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変身願望

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変身願望 03/08/05

  寄道寄道の人生、一生寄道を続けたならば、後から考えてそれは寄道だったと言えるだろうか。あるいは寄道そのものが目的ならば、それを寄道と呼んでもよいものか。

  言葉を弄び言葉に淫して言葉に惑わされているうちにふと思うのは、この楽しみを共有できる者がどれ程いるのだろうかという漠とした不安と慢長した優越感だ。底のない沼に頭から飛び込んで捜し求めているのは空気でも宝でもなくて底なし沼の底であることを知りながらも引き返すこともなく掻き分けて潜り込んでゆく。

  「人生はやり直せる」とはまた嘘八百万を。全てを振り捨てて生きる事は悲しく辛いことであり、ただ生きるより幾層倍もの誇りと力を必要とするのだ。すべてを棄てた人生は何物にも束縛されない代わりに何ひとつ束縛する権利はない。

  変身願望という言葉を使う者は、その願望が叶わぬこと、その勇気が無い者である。であるからこそ無邪気に「変身願望がある」などと口走る事が出来るわけだが、実際に本気で変身願望があり、全てを振り捨て生きることを選び、誰に対しても必要以上に親しくならず、道など無い道を進み、常から己の人生と向き合って何者かを問い続ける旅をする者は、間違っても変身願望という言葉は使わない。どれほど苦労するかは身に沁みて肝を凍らせているからだ。無邪気どころの騒ぎではなく、日々緊張の連続であって、「ふらふらせずに真面目になれ」と言われても、「何も考えずただ目の前にある道を進む貴様よりは余程真面目に人生を考えて生きている」としか答えられない。

  隷属することを拒否した時から旅は始まる。「癒し系」という言葉は極度に嫌われているが、実際に嫌われているのは言葉そのものではなくて言葉が指し示す生温かい諦めの内容そのものである。名前を出すのも汚らわしい癒し系の詩人などという奴がいて、どうにもならない人生を「そのままでいいんだよ」「諦めていいんだよ」「いいことだってたまにはあるよ」何とおぞましい事か。この奴隷的思想には反吐が出るが、それを持て囃す者にも反吐が出る。牙を抜かれ、鼻毛を抜かれ、やがては尻の毛まで抜かれていながら「人生そんなもんだよ」と言われると納得してしまう奴隷思想を崇拝することは、一生うだつのあがらない人間であることを認めているし、何より腐敗した精神に蝕まれていることに思いを致さないのはそれが例え消極的選択にしろ、己の選んだ道であるならば、それは奴隷の道だ。

  その立場を棄てて自由を求めるとき、極度の不自由に包まれる。不自由な環境で生きていた頃の方が遥かに自由であったことに気付く。それでも尚不自由な靄に包まれて自由を求めて足掻くのは、それが己が己の人生の主人公であり、時間をすべて自分で使うことが出来、全ての選択は自分の手柄と責任になるという「生きること」の充実感を味わうことが出来るからだ。

  人生の舞踏場では、踊る者もいれば踊らない者もいる。演奏する者があり給仕する者がいる。酔い潰れている者もいれば素面の者もいる。殴る者あり殴られる者あり、早く帰る者あり遅く来る者あり、そして皆全て退場するのは、舞踏場ではなくて舞踏場の在する世界よりのこと。

  天下帰を同じうして塗を殊にす、と言う。ならば天下を人生に換置して何の異があらんとや。
 
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