□Scene1:優しい食卓
暖かいミルク、カリカリのベーコンと新鮮な卵を使ったスクランブルエッグ、香ばしく焼きあがったトースト、咲世子特製のドレッシングがかかったサラダ。
朝食としてはボリュームたっぷりの、フルブレックファスト。
ナナリーには多めの量が無理なくお腹に収まってしまうのは、食卓の空気がいつもより暖かいからだと思う。
数日ぶりに囲む、三人での食卓。
食事は美味しく、会話は弾み、身体も心も満たされる。
昨日のこと、今日のこと、明日のこと。とりとめのないおしゃべりに、穏やかな相槌。給仕をする咲世子の楽しげな足音。
ライが現れるまで、ルルーシュか咲世子と二人きりでの食事が多かったナナリーにとって、この上なく贅沢な時間だ。
宝石みたいに貴重なひとときだから、ついつい口数が増える。はしたないとは思いつつ、自分の話に笑ってくれる声が聞きたくて、お行儀悪く言葉を重ねてしまう。
「──それで、ライさんにお願いして本を……あっ」
だから、こんな子供みたいな失敗をしてしまうのだ。
口元から、飲み込み損ねた紅茶が流れ落ちようとしていた。
慌ててナプキンを手探りするうちに、左右で空気が動く。
一瞬早く、左手から腕が伸びる気配がして、口元にそっと柔らかい布が押し当てられた。優しく動く感触が、紅茶の残滓を拭い取り、離れていく。
羞恥に縮こまりながら、ナナリーはお礼を言った。
「ありがとうございます……ライさん」
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。まだ時間はある」
宥める台詞に、頬が熱くなった。
どうして、この人には子供っぽいところばかり見られてしまうのだろう。
「今日は、夕食も一緒にとれる予定だしね。ルルーシュも食事は……ルルーシュ? 何を固まっているんだ」
訝しげなライの問いに、「うあ?」とルルーシュが間の抜けた声をあげた。兄は怜悧な人なのだが、予想外のことが起きると、こんな風に面白い声を漏らすことがある。
小首を傾げるナナリーの耳に、背後に立つ咲世子が笑みを漏らす音が届いた。
「なにやら馬に蹴られそうな予感が致しますね。少し早いですが、私はご登校の準備をして参りましょうか」
なぜか、ルルーシュが「ぐぅっ」と悔しげな声で呻いた。
(どうしてここでお馬さんの話が……?)
そしてルルーシュの反応も謎だ。
不思議に思っていると、咲世子が微笑ましいものを愛でる声で続けた。
「冗談です──が、老婆心ながら申し上げますと、ルルーシュ様はもう少し、こちらでお食事を取る機会を増やした方がよろしいかと。人間は適応する生き物だと申しますよ」
「……そうかもしれないな」
ルルーシュは、いくらか憮然としているようだった。一方の咲世子は妙に満足げな様子で、
「それでは、お時間までごゆっくりお過ごし下さい」
一礼して、足取りも軽やかに退室していった。
閉じたドアに向かって、ルルーシュが嘆息する。
「まったく、咲世子さんは……」
「あの、お兄様。何のお話だったのですか?」
「大したことじゃないよ。ただ……そうだな。色々なことに対して、感謝しなければと思っていただけさ」
兄の声に滲んでいる感情は、寂しさ、だろうか。もっと複雑な色合いにも聞こえた。だが、気分を害しているわけでもなさそうだ。
紅茶を一口飲み終わる頃には、ルルーシュはいつもの調子を取り戻していた。
「さて、夕食の話だったかな。夜は泊りがけの用事があるけど、夕食は取ってから行くつもりだ。なんなら、久しぶりに料理をするのも良いな。咲世子さんへのお礼も兼ねて……ライも今日はオフだろう?」
「ああ。授業にも最後まで顔を出すつもりだ。──生徒会の方も最近は余裕がある。ナナリー、今日は夕方から二人でお相手できるはずだよ」
「本当ですかっ?」
顔がぱっと輝くのが自分でも分かった。
ルルーシュの手料理というだけでも素晴らしいのに、もうひとつ楽しみが増えると聞けば、笑顔も弾けるというものだ。
「……あ、でも、私に構ってばかりで、お時間は大丈夫なのですか? お忙しいのでは……」
嬉しさに先走りそうな心を抑えて尋ねる。兄とライは多忙な身の上。休息できる時間はことのほか貴重だ。ナナリーに構っている余裕など、本当はないのかもしれない。
ルルーシュは小さく笑って、
「ナナリーより優先度が高い用事なんて、ひとつもないよ。折り紙でも読書でも、なんでも付き合うさ。まあ、折り紙はライに頼ることになるが?」
「もちろん、僕で良ければ喜んで」
恭しく答えるライに、ルルーシュが満足そうに続けた。
「だ、そうだ」
やせ我慢がいつまでも続くわけがない。
ナナリーは、弱い自分に苦笑しつつ、好意に甘えることにしてしまった。
「……よろしいのですか? ありがとうございます、とても嬉しいです! ああ、どうしましょう。何をお願いしようか悩んでしまいます」
胸の奥からやりたいことが溢れ出してきて、ナナリーは嬉しい悲鳴を上げたくなる。
ルルーシュは「大げさだな」と笑うけど、これほど幸せなことなんて他に考えられない。
うきうきと跳ねる心に、ナナリーは頬を緩ませた。
「本当に楽しみ。皆で夕食までご一緒できるのは、ずいぶんと久しぶりですものね」
言い終えてすぐに、失言だったと気づいた。
同席する少年ふたりの雰囲気が、ふっと沈むのを肌で感じる。
ルルーシュが申し訳なさそうに口を開いた。
「……もっと一緒に食事を取れれば、とは思っているんだけどな。寂しい思いばかりさせてすまない」
「い、いえ。ごめんなさい、お兄様。そんなつもりで言ったわけではないんです」
ナナリーは慌てて首を振った。
後悔が胸に満ちる。なんて浅はかな妹なのだろう。
確かに、最近のルルーシュは外出することが多い。何をしているのか教えてくれないし、丸一日、家に戻らないこともざらだ。寂しくないと言えば、嘘になる。
だが、ルルーシュはいつもナナリーのことを一番に考えてくれているのだ。至らない妹の漏らした、ちょっとした言葉の切れ端に傷ついてしまうほどに。
こんなにも優しい兄へ、我がままを言うなどとんでもないことだ。
「お忙しいのに、色々と気遣って頂いて、感謝しています。それに、ライさんも居てくださいますから。寂しくなんて、ありません」
微笑みながら、少しだけ嘘をついていた。
ライが同居するようになってから、ナナリーの生活は変わった。それは本当だ。
部屋に一人きりの時、通りがかっただけと言いながら会いに来てくれる彼の存在が、どれだけナナリーを救ってくれたことか。
ただ、そのライも家を留守にしがちになっているのが、ナナリーの新しい心配の種なのだった。ルルーシュほど極端ではないが、帰宅が深夜になることも少なくない。
ナナリーの知らない、ライがいる。
当たり前のことなのに、ナナリーの心はざわめいてしまう。ルルーシュに対する不安と、そっくりなようでいて色合いが異なる感情。
何をしているのか、それとなく尋ねてみようと思ったこともあるが、行動には移せなかった。
兄の生活を尋ねるのとは訳が違うのだ。プライベートにまで口を出すような、嫌な子だとは思われたくない。
でも、心配だった。
ひとりでライの帰りを待っていると、不安に押し潰されそうになることがある。
時々、思い出してしまうのだ。
ある夜、長めの外出から帰ってきたライの身体が、漂わせていた臭い。
あれは──血と消毒液の臭いでは、なかっただろうか。
心に走る慄きを抑えて、ナナリーは笑う。綺麗に笑えていますようにと祈りながら。
「私は大丈夫ですから、おふたりは無理をなさらないで下さいね。お疲れの時は、ちゃんとお休みになってください。特にお兄様は、授業中に居眠りばかりしているとシャーリーさんが怒ってらっしゃいましたよ」
「いや、あれはね、ナナリー。誰にも迷惑をかけないように注意しているし、授業内容は把握しているから、問題ないんだ」
「まあ。そんなことをおっしゃってはいけません。めっですよ」
寂しさも不安も、我慢すればいい。問題なのは、ふたりに負担をかけてしまうこと。ナナリーの表情が曇っていたら、きっとこの人たちは頑張り過ぎてしまう。
だから、ナナリーは平気な顔をして微笑むのだ。
「お兄様はライさんやスザクさんを見習って下さい。お二人もお忙しいのに、授業はちゃんと受けていると聞きました」
「要領が悪いだけさ」
「もう、お兄様ったら」
慣れ親しんだ兄との会話に、重い気分が溶け込んでいく。
こうしているうちに、世界を取り囲む辛いことを忘れていくのが、何年も続いてきたナナリーの生活だった。
そこにふと、
「──ナナリー」
ライの声が割り込んだ。
平坦な声のようでいて、名前の呼び方ひとつにも、万色の響きがあることをナナリーは知っている。何か改まった話があると、告げていた。
思わず背筋が伸びる。
「はい。なんですか、ライさ……あ」
心臓の高鳴りが、言葉を途切れさせた。
ライの手が、ナナリーの手をやんわりと包み込んでいた。硬く鍛えられた手の平が、暖かい。
一瞬、心を無防備にしてしまったナナリーへと、囁くように問いが投げかけられた。
「……寂しいか?」
──。
いつものように否定しようとして、失敗した。
嘘をついたら見抜かれてしまいそうで、ナナリーは唇を閉じる。それは、自分の特技のはずなのに。
ライは答えを急がせようとせず、ルルーシュも無言のまま見守ってくれていた。
何度も言葉を飲み込んでから、ナナリーはおずおずと口を開いた。
「一人のときは、少しだけ寂しいです」
──嘘。
とてもとても寂しい。胸の中に穴が開いてしまったような気持ちになる。いつから、こんな弱い子に戻ってしまったのだろう。
「でも、お兄様もライさんも、いつも私のことを気にして下さっています。時間が出来ると、会いに来て下さいます。それだけで、十分すぎるほど幸せです」
──少しだけ嘘。
我慢はできるけれど、辛さは消えない。少しでも長く、一緒に居たい。
「だから、私は平気です。それよりも──私のために無理をしていらっしゃるんじゃないか、それが心配で」
──本当。
お願いだから、何よりもご自愛を。壊れた身体は、もう元には戻らないから。おふたりがいなくなってしまったら、世界が壊れてしまうから。
「……そうか」
ライの手が、最後に軽く握り締められ、離れていった。
途端に寒々しい心地になり、ナナリーは両手を重ね合わせる。全然暖かくなかった。
ライの言葉にほだされて、つい出過ぎたことを言ってしまったかもしれない。返って物欲しげに聞こえてしまったのでは──
上手く笑えなくなってしまい、ナナリーは顔を俯ける。
ライとルルーシュが視線を交わしている気配がした。
さぞかし始末に困っていることだろう、心の弱い子供に振り回されて。
(……謝らないと)
笑わないと。
開きかけた口を、ライの言葉が塞いだ。
「ナナリー。もうしばらく、先の話になるが……今みたいに家を空けるのは、終わりにしようと思っているんだ」
はっとして顔を上げた。
目蓋の向こうに、ライの瞳を感じた。
「その後は、学園に正式編入させて貰おうと思っている。ミレイさんには以前から勧められていたし、良い機会だ」
「あの、それって……?」
呆然としたまま、口だけが質問を吐き出していた。
「まあ、先々のことまでは分からないけど。最初にするのは、ナナリーと一緒に居る時間を、増やすことだな」
「あ……!」
思いもよらない福音だった。
何度、そうなったらどんなに素晴らしいかと夢想しただろう。
爆発する歓喜に喝采を上げかけて──胸に差し込まれる違和感に、笑顔が萎れていった。
「ナナリー?」
ライが困惑した呼び声をあげた。
散々に逡巡した末、ナナリーは思い切って応えた。
「でも……ライさんは、ご自分にとって大事なことをなさっているのでしょう? 記憶だってまだ戻っていないのに……もし、私のために止めてしまうなら。そんなご迷惑、かけられません」
言い切るのには、少なからず勇気が必要だった。
本当に良いのかと、弱い心が囁いている。お前は馬鹿なことをしているぞ。黙っていれば、願いがかなうのに──
それでも、聞かずにはいられなかった。重荷になんてなりたくなかった。重すぎる荷物は、いつか捨てられてしまうかもしれない。
率直な彼にしては珍しく、ライは返す言葉を選んでいるようだった。
ルルーシュも、何か言いたげに身じろぎしている。
兄が痺れを切らすより早く、ライがゆっくりと話し出した。
「確かに、今していることは僕にとって大事なことだよ。僕は必要とされているとも思う。でも……僕にはもっと大事なことがある。過去より、今と未来に目を向けたいと思えるようにもなった」
普段はあまり内面を明らかにしないライの、率直な告白。ナナリーは、一字一句聞き漏らすことのないよう、懸命に耳を澄ます。
「だから、僕は僕のために、居場所を変える。学園に通ったり、普通の生活を楽しんだり……ナナリーと一緒に、折り紙を折ったりするためにね」
「……っ」
嬉しすぎる言葉に、勇気が萎えかける。一生懸命、奮い立たせる。
ナナリーはライへと左手を伸ばし、お願いをした。
「もう一度、お手を……」
「……ああ」
すぐに、温もりが手を包み込む。すがりつき、懇願するような気持ちで、聞いた。
「本当に……無理はして、いないのですね? ライさんがしたいことを、するためなのですよね?」
「そうだよ、ナナリー」
ライの声色は、いつもにも増して真っ直ぐで、
──嘘じゃない。
ナナリーの全身からどっと力が抜け、安堵に満たされる。そして、歓喜が湧き上がってきた。
こんな大それた願いがかなってしまうなんて!
脚が動いたなら、飛び上がって喜んだに違いない。
代わりに両手を動かして、ナナリーは何度もライの手を握り締めた。
「良かった……嬉しい、嬉しいです、ライさん。ありがとうございますっ」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。したいことをするだけなんだから」
「それでも、ありがとうございます。だって私と」
私と?
感激のまま言葉を吐き出していたナナリーは、ふと大変なことに気が付いた。
自分のやりたいことをするために、ナナリーと一緒に居てくれる?
それはつまり、ひょっとすると。ライにとって一番大事な──
「ナナリー?」
「は、はいっ。考えすぎですよね、学園もあるんですし」
びくんと震えて、ナナリーは首を振った。
ライは「ん?」と訝しげなだけで、ナナリーの動揺の理由になど気づきもしないようだった。こういうところは、出会った頃とあまり変わっていない。
ちょっとだけ恨めしい気持ちになり、そんなものを吹き飛ばす程に心は浮き足立っていて、ナナリーはライの手をもう一度ぎゅっと握り締め「ゴホンゴホン! ん、んー、ゴホン!」とルルーシュが咳払いを連発した。
ライとふたり、ぎょっとしてルルーシュに顔を向ける。
ルルーシュは強張りを押し隠した声色でやたらと早口に、
「ナナリー、紅茶が冷めているんじゃないか。お代わりはどうだい、ほら淹れなおした。同じ場所に置いておく、気をつけて飲むんだよ。せっかくだからライも飲むといい」
「は、はい。ありがとうございます?」
「まあ、ありがたく頂くが」
言われるがまま、ナナリーは指先でカップの位置を確認しようとする──ライの指に絡み付いている指先で。硬直。「コホンコホン!」と再び兄の咳払い。
「ごめんなさいっ」
耳たぶまで熱を吹き上げながら、ナナリーは慌てて手を離した。
「手ぐらい、いくら繋いで貰っていてもいいけど」
「そ、そうはいきません」
確かに、ライと手を取り合うのはそう珍しいことではなく、折り紙をするときなどは手の平を重ね合わせることもざらで──でも、力強く指を絡め合ったのは、初めての経験だと思うのだ。
横で、兄が苦々しい表情を浮かべている気配を感じて、恐縮する。
今後は手を繋がないようにと言いつけられてしまったら一大事だ。
ナナリーは、何もかもまとめて勢いで誤魔化すことにした。
「で、でも、良かったです! 正式編入が決まれば、生徒会の皆さんも、きっと喜んでくれます! さっそく、ミレイさんにご報告しないと」
「相談はしないといけないが……いくらなんでも気が早いよ、ナナリー。私事の引継ぎもあるし、今すぐ編入とはいかない。実現するのはもうしばらく先になるな」
「あ、そうですよね、私ったら。先方のご都合もありますものね」
「うん。責任者みたいな立場の人は、快く……この上なく積極的に許可してくれたが。だからといって、好き勝手にはできない」
「はい。どうか、悔いのないようになさってください」
「そうだな。ここに腰を落ち着けるなら、皆とは今後、あまり会うことができなくなる。僕に残せるものを、より良い形で残しておきたい」
感慨深げな台詞の一部に、ナナリーは引っかかるものを感じた。
(……ここに居ると、会えなくなる?)
単に付き合いが薄くなる、という以上の含みがないだろうか。
せっかくの機会だ。出来るだけ遠回しに、質問を投げてみる。
「お知り合いの方々は、お引越しをなさるのですか?」
返答よりも早く、ルルーシュの声が飛んできた。
「ナナリー。人のプライバシーに踏み込むのは、あまり感心しないな」
たしなめる口調は柔らかかったが、ナナリーは身をすくめてしまった。
ルルーシュがナナリーに注意をすること自体、非常に珍しい。ナナリーにとっては叱責されているに等しかった。
「ライの事情は知っているだろう? 人には言いたくない話だって……」
「僕は構わない」
「なっ……だがな、ライ」
ライの言葉はルルーシュの意表をつくものだったようだ。
ずいぶんと動揺しているルルーシュには頓着せず、ライが告げた。
「僕がお世話になっているのはね。『向こう側』の人たちなんだよ」
「向こう側……ということは」
租界に生きる人間は、その言葉が何を指すのか、感覚として理解している。ナナリーのように、その光景を目にすることができなくても。
壁の、向こう側だ。
「日本人の方々、だったのですね」
驚きと納得を、同時に噛み締める。
ライが今まで口にしなかったはずだ。
ミレイの庇護下にあるとはいえ、IDを持たない記憶喪失の少年がゲットーに出入りしていると知られれば、いらぬ誤解を招く可能性がある。
自由な校風を誇るアッシュフォード学園でさえ、日本人への偏見を持つ者は決して少なくない。ましてや、今はエリア11全体でレジスタンス活動が活発化している時期だ。
話が歪んだ形で外部に漏れでもしたら、政庁は並々ならぬ関心を示すだろう。
それに、ゲットーが様々な意味で危険な地域であるのは事実なのだ。日本人に親しみを感じているナナリーでさえ、今後はライの脚が遠のくと聞いて、少しほっとしていた。
もちろん、個々の日本人についての話は別だ。ライが信頼しているのだから、お付き合いしている人たちは、善良な方々に違いない。
と、ナナリーは日本人という言葉が指し示すことに気が付いて、はたと手を打った。
「あっ。日本人の方々ということは、もしかして?」
「例の特区絡みだよ」
「まあ!」
思わぬ縁に、感嘆の息が漏れた。
行政特区日本。
ブリタニアという国の中に、限定的ながら日本という国を復活させ、日本人とブリタニア人が平等に生きる場所を作り出そうという政策。
賛否両論を抱えつつも、参加希望者は十数万を超えてなお増加を続けており、設立式典も間近に迫っている。
慢性的なレジスタンス活動に悩まされるエリア11、引いてはブリタニアの植民地運営にとって、革新的な解決策になるかもしれない新たな道だ。
そして、その設立宣言を行ったのが、エリア11副総督である皇族、ユーフェミア・リ・ブリタニア。
ナナリーの──ナナリー・ヴィ・ブリタニアとルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの姉妹である、心優しい少女だった。
「お知り合いの方々も、ユフィ姉様の特区に参加されるのですね」
自慢の姉の話題に、ナナリーは身を乗り出してしまう。
ナナリーたちがブリタニア皇族であることを知る者は、ほとんどいない。ライは、ユーフェミアについて気軽に話すことのできる、数少ない『身内』なのだ。
ライは考え込むような沈黙を挟んでから、力強く言った。
「──正式に決まってはいないけど、僕はそうなるだろうと思っている。実現すれば、僕の仕事も一段落というわけだ」
「そうですか……ユフィ姉様のおかげで」
ナナリーの胸に、じんわりとした暖かさが広がっていった。
ユーフェミアの行動が、世界を変えようとしている。それはナナリーにとっても大きな喜びだったが、それ以上に胸を震わせるものがあった。
ユーフェミアの善意が、苦しんでいる日本人を助け──それが回りまわって、ナナリーに大きな幸せを運んでくれた。その連鎖にナナリーは感じ入る。
ひとりの少年が、一日の過ごし方を少し変える、それだけのこと。でも、ナナリーにとっては何にも代えがたい天恵なのだ。
(世界は、繋がっているのですね。ユフィ姉様)
狭い箱庭の中で生きてきたナナリーには、初めての体験とも言える幸せな実感。
それを与えてくれたのは、ユーフェミアひとりの力によるものではないだろう。彼女の隣に立つ少年も、大きな支えとなっているはず。
「上手く、いくと良いですね。ユフィ姉様と、スザクさんの夢」
「そうだね。スザクの努力も、報われて良い頃だ」
枢木スザク。ユーフェミアの騎士で、ナナリーとルルーシュの幼馴染で、ライの友達。
あの人も、ずっと昔からナナリーを守ってくれていた。
スザクがいなければ、ナナリーはずっと、ルルーシュの愛に溺れて閉じ篭ったままでいただろう。スザクはナナリーに、他人と触れ合うことを思い出させてくれた。
多分、誰かを好きになることを教えてくれたのも、スザクだ。
今のナナリーに寄り添ってくれる人のことも、スザクがいなければ特別だと思えないままだったかもしれない。
逆に、もし記憶喪失の少年が現れなければ、ユーフェミアの傍へと遠ざかっていくスザクを、ナナリーは寂しさに包まれて見送ることになっていただろう。私にはお兄様がいるからと呟き続けながら。
ナナリーの『今』は、こんなにも多くの奇跡と善意が作り上げてくれているのだ。だから今度は、それを与えてくれた人たちのもとに、幸福が訪れて欲しいと思う。
そのために必要だとされていることを、ナナリーは口にした。
「黒の騎士団の方々にも、ぜひ参加して欲しいです。色々と問題もあるでしょうけど……たくさんの人が亡くなるよりは、ずっと良い道を選べるはずですから」
黒の騎士団。
仮面の男ゼロに率いられた、弱者の救済と日本解放を謳う抵抗組織だ。大きな戦果とそれに見合った血を流す彼らを、支持する日本人は多いと聞く。
主張は理解できるが、やり方は間違っていると感じるのは、ナナリーが恵まれた立場にいるブリタニア人だからなのだろうか。
ユーフェミアの行動が、日本人の目にはどう映っているのか、生の意見を聞きたくなった。
「ライさん。日本人の方々は、特区のことをどう感じていらっしゃるのですか?」
「色々だね。手放しに喜んでいる人から、疑っている人まで。でも、多くの人は可能性を感じている。この国の、未来を変えるかもしれないと」
「可能性と、未来」
琴線に触れる言葉だった。
まさに、ナナリーを取り巻く善意が運んでくれたものではないか。
「ゼロは……どう思っているんでしょう。そこに未来を見ては、くれないのでしょうか」
「彼は日本人に責任を持つ立場の人間だからな。理想的な未来像だけを追うわけにもいかない。特区参加の条件には、武装解除が含まれる。彼らにとって、ブリタニアは憎むべき敵だ。敵を信じて両手を上げるのは、難しいことだろうね」
「でもそれは……はい」
反論しかけて、そんな資格はないと思い至る。
ナナリーの人生も、決して平坦なものではなかった。それでも、一番大事なものはいつも手元に残されてきた。
兄の庇護のもと、暖かく守られ続けてきた自分に、全てを奪われた人々の思いを否定することなどできない。
テーブルに沈黙が降りた。
静けさの中、ライが深く気息を整える音がナナリーの耳朶を打った。その場違いなまでの力強さに、ナナリーは気を引かれる。
呼吸によって溜め込まれた力は、言葉となって放たれた。
「──ルルーシュ。君はどう思う? ゼロは、特区に参加するかな」
最終更新:2010年07月28日 03:01