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Ver3.? |
Ver3.? |
身長 |
ロードの力量により変化 |
体重 |
ロードの力量により変化 |
構成素材 |
青銅 |
短剣の正体 |
別次元より流れ着いたタロスの欠片 |
欠片の今 |
劇用の小道具として加工されていた |
製作者 |
ヘパイストス |
イラストレーター |
Kotakan |
フレーバーテキスト |
『塵の町の勇者』
『――なぜだ!? なぜ君はそう無茶をしたがる! ここで終わっても良いというのか!?』 『……オレも死にたくはないさ。確かにお前の言う通りだ。このまま<九葉の魔女>とやりあえば殺されるのかもしれない。けれど、何もしなければ“今は”変わらない』
――だからよ、“普通”は死んだら終いなわけだろ? テメェは勇者で飯にも困らねぇ。少し我慢して生きりゃ、死ぬってこともねぇだろうが。なのになんでそうまでして“今”を変えたいんだよ。
『馬鹿な……グレイグル、君からも言ってやってくれ!』 『無駄だな、ハイレイン。そいつは言い出したら聞かない。口だけで「死にたくない」という死にたがりは、そのまま死なせてやる方がいい』
――賛成だぜ。そんなやつは迷惑だから、とっとと死んじまった方が食いもんが減らなくていい。 締め切られた薄暗い「芝居小屋」――顔にままそう書いてあるような仏頂面を浮かべた赤い髪の少年が、積み上げられた道具箱の上に腰を掛け、頬杖をついている。映写幕に映し出された影人形たちの演じる物語を見つめるその瞳は、左目だけが仄かなランプの明かりを受け、薄闇に浮かび上がるように赤い光を返していた。
『はは、まいったな……二人とも、どう言えばわかってくれるのだろうか』
――テメェがわかってねぇんだよ。
少年は鼻にシワを作ったまま、劇場で売られている味気のない焼き菓子を、袋から乱暴に掴んで口に放り込む。
『わかるわからないではない! 君が死んだら民は希望を失う、私はそう言っているんだ!』 『そうかもしれないね……だから――』 ――で、“そこ”なんだよ。“だから”――。 「だから――」 真横から声がした。 「――来るときは声を掛けてね、って言ったのに」 見ると、いつの間にか少年の横に女が立っていた。 歳の頃は丁度少年の母親くらいであろうか。女は顔にかかった美しい紫銀色の髪を、たおやかな仕草で耳によけ、少年の顔を覗き込んでにこりと微笑みかけた。 「………」 しかし少年は、冷めた目で女を一瞥すると再び影絵芝居に目をやり、特に返事をすることもなく無言で菓子を頬張り続ける。 「このお芝居、好きなの? 私も好き――ねぇ、良かったらそろそろお名前教えてくれない?」 やはり返事はない。少年は映写幕に目を向けたまま、さらに菓子袋に手を入れ―― 「おい、何してるんだ?」 ――ようとしたところで、ググッと腕を上に引っ張られた。 少年が見上げると、小太りな男が引きつった笑みを浮かべて少年の腕を掴み上げていた。 「楽長、困りますよ。こいつ見つけたら教えてくださいって言ったじゃないですか」 「あの、ヨウハさん、手荒なことは……」 「もうすぐ幕間演奏ですよ。行ってください!」 「はい……ごめんなさいね。明後日が最終公演だから、今度は勝手に入ってこないで私に声を掛けてね」 女は後ろめたそうに何度も振り返りながら舞台袖へと去っていく。しかし少年は女の声などまるで耳に入っていないかのように、忌々し気に幕を見つめたまま舌を打った。 「……ちっ、また“ここ”かよ」 「“また”だぁ? そりゃこっちの台詞だ。何度も何度も忍び込みやがって。おまけに菓子まで盗んでやがる……来い! 裏で鞭を打った後、今日こそ役人に突き出してやる!」 男が演目の邪魔にならぬよう殺した声でいきり立ち、少年を道具箱から引きずり下ろそうと腕に力を込めたところで、 「面倒くせ……」 少年は小さく呟いて飛び上がり、くるりと器用に空中で回転し掴んだ男の手を外した。そして素早く菓子を口に入るだけ頬張ると、残った菓子を握り崩して男の顔面に叩きつける。 「うわっ!」 菓子の粉が目をに入り、たまらず手で覆った男の顔に、再び飛び上がった少年の蹴りが打ち込まれる。男は鼻から赤いものを噴き上げてもんどりうった。 小屋中に響きそうな程に派手な音がしたものの、同時に始まった演奏の大音量にかき消され、芝居小屋の片隅で起きているこの騒動に気付く観客はほとんどいない。 少年は小さくため息をつくと、散らばった菓子の、まだ食べられそうな大きさの欠片をいくつか拾い上げ、天幕の隙間から走り去って行った。
* * * *
芝居小屋の天幕が設置された広場を囲う小綺麗な円通りを抜けて、精緻な彫刻がちりばめられた家屋群の裏に回ると、その陰に人気のない空間がぽっかりと口を開けていた。 猫のように身軽に壁の上を伝いそこに降り立った赤い髪の少年は、周囲を警戒するように見回した後、足元の石畳を二枚外す。そしてそこに空いたまっ黒な穴を覗きこみ――ふと、思い立ったよう懐に手を入れて確かにそこに何かがあることを確認すると、躊躇なく穴の中へと飛び込んだ。 穴の底には、暗い地下水道が広がっていた。 水路には様々な汚物が浮かび、異臭と、開けているだけで目に沁みる澱んだ空気が充満していた。どこかで、水路に浮かぶぱんぱんに膨れ上がった動物の死骸が破裂し、プシュウとガスの抜ける音とともにブクブクと水中に悲しく没していく音が聞こえる。 しかし、少年はそれらのどれを気にする様子も無く、ただ慣れた道を行くが如く走り始める。 途中、水路の片隅に転がる黒い塊がむくりと起き上がり、 「おーぅい、小僧、帰りかぁ? 何か盗ってきたなら恵んでくれよぉう……ヒヒ、何も無けりゃおめぇが相手してくれてもいいぜぇ」 と、下卑た笑いをこぼして話しかけてくるが、やはり少年は反応することなく、ただ繰り返す日常の所作をこなすように無心で駆けていく。 しばらく行くと、光が差す水道の出口へと着いた。 ドボドボと排出される汚水が流れ落ちる先――そこには、落ちかけた夕日の光で燈色に染められた、瓦礫と、腐臭と、ゴミの山、そして木切れや布で作られた粗末な小屋が立ち並ぶ貧民街が広がっていた。 そこはレムギア大陸の南方、『商業都市アルギア』の陰――交易でにぎわう煌びやかな栄華の街から染み出た、あらゆる汚泥が流れ着く先――『裏町』と呼ばれるこの都市の最下層であった。 少年は排水口から飛び降りると、瓦礫の山を器用に飛び越えて、人気の無い路地裏へと入り込む。そして、注意深く周囲を見回して誰もいないことを確認すると、懐からごそりと何かを取り出した。 手にしていたものは、銀色に輝く短剣。 少年は芝居小屋から盗み出してきたそれをしげしげと眺めたり、掲げて夕日の光に照らしてみたりする。そしておもむろに口を開けると、ガリリと刃先を噛んだ。 見ると、噛んだ箇所の鍍金が剥がれ、下から青銅の下地がのぞいている。 「……クソ、作り物かよ」 すぐさま短剣を壁に向かって思いきり投げてみる。しかしつぶれた刃先は、役立たず宜しく壁に刺さることすら無く、大きさの割に重い音を立てて虚しく落ちただけだった。 少年は小さく舌を打ってどかりとその場に座り込み、今日一日の稼ぎであったはずの、寂し気に転がる短剣を無感情に見つめた。 ふと、少年が右目をすぼめ、左目を凝らした。 短剣をじっと見つめる左目が、この路地裏には届かぬ夕日の如く赤く輝いている。 「……あ」 少年には生来の不思議な力があった。「命」を見、宿す力――誰にそう教わったわけでもないが、少年は何となしに自身の力をそういうものだと解っていた。そして目の前にある短剣は、少年の左目にその「命」を示す鈍く白い光を帯びて見えていた。 「久しぶりに……やってみっかな」 座ったまま短剣に向かって手をかざし、いきむように力を込める――すると、短剣の帯びる光が赤く変色していき、爆発のような閃光を発した。 「何だ、これ……」 光が収まると、そこには少年の半分ほどの背丈の、青銅の人形が立っていた。 人形は少年の方を向き、目玉の無い穴の開いた眼でじっと少年を見た。 「何なのおまえ……?」 人形に近づいて目の前でしゃがみ込み、まっ暗な目の穴を覗き込みながら尋ねるも反応はない。 「ちっ、なんだよ」 そう言って少年は立ち上がり、苛立たし気にその顔面を蹴り飛ばそうとしたとき、 ――ブォン!! 人形は素早く拳を振るい、少年のくるぶしを思い切り殴りつけた。不意の抵抗にバランスを崩した少年が尻餅をついて倒れる。 「いって! こんの……」
「――よぉ、何かガチャガチャやってんなぁ。いいもんでも見っけたかぁ?」
突然、路地の奥から声がした。 「……やべ」 少年は手をかざして人形を短剣に戻し、急いでそれを拾いあげると後ろを振り向く。 すると、既に陽が落ちて暗がりとなった路地奥から、黄ばんだ歯をむき出してニヤニヤと笑みを浮かべた二人の男が現れ、ゆっくりと歩み寄ってきた。 「“壁向こう”に行ってきたんだろ? そいつが今日の獲物か?」 「………」 少年がさっと背に短剣を隠す。 「おいおいおい、そりゃねぇだろ“赤髪”……俺ら持ちつ持たれつの仲じゃねーの」 「ほらよぉ、面倒くせぇことしてねぇで、とっととそれ寄こしなぁ」 歪んだ笑みを浮かべながらにじり寄る男たち。 少年は口をつぐみ下を向いていたが、ぐっと体に力を入れて男たちを睨むと、 「たかるなよ、蛆虫野郎」 と短剣を構えた。 「あ、それが今日の戦利品か? すげぇな、それ持って強くなっちゃったかぁ」 「マジかよ赤髪ぃ、俺たち殺されちゃうのぉ?」 「今日は機嫌が悪ぃんだ――いつまでもなめてんじゃねぇぞ、ダボが」
* * * *
「ちっ、なんだこれ。こんななまくらじゃ売れやしねぇぜ」 男の一人は短剣の刃を指で撫でたり、弾いて音を聞いたりしていたが、弄ぶのに飽きると無造作に投げ捨てた。 「でもいいや、おめぇが楽しく遊んでくれたしな。ほんと、おめぇは“楽しい体”してるよ。この町にゃ色んなもんが流れてくるが、おめぇはそん中でも飛び切り変わってるぜ。いくら刺そうがぶっ叩こうが、まったくもって死にゃしねぇんだから。その内おめぇみてぇなのを買ってくれる物好き見つけてよ、ここよりはマシな場所へ売っぱらってやるよ」 「はは、そりゃいいや。一人は寂しいもんなぁ。そしたら感謝するんだぜぇ?」 男たちはそうせせら笑いながら立ち去った。 あとに残されたのは、ぼろぼろになって倒れ伏す少年一人――。 体中に、普通の人間であれば死に至ってもおかしくない重傷を負っていた。しかし驚くべきことに、その傷が見る間に人には見えぬ赤光を放ち、修復されていく。 既に“こういったこと”には慣れっこだった少年は、今の状況に何の感慨も無さげに、ただ伏せたままぼんやりと落ちた短剣を見つめ、 「……たくよぉ、テメェがもうちょい使えりゃあいつら殺れたのによぉ……オレは“終われねぇ”んだから、テメェが頑張れよ…………勝手に治りやがって、ムカつく体だぜ……」 そうつぶやいて、ごろりと仰向けになる。 「面倒くせ……もう、ここでいいや」 組んだ腕を枕にして見上げた空には、寒々しい黒が広がり星が瞬き始めていた。 ――星と言や、『ハイレイン』が言ってたな……。 人は死ぬと星になり、故に星には一つ一つの物語があるという。もし自分が死を迎えたら、それはどんな物語になるのだろうか。でも死ねない自分はこのまま星にもなれず、地面を這いずり回るしかないのだろうか――少年はぼんやりとそんなことを考えていたが、急に路地に吹き込んだ冷たい風に思考が途切れ、身を震わせた。 「腹減ったな……あれもうすぐ終わりだっけ……あの続き、どうなんのかな」 そうしてそのまま目を閉じ、身を縮こませて眠りについた。
* * * *
夜の広場に浮かび上がるように照らされた芝居小屋では、厳かな花火が打ち上げられ、華々しく掲げられた「最終公演」ののぼり旗がかがり火に揺れていた。 その明かりがつくり出す濃い物陰の中に、赤い髪の少年の姿があった。 少年は陰を辿り、そっと天幕の隙間に身を滑り込ませる。 舞台はまだ始まっていない。最終公演ということであったが、場内の客は思いの他まばらで静かだった。「珍しい異国の影絵芝居」という触れ込みに当初は人気を博していたものの、結局、新しいものが次々と流れ来るこの街にはそれほど馴染まぬ興行だったらしい。 少年は、いつものように眠りこけている販売員の様子を確認すると、そっと売店に近づき粗雑に並べられた菓子袋のいくつかをくすね、その場をあとに―― 「おいっ!」 ドン、と音がした。 振り返ると、商品が積み上げられた奥の暗がりに、ヨウハと呼ばれていた芝居小屋の男が角棒を地面に突き立て、引きつった笑みを浮かべていた。鼻に痛々しく張られた絆創膏が、その笑みをより引きつったものに見せている。 「やっぱり来たな。今日は少し早いじゃないか、えぇ?」 「……ちっ」 「くそっ、ふてぶてしいガキだよ!」 まったく怯む様子のない少年の態度に苛立った男が、角棒を振り上げ――。 「――止めなさい!」 女の声がした――見ると、舞台に続く仕切り布の傍に紫銀色の髪の女が立っていた。 「それ以上やれば、ベルヒアイル卿に伝えます」 「はぁ……楽長、私は何も悪いことはしてないと思いますがね?」 「ヨウハさん、二人分のお代を払うわ。だから、その子にゆっくり劇を見せてあげてくださらない?」 「あのですねぇ、こいつは盗人で、あの『裏町』のガキですよ? そんな汚いもんを客席に入れるわけには……」 男の抗議にも女の視線が揺らぐ様子はない。 男は二の句を告げず、恨めしそうにその強い視線を受け続けていたが、やがて諦めたように目をそらし、 「……わかりましたよ。あの方は我が劇団の後援者で、あなたはその“大事な預かり物”だ。そういう意味ってだけで許可しましょう。でも、今回だけですよ? 次の街でも同じようなことがあれば、私にだって考えがある」 と盛大にため息をつき、天幕の奥へと消えた。 女は強張らせた体を緩めると安堵したように息を吐き、 「ほら、いらっしゃいな。ご案内するわ」 と微笑み、少年を手招いた。
場内に入った女は、とつとつと離れてついてくる少年を他の客からは見えにくい、やや後ろの席に座らせ、自らもその隣に腰を掛けた。 初めて座った客席は、石や板、藁の上にしか腰を下ろしたことのない少年にとって、驚くほど心地が良かった。 小さな手で椅子の感触を確かめている少年を、女は優し気な瞳で見つめる。 「ねぇ、お名前、聞いていい?」 「………」 「私はエメリ――エメリ・アルベリーテというの。この劇団の楽長をしているのよ。ほら、劇の合間で音楽が流れるでしょう? ああいった曲を書いたり、演奏をしたりしているの」 しかし少年はやはり返事をせず、まだ何も映し出されていない映写幕を見つめるばかり――。 「ご両親はいらっしゃるのかしら?」 「……んで……」 「ん?」 「……なんで、俺に構うんだよ」 少年が、目をまっ直ぐ前に向けたまま言った。 女は、やっと少年が口をきいてくれたことに驚いたのか、逆に口をつぐんでしまったが、すぐに満面の笑みを浮かべて語り始めた。 「私にもね、あなたぐらいの息子がいるの。でも、私は悪いお母さんで、その子と一緒に暮らせない道を選んでしまったの……」 そう語る女の目は、少年に向けられているものの、何か別のものを見ているようで――。 「……だからかしらね、なんだか放っておけなくて……ううん、そんなのじゃないわね。寂しくて、誰かに、何か少しでも、息子の代わりに手を差し伸べさせてもらいたかっただけだと思うわ。ふふ、母親ごっこみたいなものね。迷惑だったかしら――」 「……ねぇよ」 「………?」 「親なんていねぇし、見たこともねぇ」 「……そう」 「だから、名前もねぇ」 「……そう、なのね……」 二人の間に落ちた沈黙を、映写幕を照らすために灯され始めたランプの柔らかな明かりが包みこむ。 「一人は寂しくない?」 「別に――むしろこんなクソなとこから逃げれんなら、死んででもなんでもいいから、とっととおさらばしたいくらいだぜ」 「そう――」 女は寂し気に目を伏せたが、 「――それなら、ますますこの舞台は最後まで見ていって欲しいわね」 と明るい声で言った。 「………?」 「私、“このお話が好き”って言ったでしょ? もしかしたらあなたのように一人になってしまうかもしれない息子にも、できればこのお話の主人公のように強くなって欲しいって、そう願ってるの。私は弱かったから……身勝手な話だけれどね」 ――強い? “あいつ”が? 開始の鐘がなり、舞台の幕が上がる。 「私は演奏の時間が来たら行くけれど……だから、良かったら最後まで見ていってね」 その後は、女も、少年も、ただ黙ってこの何度も繰り返し見た演劇を見続けた。
『――なぜだ!? なぜ君はそう無茶をしたがる! ここで終わっても良いというのか!?』 『……オレも死にたくはないさ。確かにお前の言う通りだ。このまま<九葉の魔女>とやりあえば殺されるのかもしれない。けれど、何もしなければ“今は”変わらない』 『馬鹿な……グレイグル、君からも言ってやってくれ!』 『無駄だな、ハイレイン。そいつは言い出したら聞かない。口だけで「死にたくない」という死にたがりは、そのまま死なせてやる方がいい』 『はは、まいったな……二人とも、どう言えばわかってくれるのだろうか』 『わかるわからないではない! 君が死んだら民は希望を失う、私はそう言っているんだ!』 『そうかもしれないね……だから――』
少年はいつもの仏頂面のまま、初めて目にする、ずっと見ることができなかったその続きに目を凝らし、耳を傍立てた。 そして、次第にその目が大きく見開かれ――少年は、拳を握った。
* * * *
『裏町』の排水口から飛び降りると、この間の二人組がいつものように黄ばんだ歯をむき出して少年を待ち構えていた。 「いよぉ、おめぇが出てくの見かけたからよぉ、わざわざここで待っててやったんだぜぇ?」 「そんで、今日こそ金になるもん盗って来たんだろうな? 夕飯どきは過ぎちまったがよ、食いもんでもいいぜ。とっとと寄こしな」 「………」 少年はおもむろに懐に手を入れると、いつぞやの短剣を取り出した。それを見た男たちは顔を見合わせ、大きな笑い声をあげる。 「けはは!! おい、おいおいおい! 何の真似だぁそりゃあ!?」 「そいつは“なまくら”だって教えてやったろうが――おめぇの体によ?」 浴びせられる嘲笑に少年は目を閉じる。 そして、すぅと深く息を吐き、 「――はは、まいったな……二人とも、どう言えばわかってくれるのだろうか」 と、ぎこちない笑みを浮かべた。 「はぁ?」 「どうしたおめぇ。俺らにやられすぎて、“あっち”の方に行っちまったか?」 「そうかもしれないね……だから――」 少年の短剣は、多くの物語の勇者がそうするように、高く高く天へと掲げられた。 「だからこそ、オレは死なない――いや、死ねないんだ!」 二人組は呆けた顔で少年の動き見つめ、少年は構わずに続ける。 「――なぁ、<九葉の魔女>を放っておくということは、人が“生きたいように生きられない”ということだ。“希望”さえあればいいのか? それは本当に“生きている”と言えるのか?」 少年はひと際高い瓦礫の上に飛び乗ると、舞台役者のように短剣を振り回し、びたりと男たちに向けた。 「生きたいように生きられないことを受け入れるな! “生きるという死”を受け入れるな! オレたちは、“生きるために生きるんだ”!」 「だから……何をほざいてやがる!!」 「ぐぅっ!」 これ以上付き合い切れぬとばかりに男の一人が放った投剣が、少年の腹に深々と収まり、赤い染みを作った。 しかし、少年は震える足で踏ん張り、無理やり顔に笑みを残して見せる。 「……ハイレイン、グレイグル……もう一度言おう。オレは死なない、いや、死ねない! ……えっと、なんだっけ……諦めたくない……負けたくない! オレの全身がこのままでは死ねないと……そうだ……ここで、この場所で、叫んでるんだ!」 少年を瓦礫から引きずり下ろし、叩きのめそうと思えばできた。しかしなぜか、その異様な迫力に飲まれ、男たちは少年の語りに見入った。 「ハイレイン、グレイグル……魔女と戦おう、オレ一人ではかなわないかもしれない――うわっ!」 だがそれも束の間――気を取り直した男がさらに放った投剣により、バランスを崩した少年が瓦礫から落ちる。そして立ち上がろうとしたところをもう一人の男が押さえつけた。 「いい加減黙りなぁ、赤髪ぃ!」 「ぐっ……お前たちとなら…きっと勝てる! オレひとりでは……そう思えなかったかもしれない……」 少年は落ちた時に痛めた腕を震わせながら、短剣を投げた。そしてガランと鈍い音を立てて転がった短剣に向かって手をかざし―― 「……けれど、“オレは死ねない”――お前たちに出会えたおかげで、オレはそう思えるようになったんだ!!」 少年が叫び、何か起こるのかと二人組が身構える。 しかし――そよりと風が吹いただけで、何も起こる様子はない。 「……さっきからよ、何だってんだ! えぇ??」 「調子に乗ってんなぁ……しばらくは動けねぇくらいによ、いつもよりきつめにいっとくか」 倒れた少年にまたがった男が、少年の腕を捻り上げる手に力を込める。少年は歯を食いしばって痛みに耐えながら目を見開いて短剣を見つめ――堪りかねるたようにキッと睨みつけて叫んだ。
「あーーーもう! とにかく、オレの仲間になれええええ!!」
紅い光が爆ぜた。 少年と、二人の男にかかる大きな影――その影は、大人より一回り程大きい『青銅の巨人』のものだった。 「……何だ…こいつ……」 押さえつける男の力が緩んだ隙に、少年がするりと抜け出してその顎を蹴り上げる。 「ぐぇっ!」 「てめぇ!!」 すかさずもう一人の男が投剣を掴んで少年に振り下ろそうとするが、その腕が空中で無軌道に暴れた。 「い……いだだだだだ!!!」 青銅の巨人が男の頭を、片手で卵を掴むかのように鷲掴み、持ち上げたのだ。 それを見たもう一人の男が少女のような悲鳴を上げて逃げ出す。 「わ、悪かった! 赤髪、もうおめぇに手は出さねぇよ!」 「………」 少年は体に付いた土を払うと、投剣を拾い、つかつかと巨人に掴まれた男に近づいた。 「……テメェはよ、何度もオレを“殺して”くれたよな……?」 「だ、だから悪かったって……!」 少年は無様に宙で足をばたつかせる男に投剣を突きつけながら、じっとその様子を見ていたが、 「だから――か……いいぜ、放してやんな」 と言った。急に空中で自由になった男が、尻から地面に落ちて「きゃふっ」と奇妙な声を上げる。見ると、いつの間にか青銅の巨人は、少年の背の半分くらいの大きさになっていた。 少年は男の前に仁王立つ。 「……気分がいいからよ、今日のところは許してやんぜ。もうオレは一人じゃねぇ。覚えときな、こいつはオレの最初の仲間――『グレイグル』だ」 少年が頼もし気に向けた視線に、人形は微動だにせず瞳の無い視線を返す。 「……なんだよ、いやなのか?」 ≪ゴォォォン≫ 「……ああ? 『タロス』? んだよテメェ、名前なんかあんのかよ。生意気だな……んじゃそれでいいや。そんで、オレはもちろん――」 少年は、すっかり怯えた目で見上げる男を見下ろし、腕を組んで胸を張る。 「――勇者『ヴォルフ』様だ!」
そう少年らしい表情で、確かにニヤリと笑ってみせた。
・ ・ ・ ~ special epilogue ~ ・ ・ ・ 「――それで『ヴォルフ』なの!?」 時は流れ、少年が少年でいた頃よりは幾分か人の暮らせる場所となった『裏町』――その一角に建った酒場に、ガンと勢いよく杯が叩きつけられる音が響いた。 「へっ、まぁな」 「僕はすっかり耳ルド(※1)だけどね」 「本当に?? あたしにだって育ての親くらいはいたのに……よくは覚えてないけど……」 深夜だというのに未だ賑やかな店内でテーブルを囲むのは、今や一角の盗賊となった少年――ヴォルフ、そして仲間のアルス、マニカ――『石塊の鎖団』の三人。 「それよか……マニカ、珍しく酔っぱらってないか?」 「ああ、そう言えば今日は見たことない程“空けてる”な……」 「何よ、悪い?? てかさヴォル、あんた今日の獲物どうしたんだっけ?」 「うっ……だから落っことしちまったって……悪かったっつってんだろ……」 「――で、“それ”っていつよ?」 「だっから多分ドブ川越えたときだって――」 「違うわよ、さっきの『勇者ヴォルフ』!」 「あ? ああ……ずいぶん前だからなぁ、覚えてねぇよ」 「ワーヤ影劇団の『ルイン・ターナ』、最終公演日だろう? 僕は覚えているよ。アルギアで『勇者ヴォルフと二人の騎士』の公演が行われたのは、後にも先にもあの時だけだったからね」 「すっげ……相変わらず変態な脳みそしてんな、アル」 「まぁね。君の物覚えの悪い、種を抜いたオリーブのような脳と比べたらそう思えてしまうのも仕方がないさ、ヴォル」 「んだと、このおかっぱ眼鏡! オレだって『ルイン・ターナ』の台詞なら全部覚えてんだよ!」 「はは、これは失礼。しかしそれは何の自慢かな? 怒りか酒か、顔をそんなに赤くして、いったいどこまでが髪なんだか――」 「――で、い・つ!!??」 再び杯が叩きつけられる音が派手に響き、店中が静まりかえる。 「確か――今日だ」 「マジか!?」 「ああ、間違いない。『猛る火鼠の四日』だよ」 「そうなんだ……」 するとマニカは、杯を握ったまま頭を垂れてじっと動かなくなる。残りの二人が何事かとその様子を見つめていると、突然がばりと身を起こし、立ち上がって高らかに杯を掲げた。 「……決めた! あたしが決めた!」 「……な、何をだよ」 「じゃあさ、今日が“ヴォルの誕生日”!!」 「はぁ??」 「悪い? 今日があんたの誕生日だから、あたしはあんたにあんたの誕生日を贈ります! はい、おめでとう!! あんたはあたしたちと一緒に、生きたいように生きて、なりたいものになりなさ――うっ……」 マニカは立ち上がった勢いを、まま逆にしたように突然どかりと座り込み、そのまま突っ伏して、安らかな寝息を立て始める。 「マニカが潰れるなんてな……初めてみたわ」 「久しぶりに三人でやった仕事だったからね、失敗したのが余程悔しかったんじゃないか? まぁ、今日は“ヴォルの誕生日”ということだから、君の失敗は帳消しにしてやるよ――おめでとう、ヴォル」 「おぅ……あんがとな」 騒動が落着したのを見て、酒場が再び賑やかさを取り戻す。 「それにしても“なりたいもの”、ねぇ」 「やっぱよぉ、オレぁ“勇者”かなぁ」 「ふん、盗賊の君が勇者なら、僕は魔王にだってなれそうだ。そうしたら姫君を攫わなきゃならないね」 「あー、そいつぁ無理だ。勇者様が阻止しちまうからな」 二人が笑みを浮かべて杯を傾ける。 それはまだ、三人がそれぞれの煉獄を抜け、やっと小さな幸せを手にしたばかりの頃の夜。 “勇者”となって、自らの生と戦うことを決めたかつての少年と、少年が得た二人の仲間の夜は、温かく賑やかな喧騒に包まれて更けゆくのだった。
※1 耳ルド……聞き飽きたという意味。ルドは使い過ぎた指や足の裏などにできる胼胝のこと。
◆ ◆ ◆ ◆
special past episode 『花護る騎士』
「おい、アルス! アルス・ランジーニョ!」 酔った父親の叫び声が部屋中に響く。 ――なぜこの男は自分の息子を呼ぶ時、姓まで含めて呼ぶのか――そもそもその姓は僕のでも、お前のものでもないのに……。 商業都市アルギアの貧民街『裏町』。少年の父親はこの『裏町』全体を仕切る組織「ランジーニョ商会」の顔役だった。そう言えば聞こえはいいが、結局それは『裏町』に溢れる犯罪者達の元締めということに他ならない。 ――何が「商会」だ……盗賊なら盗賊らしくすればいいんだ。 そして『ランジーニョ』の名もまた、彼の父親が、“壁向こう”の富裕区に住む老いた地主貴族から盗み、手に入れたものだった。 ――それをよくも我が物顔で……うんざりだ。 どうせいつもの下らない自慢話なんだろうと、少年は無視を決め込んだ。父親は酒に酔っては、この“吐き溜め”を抜け出し、いずれは本物の貴族に、王にだってなってみせると野心を語り、自慢の悪行を語るのが常だった。 呼びかけを無視する少年の部屋に、父親の粗野な足音がどかどかと近づいてくる。 ――ふぅ、“力”を使えば……けど、今日も二、三発くらい殴られて、倒れておけば終わるかな。 少年には、「命」を操る不思議な力があった。しかし、彼にとってそれは、例え父親でも見せるわけにはいかない、この厳しい『裏町』の世界を生き抜くための“とっておき”だった。 いつもの事さ――少年は溜息まじりに本を閉じ、扉が乱暴に蹴り開けられるのを待つ。 しかし、勢いよく開かれた扉から聞こえてきたのは、拍子抜けな程に上機嫌な声だった。 「どうしたアルス・ランジーニョ! つれねぇじゃねぇか! せっかくお前の母上を連れてきたってのによ!」 ――母上? 少年は耳を疑った。しかし父親の後ろには、確かに女が優しげな微笑みを浮かべ立っていた。女は潤んだ瞳で少年を見つめ―― 「……あぁ 会いたかったわ」 「どうだ! 今日から“コレ”がお前の母親だ! 正真正銘、“貴族”の娘だぞ!」 ――そういうことか……今度はどこから攫ってきたんだか、“名前”の次は“妻”……馬鹿馬鹿しい。 溜め息をつく少年をよそに、女は手を伸ばしながら近づくと、しっかと少年を抱きしめた。 「大きくなって……嬉しいわトマス」 ――!? 「へへ、悪くねぇだろ? べっぴんだしよ、ちと頭は“アレ”だがな」 女は夢の世界で生きており、少年を失った自身の子と勘違いしているようだった。少年は女を突き飛ばすと、無言で父親を睨みつけた。 ――こいつには、本当にうんざりだ。
その日から、少年と女との奇妙な生活が始まった。 女には、少年たちの暮らすみすぼらしい家が貴族の屋敷にでも見えているようで、父親がどこからか手に入れてきた薄汚れたドレスに着替えては、嬉しそうに欠けたティーカップで白湯を飲み、“壁向こう”で暮らしていた頃の思い出を語った。 「ウフフ。トマス、あなたが初めて立ったのはお爺様のお庭だったわね。お爺様ご自慢のお花を触ろうとして、『この花の良さがわかるとは、なんて賢い子だ』ってお爺様も……そういえば トマス お勉強はちゃんとしてる?」 「この町に学校なんかないよ」 「あら、不便なのね……じゃあ、お母様が教えてあげる。こう見えて勉強は得意なのよ」 何かと自分に構うこの女を、少年はひどく鬱陶しく思った。しかし早くに母親を亡くし、粗野な父親との生活しか知らなかったからか、同時に彼女を憎からず思っている自分がいることに驚いてもいた。
ある日女が、花が無くて寂しいとしきりに言うので、少年は気紛れに花を摘んできてやった。 女は少年の手をとり喜んだが、少年は目をそらし、すぐにその手を祓ってしまった。 「あら、恥ずかしいの? でも、トマスは優しいのね……それじゃ、お礼にお母様の“秘密の名前”を教えてあげる。私、本当は貴族の生まれなのよ。ウフフ、これはお父様にも内緒なの」 記憶の混濁からか、女はふわふわと辻褄の合わぬことを話し続ける。 ――知ってるよ。だからあんたはここに連れてこられたんだから。 しかし、女があまりに嬉しそうに話すもので、少年はそれを黙って聞き続けた。 「お母様の本当の名前はね――」 そう少年の耳元で話す女からは、微かに花の香りがした。
それ以来、少年は自身の率いる少年グループと“壁向こう”に忍び込んでは、貴族趣味の煌びやかな調度品や珍しい花を持ち帰るようになった。 その度に女は少女のように喜び、その様子を見る度に少年はむず痒くなりつつも、 ――まぁ、こういうのも悪くないかな。 そう思うようになっていた。
ある夜、少年は女に尋ねた。 「父さんが好きなの?」 「ええ大好きよ。あの人は 病院で一人寂しく枯れようとしていた私を迎えにきて、“お爺様のお庭をもう一度見せてくれる”と約束してくれたの。それに二度と会えないと思っていたあなたにまで合わせてくれた……私にとっては天使様ね」 ――そう……あんたがそう思ってるなら、それでいいよ。 少年が部屋を出てそっと扉を閉めると、暗い廊下に父親が立っていた。 「ハッ、オメェにしちゃずいぶんと熱をあげてるじゃねぇか。だがな、あまり入れ込むんじゃねぇぞ? アレが夢の中にいんのは病のせいだ。あの女はもう“長く”ねぇ」 そう口にする父親の目は、ただただ黒い、穴のように見えた。 「だからよ、あいつがくたばる前にまとまった金を手に入れて、“壁向こう”の市民権を買う。そうすりゃあいつの家の財産は俺の物、晴れて本物のお貴族様ってわけだ。近々大取り引きがある。それがうまく行きゃあ、その金でこの塵屑の町ともおさらばよ」 少年の頬に、ちりりと痛みが走る。 「……そしたら、あの女はどうするのさ」 「決まってんだろ。まぁ、ほっといてもくたばるだろうがな……お前、変な気起こすんじゃねぇぞ。せっかくお利口に育ててくれたお父様を悲しませるなよ? お前に、逃げ場なんざねぇんだ」 少年は小さく拳を握り、 「わかってるよ」 ――あんたの屑さは嫌という程ね。 「父さんの為に、僕は僕にできることを――だろ?」 「上出来だぜ」 機嫌よさそうに踵を返す父親の丸い背を、少年は見えなくなるまで睨み続けた。
それからの少年は、火がついたように自身のグループの版図を広げていった。 その勢いは日増しに激しくなり、次第に大人たちも目をつぶってはいられない程になっていった。 しかしどのような者が相手であったとしても、少年が“とっておきの力”を使えば、誰もが怯え、屈服するしかなかった。 ≪――ランジーニョの息子は化け物だ。あの親父は化け物の息子を使って何かを企んでいる≫ 町中にそんな噂が広がりはじめ、いつしかその強引なやり方に、仲間の少年たちも怯えるようになっていった。
「ごめんなさい あなた…誰だったかしら?」 一方、女の病は次第に重くなり、稀に少年が誰なのかもわからなくなるようになっていた。 「……トマスだよ」 「あ……ああ、そう、そうだわ ごめんなさいぼぅっとしちゃって…」 ――時間が無い……「市民権」を……僕が、アイツより先に……!
それから幾ばくか経ち、今や少年の勢力は『裏町』でも五本の指に入るほどに膨れ上がっていた。 そして、とうとう“その日”が訪れた。 アジトに集められた大勢の少年たち――その前に立つ少年に、仲間の一人が不安げに尋ねた。 「なぁ、こんなに集めて何するつもりだよ……」 「胸を張れ、僕たちはこれからこの『裏町』で誰もできなかった大仕事を行うんだ」 「大仕事……?」 「ああ」 少年は一同に向き直り、叫んだ。 「みんな! 明日、僕たちは『商会』の取り引きを襲う!!」 少年たちに動揺が走った――そんな――それって、やばいよな――もし失敗したら――。 「失敗したら、この裏町では生きていけないだろうね。でも成功すれば『商会』は終わる――この町は、僕らのものだ」
そして――終わりは不意に訪れた。 取り引きに欲を張った父親が不正を働こうとし、富裕区の相手組織から逃げるために行方をくらませたのだ。当然取り引きそのものも無くなり、父親に代わって市民権を手に入れようとした少年の計画は水泡に帰した。 ――クッ、あんたはどこまで……。 こうして少年の反乱は、あっけなく幕を閉じた。 ――これからどうするか……僕なら、あの女ひとりぐらい……でも、何だか疲れたな……。 張りつめていた糸が切れ、少年は重い体をひきずり、家の扉をあけた。 鼻孔を、錆びた鉄の臭いがついた。 ――まさか……! 少年は走り、居間の扉を乱暴に開ける。 目に映ったのは――床一面に広がる赤。 そしてその真ん中で椅子に腰かけ、手首から赤い雫を滴らせぐったりとしている女。 足が赤く染まるのも構わず、少年が女に駆け寄る。 「なんで……なんでだよ!?」 「……知らせが来たの。あの人がね、いなくなったのよ……あの人は私の希望だったの……」 「もう一度、庭を見るんだろ?」 「フフ、もうダメみたいね」 「――僕が見せてやるよ。僕には不思議な力があるんだ。だからきっと……」 女は強く手を握る少年の指をそっとはずし、赤く染まっていない方の手でその頬を優しく撫でた。 「ううん、いいの。もう疲れちゃったみたい……。トマス――いいえ、アルス。私の息子になってくれてありがとう」 ――そうか……もう、終わりなんだな。 少年は深く息を吐くと、しっかりと女の目を見て答えた。 「うん、さよなら――僕も、あんたの息子になれて楽しかったよ」
数か月後、少年は敵対する別の少年グループと対峙していた。 相手のリーダーである赤髪の少年が、板についたニヤリとした笑みを浮かべて口火を切る。 「よぉ、おめぇあの糞ランジーニョのガキなんだってな! 名乗りな!」 少年は瓦礫の上に座り、冷たい目で相手を見下ろしていたが、ふと何かを思ったように空を見上げた。
――それじゃ、お礼にお母様の“秘密の名前”を教えてあげる 。
少年は目をつぶり、小さくクスリと自嘲のような笑みを浮かべると、静かな声で言った。
――『クレメンス』、花を護る騎士の家系なのよ。
「フン、『アルス・クレメンス』だ。よろしく頼むよ」
――fin
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