[言語の問題]
言語とは非常に不思議な性質を持つものです。
実体が見えないにも限らず現に情報を伝達し、例えば小説などでは見たことのない風景を想像の中に作り上げてくれます。
この不思議な性質について哲学的に思惟する営みを言語の哲学といいます。
言語の哲学、言語哲学には歴史上、様々な哲学者が携わってきました。
その中にはアリストテレス、ライプニッツ、ハイデッガーなど著名な哲学者も多くいます。
それほどに言語は哲学において重要な問題だったのです。
さて、なぜ言語は哲学上で重要な問題となるのでしょうか?
一つの思考実験として、言語のない世界を考えてみましょう。
風景や人の顔などの画像的、映像的な情報、あるいは何かの音などが思い浮かべることができると思います。
しかしそれを説明するためには必ず言語が必要になります。
説明の説という字にも言偏が使われている通り、我々は言語を介さずには意思疎通を図れません。
「いやいや、non-verbal(非言語的)なコミニケーションや以心伝心のような非言語的な意思疎通もあるだろう」
と意義を唱える人もいるかもしれません。
しかし、非言語的な意思疎通には必ずそれ以前に言語的な意思疎通が存在したはずです。
特定の人物を指す名称なしに、どのように人を区別するのでしょう?
また、例えば机と椅子などの区別は初めからそれらが分けられているのではなく、異なる名称がついているという背景を他者から与えられるか、自分自身で言語(記号体系)という背景の中から差異を見出し、初めて区別ができるようになるのです。
つまり、その記号体系という言語についてその全貌を把握し、その基礎を確立せずには、あらゆる問題は根本的な解決ができないのです。
[古代ギリシアに見出す言語哲学]
歴史上の哲学者がどのように言語に取り組んできたのかについて遡ってみましょう。
まず、西洋諸学問の基礎として紀元前古代ギリシアの哲学思想があります。
かの有名なソクラテス、ソクラテスの弟子のプラトン、プラトンの弟子のアリストテレスが有名です。
プラトンの有名な学説として、イデア論と想起説があります。
例えば幾何学において図形を描いて証明を行う場合、現実の図形では点は面積をもち線は幅をもっていますが、
こうした現実の図形によって幾何学者が証明しようとしているのは、頭の中にある幅のない線で書かれた純粋な二次元上の図形です。
現実の図形では虫眼鏡などで見れば必ず幅がありますが、純粋な頭の中の数学的な空間では幅を持たないとすることができるわけです。
この様に、想像の中の抽象的な概念(イデア)は現実の純粋ではない存在とは異なるというのがイデア論、抽象的な概念を現実の仮の姿から想起するというのが想起説です。
[普遍論争]
それから長い年月が経ち、中世の西洋では普遍論争という論争が盛んでした。
この論争では実在論(realism)と唯名論(nominalism)という立場の哲学者や神学者が主に対立し、議論を交わしていました。
普遍論争における実在論はキリスト教の神話と紀元前ギリシアのイデア論が組み合わさったものです。
楽園にいたアダムとイヴは原罪を背負い楽園を追放され、その子孫である人類はその罪を背負うこととなりますが、
実在論は人類という抽象概念をイデア、現実の仮の姿を我々やアダムとします。
一方、唯名論は人類という抽象概念は実在物というよりかは単なる名称に過ぎす、実在するのはむしろその人類という名称にくくり付けられる我々の様な個々の存在であると考えます。それゆえに唯、名前がある論説という唯名論なのです。
さて、この普遍論争の出来事が西洋諸国には中世の記憶として根付いていました。
近世、近代、現代と爆発的な勢いで学問が発展することになりますが、
この問題はそこで活躍した様々な学者に精神的に引き継がれていったと言えます。
[比較言語学]
ここからは西洋における言語の哲学の関心が神学から言語学の系譜へと写ります。
古典的な言語学といえば西洋において公用語や学術言語として機能していたラテン語の規範文法というものがありました。
この時点では素朴に言語学と言われたら思いつくような、”個別の言語の正しい文法について記述する”ような研究がなされていたので、まだ哲学とは関係がありません。
しかし、西洋諸学問の発展に伴い、18世紀には文献学という学問の中で比較言語学という手法が確立されて行きます。
そうして絶対的に正しいラテン語の文法という観点から、相対的な異なる言語間の比較や異なる文法などを記述するという観点に言語学の関心が映る事となりました。
ところで言語というものは、世代を超えて長い年月をかけていけば必ず変化するものです。
言語の起源というのも言語の哲学では盛んな議論でありいまだに解決されていませんが、言語が変化するというのは言語学的には確実な事実です。
例えば、日本の古典と現代日本語、古英語と現代英語、漢文と中国語などでは文法も発音も語彙も全く異なります。
これは、例えば「チョーヤバイウケるヮラ」だとか、”ら抜き言葉”だとかのような新しい言葉遣いが過去に言語使用者全体に取捨選択され、変化した結果と言えます。
実際、戦前の人に携帯だとかパソコンという単語を使ってもそれらが時代に沿って新しい概念に対応して造語された単語である以上、意思疎通ができないわけです。
この様に言語というのはいわば生物の進化の様に環境に適応して柔軟に変化します。
その変化の法則などをわかる範囲でまとめた学問が比較言語学だったわけです。
[近代言語学]
比較言語学が発展してきた19世紀、さらに近代言語学はソシュールという一人の学者によって飛躍的発展を遂げることとなります。
ソシュールはここで一つの哲学的とも言える提起を始め、その後の西洋哲学全体にも影響を与えます。
まず、彼が提起したのはこれまでの歴史上の動的な変化に対応して言語を記録していく(通時)言語学ではなく、
言語一般についての普遍性と構造を言及する(共時)言語学の必要性でした。
彼は普遍的な言語の性質として様々な概念を提案しましたが、その中でも重要な概念としてシニフィアンとシニフィエという概念があります。
例えば犬という語彙があるとして、そこには犬という語彙から想起されたり指示されるイメージと、inuというそのイメージとなんの関係も持たない音声があります。
人間の全ての言語はこの様になんの関係も持たない音声(シニフィアン)と意味(シニフィエ)をくくり付ける性質を持つわけです。
連続的なシニフィエのシニフィアンによる区切り方は言語によって異なるので、そこから言語によって認識の仕方が異なるという言語相対説や言語によって認識の仕方がある程度決定されるという言語決定論という仮説も生まれました。
近代言語学の人間の言語一般に対して言える法則の発見は西洋のあらゆる学問に対して非常に示唆に富むものでした。
音韻論的(イーミック)と音声学的(エティック)という対立も重要です(同化と異化とも言います)
これは音素と音韻だとか若干専門的な話になるので別のページに分割しますが、
この場で至極簡単に言えば、
我々は恣意的な判断に基づいて同じであるだとか異なるだとかを判断しているということであり、言語を使うものは誰一人としてその恣意性から逃れることができないということです。
[現代思想]
ソシュールの言語においての発見の数々は、
それまで記号とそれにくくり付けられていた意味との解離を意味しました。
普遍論争の例で言えば、実在論者はこの恣意的な記号と意味との対応を説明しなければなりません。
また、論理的思考と言われるものについても、論理的に証明された述語や形式体系と現実との対応付け(写像)をさせる場合には恣意性があるのではないかという批判を免れなくなったわけです。
これにより”証明的”な諸学問や哲学はソシュールの構造言語学に則り、その”構造”を探求する体制へと移行していくこととなります。
それが現代思想における構造主義でした。
構造主義の哲学者において有名なのは例えば精神分析家医のラカンがいます。
ラカンはフロイトを継承し、ヘーゲルやソシュールの理論とを組み合わせ、独自の理論を言語哲学的に編み出して行きました。
ラカンは無意識は言語のように構造化されていると提唱し、厳密な論理によっては近くことのできない深層意識に、比喩的な変域を持った代数構造を用いることで近づこうと試み、部分的な成功をおさめます(彼は理論の難解さから、文脈や歴史的背景の理解を持たない人々からの批判をよくされます)
言語哲学は英米では分析哲学とも言われ発展していますが、多くの分析哲学の理論はこの構造言語学的な文脈を正確に継承しているとは言えません。
また構造を把握することはどこまでが可能なのかというポスト構造主義などの批判的継承もあり、ますます言語全体の構造を把握するという試みは難しくなってきています。
最終更新:2020年12月09日 07:47