの来鳴きしなべに韓衣(からころも)龍田の山はもみちそめたり
2195 雁がねの声聞くなべに明日よりは春日の山はもみちそめなむ
2196 しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり
2197 いちしろく時雨の雨は降らなくに大城(おほき)の山は色づきにけり
2198 風吹けば黄葉散りつつすくなくも君松原の清からなくに
2199 物思(も)ふと隠ろひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり
2200 九月の白露負ひてあしひきの山のもみちむ見まくしもよけむ
2201 妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
2202 黄葉する時になるらし月内(つきぬち)の桂の枝の色づく見れば
2203 朝に異に霜は置くらし高圓の野山づかさの色づく見れば
2204 秋風の日に異に吹けば露しげみ萩が下葉は色づきにけり
2205 秋萩の下葉もみちぬ荒玉の月の経ぬれば風をいたみかも
2206 真澄鏡(まそかがみ)南淵山(みなふちやま)は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ
2207 我が屋戸の浅茅色づく吉隠の夏身の上に時雨降るらし
2208 雁がねの寒く鳴きしよ水茎の岡の葛葉は色づきにけり
2209 秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも
2210 明日香川もみち葉ながる葛城の山の木の葉は今し散るらし
2211 妹が紐解くと結ぶと龍田山今こそ黄葉はじめたりけれ
2212 雁がねの鳴きにし日より春日なる三笠の山は色づきにけり
2213 この頃の暁露に我が屋戸の秋の萩原色づきにけり
2214 夕されば雁が越えゆく龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
2215 さ夜更けて時雨な降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも
2216 故郷の初もみち葉を手折り持ちて今日そ吾(あ)が来し見ぬ人のため
2217 君が家のもみち葉早く散りにしは時雨の雨に濡れにけらしも
2218 一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも
水田(こなた)を詠める
2219 あしひきの山田作る子秀(ひ)でずとも縄(しめ)だに延へよ守(も)ると知るがね
2220 さ牡鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田(わさだ)は刈らじ霜は降るとも
2221 我が門に禁(も)る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも
河を詠める
2222 夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音(と)を聞かくしよしも
月を詠める
2223 天の海に月の船浮け桂楫懸けて榜ぐ見ゆ月人壮士
2224 この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空よ月立ち渡る
2225 我が背子が挿頭の萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
2226 心なき秋の月夜の物思(も)ふと寝(い)の寝らえぬに照りつつもとな
2227 思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜(つくよ)さやけし
2228 萩が花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに
2229 白露を玉になしたる九月(ながつき)の有明の月夜見れど飽かぬかも
風を詠める
2230 恋ひつつも稲葉かき分け家居れば乏しくもあらず秋の夕風
2231 萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなべに秋の風吹く
2232 秋山の木の葉もいまだもみちねば今朝吹く風は霜も置きぬべく
芳(たけ)を詠める
2233 高圓のこの峰も狭(せ)に笠立てて満ち盛りなる秋の香のよさ
雨を詠める
2234 一日には千重しくしくに吾(あ)が恋ふる妹があたりに時雨降る見ゆ
右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
2235 秋田刈る旅の廬(いほり)に時雨ふり吾(あ)が袖濡れぬ干す人なしに
2236 玉たすき懸けぬ時なき吾(あ)が恋を時雨し降らば濡れつつも行かむ
2237 もみち葉を散らす時雨の降るなべに衾(ふすま)も寒し独りし寝(ぬ)れば
霜を詠める
2238 天(あま)飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
秋の相聞(したしみうた)
相聞
2239 秋山のしたびが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ
2240 誰(た)そ彼と吾(あれ)をな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ吾(あれ)を
2241 秋の夜の霧立ちわたりおほほしく夢(いめ)にぞ見つる妹が姿を
2242 秋の野の尾花が末(うれ)の打ち靡き心は妹に寄りにけるかも
2243 秋山に霜降り覆ひ木の葉散り年は行くとも吾(あれ)忘れめや
右ノ五首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
水田(こなた)に寄す
2244 住吉の岸を田に墾り蒔きし稲秀(ひ)でて刈るまで逢はぬ君かも
2245 太刀の後(しり)玉纒く田居にいつまでか妹を相見ず家恋ひ居らむ
2246 秋の田の穂の上(へ)に置ける白露の消ぬべく吾(あれ)は思ほゆるかも
2247 秋の田の穂向きの寄れる片寄りに吾(あれ)は物思(も)ふつれなきものを
2248 秋田刈る借廬を作り廬らしてあるらむ君を見むよしもがも
2249 鶴(たづ)が音の聞こゆる田居に廬りして我旅なりと妹に告げこそ
2250 春霞たなびく田居に廬りして秋田刈るまで思はしむらく
2251 橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも
露に寄す
2252 秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
2253 色付(づ)かふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今宵は
2254 秋萩の上に置きたる白露の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは
2255 我が屋戸の秋萩の上(へ)に置く露のいちしろくしも吾(あれ)恋ひめやも
2256 秋の穂をしぬに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
2257 露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも
2258 秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
2259 秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を
風に寄す
2260 我妹子は衣(きぬ)にあらなむ秋風の寒きこの頃下に着ましを
2261 泊瀬風かく吹く夜半をいつまでか衣(ころも)片敷き吾(あ)が独り寝む
雨に寄す
2262 秋萩を散らす長雨(ながめ)の降る頃は独り起き居て恋ふる夜ぞ多き
2263 九月のしぐれの雨の山霧(やまきり)のいふせき吾(あ)が胸誰を見ばやまむ
蟋蟀に寄す
2310 蟋蟀の吾(あ)が床の辺に鳴きつつもとな起き居つつ君に恋ふるにい寝かてなくに 旋頭歌
2264 蟋蟀の待ち歓べる秋の夜を寝(ぬ)る験(しるし)なし枕と吾(あれ)は
蝦(かはづ)に寄す
2265 朝霞飼屋(かひや)が下に鳴くかはづ声だに聞かば吾(あれ)恋ひめやも
雁に寄す
2266 出でて去(い)なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける
鹿に寄す
2267 さ牡鹿の朝伏す小野の草若み隠ろひかねて人に知らゆな
2268 さ牡鹿の小野の草伏(くさふし)いちしろく吾(あ)が問はなくに人の知れらく
鶴(たづ)に寄す
2269 この夜らの暁くだち鳴く鶴(たづ)の思ひは過ぎず恋こそまされ
草に寄す
2311 旗すすき穂には咲き出ぬ恋を吾(あ)がする玉蜻(かぎろひ)のただ一目のみ見し人ゆゑに 旋頭歌
2270 道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何か思はむ
花に寄す
2271 草深み蟋蟀すだき鳴く屋戸の萩見に君はいつか来まさむ
2272 秋づけば水草(みくさ)の花のあえぬがに思へど知らじ直(ただ)に逢はざれば
2273 何すとか君をいとはむ秋萩のその初花の嬉しきものを
2274 輾轉(こいまろ)び恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花
2275 言に出でて云はば忌々(ゆゆ)しみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋をするかも
2276 雁がねの初声聞きて咲き出たる屋戸の秋萩見に来(こ)我が背子
2277 さ牡鹿の入野(いりぬ)のすすき初尾花いつしか妹が衣手(そて)枕かむ
2278 恋ふる日の日(け)長くしあればみ苑生(そのふ)の韓藍(からゐ)の花の色に出にけり
2279 我が里に今咲く花のをみなへし堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり
2280 萩が花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも
2281 朝露に咲きすさびたる月草の日たくるなべに消ぬべく思ほゆ
2282 長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを
2283 我妹子に逢坂山の旗すすき穂には咲き出ず恋ひ渡るかも
2284 いささめに今も見が欲し秋萩のしなひてあらむ妹が姿を
2285 秋萩の花野のすすき穂には出でず吾(あ)が恋ひ渡る隠(こも)り妻はも
2286 我が屋戸に咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも
2287 我が屋戸の萩咲きにけり散らぬ間に早来て見ませ奈良の里人
2288 石橋(いはばし)の間々に生ひたる貌花の花にしありけり有りつつ見れば
2289 藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて
2290 秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂(さぶ)し君にしあらねば
2291 朝(あした)咲き夕へは消(け)ぬる月草の消ぬべき恋も吾(あれ)はするかも
2292 秋津野(あきづぬ)の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が借廬に
2293 咲きぬとも知らずしあらば黙(もだ)もあらむこの秋萩を見せつつもとな
山に寄す
2294 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思(も)ふ
黄葉に寄す
2295 我が屋戸の葛葉(くずば)日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも
2296 あしひきの山さな葛(かづら)もみつまで妹に逢はずや吾(あ)が恋ひ居らむ
2297 もみち葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを
月に寄す
2298 君に恋ひ萎(しな)えうらぶれ吾(あ)が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ
2299 秋の夜の月かも君は雲隠りしましも見ねばここだ恋しき
2300 九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば吾(あれ)恋ひめやも
夜に寄す
2301 よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思(も)ふ
2302 里人(さどひと)しあな心無しと思ふらむ秋の長夜を寒くしあれば
2303 秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短かりけり
衣に寄す
2304 秋つ葉(は)ににほへる衣吾(あれ)は着じ君に奉(まつ)らば夜も着むがね
問答(とひこたへのうた)
2305 旅にすら紐解くものを言繁み丸寝(まろね)吾(あ)がする長きこの夜を
2306 しぐれ降る暁月夜(あかときつくよ)紐解かず恋ふらむ君と居らましものを
2307 もみち葉に置く白露の色にはも出でじと思(も)ふに言の繁けく
2308 雨降れば激(たぎ)つ山川岩に触り君が砕かむ心は持たじ
譬喩歌(たとへうた)
2309 祝部(はふり)らが斎(いは)ふ社のもみち葉も標縄(しめなは)越えて散るちふものを
冬の雑歌(くさぐさのうた)
雑歌
2312 我が袖に霰たばしる巻き隠し消(け)たずてあらむ妹が見むため
2313 あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りけり
2314 巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪流る
2315 あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば
右ノ四首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。但シ
件ノ一首、或ル本ニ云ク、三方沙弥ガ作ナリト。
雪を詠める
2316 奈良山の嶺すら霧(きら)ふうべしこそ籬(まがき)が下の雪は消(け)ずけれ
2317 こと降らば袖さへ濡れて通るべく降りなむ雪の空に消につつ
2318 夜を寒み朝門(あさと)を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり
2319 夕されば衣手寒く高圓(たかまと)の山の木ごとに雪ぞ降りける
2320 我が袖に降りつる雪も流れゆきて妹が手本にい行き触れぬか
2321 沫雪は今日はな降りそ白妙の衣手干さむ人もあらなくに
2322 はなはだも降らぬ雪ゆゑここだくも天(あま)のみ空は曇らひにつつ
2323 我が背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに
2324 あしひきの山に白きは我が屋戸に昨日の夕へ降りし雪かも
花を詠める
2325 誰が園の梅の花そも久かたの清き月夜にここだ散りくる
2326 梅の花まづ咲く枝を手折りてば苞(つと)と名付けてよそへてむかも
2327 誰が園の梅にかありけむここだくも咲きにけるかも見が欲るまでに
2328 来て見べき人もあらなくに我家(わぎへ)なる梅の初花散りぬともよし
2329 雪寒み咲きには咲かず梅の花よしこの頃はさてもあるがね
露を詠める
2330 妹がため末枝(ほつえ)の梅を手折るとは下枝(しづえ)の露に濡れにけるかも
黄葉を詠める
2331 八田(やた)の野の浅茅色づく有乳山(あらちやま)峰の沫雪寒く降るらし
月を詠める
2332 さ夜更けば出で来む月を高山の峰の白雲隠すらむかも
冬の相聞(したしみうた)
相聞
2333 降る雪の空に消ぬべく恋ふれども逢ふよしもなく月ぞ経にける
2334 沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日(け)長き吾(あれ)は見つつ偲はむ
右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。
露に寄す
2335 咲き出たる梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこの頃
霜に寄す
2336 はなはだも夜更けてな行き道の辺のゆ笹がうへに霜の降る夜を
雪に寄す
2337 笹が葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
2338 霰降りいたく風吹き寒き夜や波多野に今宵吾(あ)が独り寝む
2339 吉隠(よなばり)の野木に降り覆ふ白雪のいちしろくしも恋ひむ吾(あれ)かも
2340 一目見し人に恋ふらく天霧(あまぎら)し降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
2341 思ひ出づる時はすべなみ豊国の由布山雪の消ぬべく思ほゆ
2342 夢(いめ)のごと君を相見て天霧し降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
2343 我が背子が言うつくしみ出でてゆかば裳引(もひき)著(しる)けむ雪な降りそね
2344 梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使(まつかひ)遣らば
2345 天霧ひ降り来る雪の消なめども君に逢はむと永らへわたる
2346 窺(うか)ねらふ跡見山(とみやま)雪のいちしろく恋ひは妹が名人知らむかも
2347 海人小船(あまをぶね)泊瀬の山に降る雪の日(け)長く恋ひし君が音(おと)ぞする
2348 和射見(わざみ)の峰ゆき過ぎて降る雪の重(し)きて思ふと申せその子に
花に寄す
2349 我が屋戸に咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て
夜に寄す
2350 あしひきの山下(あらし)の風は吹かねども君なき宵はかねて寒しも
最終更新:2010年01月17日 19:47