3学期も半ばを過ぎたこんな時期に、その少女は敦子のクラスに転校生としてやってきた。
真新しい紺のブレザーに白のブラウス、2年生を表すオレンジのリボンタイ、そしてブレザーと同色のプリーツスカート。小柄だが愛くるしい表情と、人形を思わせる大きな瞳に真っ白な肌。つややかに輝く長い黒髪は、肩の辺りできっちりとそろえられていて、中学生らしからぬ気品を漂わせている。何もかもが敦子と正反対の外見を持つ少女が、このあと、敦子にとってとても大きな存在になるとは、その時の敦子には想像することも出来なかった。
「……じゃあ、園田の隣に座って」
担任教師の言葉と同時に、クラスの視線が敦子に集中するのが分かった。敦子の隣が空いているのは、偶然ではない。故意に、クラス全員の意志として敦子の隣は空けられているのだ。
「よろしくね。園田さん」
小声でそう言って、転校生の少女、白石恵美は敦子の隣にゆっくりと腰を下ろした。クラスの視線が何故自分に集中しているのかを理解しないままに。
敦子は無言で頷くと1時間目の数学の教科書に視線を落とした。恵美と話したい気持ちはあったが、そのあと彼女が自分と同じ仕打ちを受けるのではないか、そう思うととても口をきく気にはなれなかった。
敦子がクラスメイトから”無視”されることになった原因は、実にくだらない物だった。明るい性格で男子からも女子からも人気のある男子生徒が隣の席だった頃、何となく仲良くしていたことがクラスの女子の中心的存在だった少女の逆鱗に触れた。
敦子はその男子生徒に特別な感情など抱いてはいなかったのだが、勝手に勘違いをしたその少女が敦子を”ハブる”と決めたその日から、敦子はクラスで孤立した。
悲しかったのは、その男子生徒までが、クラスの女子の不興を買うことを恐れたのか、敦子と親しくすることをやめてしまったことだった。
当初のうちは、不条理な思いで胸がいっぱいになり、家に帰って何度も泣いた。だが、そのうちにそんな状況などどうでも良くなってしまって、半年が過ぎていた。
諦めと、冷めた感情を維持することで、敦子は自分を守ることにした。やがて学年が変わればクラス替えがある。
大小様々なくだらない嫌がらせも、敦子は徹底的に無視し耐え続けた。相手にすればつけあがる、そう感覚的に理解していた。
ホームルームのあと、1時間目の授業が終わり、休み時間になった。
「……ねえ、園田さん、あの……」
人好きのする微笑みを浮かべて、恵美が声をかけてきた。
それはとても魅力的な笑顔だった。くるりとした瞳はいきいきと輝いていて、孤独に染まりきった敦子の心を鷲掴みにする。
「……ごめん、あの、白石、さん」
「なあに?」
小首をかしげて、立ち上がった敦子を見上げる恵美に敦子は一瞬口ごもった。
「あのね、わたしに、話しかけないほうが、いいよ。あなたの、ためだから」
小声でそう言うと、もう一度だけ「ごめんね」とささやいて敦子は教室から飛び出した。訳の分からない怒りが胸にこみ上げてくるのが分かった。何故こんな思いをしなければいけないのか。
その後、昼休みになるまで、敦子は恵美の方を見ることが出来なかった。恵美の方も敦子に声をかけてこようとはしなかった。
”これで、いいんだ……”
そう頭の中で繰り返しながら、授業に没頭して敦子は自己嫌悪にも似た感覚を忘れようとした。
いつものように、人っ子一人いない薄暗い中庭のベンチで、敦子は弁当箱を拡げた。冷めたご飯の味気なさが、今日はいつもにも増して感じられる。
「……園田さん」
「えっ?」
俯いて弁当箱をほじくるようにしていた敦子は、不覚にも声をかけられるまでその少女がそばにいることすら気付いていなかった。
「白石、さん」
顔を上げて、絶句する。何故、という思いで頭が真っ白になった。
「隣、座ってもいい?」
一瞬の躊躇のあと、朝と同じく無言で頷くと恵美は照れくさそうに笑って、どっかりと腰を下ろした。訳の分からない鼻歌を歌いながら弁当箱を拡げる恵美に、敦子はしばらく何も言えなかった。
「ねえ。どうして話しかけちゃダメなの?」
きれいに焼かれた卵焼きを頬張りながら恵美は快活に笑ってそう言った。無邪気すぎる笑顔に触れて、壁を作ろうとしていた敦子の心が揺れ動く。
「もしかして、クラスの誰かと喧嘩してるの?」
気遣いに溢れた恵美の言葉に、敦子の心が陥落した。
「んー、喧嘩っていうかね……。無視されてんの。わたし。みんなから」
感情が高ぶって、口調こそ明るいものの、敦子の表情が引きつったようになった。
「だから、わたしと仲良くしてると、白石さんも、無視されちゃう」
敦子はそれだけを一気に言うと、口をつぐんで顔を赤面させた。知らずのうちにため息が漏れる。
少しの間、沈黙が流れる。
「いいよ。私、私もね、前の学校で、無視されてた。私に原因があるから、しょうがないんだけど。だから、慣れてるの。私たち、似たもの同士だね」
何故そんな風に笑えるのかといぶかしむくらい眩しい笑顔を浮かべて、恵美は敦子を見つめていた。
「そう、なんだ……」
真っ向から恵美の笑顔と視線を受け止めて、敦子は気圧されたように弱々しくつぶやいた。恵美のような少女がいじめられるという事態が想像できず、どう返せばいいのか分からなくて敦子は無言で恵美を見た。
「……ねえ、友達になろ。私なら、無視されたってかまわないよ。どうせ、転校してきたばっかりで友達は誰もいないもの」
歌うようにそう言う恵美の言葉が、魔法の呪文のように敦子の心に刻み込まれた。
一瞬。敦子の心に、訳の分からない恐怖にも似た、どこかに吸い込まれるようなそんな感覚が湧き起こる。自分を見つめるどこか熱っぽい恵美の視線に溶け込んでしまうような気がした。
「……いいよ。わたしも、白石さんと、友達になりたい」
心の奥底に湧き起こった、抗いがたい誘惑が敦子の一瞬の逡巡を消し飛ばしていた。
つつがなく午後の授業も終わり、放課後となった。
「ねえ、あっちゃん。何か部活やってるの?」
昼休みですっかり打ち解けた恵美に愛称めいた呼びかけをされて、敦子は照れくさげに笑って首を振った。
「ううん。なんで?」
「じゃあ、一緒に帰れるね」
帰り支度をしながらそう言う恵美に敦子は無言で頷いた。
仲むつまじい雰囲気を漂わす二人にクラスの女子の何人かが眉をひそめ、小声でささやきあうのが視界の隅に止まったが、今の敦子にはどうでも良いことだった。
「じゃあ、帰ろ」
「うん」
ささやきあって教室をあとにする。こんなに、うきうきとした気分で家路につくのは、どれくらいぶりだろう。
部活の喧噪が渦巻く校庭の隅を抜けながら、他愛のないことを言い合う。そんなありふれたふれあいに、自分がどれだけ飢えていたのかを敦子はひしひしと実感していた。
「……どうしたの?」
「ううん。めぐちゃんと会えてよかったなって思って」
小首をかしげる恵美に敦子は大きく笑って言った。偶然にも帰宅する方向が同じということで、少なくともあと10分は恵美と一緒でいられる。
あと500メートルほどでお別れ、というあたりにさしかかった時、恵美が意外な提案をした。
「ねえ、もしよかったらなんだけど。今から私の家に遊びに来ない?」
「えっ、いいの? でも、おうちの人に迷惑なんじゃ……」
喜びを隠しきれない表情で、しかし戸惑いながら敦子がそう言うと、恵美は快活に笑い飛ばした。
「大丈夫だよ。うちは夜遅くにならないと誰も帰ってこないもん」
笑顔でそう言う恵美の言葉の端に、どこか寂しげな香りをかぎ取って、敦子はその提案に乗ることにした。
「じゃあ、行く」
「うん」
にんまりと微笑む恵美に、なぜか敦子は赤面した。
「……ここが、めぐちゃんのおうちなの?」
「そうだよ」
5分ほどしてたどり着いた瀟洒なマンションの前で、敦子は口をぽかんと開けて10階建ての建物を見上げていた。敦子の母が以前新聞広告を見てため息をついていた高級分譲マンションに間違いない。
オートロックを解錠する恵美に続いて、おずおずとエントランスに滑り込む。黒光りする大理石の壁面や鏡として使えそうなほど磨き込まれた床を見てただただ圧倒される。
エレベータで5階まで上がる。一番角の日当たりの良さそうな部屋が、恵美の自宅だった。
「どうぞ、遠慮せずに上がって、あっちゃん」
「う、うん。おじゃま、します……」
玄関に入り込んで後ろ手に扉を閉めた瞬間、外の喧噪がぴたりと止んだ。外観だけではなく、内部の作りも豪奢なのは敦子ですら分かるくらいだ。立派な玄関を見て、敦子は自分の薄汚れた運動靴に気付いて気恥ずかしくなった。
「こっちだよ」
居間とキッチンの間を抜けて、洗面所とトイレが並ぶ突き当たりが、恵美の部屋らしかった。
日当たりの良い、6畳のフローリングされた洋室。これだけで、敦子からすれば羨望ものだったが、小洒落た白で統一された家具と、暖色系のカーテンや寝具は少女らしい清潔感と可愛らしさに溢れている。
「素敵。可愛い、お部屋だね……」
「そんなことないよ、でもありがと。ベッドの上でも適当に座って」
てきぱきとそう言う恵美に敦子は所在なげに鞄を足下に置いてベッドに腰掛けた。物珍しげに部屋の中を見回す。
「本がいっぱい。めぐちゃんも本好きなの?」
「うん。パパが好きだから。遺伝だね……。あっちゃんも好きなんだ?」
「めぐちゃんほどいっぱい持ってないけどね……あ、これ、新刊だよね?」
本棚の中のハードカバーの一冊に目がとまる。世界的なベストセラーのジュブナイル小説の最新刊を見つけて、敦子は思わず歓声を上げた。
「まだ読んでないのなら、貸してあげるよ」
「いいの?」
喜色満面の表情で、立ち上がって本棚に近寄る。
「いいよ。私もう読んじゃったから。そうだ、紅茶入れてくるね。他にも読みたいのがあったら、読んでていいよ」
「うれしい。ありがと!」
恵美がキッチンへ消えるのを見送ってから、敦子は本棚に視線を戻した。他にも数冊、敦子の興味を引くジュブナイルや少女向けの小説があった。いくつかを取り出してはめくりしていると、小さな版形のカラフルな写真集が目にとまる。背表紙に”nymph”と洒落たフォントで書かれている。
「写真集? だよね……」
手に取り、表紙を見る。海外らしい草原の中に、カジュアルな二人の外国人の少女が微笑んでいる。
”わたしと同じくらい……? 歌手かな、女優さん……?”
見覚えのない異国の美貌の少女たちの笑顔が妙に印象に残った。ぱらぱらとページをめくる。
”えっ!”
信じられないものを目にして、敦子は一人絶句した。
先ほどの少女たちが、ベッドの白いシーツの上で全裸で絡み合い、抱き合っている。鮮やかなブロンドの髪と、ほんのりとピンクに紅潮した少女たちの肌の色のコントラストが目に焼き付いて離れない。
さらにページをめくっていく。艶めかしくうごめく少女たちが、絡み合ってお互いの身体を愛撫している。大胆に開脚された一人の少女のむき出しの秘部を、もう一人の少女がその細く美しい指先で広げ、鮮やかな秘肉を舌先でねぶろうとしているあたりで、敦子の意識がショートしかけた。
”何、何なの、コレ……!”
訳の分からない衝撃に打ちのめされ、敦子の心臓が激しく鼓動する。写真の中の少女たちから、敦子は目が離せない。少女たちの艶めかしい睦み合いに、敦子の身体の奥底が締め付けられる感覚があった。
「……お待たせ」
キッチンから戻った恵美の声に、敦子は我に返った。
「えっ、あ、ご、ごめんね、ありがと」
慌てて写真集を閉じるが、泡を食って本棚に戻し損ねた。やむなく脇に抱えていた別の本を重ねるように隠して、ベッドに腰掛ける。
「何か、面白そうな本、あった?」
問いかける恵美の笑顔には、まるでやましい雰囲気はなかった。今まで敦子が見たものは、白昼夢だったのではないか、そう思いたくなるほどに。
「えっ、あ、う、うん。何冊かあったよ……」
赤面して冷や汗をかきながら敦子は本と写真集を重ねたままベッドに置いた。
「レモンティ、でいいよね?」
笑顔でカップソーサーごと差し出す恵美に赤面しながら笑顔を返して、敦子は紅茶を受け取った。レモンの香りと、紅茶の香りが混じり合って部屋に漂う。
心臓の鼓動はまだ収まらず、冷や汗が脇の下を流れる感覚に敦子は背筋をぞわりとさせた。
砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜる。温かい紅茶を一口飲んで、敦子は大きく息を吐き出した。
”……頭の中、ぐちゃぐちゃだよ……。この写真集、めぐちゃんのなの? なんでこんなの持ってるんだろう……”
疑問がぐるぐると頭の中を巡る。どうしていいか分からず、敦子は無言で紅茶をすすり続けた。
”コレ見てたの、気付いたかな……。でも、気付いてたら、こんなに普通にしてられないよね、見てないよね……?”
上目遣いでちろりと恵美を見る。恵美は自分の机に座って、おっとりと紅茶をすすっている。視線に気付いた恵美が、例によって笑顔で小首をかしげる。
「どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
屈託のない笑顔に敦子は一人口ごもった。頭が真っ白になって何も言えなくなる。
「ううん、なんでもないよ……暖かくって、おいしい」
曖昧な笑顔を返しながら、敦子は俯いて赤面した。飲み終わった紅茶のカップの底をひたすら見つめ続ける。
「おかわり、いる?」
「えっ、ううん、ご、ごちそうさま……」
慌てて、跳ねるように立ち上がって、敦子は紅茶のカップを恵美の机に置いた。
乾ききった口の中を潤そうと、自然とつばを飲み込んだ。
ぎこちなく、元通り座っていた場所に戻る。座った反動で、重ねた本が滑り落ちたことに敦子は気付かなかった。
恵美も、飲み終わったカップを自分の机に置くと、なにがおかしいのかくすくすと笑いながら立ち上がって、ベッドの敦子の隣に腰掛けた。かすかに漂うシャンプーの残り香が心地よい。
すぐ側で見れば見るほど、恵美は美しい少女だった。驚くほど長いまつげに彩られた黒目がちな瞳。なだらかなラインの小振りな鼻にふっくらとした淡い鴇色の唇。少女らしい可愛らしさに溢れた外見に思わず敦子は見とれてしまっていた。
「なあに?」
真正面から恵美に見つめられて敦子はまたも赤面した。
「ごめん、めぐちゃんが、すごく……可愛くて、つい見とれちゃった」
「私が? ありがとう、あっちゃんにそう言ってもらえてすごくうれしい……。でも、あっちゃんだってきれいだよ」
予想外の応えに敦子は目を白黒させた。
「わ、わたしなんか、全然ダメだよ……。地黒だし、目つき悪いし……。背もおっきくてちっとも可愛らしいところがないもん。めぐちゃんみたいに女の子っぽくないでしょ……」
恵美にほめられてうれしいものの、やはり自分と比較して引け目を感じてしまっている敦子はもそもそと否定の言葉を口にした。
「なんで? 私はあっちゃんみたいな女の子、良いと思うけどなぁ。背が高くって、すごくすらっとして。すごく、格好良いよ。もっと自信持って良いと思うよ」
「そ、そうかな……。でも、ありがと。お世辞でも、うれしい」
照れくさくなって微笑みながら、敦子はもじもじと制服のスカートを指先でつまみ上げた。
「お世辞じゃないよ……。私は本気でそう思ってるもの」
やや真剣な口調と表情になった恵美が、敦子の手に自分の手を重ねてきた。
”……え、な、なに……”
暖かな恵美の手の感触に驚きながらも、敦子はされるがままで恵美の方を見た。なぜか、その白い頬を淡いピンクに染めた恵美の顔がすぐそばにある。黒目がちな瞳が潤んで、揺れているように見えた。
「……め、めぐちゃん?」
恵美の視線に熱っぽいものを感じて、敦子は戸惑いのつぶやきを漏らしていた。
「ねえ。あっちゃん」
「なに……?」
敦子の問いに恵美はすぐには応えなかった。一瞬、視線を逸らして口ごもる。しかし、すぐに逡巡を振り払うようにもう一度敦子を見た。
「さっき、この本、見てたよね?」
恵美の言葉が敦子の身体を衝撃の矢となって突き抜ける。その時初めて、隠したものがむき出しになっていたことに気付いて、敦子は顔面蒼白になった。
「そ、それは、その……」
恵美が写真集を手にとっても、とっさに敦子は反応することができず、目を見開いて意味のないつぶやきを漏らすしかなかった。脳裏に浮かぶ少女たちの睦み合いが敦子を赤面させる。
「ごめん、ごめんなさい、わたしそういう本だって知らなくて……。でもきれいな表紙だなって思って、手に取っただけなの、ごめんなさい……!」
どうしていいか分からず、自分でも意味不明だなと思える弁解を敦子は恵美に何度も繰り返した。
「あっちゃん……。可愛いっ」
そんな敦子に、恵美は謎めいた微笑みを浮かべてため息混じりのささやきを漏らした。
”えっ……?”
次の瞬間、うつむき加減の敦子の唇に、何か暖かく、柔らかなものが触れるのが分かった。視線をあげた敦子の眼前に、目を閉じ顔を傾けた恵美の顔があった。
「んぅ……」
自分に何が起きているのか、とっさに理解できず、敦子はうめき声を漏らすことしかできなかった。
自分の唇にぴったり密着しているものが、湿り気を帯びた恵美の唇だということを理解したとき、初めての他人とのキスという衝撃が敦子の身体を縛り付け、石像のように身動きすることができなかった。
柔らかい、しかしぽってりとした質量を伴った固まりが、こわばった敦子の唇をかき分け、侵入してくる気配があった。未体験の感覚に漂う、直接的かつリアルな性の匂いを感じ取って敦子の頭が真っ白になる。
嫌悪感、というのとは違う。未知の感覚とそれに対する恐怖めいた怯え。今の敦子には説明のつかない感覚が、ようやく敦子の身体を縛り付けていたものを解き放つことができた。
「……やっ、だ、だめっ……」
恵美を自分から引き離す。息苦しさから解放された肺が新鮮な空気を求めて敦子を激しく喘がせる。
「……ごめん、わたし、帰る……!」
怯えに突き動かされて、敦子は慌ただしく立ち上がると、鞄を持って恵美の部屋を飛び出した。恵美があとを追いかけてくる気配があったが、敦子は振り返ることもできなかった。脇目もふらず、そのままマンションの外まで駆け出す。
帰宅して、薄暗く古びた自分の部屋に飛び込んでも、重苦しさに支配される感覚から逃れることはできなかった。鞄を放り出し、制服を脱いでいく。
”やだ……なんで?”
そのとき初めて下腹部に感じた違和感に気付いて、敦子は一人赤面した。もやもやとした時なるように湿り気を帯びていることに気付いたからだ。
小さくため息をついて、のろのろと部屋着のパーカーとキャミ、ワークパンツに着替え、敦子は自分のベッドに横になった。どこか裏切られたような気持ちと、それとは裏腹に恵美に対して後悔と喪失感にも似た感覚を感じていることが、敦子の中でごちゃ混ぜになっていた。心中の重苦しさと、身体全体を縛り付ける脱力感がそれに拍車をかける。恵美の部屋でのことが、ぐるぐると頭を巡り、敦子から思考能力を奪っているようだった。
「わかんないよ……めぐちゃん……」
つぶやいて、敦子は枕に顔を埋めた。今は、何も考えられない、考えたくないと思った。
洗面所で、部屋着を脱いで、下着だけになった敦子は、洗面所の鏡に映った自分の姿を眺めていた。きつい感じに見える瞳は、よく言えば切れ長でくっきりしているといえなくもない。だが、全体の顔立ちも含めて女の子らしい柔らかさに欠けているようで、まるで男の子みたいだといつも思う。
身体に着けている下着も、飾り気も色気も可愛げもないグレーのスポーツブラにショーツで、包み込まれている自分のからだつきを見るたびに嫌気がさす。身長は165と高いものの、薄く小さな胸と、細いだけでごつごつとさえ感じられる手足、ふんわりとした白さに欠ける肌はまるで少年のそれのようだ。幼稚園の頃など一時期を除いて、ずっと短くしている髪も良くないのだろうか。
しばらくそうしていたが、暖房などない洗面所の寒気に負けて、敦子は浴室に入った。かけ湯をしてから浴槽に勢いよく入る。
「ふぅ……」
勢いで溢れる湯の流れをぼんやりと眺めながら敦子はため息をついた。熱めの湯に首までつかり込み、目を軽く閉じる。すぐに、にじみ出る汗が額から顔に伝わってくるのが分かった。
小さなノックの音に気付くまで、少し間があった。慌てて、返事をする。
「はい?」
母だろうか。そう思ったとき、浴室の開き戸がカチャ、と開いた。
「あっちゃん、入っても、いい?」
遠慮がちな声でそう聞くのは、真っ白なバスタオルを身体に巻き付けた恵美だった。
「えっ、めぐちゃん? う、うん。いいよ……」
なぜ恵美がここにいるのか。そんな疑問を飲み込んで、敦子は浴槽の身体を縮こめて、恵美が入れるスペースを空けた。
バスタオルを取った恵美の白い裸身が鮮やかさを伴って敦子の目に飛び込んでくる。小柄だが、少女らしいふくよかさと柔らかさに敦子は目を奪われた。
「なあに? あんまり、見ないで。恥ずかしい」
軽く頬を紅潮させた恵美はそう言って浴槽に足をつけた。ゆっくりと、侵入するのに合わせて湯が浴槽から溢れていく。
「だって、すごくきれいだもの。いいじゃない」
そんなことを言いながら、二人顔を見合わせる。くすくすと笑いながら、少女たちはふたりで浴槽につかり込んだ。
「うれしい、あっちゃん……」
うっとりとした口調で、恵美はそう言った。
「だって、ほんとのことだもの。めぐちゃんはいいよね、わたしと違って胸もおっきいしさ」
言いながら、敦子は向かい合った恵美の左胸に手を伸ばした。小柄な体格とは対照的なボリュームを持ったそれを、そっと支えるように優しく手のひらで包み込む。
「やん……」
少しだけ、ぴくんと身体を震わせて、恵美は小さく声を漏らした。
「可愛い」
自分でも聞いたことのないような、低めの声でささやいて、敦子は恵美の胸から、輝くような淡いピンク色の先端、そして胸の中央へゆるゆると指先を滑らせていく。
くすぐったそうに、小さくくぐもったうめき声を上げる恵美に、自分の胸が高鳴っていくのが分かった。
「めぐちゃん……」
ささやいて、顔を寄せる。恵美が、その長いまつげをそっと閉じるのが分かった。
「あっちゃ……んんぅ」
目を閉じた恵美の唇に、自分の唇を重ねていく。最初軽く重ね、そして吸い付くようにぴったりと重ねてから、舌先で唇をかき分ける。
「んっ……」
唇から伝わる恵美のうめくような吐息。そして……。
「敦子! 敦子!」
今度こそ母の声がして、敦子は慌てて唇を離した。同時に、景色が一転して薄暗くなる。
「……えっ?」
階下から再び、母が自分を呼ぶ怒声が聞こえた。灯りが無く薄暗い周囲の状況が理解できず、慌てて大声で返事を返しながら、敦子はようやく我に返った。
「……夢」
寝汗でじっとりとした自分の顔を手のひらで拭って、伸びをする。
「夢、かぁ……」
無意識のうちに内股をすりあわせるようにして、敦子はまたも下腹部が湿り気を帯びていることに気付いていた。
なんでこんな夢を見たのか自分でも分からなかった。恵美の家で見た写真集の影響なのか、あるいは自分が気付いていなかっただけで、自分にもそういう願望があるのだろうか。
再び、大声で自分を呼ぶ母の声に返事しながら、敦子は自分の部屋を出た。
翌日、恵美は学校に来なかった。担任教師によると風邪で欠席、とのことだった。
土、日を挟んだ月曜になっても、恵美は欠席だった。
誰もいない隣の席。慣れているはずのいつもの空間が、重い影を敦子の心に落としているのが自分でも分かった。
”こないだのことが……原因なの?”
空席の恵美の机に向かって、それを問うてみても答えが返ってくるわけもない。ただ、恵美を傷つけてしまった、という罪悪感と後悔が敦子を苛むだけだった。
放課後になった。帰宅しようとするクラスメイトたち同様、帰り支度を始めた敦子を、担任教師が呼ぶ声が聞こえた。
「はい?」
「園田、白石の家知ってる? 悪いんだけど、帰りにコレ届けてくれんか」
担任教師が差し出した三者面談を知らせるプリントに敦子は身体がこわばるのが分かった。
恵美に会いたいような、会いたくないようなアンビバレンツな感情が、すぐに返事をするのをためらわせた。
「もし知らないなら、いいんだけど……」
担任教師がそう言いかけた時、敦子の中で何かが決心をしていた。
「……えと、あの、知ってます。帰りに、行けばいいんですね?」
「悪いな。頼むわ、先生ちょっと今日学年会議でさ、遅くなりそうなんだよ」
「いえ、いいです、分かりました」
少し早口でそう言って、敦子は自分の席に戻ると帰り支度の続きを始めた。
”とにかく、めぐちゃんに、謝ろう”
そう思った。そのあとで、どうなるかは敦子にも分からない。
恵美が前の学校で”ハブられていた”原因はきっと先日のようなことが前の学校でもあったからだ。恵美が転校してくるまで、同じような孤独を味わっていた自分なら、それを理解してもらえると思っていたに違いない。だが、それを自分は裏切ってしまったのだ。
恵美は多分、傷ついたはずだ。敦子に100パーセントの非があったわけではないが、もっと違う方法で接していれば、良かったのかも知れない。そういう思いと、自分を苛む罪悪感にも似た感覚を打ち消したくて敦子は恵美に会うことを決めたのだ。
恵美のマンションのエントランス前に着いて、敦子は一瞬立ち止まって大きく深呼吸した。
一瞬目を閉じ、そして恵美の部屋の番号をオートロックのインタフォンに打ち込む。
呼び出し音が鳴って、しばらく間があった。
「……はい」
か細く聞こえる恵美の声。敦子はゆっくりと息を吐きながら自分の来訪を告げた。
「……めぐ、ちゃん? わたし、敦子です。先生に、言われてプリントを届けにきたの」
口ごもりながら、そうインタフォンに話しかける。ノイズ混じりの沈黙のあと、恵美がぽつりと返事を返してきた。
「あっちゃん? いいよ、あがって」
小さなモーターの駆動音と金属音がしてオートロックが開くのが分かった。
もう一度深呼吸して、敦子はマンションに入った。