パーティ会場になっているのは芝公園のそばにあるホテルの大広間だった。小さな体育館ほどの大きさがあり、収容人数は160名ほど。
パーティが始まっても、すぐに葉月たちコンパニオンの出番は来ない。創設10周年記念パーティということもあって、数名の来賓の挨拶などのあと、支社長の挨拶、そしてターゲットの周がコンパニオンとともに壇上に上がって乾杯の音頭を取る。
基本的には立食パーティであるが、周などのVIPは上座のボックスシートに収まることになっていた。
コンパニオンとして集められたのは葉月を入れて10名だった。
「みゆきさん、て初めて見る顔だよね。いつもはどこに勤めてるの?」
そう葉月に声をかけたのは、人なつっこそうな顔立ちをした、ゆかりという名札をつけた年上のコンパニオンだった。
「わたし、今はどこのお店でもないんです。もうやめちゃってたんだけど、手が足りないからどうしてもって頼み込まれて」
「へえー。アンタだったら、どこのお店でも引っ張りだこだと思うんだけどねえ」
「色々あって、疲れちゃって」
適当な言い訳を葉月が口にすると、ゆかりは得心したような表情になって、葉月の肩をぽんぽんと叩いた。
「まぁ、色々あるもんねえ、この仕事してるとさぁ。私もいつもやめたくなるんだけど、やめれないんだよねえ……」
おしゃべり好きなたちらしく、際限なくしゃべり続けるゆかりに閉口しながらも、葉月は適当に話を合わせて出番を待った。
ややあって、ノックのあと、かちゃり、と控え室のドアが開き、コンパニオンのマネージャーが出番を告げる。
「皆さん、もうすぐ出番ですので移動してください」
マネージャーの誘導に従って、舞台の袖まで全員で移動する。警護の”壁”に周りを取り囲まれた周大栄の姿がそこにあった。写真で見た印象よりも背が高い。
「皆さん、ご苦労様です。広華物産の会長をしております、周大栄です。本日はどうかよろしくお願いします」
”壁”をかき分けるようにして、葉月たちの方に歩み寄ってきた周は、そう言って深々と礼をした。
意外にも腰の低い周の物腰に、コンパニオンたちも意表をつかれたのか、やや慌ててそれぞれに挨拶をする。一番最後になってしまった葉月は、周に印象を深くしてもらうため、ややゆっくり目に周に歩み寄ると、微笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「初めてお目にかかります、周会長。美雪、と申します。本日はよろしくお願い致します」
広東語で挨拶をしてから、もう一度微笑みを浮かべて周をじっとみつめる。ゆかりたちコンパニオンたちもそうだが、さすがの周もなめらかな広東語で話しかける葉月に目を丸くする。
「驚いた。広東語がおできになるんですか」
「少し、だけです。以前習ったことがありまして」
葉月の謙遜に周は笑顔で首を振った。
「とんでもない。素晴らしくお上手ですよ」
「ありがとうございます。光栄です」
深々と礼をする葉月に周はにこにことして、その肩をぽんと叩いた。
セレモニーが終わり、パーティーが始まった。
周たちがいるVIP席に行く前に、葉月にはすることがあった。ハンドバッグに収められたグロックの弾倉を手に入れなければならない。段取りでは、安田は会場のフロアマネージャーとして潜入する手はずになっていた。先刻のセレモニーの時に、安田の位置は確認してあった。
「ごめんなさい、わたしちょっとお手洗いにいってきます」
ゆかりにそう声をかけ、葉月は素早くコンパニオンたちから離れる。
「すみません、ちょっとおたずねしますが……」
会場の隅で、そっと佇むタキシード姿の安田に声をかける。いかにもベテランの初老フロアマネージャー然とした安田の姿に葉月は軽く目を見張った。
「なんでしょうか」
「お手洗いはどちらでしょう?」
「そちらの入り口を出られて左です。ああ、申しわけありません、2番目は故障しておりますのでその他をお使いください」
一礼する安田に微笑みかけて、葉月は礼を言った。
「2番目ですね。分かりました、ありがとうございます」
教えられた女子トイレに飛び込み、あとから来る者がいないことを確認してから、葉月は”故障中”と張り紙をされた2番目に個室に近づき、後ろ手にドアを開ける。もう一度周囲を確認してから、葉月は個室に滑り込んだ。
汚物入れの蓋を開け、丁寧に紙で包まれた弾倉を取り出す。ハンドバッグに収められたグロック本体を取り出し、弾倉を納めてから、遊底を引いて初弾を装填した。続いて、別の紙に包み込まれた、新開発の小型サイレンサーを銃口にねじ込む。従来の三分の一ほどの長さしかないが、消音性能はまったく変わらない。しかし、グロックに合わせてプラスチックを使うというわけにはいかず、金属製となったためにこうして入手する羽目になった。
会場のセキュリティは、思っていたよりは甘かったが、それでもホテルの入り口で金属探知ゲートをくぐらされた。しかし、客に合わせて金属探知のセンサーが甘く設定されている上に、一度ホテルの建物に入ってしまえばそれ以上のチェックはなかった。
元通りグロックをハンドバッグに収め、上からハンカチをかぶせるとバッグの蓋を閉める。
人の気配がないことを確認してから、葉月はそっとドアを開けた。周囲を充分に確認してから個室を出て、後ろ手にドアを閉める。
会場に戻った葉月は、先刻同様隅に佇む安田に会釈してから、それぞれに談笑する人の群れをかき分けすでにコンパニオンたちがいるはずのVIP席に向かった。
VIP席の周囲をぐるりと隙間無く囲む”壁”が葉月に気付いて道を空ける。
目ざとく葉月の姿を見つけたゆかりが、手を振って葉月に呼びかけた。
「あ、戻ってきた、戻ってきた! みゆきさん、周会長が待ってるよぉ!」
「ごめんなさい、お手洗いの場所が分からなくて」
ゆかりに小声で詫び、周に向き直って一礼する。
「お待たせして申しわけありません、会長」
葉月は詫びの言葉を口にしてから、わざわざ葉月のために空けられているスペースに腰掛ける。
「いやいや、私がわがままを言ったんだ。気にしなくてもいい」
笑顔でそういう周に葉月は恐縮したような表情をつくって頭を下げた。
「そう言って頂けると助かります」
「いいんだ。それより、君も何か飲みなさい」
「……ありがとうございます。それでは……」
葉月の頼んだカシスオレンジが来たところで、周が音頭を取って2回目の乾杯となった。
「いただきます、会長」
アルコールに耐性のある葉月はこの程度では酔いもしない。それでも、ほろ酔い程度に見えるくらいには、肌が紅潮する。
周の周囲にすらりと並んだ日本支社の上層部はそれぞれコンパニオンを侍らせてなにやら会話をしている。ゆかりも、周の隣の日本支社長を捕まえてけたけたと笑いながら相手をしていた。
「広東語で話をしてもいいかね?」
シャンパングラスを傾けながら周がそういうと、葉月は笑顔で頷いた。
「出来る限りお付き合いいたします」
「うん。それでかまわん」
早くも酔いが回ったように見える周は大きく息を吐いた。
「お疲れですのね」
「そう見えるかね」
葉月は周が葉巻をくわえたのに気付いてライターに火をつけ、差し出した。
「ありがとう。香港に帰ってもゆっくりする機会がなくてな。酒を飲みに行くこともなかなか出来んかった」
手のひらで顔を拭って、周はおかしそうに笑った。
「日本語も分からんわけではないが、やはり自分の国の言葉でもてなしてもらいたいからね。あんたが広東語が話せると分かってうれしかった」
「そうでしたか。憶えておいてよかったです」
葉月が笑顔でそういうと、周はさらに意味深な表情になった。
「それに、あんたはとてもきれいだ。はっきり言えばわたしの好みなんでな。もし香港で出会っていたら必死で口説き落とそうとしていただろうね」
「……光栄です、周会長」
口調とは裏腹に真剣な周の眼差しに、葉月はなぜかいつものように笑って流すことが出来なかった。一瞬言葉に詰まり、あからさまな作り笑顔で周に笑いかける。
そんな葉月の表情を見て、周は快活に笑い声を上げた。
「冗談さ。好きな男がいるようだね。だが、うまくいっていない感じだな」
今度こそ葉月は心臓が止まりそうな衝撃を覚えた。表情がこわばる。
「……うまくいっていない、というのとは少し違うかも知れません。わたし自身の事情があって、彼のことをあきらめざるを得ない、というところでしょうか」
周の表情が微妙な物になった。
「それは、どうしようもないことなのかね」
「はい。詳しくは言えないのですが、わたしの生まれ育ちも関わってくることですので……」
葉月はそう言ってから背筋を伸ばして周に向き直った。
「個人的な話をお聞かせしてしまって、申しわけありません」
「いや。こちらこそ、詰まらない冗談を言った。すまなかった。そうか……。あきらめたくはない。けれど、あきらめなければならない。君の表情がそう物語っているように見えたが。違うだろうか」
「……いえ、会長のおっしゃるとおりです。わたしには選択肢がありません」
葉月がきっぱりとそういうと、周は遠くを見るような視線になった。
「私にもそういうときがあった。もう随分昔の話だが」
紫煙を吐き出しながら、周はそうつぶやいてシャンパングラスを傾けた。
沈黙が漂ったが、二人ともしばらく無言で消えていく紫煙の動きを眺めていた。
「私にはかつて親友がいた。私と違って真っ直ぐな、素晴らしい男だった。ある日、二人とも同じ女性を好きになった。長身ですらりとして、そうだな。君とよく似たタイプの女性だった。聡明でしかもとても美しい。私も彼も彼女の虜になった」
周はそう言ってから葉巻を灰皿にねじ込んで火を消した。
「もし、恋敵になったのがどこの誰とも知らない男なら、私はどんな手を使ってでも、彼女を自分のものにしていたことだろう。だが、かけがえのない親友が彼女を好きだと、愛していると分かったとき、私にも選択肢は一つしかなかった」
シャンパングラスを呷り、空のグラスをテーブルに置いた。葉月は空いたグラスにシャンパンを注ぎながら周の次の言葉を待った。
「……私は、告白することすらなく、自分から黙って身を引いた。もちろん、彼にも彼女にも、私のことは何一つ言わなかったさ。もし言っていれば、彼も私と同じようにしただろうし、彼女は……そうだな。私たち二人の目の前から、姿を消していたかもしれん」
葉月は、しばらく無言だった。
「……とても……素晴らしいお話です。それぞれがそれぞれの方のことを思いやっておいででしたのですね」
なんと言っていいか分からず、ようやくそれだけを言うと葉月は周を見つめていた。
「……ありがとう。親友はその後、彼女と結婚して、そして幸せな家庭を築いた。だが、彼はその真っ直ぐさゆえに詰まらぬいざこざに巻き込まれて命を落とす羽目になった。
皆は彼のことを愚かだと嘲笑したが、私はそうは思わなかった。私は少なくとも、彼のように生きたいといつも思っていたよ。それは私にはけしてできない道だったが」
周はそう言ってしばらく無言になった。
「彼女はその後とても苦労して、彼との間に生まれた男の子を懸命に育てて、そして病に倒れた。
もし私と一生をともにしてくれれば、そんな苦労はさせなかった、未だにそういう後悔に悩まされることがある。だが、人の幸せというものは、その人自身にしか分からないものなのだろうな。
彼が亡くなってから、何度か援助を申し出たが、彼女はいつも笑顔で私の申し出を断ったよ。その気持ちだけで充分だ、とね。そして彼との間にできた男の子を抱きしめながら、いつかこの子が大きくなったときに、まだその気持ちが残っていたなら、ほんの少しでいいから、手助けをしてくれれば、見守ってくれればそれでいい、彼女はそう言ったよ。
……今にして思えば、彼女は自分がそう長くは生きることができないだろう、そういう覚悟があったのだろうね」
周はそこまで言って目を伏せた。一段と疲れが増したように見える表情で、深々とソファに身を沈めてゆっくりと息を吐いた。
葉月は、そんな周を見ながら、己の胸中に湧き起こった不可解な感情に戸惑いと、そして全身の力が抜けるような感覚を感じていた。
今まで仕事をしてきて、こんな感情にとらわれたのは初めてのことだった。かすかに感じるためらいのような、重苦しい何かがじわじわと増幅していく。
ターゲットと話をすることなど、今までにも何度もあったことだ。なのに、こんなにも胸を逆立てられることなどなかった。
「……どうか、したのかね?」
黙りこくった葉月に、周は不思議そうな表情になった。
「いえ……とても、感動的なお話を聞かせていただいたので。何を言っていいのか分からなくて」
慌てて取り繕うと、周は満足げに頷いて、新しい葉巻を取り出し、口にくわえた。
葉月は周の葉巻に火をつけると、ブレスレット風の意匠が施された腕時計に一瞬視線を落とした。襲撃決行の予定時刻をわずかに過ぎていた。
だが、まだ何の動きもない。
”……まさか? 何か不測の事態が起きたということなの……?”
その時だった。パーティーの喧噪が支配する会場の中、かすかに聞こえた小さな音を、葉月は聞き逃さなかった。それは、手榴弾のピンを引き抜く音に、酷似していた。
”来た!”
葉月はとっさに、手にしていたカクテルグラスを手から滑らせ、床に落とした。
「きゃっ、すみません……」
詫びの言葉を口にし、慌てて片づける振りをして、テーブルの下に潜り込んだ。目をきつく閉じ、隠し持っていた耳栓を耳に押し込んだ。
耳をつんざくような爆音と、目を閉じていても分かるほどのまばゆい光が、会場を瞬時にパニックに陥れた。女たちの悲鳴と、男たちの怒号が混じり合い、阿鼻叫喚となった。
市販の打ち上げ花火の発射音に似た音が、次々と起こり、もうもうたる煙幕がパーティ会場を包み込む。そして、それに紛れた黒ずくめの襲撃者たちが、短機関銃の軽快な発射音と、青白い銃撃の閃光を伴いながら、パーティ会場になだれ込んだ。
無差別な銃撃は、逃げまどう者たちに容赦なく撃ち込まれた。視力と聴力をスタングレネードで奪われ、何が起きたのかも分からぬままに血とうめき声をまき散らして、その場にくずおれていく。
襲撃者の存在に”壁”たちが慌ててVIP席の周囲を隙間無く固めていく。しかし、スタングレネードによって半数が視力と聴力を失っていた。もがきながらのろのろと”壁”を作ろうとするが、襲撃者たちの銃撃に晒されて、瞬時にその数を減らしていった。
「会長を守れ!」
”壁”の一人が悲痛な叫びを漏らし、周とすぐ傍にいた葉月を包み込む。
「他の者も守らんか!」
顔を歪ませた周が”壁”に向かって怒号を浴びせる。
「無理です、我々もこれ以上は……」
そこまで言って、その”壁”も猛烈な銃撃を浴びて絶命した。血をまき散らし、ばたりと倒れ込んだ。
「バカな……」
苦虫を噛み潰したような周がうめくように言った。見る間に、”壁”たちがその数を減らしていく。
葉月は、決断を迫られていた。早く周を撃ち、この場から脱出しなければならない。ハンドバッグに手を滑り込ませ、ハンカチの下に隠したグロックを握りしめた。
「いかん、このままではやられてしまう。こっちに隠れよう」
周は葉月にそうささやくとソファを少しずらして、その後ろにかがみ込んだまま身を潜り込ませた。葉月も、周に伴ってソファの後ろに身を隠す。
「会長、これで顔を覆ってください」
床に転がっていたおしぼりを葉月は周に手渡した。煙を吸い込まぬよう、という配慮ではもちろんない。周に声を上げさせないためだった。
「すまんな」
葉月も、おしぼりを拾い上げて口を覆った。
まさに今、この瞬間が葉月にとって最大のチャンスだった。周を撃つなら、今をおいて他にはない。
葉月は、もう一度バッグの中のグロックを握りしめた。周を撃たねばならない。だが、なぜかそれをためらう何か、が葉月の胸を締め付ける。逡巡が葉月の行動を遅らせた。
最後まで生き残っていた”壁”の数人が至近距離からの銃撃を受け、一斉に倒れ込んだ。
「引き上げろ!」
広東語の叫びが、遠くの方で聞こえ、銃声が止んで襲撃者たちが退却していく気配があった。
「引き上げた……?」
周がささやき、ソファの向こうの様子をうかがう。血と硝煙の匂いが立ちこめ、負傷者の苦しげなうめきが幾重にも重なって聞こえる。
「もう……大丈夫なんですか?」
葉月はそうささやくとソファの影から顔を覗かせた。積み重なるように倒れている”壁”たちと、日本支社の男たち、そしてコンパニオンの女たちが鮮血にまみれて床に転がっているのが見えた。
「……無事なのは、わたしたちだけ、のようです」
無感情につぶやいて、葉月はゆっくりと立ち上がった。
「いかん、まだ危ないぞ」
言いながらも、周も葉月の後に続くようにソファの影から身を起こした。
「なんてことだ……。まさか、日本で、東京でこんなことになるとは」
予想外の場所で襲撃されたことの衝撃からか、よろよろと歩く周の姿は、香港を闇で牛耳る大ボスには見えなかった。葉月の横を通り抜け、倒れている死傷者の姿にがっくりと肩を落とす。
煙幕の煙が、徐々に晴れて行きつつあった。もはや、これを逃せば、葉月にチャンスはない。
目を閉じ、ためらいを懸命に打ち払って、葉月はゆっくりとグロックをバッグから取り出した。
”これが、わたしの仕事なんだ、わたしは、ずっとこうやって生きてきたんだ!”
「会長……申しわけ、ありません」
グロックを構え、銃口を周に向けて葉月は吐き出すようなうめきを漏らしていた。
「なに……」
葉月の声に、視線を向けた周は驚愕の表情で立ちつくした。
「……君は、君は一体……」
自身の胸を締め付ける重苦しい感覚に葉月は軽い吐き気を覚えた。グロックを握る手に必要以上の力が入っていることに気付いて、一度だけ、葉月はグロックを握りなおした。
「申しわけ、ありません、会長」
もう一度ささやいて、葉月は二度引き金を引いた。サイレンサーが装着されたグロックが、人が咳き込むのにも似た発射音を立て、火を噴いた。
「がっ……」
周の腹部に、赤い鮮血の花びらが二つ咲いた。腹部を押さえ、膝を折った周がその場にひざまずく。
後一発。とどめの銃弾を撃ち込めばいい。葉月の銃口が周の額に狙いを定めた。
「動くな」
クールな男の声。そして視界の端に映った鈍く、黒光りした物に気付いて、葉月は身動きが取れなくなった。その気配をまったく感じ取れなかったことに驚愕する。
「銃を床に置け。手を挙げてゆっくりとこっちを向くんだ」
葉月は、その男に視線を向けぬまま、ゆっくりとグロックを床に置いた。声のする方に背を向けたまま、葉月は両手を挙げて頭の後ろで重ね合わせた。そして、振り返りながら髪留めを引き抜き、スナップさせる。まとめられていた長い髪がふわりと広がり、仕込まれた刃が鞘走るかすかな音と合わせるように、身をくねらせて背後の男に斬り掛かった。
見えない銃口をイメージして、避ける。
乾いた炸裂音と、弾丸が身体のすぐ傍をすり抜ける音が葉月の背筋を凍らせる。それはまさに奇跡の瞬間だった。葉月の反撃に、背後の男はとっさに銃でその刃を受け止めた。
金属と金属が擦れあう鋭い金属音、そして。
「ん……!」
「くっ!」
衝撃で葉月の振りかざした髪留めが跳ね飛んだ。だが、その隙に葉月は床に転がり、先ほど置いたグロックを再び掌中に収めていた。かすかに煙幕が残る中、片膝立ちで男に銃口を向ける。
背後にいたのは、ウェイター姿の長身の眼鏡の男だった。殆ど同じタイミングで、互いに銃口を向けあう。
そして、二人の動きが止まった。
その時初めて、葉月は自分が銃を向けているのが誰なのかに気付いた。
驚愕に目が見開かれ、得体の知れぬ恐怖感に苛まれて、葉月は無意識のうちにその相手の名をつぶやいていた。
「潤……雄」
なぜ、なぜ彼がここにいるのか。
あり得ない事態が目の前に展開することの驚愕と衝撃に葉月は全身から力が抜けそうになった。そしてそれは恐らく、潤雄も同じだっただろう。
「葉月……? 葉月なのか? なんで……」
呆然とつぶやいて、ずれた眼鏡を潤雄は銃を構えたまま自分の顔からはぎ取った。
「なにをしている、撃て、撃て!」
あの咳き込むような独特の発射音とともに、2発、着弾が潤雄の足下に起こった。
葉月も潤雄も、我に返ったように声がした方を見た。少し乱れた服装の安田が、銃口を向けながら恐ろしい形相で飛び込んでくるのが見えた。
潤雄は床に転がりながら、安田に向けて銃を撃った。
「やめて……やめて、潤雄、やめて!」
叫びながら、葉月は闇雲にグロックの引き金を引いた。咳き込むような音の後、遊底が中途半端な位置で止まった。
”ジャミングした?”
狙いを定めなかったのと、倒れていたテーブルの陰に潤雄が隠れたために弾は当たらなかった。葉月はグロックをその場に捨てると脱兎のごとく走り出した。
「オーガストムーン!」
怒りに満ちた安田の叫びが葉月の背を打った。が、安田もすぐに葉月に続いて、会場を抜け出した。
これ以上この場にとどまることは得策ではなかった。”ハンター”は潤雄だけではないはずだ。
襲撃の混乱に乗じて二人は無事に地下の駐車場までたどり着いた。
「すみません、すみません、でも、わたしには、わたしには……」
安田の車に飛び込むように乗り込んで、葉月はうわごとのようにつぶやき続けた。甲高いスキール音とともに安田のスカイラインが急発進した。安田は何も言わず、車を走らせ続けた。
Nシステムを避けるように裏道を幾度も曲がり、走り続けて20分ほどで、安田の車は古びたマンションにたどり着いた。
虚ろな表情の葉月は、安田に促されるままにそのマンションの一室に入った。
安田は後ろ手にドアを施錠すると、ふらふらと室内に入った葉月には目もくれず、キッチンに入っていった。
ややあって、コップに注がれたアイスコーヒーを二つ持って現れた安田は、その内の一つを部屋の中央に立ちつくす葉月に渡すと、勢いよく飲み干した。葉月も、からからに渇いた喉を潤すため、安田ほどの勢いではないがコップの中身をほとんど飲んだ。
疲れ切った表情の安田は、しばらく何も言わず、タバコに火をつけて深々と吸い込んだ。
「……なぜ、あの男を撃たなかった? あの男は”ハンター”だった。なぜだ」
安田の言葉に、葉月は虚ろな表情のまま顔を上げた。
「……答えられないか。そうだろうな。あの男が、お前が言っていた”友達”なのだな?」
安田の問いに葉月は何も言えなかった。脚が震え、力が抜ける。へなへなとその場に座り込んだ。
安田はタバコを灰皿にねじ込んで消すとつかつかと葉月に歩み寄った。見下ろすようにしている安田は、10年は老け込んだような顔になった。
「だから、言ったろう。お前に、友達などは必要ないと」
静かな口調でささやきながら、安田はへたり込んだ葉月の頬を平手打ちした。鋭く、熱い感触と痛みが走る。勢いで手にしていたコップが転がり、中のコーヒーが床にこぼれる。声を噛みしめて、葉月は打たれた頬を押さえた。
「まさか……。あの男に作戦のことを話したのではないだろうな? 作戦のことを嗅ぎつけてお前に近づいた可能性だってある。どうなのだ!」
安田の咆吼に葉月は何も言えず、首を振るだけで精一杯だった。声を荒げたことで少し冷静になったのか、安田はすぐに視線を落とした。
葉月が潤雄と知り合った時点ではこの作戦のことなど突き止めようもないはずだと気づき、安田は一人呆れたような表情になった。
「こんな馬鹿なことが起きるとはな。偶然というのは……恐ろしいものだ」
つぶやいて床にへたり込んだ葉月を虚ろな視線で見つめる。
「……結局、周大栄にとどめを刺すことはできなかった。しかもお前と私は奴に顔を見られた。作戦は失敗した」
安田は冷徹な口調でそう言うと、上着のポケットから銃を取り出し、葉月に銃口を向けた。葉月が使用したものと同じグロック26だった。
「我々はもう終わりだ。周の組織は徹底的に我々を追うだろう。面の割れた暗殺者など、何の役にも立たん」
そう言って、安田は力なく笑った。
「……いや、お前にはまだ価値はある。まだお前は顔をいじったことがなかったな。だが、あの男と出会って壊れてしまったお前を今のまま使い続けることなど、あり得ないことだ」
虚ろな口調でささやく安田の姿を葉月は何も言わず凝視し続けていた。
「壊れてしまった人形は、ちゃんと元に戻さねばな。それが私の最後の仕事のようだ」
ぐるぐると、安田の言葉が葉月の頭を巡る。だが、葉月の思考能力は衝撃的な事態の連続に耗弱して、正常な思考能力を失っていた。
ぱくぱくを口を動かし、死神のように眼前に立つ安田を呆然と見上げることしかできなかった。
もう一度、安田の平手が葉月の頬を打った。口の中が切れ、血の味が口中を支配する。
「オーガストムーン。お前の心を空っぽにしてやろう。自分がただの人形だということを、お前の身体にもう一度たたき込んでやる。あの男のことなど、忘れるほどにな」
安田は冷酷な口調でつぶやくと銃口を直接葉月の頭に突きつけた。固く、冷たい感触が触れる。
「あっ……ああぁ」
怯えた子供のように両手で口元を覆った葉月は、身動きすることもできず、しゃがみ込んだ安田に怯えた視線を向けることしかできなかった。
葉月の頭に銃口を突きつけながら、安田は空いた片手をへたり込んで露わになっている葉月の太ももと太ももの間に滑り込ませた。
「いやっ……」
かすかに抵抗の意志を言葉で表したものの、銃口を突きつけられている葉月は指一本動かすことができなかった。滑り込んできた安田の手のひらが、それでも閉じようとする葉月の太ももをこじ開け、下腹部にあてがわれる。ひんやりとした安田の手の感触に、自然と身体が震えた。
「さっき飲んだコーヒーに何が入っていたか考えなかったのか?」
安田の口調はあくまでも冷静だった。口調と同様、冷静な指の柔らかく巧みな動きが、刺激となって葉月の身体に襲いかかった。
「えっ……! あっ、んんぅ」
すぐさま起こった自分の身体の変化に葉月は安田の言葉の意味を悟った。下腹部を中心に身体がかっと熱くなり、葉月の中の”牝”の部分が頭をもたげて目覚めていくのが分かった。
任務のときいつも使用していたあの”クスリ”を飲まされたと気付いたときにはもはや手遅れだった。秘所のあたりを這うようにうごめく安田の指先は、ショーツ越しでも的確に葉月の快楽を引き出しはじめていた。
「くうん……っ、あぁ、あ、あんっ」
ビクン、ビクンと身体が震え、快感に反応して腰が揺れてしまう。
「いつもより効き目がいいだろう。いつもの3倍の量だからな」
安田の指先が秘所を中心にえぐり込み、なぞるような動きに変わっていた。下腹部がその動きに反応して、ぎゅぎゅ、と幾度も収縮し、奥底から熱い官能のしるしが溢れそうになるのが分かった。
「四つんばいになるんだ」
安田の命令に葉月はのろのろと従った。”クスリ”の効果が引き出した”牝”の本能に葉月は抗うことができなかった。
「今から、お前を犯し尽くす。快楽と屈辱にまみれて、人としての心など幻なのだということを自分の身体で思い出すがいい」
ドレスの裾がめくりあげられ、葉月の下半身が剥き出しにされた。”クスリ”の効き目なのか、拒絶しようとする葉月の心は安田の冷酷な言葉とせめぎ合い、そしてそのことがかえって被虐の性感に葉月を落とし込んでいた。
ショーツが引き下げられ、葉月のすでに淫裂と化した亀裂と、淡いチョコレート色のすぼまりがさらけ出される。
あてがわれた安田の指先が、葉月の淫裂をさらに拡げて、弄ぶ。淫液をかき混ぜる水音に被虐心を揺すぶられ、葉月は子犬のようにうめきをあげた。早くも腫れ上がりはち切れそうになった秘心がこね回され、指先で弾かれる快感が閃光のように葉月の身体を駆けめぐる。
「やっ……やめて、くださ……いっ、あ、あ、ああっ」
かろうじて拒絶の言葉を漏らすものの、それを打ち消すような熱い感覚が葉月の下半身の奥底を幾度も収縮させた。
「やめる? こんなに淫らに身体が反応しているのにか?」
ぬめり気を絡ませた安田の指が、2本同時にねじ込まれた。
「あああっ」
鈍い痛みはすぐさま激烈ともいえる快感に変換された。緩やかに曲げられた指の腹が、一番感じるポイントを探し当て、押しつけるように擦るのが分かった。
「あっ、あっ、ああっ、やっ、んっ、くぅぅ」
吐息混じりの鳴き声を上げながら、力が抜けて腕で上半身を支えきれなくなっていた。自然と腰を突き出し、掲げるような体勢になってしまう。
「いい格好だな。そうだとも、お前はこういうことをするために生まれてきたんだものな」
朦朧とする葉月の意識の中に、呪文のような安田の言葉がくさびのように打ち込まれていく。
「いやぁ、ああ、あぁんっ、あっあっ……!」
そして、葉月は自然と快楽の頂点に導かれていた。安田の指を受け入れた部分がじんじんと痺れて熱い感覚が広がっていく。腰が鋭く震え、そしてたぎった肉壺からは熱い淫潮がほとばしっていた。
「あっ、あ、あぐぅぅぅ」
床に顔を押しつけるようにして、獣のように声が漏れる。
すっと安田の指が引き抜かれるのが分かったが、葉月は力なく、そのはしたない姿勢のまま快楽の余韻に包み込まれていた。
”わたしは……”
安田の言葉がぐるぐると頭を駆けめぐり、他には何も考えられなくなっていた。
「お前を、こうして抱く羽目になるなど、思いもしなかった。お前が、お前が悪いのだ、オーガストムーン」
葉月が冷静であったなら、安田のつぶやく言葉に隠された悲痛な響きに気が付いただろう。だが、今の葉月にはそれを理解することすらかなわなかった。
”わたしが、わ、た、し、が、わ、る、い”
かちゃかちゃと慌ただしく安田が服を脱ぐ音が聞こえた。ややあって、熱く固い肉の塊が葉月の淫裂にねじ込まれ、差し貫かれる。ぷちゅっ、と淫液が溢れる感触と、葉月の中の”牝”が待ち望んでいたものの到来に全身が震える。
「あ、あんっ!」
一気に葉月の奥底まで押し込まれたものを、葉月の淫裂が絡みついて受け入れる。柔らかな安田の手のひらが、力強く葉月の突き出された腰を抱え、そして揺すぶった。
「はあぅ……んっ、あっあっあっ、あああっ」
リズミカルで規則正しく、力強い抽迭が葉月の淫裂を突き上げる。かき混ぜられた淫液の水音が、泡立つほどの激しさをその淫らな音で表していた。
ビクン、ビクビクンッ……と小刻みに葉月の身体が震え、そして快楽のるつぼに落ち込んでいく。
「私も、”クスリ”を飲んだからな。でなければこれほどに……んぅ」
かすかに熱を帯びた安田のささやきが背後から聞こえる。荒い呼吸音が、葉月のそれと混じり合い、重なり合って空間を支配する。
初めて受け入れた安田の分身の熱く固い感触に全身を貫かれる錯覚を覚えながら、葉月は数回、小さく達していた。
「あ、あ、ああっ! あっ! あっ!」
ビクンッ、ビクビクンッ、と身体を震わせ、顔をのけぞらせて葉月は絶頂の悲鳴を漏らしていた。
「いい声だな。あの男にも、その声を聞かせたのか?」
安田の言葉は、葉月の脳裏に潤雄の笑顔を思い出させた。
かすかに蘇る理性が拒絶の意志を現そうと身体をもがかせる。
「ンくぅ……」
荒々しく息を吐き出しながら、葉月は身をくねらせた。しかし、のろのろとした動きは何の抵抗にもならなかった。
「いやっ……んぁぁっ! あ、あん……あんっ!」
葉月のささやかな抵抗をものともせず、安田は引き続き葉月を犯し続けた。激しく、鋭さを増した抽迭にリズムを合わせるように、自然と吐き出される葉月の絶叫にも似たうめきが漏れ続ける。
「あ、あ、あんっ、やっ、あ、あああっ」
淫裂の奥底をえぐるように突かれ、幾度も痙攣する安田の分身を実感して、葉月の”メス”の本能が肉体を震わせる。絡みつき吸い付く肉の顫動は、深い快楽の頂点に二人を導いていた。
「ぅおおぅ」
「んあ、あ、ああああっ」
安田の放つ精が葉月の奥底で爆発する。熱いものが広がって、そして熔けるように消えていく感覚。
「はぁ……ん」
ぐったりとなった葉月から、安田の熱いものが抜き取られる感覚があった。汗なのか、淫液なのか分からぬ何かがぽたり、と垂れ落ちる音が幾度も重なり合う。
「惨めなものだな。お前がなにを思おうと、お前はこうやって男たちに犯され、嬲られて人を殺す。それがお前の人生だ。男たちの血と精にまみれて生きるしかないんだ」
安田の声は、荒い息づかいにまみれていた。
「分かるか? オーガストムーン」
再び、安田の分身が葉月の下半身にあてがわれる気配があった。だが、そこは今まで安田の分身がねじ込まれていた部分とは、違う場所だった。
「あの男にも、ここを使わせたのか? ふふ……そうか。普通の女は、ここをそういうことには使わないものな」
淫裂のすぐ傍にある排泄のための器官。淡いチョコレート色をしたすぼまりに熱く固いものが触れる感触に、葉月は朦朧としたまま安田に顔を向けた。
怯えが、葉月の全身に走り身体をもがかせる。だが、脱力した身体は葉月の思い通りには動いてくれなかった。
「……ぁ、い、いや……」
かすかに拒絶のうめきを漏らしたが、それは何の意味もなかった。
「言ったはずだ。お前を犯し尽くすとな」
安田の冷酷な声は、すぐさま行動に移されていた。
「あ、ああ、あぐぅぅぅっ!」
淫液にまみれた安田の分身は、鈍い痛みとなって葉月のすぼまりにねじ込まれた。悲しいことに、そんな異常な行為に慣れていた葉月の身体はそれを易々と受け入れていた。
「あっ……ああああっ」
まさに内臓をえぐり込まれる感覚は、痛みと熱い快感に変化して葉月に襲いかかった。コツを心得た安田の落ち着いた抽迭は、葉月の身体に背徳の快楽を与えて狂わせる。
「気持ちいいか? そうだろうな。お前の身体はこんなことすらこなすように訓練されているのだからな」
荒い息づかいにまみれた安田の冷酷な言葉に嬲られ、葉月は何も言えずただ、苦痛と快楽の混じったうめき声を漏らすことしかできなかった。
「ああ、ああ、あ、あぁんっ、あんっ!」
排泄の器官を犯されてなお、快感に酔う自分を呪うこともできない葉月の頭が真っ白になる。長い髪が床に垂れ、顔にまとわりつく。
「はぁぅ、あぅ、あぐぅ、あ、あ、あああああっ!」
腹の底から絞り出されるような自分の声が、ほこりくさい床に吸い込まれる。
「これで、分かった、だろう、お前は、こういう存在なのだ。あの男が、あの男がこんなお前の姿を見てもなお、お前に愛をささやくと思うか」
遠くの方から、朦朧とした葉月の耳に安田の声が聞こえる。視界がぼやけ、熱い何かが目の端から溢れていくのが分かった。
”わ、た、しは、わたし、は……”
頭を支配する白いなにかが全身を包み込んだように思えた。全身が痺れ、思考能力が失われていく。
過去の思い出が、鮮やかに蘇っていく。
(いい名前が思いつかない? そうか。では、葉月、と名乗るがいい)
(お前のコードネームから取ったものだ。日本では八月を古い言い方でそう言う)
(葉月)
(葉月)
(いい名前だね。僕は、李潤雄)
(普通じゃないなんて思わないよ)
(君が過去に何をしてたって、僕には関係ない)
(こういうことが出来る分だけ、嫌な思いや悲しい思いをしたんだろうなって。僕はそう思った)
(気にしなくてもいいよ。僕は)
(僕は)
(君を愛してるんだ。だから、もう泣かないで)
安田と潤雄の優しい言葉が葉月の脳裏にこだまし、そしてあの優しい笑顔が、見えた。
”潤雄……! 潤雄、ゆんふぉん!”
「あ、あ、あああああああああああっ!」
葉月の絶叫と身体のうごめきが一体化した。安田の分身を締め付ける動きが一段と激しくなる。
「んんっ、おおおっ」
安田のうめきが鋭さを伴った。戸惑ったように抽迭が一瞬やみ、そしてびくびくと分身が震える。
「おおお、っぁああ」
次の瞬間、安田は頂点に達していた。再び、熱い何かが葉月の中で爆発する。
そして、その瞬間が隙となった。失われかけていた葉月の中の、何かが鮮やかに蘇る。
頂点に達し身体を震わせる安田から身体を引きはがすと、葉月は脱力した安田からグロックを奪い取った。
「……わたしは、わたしは人形じゃないっ」
うめく葉月の手の中で、咳き込むような音が2回、連続した。
「何ッ」
下半身を剥き出しにしたまま、信じられない物を見る表情の安田の胸に、赤い鮮血の花びらが二つ、咲いた。
「……バカな。お前は……」
大量の血を溢れさせながら、安田はゆっくりとその場にへたり込んだ。胸を押さえ、口からも血を噴き出す。
「安田……さん」
震える声で、葉月は安田の前に跪いた。とっさのこととはいえ、自身のしでかしたことの重大さに気付き、呆然となる。
「ごめんなさい……。わたしは、でも、わたしは……」
つぶやく葉月に、しかし安田は穏やかな表情に変わっていた。
「ふふふ。やはり、こう……なったな」
葉月は驚いて顔を上げた。安田の顔は、真っ青になっていた。
「安田さん! すぐに、医者に」
「馬鹿な、ことを言うな。どのみち、私はもう助からん」
葉月の言葉に安田は苦笑して首を振った。
「ここから、急いで立ち去れ。そこのデスクの上に……ノートパソコンがあるのが見えるな? それも……持って行け。……これからの、お前の戦い、に役立つデータが入って、いる」
「安田……さん」
すこし冷静さを取り戻した葉月は表情を歪ませた。訳の分からない喪失感に苛まれて言葉が出ない。
「”ルージュ”……と”ノワール”の所に行くがいい。……彼女たちは、CIAとは、何の関係もない。彼女たちなら……お前の力になれるだろう。これからの」
葉月は、立ち上がるとデスクの上の黒いノートパソコンとACアダプタをそばにあったバッグに詰め込んだ。もう一度安田に視線を向ける。だが、なぜか歪んでぼやける視界はそれを許さなかった。
”わたしは……泣いている、のか”
熱い涙が溢れる。手のひらで拭って、葉月はきっぱりと顔を上げた。乱れた服装を直し、髪を手で梳く。
「待て。忘れ、物だ」
息も絶え絶えの安田が葉月に何かを差し出した。車のキィだった。
「早く、行け。スカイラインは……CIAのデータベースに、登録されて、いないはずだ。しばらくの間なら……使えるだろう。行け」
安田はそう言ってすっと目を閉じた。
安田からキィを受け取り、葉月は振り返らず、マンションを出た。早足で階段を駆け下りた。
部屋に一人取り残された安田は、のろのろとポケットに手を入れた。血まみれの手で携帯電話を取りだし、開く。
待ち受け画面には、小学生くらいの少女の姿が映っていた。その笑顔を見て、安田は穏やかに微笑んだ。
アドレスを開いて、ある番号を発信する。それは、携帯電話を利用した自爆装置のスイッチだった。
スカイラインに乗り込んだ葉月は、エンジンをスタートさせるとシフトレバーを操作して車を発進させた。マンションの駐車場を出たその時だった。
腹の底まで響くような、重い振動と爆発音がした。思わず車を止め、背後を振り返る。さっきまでいた部屋のあたりから、夜の闇に煌々と輝く爆炎のきらめきと、そしてもうもうたる黒い煙、飛び散る破片が地上に降り注ぐのが分かった。
「……安田、さん」
一瞬絶句して、葉月は呆然とそれを見つめていた。すぐに、思い直したようにハンドルを握り直し、スカイラインを発進させた。
(AugustMoon・第3話 終)