朝になっても、夢のような気分は冷めることがなかった。
電車を降り、改札口をくぐると、明るい日差しがこの季節にしては暖かな陽気となってあたりを包み込んでいる。
駅前のロータリーの外れにある駐輪場から愛用しているマウンテンバイクを引っ張り出し、葉月は家を目指した。
昨夜家に帰らなかったことで、ハンドラーの安田はきっと怒っているに違いない。事実、マナーモードにしていた携帯電話は安田からの着信で履歴が埋まるほどになっていた。
そのことがやや葉月の気分を落ち込ませるものの、それでもどこか浮かれたような気持ちは収まりようがなかった。
葉月が現在住まいにしているワンルームマンションまで、自転車なら10分ほどしかかからない。
マンションの前に佇むようにしている安田の古いスカイラインGTRが見えた。やっぱり、というどこかあきらめにも似た感慨にとらわれて、葉月は小さくため息をついた。
マウンテンバイクを駐輪場に停めて、葉月はエントランスからエレベーターに飛び乗った。5階のボタンを押し、エレベーターの壁にもたれて一瞬目を閉じる。
初めて、ハンドラーの命令に背いたこと自体は後悔はしていない。だが、言いようのない苦い思いで胸が満たされていることに気付いて、葉月は表情を曇らせた。
安田は陰気な男だったが、ハンドラーとしてはむしろ優しい男だった。葉月に対しても、かなり気を遣って運用しているのがよく分かるくらいに。その安田を裏切る形になってしまったことが、葉月の心に影を投げかけている。
エレベータを降り、部屋まで向かう。少し深呼吸してから、意を決してドアの鍵を開けた。
薄暗い室内はしんとして、冷えた空気に満たされていた。
「……何故、電話に出なかった、オーガストムーン」
薄暗い室内に溶け込むように座り込んでいた塊から、声が投げかけられた。
感情のかけらもない冷たい声。カーテンの隙間から漏れる光で影になった顔からは、その表情をうかがい知ることはできない。
「いや、それよりも何故、部屋にまっすぐ帰らなかった。どこに行っていたんだ」
安田の口調は変わらなかったが、それがむしろ安田の怒りを如実に物語っていた。
すぐには応えず、部屋の電気をつける。生活感のかけらもない部屋の中にぽつんと白髪交じりの中年男が座り込んで葉月を見上げていた。
きっちりと分けられた髪と、黒縁の眼鏡、そしてグレーのスーツはどこか銀行員を連想させる。陰気な顔つきをした中年男、安田は眼鏡の奥からその冷たい視線を葉月に注いでいた。
「何故、こたえない」
「……申しわけありません、その、友達と、会っていました」
安田の目がすっと細められた。
「友達、だと? どういうつもりだ。一般人との必要以上の接触は禁じていたはずだ。違うか?」
「はい……」
「確かに、お前にはある程度行動の自由は与えていた。だがそれは何をしても良いということではない。最低限の社会的常識などを学んでもらうためにそれを許していただけだ。仕事のため必要なことだからな。だいたい、友達、などというものはオーガストムーン、お前には必要のない物だ。今更そんなことを言わなくても、分かっていることだろう」
葉月は目を伏せた。覚悟していたことだが、それでもそう言われることがこうも苦しいことだとは思っていなかった。
「……男か?」
安田の的を得た指摘に葉月は一瞬口ごもった。
「……違います、男の人では、ありません。困っているところを助けられて、それで知り合いになっただけです……」
葉月の弁明に、安田は何も言わず軽く眉を跳ね上げてじっと葉月を見た。信用していないのが明白な表情だった。
「それに、仕事は今までどおりきちんとします! もちろんわたしのことをしゃべったりなど……」
「当たり前だ! お前は、そのために生まれ、育てられたんだ! そんなことは当然のことだ!」
初めて、安田の怒りを目の当たりにして葉月は黙り込んだ。それを見て、安田が少しだけ表情を和らげたように見えた。
「……大きな声を出してすまなかった。だがな、オーガストムーン。今私が言ったことは変えようのない事実だ。私にも、お前にもだ。優秀な”ドール”であるお前を、こんなことで失いたくはない。今後、その友達とやらとは二度と会うな」
安田としては極めて優しい口調で、そう告げられても、葉月はすぐに返答が出来なかった。死刑宣告にも似た感覚に葉月の意識がぐるぐると回る錯覚を感じた。
「今なら、まだ私の中で納められる。だが、今後もこういうことが続くようなら、私としても何もしないわけにはいかない。お前自身の秘密は、我々にとっても重大な機密なのだ。それを漏らしかねないような行動を、我々はなんとしてもストップする必要がある。分かるか? この意味が」
「……わたしを、消去するということですか」
分かっていてあえて、葉月はそう聞いた。
「馬鹿を言うな。優秀なドールであるお前にはこれからも働いてもらわねばならん。ならば……。そういうことだ……」
安田はそこで言葉を切った。葉月がどんなに隠そうとも、CIAはその情報収集能力をフルに生かして、潤雄の存在を突き止める。そして、この世から潤雄の存在そのものを消してしまう。安田が言外に匂わせたのはそういうことだ。
「……わかりました」
無感動な口調で、葉月はそう言った。今は、そういうしか他になかった。
「いいな。次にこういうことがあったり、まして仕事に差し支えがあるような事態になったら、私も黙ってはいられん。そのことをよく覚えておくんだ。近々、また作戦がある。体調を整えておけ」
「はい」
下唇を噛みしめて、葉月はそう言った。
「私の話はこれで終わりだ。また、連絡を入れる」
それだけをいうと、安田は葉月の部屋をあとにした。
「……」
一人になっても、胸の中を駆けめぐる重苦しい感情をどうすることも出来ず、葉月は部屋の床にへたり込んだ。初めて感情の赴くままに求めた物を手に入れた代償は、葉月にとってかけがえのない物を天秤にかけることになった。分かっていても、そのことがどうしようもなく悔しく、そして苦しい。
気持ちを切り替えたくて、葉月は着ている物をすべて脱ぎ捨てた。バスルームに飛び込んで、シャワーのコックをひねる。頭から熱いシャワーのほとばしりを浴びて、目を閉じる。
潤雄には、もう会えない。会ってはいけない。いけないのだ。
自分自身に懸命に言い聞かせる。だが、そうすればそうするほどに潤雄と過ごした夜のことが鮮明に思い出され、そして葉月の身体を震わせる。
葉月は自分で自分を抱きしめた。自分の腕に持ち上げられた胸の尖った先端が眩しいほどに葉月の心を揺さぶる。手のひらで包み込み、自ら揉みしだく。
「んぁ……」
潤雄の指先を思い出し、わき起こる鈍い快感に思わず声を漏らした。潤雄の愛撫を思い出し、同じように自分の敏感な先端を愛撫する。もっと、潤雄に見て欲しかった。潤雄に愛されることが、こんなにも自分の官能を刺激するのを。
「んんっ、あっ、ああっ……」
頭の中の潤雄に見つめられて、葉月の下腹部が小さく収縮した。自然と片方の手のひらが秘所に伸び、包み込むように指先を這わせる。潤雄のことを考えただけで熱くなっているその部分は、すでに必要以上に潤って、そして葉月の指先にぬめり気を絡みつけた。
「潤雄……! あ、あ、あああっ」
ビクン、と身体を震わせて、背筋が伸び上がる。固く尖った秘心を二本の指で挟み込み、軽く力を込めた。ぬめり気が摩擦抵抗を無くして、葉月の秘心を弾くように刺激する。
「あぁ、あ、ああんっ!」
全身が熱くなる。自然と漏れる声が葉月の官能をさらに引き出すように耳を打つ。
どろり、とした熱いものが指先に絡みつくのが分かった。葉月の秘所から溢れる官能のしるしが、秘所の奥底が収縮するたびに奥底から湧き起こるのだ。
自分の胸を愛撫しながら、同時に秘所も責め続ける。秘心を転がし、弾いては淫らに腰をうごめかした。
「くぅん……っ、ぁ、ぁ、あっ」
息を荒げながら、秘所から指先を自分の目の前に持ってくる。こびりつき、絡みついた淫らな液体が泡だっているのを見て、葉月はさらに身体を震わせた。
「潤雄……、見て、見て……」
頭の中の潤雄に話しかける。
あなたのことを思い出すだけで、わたしはこんなに淫らになる。どうしようもなく淫らになってしまうのだ、と。
とまらない衝動に葉月は再び自分で自分を愛し始めた。指先を秘所に潜り込ませ、熱くたぎるその場所に指先をねじ込んで、そしてうごめかす。
「あああ、あ、あ、あんっ! やっ、だ、ダメ、あ、あ、ああっ!」
淫らな水音をバスルームに響かせながら、葉月は自分で何度も達した。獣のように叫び、身体を震わせながら、葉月は官能の海に溺れていった。
バスルームを出て、身体を拭い髪を乾かす。シンプルな白いブラとショーツを身につけ、部屋着代わりのジャージの上下を着たところで、葉月は携帯の着信に気が付いた。バイブレータのかすかな振動がバッグの中から聞こえてくる。バッグの中から、慌てて携帯を取り出した。
「潤雄……?」
背面液晶の表示を見て、葉月は表情を曇らせた。出なければならない。だが、出るわけにはいかなかった。
携帯を握りしめ葛藤している間に、着信が留守録に変わった。意を決して、携帯を開く。だが、通話ボタンを押すことは出来なかった。
「……ごめんなさい」
ため息混じりにつぶやいて、葉月は視線を落とした。留守録の新着録音が1件。
携帯を操作して耳に当てる。
『おはよう、ええと……。昨日はありがとう。仕事、遅刻しませんでしたか? 仕事の都合で、その……出張が決まったのでしばらく、会えないと思います。帰ったら、また連絡します。それじゃ……』
どこか照れくさげな、潤雄の声を聞いた瞬間、葉月は全身が震えるような安堵感と、そして自分の目頭が熱くなり、視界が滲むのが分かった。
何故、こんなことになってしまったのだろう。以前の自分なら、こうも心が不安定になることなど、なかった。自分はおかしくなってしまったのだろうか。あるいは、今までの自分がおかしい存在だったのか。
答えの出せない疑問に意識を支配されながら、葉月は携帯を折りたたんだ。そして、生まれて初めて感じた運命の不条理さを心の中で、一人呪った。
その後、3日間ほどを葉月はどこにも出かけることなく一人で過ごした。もどかしい思いをぶつける相手もおらず、かといって代わりにすることなど葉月には存在しない。ただひたすらに、任務がもたらされるのを待つだけだった。
3日目の夜、携帯が鳴った。
『私だ。今からそちらに行く』
安田だった。電話があってすぐに、安田が部屋のインタフォンを鳴らしていた。
例によって陰気な表情の安田は、葉月の顔を見てもにこりともせずに一冊のファイルを差し出した。
「今回はいつもとは違うパターンになる。直接手を下すのは、我々ではなく、ターゲットと敵対するグループということになる。我々は、それに乗じてターゲットを消去する。つまり……」
ターゲットが参加するパーティに葉月はコンパニオンとして潜り込み、可能な限りターゲットのそばで待機する。そして、そのパーティがターゲットの敵対する組織に襲撃される。その際の混乱に乗じて、ターゲットの側にいる葉月が確実にターゲットを仕留める。
「いつもよりは楽だ。色仕掛けもある程度は必要だが、露骨にする必要はない。あくまでも公衆の面前だからな」
葉月はファイルをめくった。豪胆そうな表情をしたアジア系の60代半ばくらいのスーツの男が写っていた。鋭い眼光が厳しく葉月を睨んでいるように見える。
「そんなにうまくいくのでしょうか」
「そのための下準備はさせている。襲撃グループにこちらの息のかかった傭兵上がりの男を加えて、襲撃の際にはスタングレネードとスモーク弾を使うようになっている。表向きは、マフィア同士の抗争、ということだ」
「つまり、わたしにも実弾が撃ち込まれる?」
「……そういうことだ。でなければ襲撃にならんからな。当たるなよ」
「努力します。しかし、場合によってはわたしの必要が無くなるかも知れませんね」
皮肉ではなく葉月はそう聞いた。
「そう願いたいが、そううまくはいかんかもしれん。ターゲットが周りにつけているのはまさに壁としてのボディーガードだ。連中はターゲットが襲われるやいなや自分の身など顧みずに身体を投げ打って肉の壁になる訓練を受けている。だから、こんな荒っぽいやり方に乗ずることになったようなものだ」
「いつものやり方ではダメなのですか?」
「残念ながら、今回の相手はいつものような色仕掛けに簡単にかかるような馬鹿者ではない。用心深く、隙を見せることなく立ち回った結果が香港黒社会の大ボスの地位だ。一晩の快楽を求める相手にさえハーバードレベルの知性を求めるような男なのだ。だからこそ、お前にお鉢が回ってきた」
安田は小さなトランクを開けると、中から小さな銃と弾倉を取り出して葉月に手渡した。グロック26。その大部分の部品が特殊プラスチックで出来ていることで知られる銃だ。
「グロック26のことは説明の必要もないな。こいつはさらに改良を加えて銃身など通常は金属製になっている部分も非金属製の素材に変えてある。さすがに、弾丸はどうしようもなかったが、弾さえ抜いておけば金属探知器にもかからん。ただし、そのせいで命中精度と耐久性が犠牲になっている」
手渡されたグロックを構えて葉月は驚嘆のため息を漏らした。それでなくても軽いグロックがさらに軽い。
「1弾倉くらいしか持たんはずだ。テストはしてあるが、期待しない方がいいだろうな」
弾倉を装着して、遊底を引き、初弾を装填する。弾倉の分重量が増えたが、それでもなお軽い。
「非金属に変えられた部分がどうしても熱を持ってひずんでしまうのと、摩耗を防ぐことが出来なかったそうだ。暴発することはなかったが、弾詰まりがどうしても起こってしまう。気を付けろ」
「了解です」
「ターゲットのデーターシートもそのファイルに記されている。読み終わったら処分しろ。どうやってターゲットに近い位置につくかはいつものようにお前に任せる。わたしも、現場に待機してお前のフォローにまわる」
意外な安田の言葉に葉月は目を見張った。
「安田さんも?」
安田の目が笑ったように見えた。
「弾丸をお前に渡さなくてはいかん。それに、今回はいつものような不要品の処分とはわけが違う。重要な外交問題の行方がかかっているからな」
安田は葉月のもとに来る前にCIAの支局長と交わした会話を思い出していた。
今回のターゲット、周大栄が消去されることになった原因は、周の裏ビジネスの一つに北朝鮮との武器売買があったからだ。通常兵器を裏マーケットに流して外貨を流している間はまだよかった。だが、表向き総合商社でもある周の会社が、核兵器開発に必要なノウハウと、核燃料の取引を始めたことが、アメリカの逆鱗に触れた。一時は停滞していた北朝鮮の核開発が活発化し、結果、強気に転じたことで六ヶ国協議は荒れに荒れた。メンツがつぶされたアメリカにはこれ以上こじれるならば強硬手段にでるしか手が残されてない。だが、長引くイラク問題と、ハリケーンでの対処のまずさが現政権にその手段を取らせることを困難にした。死に体となった現政権がメンツをつぶさずに話を纏めるためには北朝鮮の強気の原因となっている外貨取得と核ノウハウの提供をしている周の存在を消すしかない、となった。
だが、周大栄は用心深く、ガードも堅い。周に関する情報を収集すればするほど、困難な障壁ばかりがそびえ立つ。何より面倒なのは、周が襲撃に対するカウンターを常に用意していることだった。
大抵の要人警護はまず守備をメインに置いている。だが、周の場合は警護専用の”壁”とは別に、襲撃者を捕捉、逆襲する”ハンター”を他人にはまったく分からない形でそばにつけている、ということだった。”ハンター”は周の警護そのものには関わらない。ことが起こって初めて”ハンター”は動き出すのだ。
やっかいなのは、”ハンター”がその財力に物を言わせて超一流の傭兵や特殊部隊あがりの腕っこきに訓練を受けている者ばかり、ということだった。なまじっかな者を差し向ければ返り討ちに遭うどころか、アメリカが周を消そうとしていることを天下に知らしめるような自殺行為に繋がりかねない。
そこへ降って湧いたのが、チンピラ上がりの新興組織の襲撃計画だった。怖い者知らずの彼らの計画は無謀きわまりなく、はっきり言えばただの蛮勇でしかなかったが、その粗雑な計画が逆にCIAにとって朗報となった。少し修正を加えてやるだけで、周に対する有効な目くらましになる。そう判断した上層部は、この作戦にゴーサインを出した。
襲撃計画は当初、周の地元香港で決行される予定だったが、襲撃後のことも考え、周の情報網が使えない日本で決行するように潜入させた傭兵にうまく誘導させた。
都合の良いことに、周の表稼業である総合商社の日本支社創設10周年記念パーティが行われる予定があった。表稼業がらみのパーティであれば、まして外国ということもありセキュリティが甘くなるパーセンテージがかなり上がる。
こうして、作戦は安田がコントロールするグループが担当することになった。
「決行は明後日だ。場所や詳しい段取りはすべてそのファイルにある。よく読んでおけ」
基本的に、必要以上の情報や背景が葉月に明かされることは、まずない。これまでもそうだったし、そしてこれからもずっと、そうだ。いつものようにそう言って、安田は葉月をじっと見た。
「なんです?」
安田の視線を受け止めて、葉月は安田を見返した。安田はまだ、先日のことで疑っているのだろうか。
一瞬、安田の視線が、不思議なほど優しいものに変わったように見えた。
「……いや、なんでもない。必要なものがあるなら、連絡をくれ。いつものように”ノワール”と”ルージュ”に用意させる」
「? はい……」
葉月がきょとんとしている間もなく、安田はいつもの安田に戻っていた。
安田が帰ったあと、葉月はファイルの中身を徹底的に頭にたたき込んだ。作戦の実施場所や段取りとタイムテーブル、そしてターゲットの女性の好みや好む会話のパターンなど。CIAによって調べ上げられたデータを元にして、葉月はターゲット好みの女性像を作り上げなければならない。
潤雄のことを頭から振り払うため、葉月はいつも以上に作戦の下準備に打ち込んだ。そうしなければ、自分の心が壊れてしまう。そんな不安に打ち勝つためには、そうするしかなかった。
作戦当日になった。やや遅めに目覚めた葉月は、日課になっている太極拳をベースにしたトレーニングを1時間行ってから、シャワーを浴びた。
あの日以来潤雄からの連絡はない。潤雄からの連絡があったとき自分はどうするのか。そんな恐れと、とにかく潤雄の声を聞きたいと願う、そんな心の渇きがふとしたときに葉月の中でせめぎ合う。
こんなに心を乱されたままで作戦に取り組むのは初めてだった。余計なことを考えず、機械のように任務をこなしていた自分はどこへ行ってしまったのだろう。
自分の中の逡巡を振り払いたくて、葉月は最後の確認を行った。もう一度、ファイルを頭から読み直し、そしていつものように水で溶ける特殊紙で出来たファイルの中身をトイレに流す。
厚く切られたトーストと、卵二つを使ったベーコンエッグにサラダで、簡単に朝昼兼用の食事を済ませた頃、安田から連絡があった。
『私だ。麻布のセイフハウスにて待っている。連絡があったものはすべて揃っている』
「分かりました。もう少ししたらそちらに伺います」
電話を切ると、葉月はクロゼットを開けて着替えを始めた。淡いグリーンのカットソーとジーンズにベージュのショートコートを羽織ると、洗面所で昨日やや明るめのブラウンに染めた髪の染まり具合をチェックしてから、いつものように髪をアップにした。メイクはせず、レンズ部分が細めのデザインの伊達眼鏡をかけると葉月は部屋を出た。
あえて新橋で電車を降りると、駅前でタクシーを拾って麻布へ向かう。セイフハウスのあるマンションの100メートル手前でタクシーを降りると、ゆっくりと周囲を確認しながらマンションまで向かった。
マンションの駐車場に安田のスカイラインを確認すると、エントランス内のインターフォンから安田を呼び出す。小さな金属音のあと、オートロックが開いた。
「遅くなりました」
「いや」
リビングのソファでタバコの煙をくゆらせた、いつもと変わらぬ安田の表情になぜか少しだけ安堵感を覚えて、葉月は小さく息を吐いた。
「お前に頼まれたものはこの段ボールに入っている。確認してくれ」
安田が腰掛けているリビングのテーブルの上に、やや大きめの段ボールがあった。ガムテープで丁寧に梱包されたそれを開け、中身を確認する。
「ちゃんと揃っています」
「分かった。では、私は先に現場に向かう。準備が終わったら来てくれ」
タバコの火を消しながら立ち上がる安田に、葉月は無言で頷いた。
「隣を借ります」
「好きなように使うといい。鍵はここに置いておく」
部屋の鍵をテーブルの上に置くと、安田は部屋を出て行った。
ベッドルームに入ると、葉月は抱えた段ボールと肩にかけたバッグを床に置いて着ているものをすべて脱いだ。
しんとした部屋の空気がまとわりつく感触に怖気を感じて、思わず自分を抱きしめる。姿見に映った自分の身体に少しだけ心が震えた。
段ボールを開け、中にあるものをすべて取り出し、ベッドに拡げる。
レースが多めにあしらわれた黒のブラとショーツから身につけていく。計ったようにぴったりのサイズと、生地のせいもあるのか肌に吸い付くように感じられる。デザインとしては大人しめだが、多めにあしらわれたレースが、葉月の肌の色を際だたせて自分で見ても艶めかしく感じる。
続いて、深紅のカクテルドレスを着る。カクテルドレスとしてはやや長めだが、大胆に斜めカットされた裾から少し覗く脚のラインがけして下品ではない色気を演出する。
最後に、玉虫色のヒールが低めのミュールを履いて、姿見の前に立つ。
”ルージュ”のコーディネイトは相変わらず完璧だった。まだその存在を知らない頃、用意される衣装があまりにも見事なセレクトなのでまさかと思い、安田に聞いたことがあった。
『私ではない。”ルージュ”に任せている』
『”ルージュ”?』
”ルージュ”と”ノワール”は安田が装備の調達を任せている存在だった。衣装などは”ルージュ”に。武装などは”ノワール”が担当しているらしかった。
『二人ともCIAとは関係ない。私が契約している』
それ以上、突っ込んだことは聞かなかったが、”ルージュ”が女性だろうということは間違いなかった。
ベッドルームに用意された三面鏡の前に座り、アップにしていた髪を一旦ほどくと、ブラッシングする。いつもと同じ夜会巻きだが、いつもよりも柔らかく、ふわりとした印象にまとめる。
メイクも、いつもより派手に、しかし暖かな印象を与えるように暖色系でくっきりとさせる。
そういう顔立ちがターゲットの好みだからだが、アイラインも、いつも以上にくっきりと、しかしバタ臭くならないよう細心の注意をはらって描いていく。
小振りなパールがアクセントになったピアスとネックレスをつけて、黒いオーガンジーのショールをふわりと肩に巻き付ける。
葉月は最後の確認で姿見の前に立った。美しく着飾った自分の姿がそこにある。けれど、真実愛している存在に見せることができない皮肉さに気付いて葉月は表情を曇らせた。
今の自分の姿を見せれば、潤雄はどれほど驚き、そして喜ぶのだろうか。
しばらくそのまま、姿見を凝視したまま、葉月はその場に立ちつくしていた。
”今は、もう、そんなことを考えては、いけない”
気持ちを振り絞って、葉月は一旦ショールを取ると、チンチラのファーが襟元を飾るカシミヤのコートを羽織った。
部屋の電気をすべて消し、マンションの鍵をかける。
グロックの納められたハンドバッグとショールをトートバッグに収め、肩にかける。
いつの間にか暮れていた陽の薄明かりと、しんとした晩秋の寒気が、葉月のことを心の底まで包み込むようだった。
(AugustMoon・第2話 終)