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Ver3.5 |
Ver3.5 |
身長 |
184[cm] |
体重 |
127[kg] |
両親 |
幼い頃に他界 |
後見 |
ポートランド家 |
好き |
アンティークショップ |
所属していた結社 |
黄金の夜明け団 |
イラストレーター |
あかぎ |
フレーバーテキスト |
<【忘我】ジキル>
◆◆◆◆◆◆◆◆ 「君は…誰だ…?」 その声は、降りしきる雨音にかき消される ことなく、静かに、冷たく響いた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆
目覚めると、彼女はインディゴブルーのワンピースを風になびかせて、出窓に腰を掛けていた。 別段外を眺めているというわけではない。確かに、このアパートメントのそれほど広くもない間取りのわりに、やけに大きなその窓から見えるものといったら、真隣の建物の壁に切り取られた灰色の川面の一部と、真下にある何の変哲もない細い通りくらいだ。それも今朝のように雨降る道にはジョギングや散歩をする人影もなく、特に目を引くものはない。 ただ、書物やレポートがそこかしこに散乱したこの部屋の中で唯一日の差し込むそこは、一番居心地が良さそうな場所であることは間違いなかった。 思えばここ数日、彼女は猫のように比較的居心地の良い場所を探して腰を下ろすきらいがあったかもしれない。これは新たな発見だった。 ――ここに来て見つけたのがこれ、か。 私はこみあげる苦笑を抑え、彼女に声をかけようとベッドから起き上がる。体が軋み、軽い頭痛がする。低気圧の所為――というわけではないだろう。何せこの時期、街の天気はずっとこんな調子なのだ。ころころと空模様は変わるものの、高い確率で1日のどこかしらで雨が降っている。 不調の原因は単純な寝不足――“彼女の検査と解析”による連日の徹夜のためだった。加えて、昨晩思い至った「結論」が脳裏にこびりつき、久しぶりの私の睡眠をいたく浅くしてくれたらしい。 「……おはよう。窓を開けてそんなところにいると濡れてしまうよ?」 やっとのことで絞り出した私のかすれ声に応えることなく、彼女は黙ったままテーブルに乗った空の水差しを見つめていた。 「――ああ、何か飲むかい? 紅茶でいいかな?」 彼女と過ごしてわかったこと――興味があること以外は口を利かない。黙っているときは“嫌ではない”。欲するものをじっと見る――。 私は台所に立ち、湯を沸かそうと手を伸ばして――その“手”が無いことに気づいた。
昨晩“それ”を、横になる前に“取り外して”しまったのだ。私はベッドに倒れ込む際にひっくり返した書物をかき分けて研究机の前にたどり着くと、崩れて雑然と積み重なった書類の山を掘り起こし、 「あった――」 その中に埋もれていた日常生活用の「義手」を腕に取り付けた。 改めて台所に戻って鍋で湯を沸かす。そして、適度に湯が温まると少しカップへと移し、長く使っている薄曇ったシルバーのティーキャディーから茶葉を二匙掬って煮出し始めた。 彼女は――相変わらず出窓で片膝を立て、時折り吹き込む弱い雨風にワンピースの裾を揺らしていた。 「……うん、やっぱり似合ってる」 つい、口に出てしまった――思ったことを意図せず口にしてしまう、私の悪い癖だ。 「――暑いけど、あんたが着ろってうるさいからな」 彼女が答えた。 聴かれてしまった気恥ずかしさが消え去る程に、私はその反応に少しばかり驚いて目を見張った。……ということは、やっと「服」に興味を持ってくれたということか。 「助かるよ」 私は自身の顔に浮かんだ仄かな笑みを感じつつ、湯気を上げ始めた鍋の水を眺めながら、ここに来たばかりの頃の彼女を思い出した。 その頃の彼女は「服」というものに全く興味を示さず、裸同然の恰好でうろつくものだから目のやり場に困ったものだった。私は外科医であるわけだから人の体というものを多少なりとも見慣れているはずなのだが、どうにも手術台の上に横たわるそれとは違って意識してしまう。
そんな彼女がこの部屋に来たのは――ちょうど3週間前になるだろうか。
私は、ずっと彼女を探していた。
彼女が夜の街に残した「足跡」を辿り、その影を長い事追いかけてきた。
その追跡行の中で何度か直接まみえることもできたが、その度に、彼女は警戒するような目を向け、霞のように私の手をすり抜け姿を消した。そしてまた別の場所で、新たな「足跡」を残していった。それでも「足跡」が残される限り希望はあると、私は彼女を探し続けた。 しかし、その「足跡」もふた月ほど前からほとんど残されなくなり、彼女を追うことは容易ではなくなっていた。 彼女の精神に何かしらの“変化”が起こったのか、それとも、“限界”が来てしまったのか――。 限界――そう、彼女には活動限界があった。 何故そんなものが?――ということならば、彼女は“造られた存在”だから。 そして彼女を造り出したのは、エドワード・ジキル――この私だった。
* * * *
私にはエマ・ハイドという恋人がいた。 そして彼女は私の目の前で事故に遭い、命を落とした。 その頃ある「結社」に出入りしていた私は、そこで学んだ『魔療術』――錬金魔術と科学医療を合わせた新医術で、恋人を蘇らせようと試みた。 彼女の体はバラバラになっていたので、足りない部位は自身の四肢を触媒として細胞を錬成し、補完することにした。特殊な麻酔で局所的に神経を麻痺させつつ血流を止め、意識を保ちながら義手、義足と組み替えていく――普通であれば頭がどうにかなりそうな所業であったが、その時の私には“そうなる”余裕すらなく、むしろそれを通り越し、自分の呼吸音すらしっかり聞こえる程に冷たく、静かに作業を進めることができていた。 左腕一本を残して取り外した全ての四肢を“変換”し、彼女の体細胞を整形する。そしてそれらと本体を繋いで「固定化」するために、二冊の上級魔導書を零糸で結び付けた。最後に、「結社」から譲り受けた『種』と呼ばれる秘材を自身に埋め込んで「命」の半分を肩代わりさせ、残りの「命」を慎重に彼女へと移植していった――。 かくして、彼女は目を覚ました。 その姿は、まごうことなくエマであった――が、その器に、彼女の心は宿らなかった。 目覚めたばかりの彼女には当然私のことなど分かるはずもなく、私を見るなりひどく不快な表情を浮かべると、研究室から逃げ出し――人を、殺し始めた。 「命」を二つに分けた結果なのだろう。彼女の空っぽの心に宿ったのは私の中の悪――私が思うところの、数少ない私の人間性、「衝動」や「不安」といった類の心が凝固したもののようだった。逆しまに、私の元に残ったものは正義――「理知」や「判断」といった、心の表層の塊……困ったことに、「理性のない衝動」は歯止めが効かず、「衝動の無い理性」はどこまでも自動的で、恐ろしくもそのどちらもが「殺人」という行為に帰結してしまっていた。そのあたり、やはり私という人間はどこまでも――いや……今、その話はよそう。 とにかく、皮肉なことにその「殺人」が彼女の「足跡」となり、彼女を追う手掛かりとなった。 元はひとつの命であったからなのだろうか。彼女が人を殺す度に、私は自身の胸の内に小さな疼きを感じた。彼女が何かの昂りを感じると、それが私に伝わってくる、そのような感じだ。それは、彼女の近くに居れば居るほどに強く感じることが出来た。 そのことに気づいた私は、すぐさま彼女を追った。 彼女の殺人行脚を、当然放って置くわけにはいかない――とだけ言えれば良かったのだろうが、残念ながらそうではなかった。 私の頭にあったのは、あの時研究室で息を吹き返し、静かに胸を上下させて横たわる彼女の姿――目を覚ませば、いつものように「まだ起きてたの?」と微笑みかけてくれそうな、エマそのものの寝顔――そこに、「もしかしたら」という希望を捨てきれない、ただ、それだけだった。 何としても取り戻したかった。彼女が警察に捕まる前に、何かしらの不幸に会う前に――“限界”が、来る前に――。 半分の「命」しか持たない体には定期的な“メンテナンス”が必要だった。当然それは私にも当てはまる。私には彼女と私の「命」を支える『種』があったが、それでもどれほど“持つ”かはわからなかった。彼女においては猶更といえるだろう。 そのまま何もせずに放っておけば、いずれ体がぐずぐずになって崩れるか、その前に心が崩壊するか――“メンテナンス”を続けていた私の方ですら、既に小さく“崩壊の兆し”が見え始めているのだから。 しかし、そんな焦燥を嘲笑うかのように、とうとう彼女の「足跡」はぱたりと途絶えてしまう。 こうなると、もはや彼女を探す術は無かった。 組み入れた魔導書が仇となり、彼女はその中に記されたいくつかの魔術――「姿を消す」「空中を浮遊する」といった秘技を使って巧みに人目を避けていたようだった。 それでも何処かに彼女を目撃した者はいないかと、方々を探し回ったが、そのような情報はどこにも落ちていなかった。それもそうだ……おそらく目撃者であったはずの者たちは、「足跡」の犠牲者として、皆殺されてしまっていたのだから。 それから数か月経ち、「もう駄目かもしれない」という思いを必死に振り払い、わずかでも彼女を探す手掛かりがありはしないかと、無力と断念を囁く疲労の悪魔に重く体を引きずられながら、私は出発点であるこの街へと戻ってきた。 そして、かつてエマとひと時を過ごしたこの古いアパートメントの前に立った時、つくづく後になって裏目を引いていたことを知る自身の運命に、目頭を押さえ、久方ぶりに笑みを浮かべさせられることになる。 建物の入り口の階段に、裸同然の恰好で膝を抱えて座り込んでいたのは、彼女だった。
* * * *
おそるおそる声をかけると、彼女は今までの態度とは打って変わって大人しく、膝を抱えたまま少し顔を上げ、伏し目がちに私を見た。 そのまるで違った様子に、弱っているか、もしくは何処か体機能に変化があるのかもと思い、街頭に照らされた彼女の姿をよく観察してみた。しかし特に変わったところは見受けられず、組織が崩れているような様子も無い。これ程長い間“メンテナンス”をすることもなく、何故――。 とにかく中に入るようにと扉を開けると、彼女は立ち上がり、何の抵抗をすることもなく、ミルクをあげた子犬のようにトコトコと私の後を付いてきた。 そのまま上階の自室に招き入れ、彼女が再び逃げ出さぬよう鍵をかける――と、それは気に食わなかったようで、“魔導書”により一瞬でドアノブごと粉々に砕かれた。 しかし、彼女は部屋から出ていくことはなく、キョロキョロと暗い部屋を見渡すと、雑然とした床の真ん中のわずかに空いたスペースに腰を下ろし、再び膝を抱えた。 その後、彼女の体はずいぶんと汚れていたのでシャワーを浴びさせようとしたのだが、初めて水を掛けられ怯えた猫のような暴れっぷりで、その時の苦労といったら――。
――そんなことを思いだしていると、香しい茶葉の香りが鼻を突き、現実に引き戻される。 見ると、頃合い良く湯が茶に染まっていた。私は温めていたカップへと紅茶を注ぎ、トレーに乗せて、いつものようにシナモンスティックと買い置いていたミンスパイを3つ添える。そしてそのまま運ぼうとしたが、ふと、後ろ髪が引かれる思いに駆られ、“無駄”だとは思いながらも棚にしまっていたミルクポットに軽く温めたミルクを注ぎ、シナモンスティックの横に添えた。 「すまない、待たせたね」 彼女の前のテーブルへ、ティーセットを置く。 それを見た彼女は軽やかに窓枠から飛び降りると、バレリーナのように、ととん、と柔らかなステップでテーブルの前に着地した。そしてティーセットをじっと見つめ――“ミルクポット”に手を伸ばした。 ――え……!? 心臓が、0.5インチは跳ねたと思う。 そして彼女は手に取ったポットを――開けた窓から、後ろ手に放り投げた。 「これは、好きじゃない」 思わず、吹きだしてしまった ――ああ、窓を開けていたのはそういう……。 欲しいものは“じっと見つめ”、いらないものは“目に入らないところに追いやる”というわけだ。もはや落胆よりも、その単純な思考に愛らしさすら感じてしまう。これで今日は2つ目の“新発見”――だが、あとで通りの植え込みに散らばっているであろう、ここ二週間の間に行方不明になっていた日用品たちを拾いに行かねばならないだろう。 それを機に、起き抜けからほのかに私を強張らせていた緊張が一気に解けた。 ――今更、私は何を期待して……もう“結論”は出ているのに。 私の逡巡をよそに、彼女は紅茶をシナモンスティックで乱暴にかき回すと、少し紅茶の香りを嗅いで、ミンスパイにかぶりつく。 私は、彼女が落ち着いたのを見計らって、ようやく最後の「証明作業」を始めることにした。 「昨日の続きを、いいかな――」 一瞬次の句に詰まり、考えあぐねた挙句、 「――ハイド」 やはり、そう彼女を呼んだ。 彼女は返事をしなかった。黙っているときは、“嫌ではない”――。 私はノートを手に取り、白紙のページに置いたペン先を見つめながら尋ねた。 「何故、君は人を殺すんだい?」 「それがあたしだからじゃないか?」 何事も無いように彼女は答えた。 「君……だから、とは?」 「言ったろう? 中身がどうなってるのか、すごく気になるんだよ――」 そう言いながら、ひとつめのパイを食べ終え、指についた油を丁寧に舐めとる。 「――でも、どいつの中を見ても同じだった。みんなギュッと繋がってて、あたしみたいにバラバラな奴はいなかったよ。なんだろうな――あたしはさ、なんだか自分の体が自分のものじゃないような気がするんだ」 やはり、先にあるのは衝動的な興味――ただ、排除したいだけならば、先程のように視界から消せばいいだけだ。 興味の引き金となっている自身の“違和感”に関しては――まぁ、当然なものなのだろう。何せ彼女は二人の人間の体を混ぜ合わせて造られたのだ。そして彼女が他人の“中身”に求めているものは、それこそバラバラになって失われた“自分の欠片”なのかもしれない。しかし私にとっての問題は、そう求める主体……“精神の在処”だった。 「そうなのだろうね。では、殺す相手はどのように選んでいたのかな?」 「なんとなく、そうしたいと思ったやつかな」 それもうなずける話だ。彼女の被害者となった者は全てが男性で、そのほとんどが街のゴロツキだった。 被害者が偶然彼女を見つけたのか、被害者の前にあえて彼女が姿を現していたのか、それは分からない。ただ、あの裸同然の恰好に加えこの整った容姿だ。ダウンタウンの路地裏などでその姿を晒そうものなら、それはひどくモテたことだろう。そして彼女でなくとも、下卑た笑みを浮かべたその手の者たちに迫られ、嫌悪の情を抱かぬものは少ない。 しかし、被害者の中には刑事や、それなりに社会的地位のある者たちも含まれていた。……が、その実、調べてみると皆黒い噂のある人物たちであり、不思議と一様に……いや、不思議なことはないか……つまり彼女が殺してもかまわないと判断した人間とは―― 「あんたも殺すんだろう?」 私のレポートを書く手が止まった。 「……何故、そう思うんだい?」 「違うのか? あんたからは、“そういう”匂いがするんだけどな」 「匂い――」 今ここに、ミルクティーの香りが漂っていなくて良かったと、何とはなしにそんなことを思ってしまう。“その顔”でそのようなことを言われるのは、なんとも心苦しい。私は苦笑を浮かべ、 「――そうだね、殺すよ。私も人を殺してきた」 と答え、目を閉じた。 先にも言った通り、私もまた殺した。 彼女を造り出すことで、命と共に心も半分になり極端に正義が加速された私は、悪人をみつけると殺さずにはいられなかった。 けれど、私が人を殺したのはそれが初めてではない。 私は医者として、多くの人の“命の際”に立ち会い、救えずに幾人も“殺して”しまっていた。たかが一人の人間が他人の命を救えなかったことを「殺した」などと思うのは傲慢なのかもしれない……だが、それは私にとっては「殺人」にも等しい行いだった。
私は、人の死を恐れていた。
正確に言えば、天寿を全うせずに朽ちゆく死を拒む。つまり、不条理な命の終わりを見るのが怖いのだ。
ここで重要なのは、「死が怖い」だけで、「人を救いたい」と思ってはいないこと――。
悲しいことに、私の心はそういう風に出来ていた。ただそうして「死」を避け続けているうちに、医者となり、他人に感謝を向けられる存在になっていた。 なので私は、患者やその家族から向けられる感謝の笑みが苦手で、向けられる謝辞や対価に対し、大変申し訳なく思い、いつも苦い笑みを浮かべていたように思う。 「――いつから、だったかな……」 ……そうは口にしたものの、それははっきりと分かっていた。
子供のころ、友達を助けた。 雪の降る夜だった。川辺に降りる階段の踊り場で、友達が男に暴力を振るわれていた。 このままでは殺されると思った私は、思わず割って入った。 殴られながら、酒臭い男の息でむせそうになったことをよく覚えている。そして無我夢中で抵抗するうちに、男は足を滑らせ――階段から転落した。 流れ出る赤いものがとても怖かった。どうにかできないかと男の傷口を手で覆ったが、手の隙間からせせら笑うように溢れ出る赤色が止まらなかった。 後ろで友達が何かを叫び私の腕を引っ張っていたが、何も聞こえてはいなかった。ただ、溢れる赤と、体温と共に消えていく命が怖かった――それが、私の初めての殺人だ。 後で知ったことだが、その男は友達の父親だった。友達は父親を“悪人”と言い捨て、私を“英雄”だと称え慰めてくれたが、命の終わりを目の当たりにし、それを自分が引き起こしたという恐怖と、“悪人”なのだから仕方がないと思い込もうとする気持ちが、私の心をぐちゃぐちゃにして……そして、その後の、私の最大の殺人は――。 「どうでもいいよ」 ――現実に、引き戻された。 みると、彼女ははっきりと不快が滲んだ視線を私に向けていた。 私の表情から何かを感じたか、それとも私が彼女の心の変化に“疼き”を感じるように、彼女もまた私の心に何かを感じたか――何にせよ、彼女がこれほどはっきりと拒否の意思を示しているのなら、上手いことではない。今は、「証明」を続けなければならないのだから。 「すまない――別の話にするよ」 無言――まだ、つき合ってくれるようだ。 私はノートをめくり、再び白いページに目をおろした――そろそろ、本題に入ろう。 「君の……“頭の中の女性”の話を聞かせてくれないか?」 それを聞いた彼女は、咥え込んだ2つ目のミンスパイをトレーに置き、乱暴に口を拭った。 「またか……それも言ったろ? あいつのことを考えると、嫌な感じがするんだ」 「……どういう風に?」 「あんたを見るときと同じだ。もやもやするんだよ」 「もやもや」という表現を、彼女はよく口にした。 その「もやもや」は、何も記憶も持たないはずの彼女が無条件で私に感じる感情の変化であり、エマの心を取り戻したいと願う私の一縷の望みだった。 「色んなやつを殺したけど、あんたみたいにもやもやするやつはいなかった。でも殺すたびに、あの女のことが頭に浮かんで、もやもやも増えていくんだ。すごく、嫌な感じだよ……」 「彼女の『記憶』は今も増えているのかな?」 「……考えないようにしてるけどな、たぶん増えてると思う」 「そうか……それじゃあ――」 私は大きく息を吸い込んだ。 「――その女性の顔は思い出せているのかな?」 彼女は一瞬、何を言っているのだろうという風に訝し気な目をしたが、 「ああ、はっきりな」 そう答えた。 「そう……」 私は、ため込んだ息をゆっくりと吐きだす。 「では……彼女を、どう思う?」 「わからないよ――あたしは何もわからない、何も知らない……」 少し、ハイドの心が落ち着かない様子を見せ、それが私の心に小さな波となって届く。 「……なのに、見たり、手に取ったりするといろいろ知ってて――頭の中に記憶が……あたしと同じ顔をしたあいつのことばかりが浮かんでくるんだ。最近は、“殺さなくたって”浮かんでくる……」 「苦痛……なのかい?」 「だから……わからないよ……」 「君は、君と同じ顔をした女性の記憶を持っていると言った。けれど、それを語ろうとはしてくれなかった――話して……くれないかな?」 「………」 「君の言う“嫌な感じ”――そのもやもやを晴らせるかもしれない」 「………」 彼女は目をつぶり、少し眉根を寄せてゆっくりと口を開いた。 「――街で誰かと手をつないで、パン屋の前を歩いてる……」 肺から息がくぅっとせり上がり、私の全身に緊張が走る。 「……他には?」 「なんだか……こんな風にゴチャゴチャした部屋で、紅茶を飲んでる……」 「他には?」 「……誰かと、三人で食事をしてる……一人はあいつの父親みたいだ……」 「――パーティだね……どんなドレスを?」 「……赤くて、首のところに薔薇がついてる……」 「首に――そう……そうだった……」 訥々と答える彼女を見つつ、しだいに、ペンを握る手に力が入っていく。しかしもう、ノートには何も書いていない。 「君は――事故に遭った時のことを思い出しているんじゃないか?」 「………」 「何を、見た?」 ハイドは辛そうにこめかみを震わせ、拳を握った。私は、その様子を瞬きをせず、つぶさに見続けた。 「……男がいた」 「……どんな?」 「――緑の……男だ」 私は、再びゆっくりと息を吐き、静かにノートを閉じた。 「ハイド、それは――見るはずがないんだ」 「……?」 「それを、君が見ているはずはないんだよ。“彼”は、彼女の背後に立ち、彼女は彼の方を振り返ることなく駆けだしたのだから」 「じゃあ、なんであたしは知ってるんだ?」 「彼を見ていたのは、“私”だからさ」 静寂が部屋を包み、少し強くなった雨が窓にトツトツと当たる音だけが落ちていく。 私は、おそらく、とても昏い目で彼女を見つめていた。 「最近、どんどん私の心は崩れてきていてね……君とは逆に、どんどん記憶がなくなっているんだ。けれど、あの日の、あの記憶だけは未だ消えてくれない……あの忌まわしい、自分を殺したい程の記憶――」 いつものように、伏し目がちに私の話を聞いていたハイドが、何かを感じたのか、徐々に顔を上げていく。 「――あの日、私は暗がりから君を付け狙うあの“緑の男”を見つけて、2階から君を呼び寄せた。君は走り出し……そして、事故にあった――私は見ていたんだ……私の所為なんだ……君の記憶……君が“見ていた”ものは、全て“私の視線”。つまり、君は――」 エマが記憶を取り戻していっているのかもしれない――ハイドから初めて“記憶の女性”のことを聞いた時、私の心臓は早鐘のように鼓動を打った。「ハイド」が「エマ」へと覚醒し始めているのではと――。 しかし調査をしていくうちに、その考えに疑問が生じた。
きっかけは――シナモンティー。 気付いてすぐ、この数日間、私は彼女の“細胞”を入念に調べ続けた。 その結果に私は愕然とした。彼女の体にあったはずの“エマの細胞”はほぼ全て死滅しており、元々彼女の体であった個所にまで、“私の細胞”が侵食していたのだ――つまり、彼女の姿は、私の細胞が、私の記憶に従い彼女の形に“擬態”しているに過ぎなかった。 私が彼女を研究してわかったこと――興味があること以外は口を利かない。黙っているときは“嫌ではない”。欲するものをじっと見る。そして―― 何かを悟ったようにして、彼女は初めて私を――じっと見た。 ――彼女は、“彼女”ではない。
「ハイド、君は――私なんだよ」
彼女が語った記憶は、全てかつて私が見たエマの記憶だった。 彼女が“はっきり”と、エマの顔を思い出せるのは、それが外から見た“他人の顔”だからだ。 彼女が私を見て“もやもや”を感じるのは、それが、自分だから――。 彼女が殺す人間たちが皆“悪人”なのは、私が“悪人”を嫌悪しているから――。 彼女が人を殺すのは、私が自分を殺人者と認識しているから――。 そして、私はシナモンティーを好み、エマは、ミルクティーを好んだ――。
ハイドは、私の言葉をゆっくり反芻するように目を見開いてじっとしていたが、しばらくすると、 「そうか あたしはあんたなのか――」 と言って、とん、と軽やかに跳ねて立ち上がった。 「ホントだ、もやもやが晴れたよ――あんたが、バラバラになったあたしのもうひとつなんだ」 「そういう……ことになるね」 私もまた立ち上がり、研究机の方へと向かう。私の背に、彼女にしては陽気な声が掛けられる。 「なぁ、あいつは、どんなやつだったんだ?」 「君が見た通りさ、とても素敵な人だったよ――」 ふと、ある薄幸の詩人の詩を思いだした。
あの瞬間まで あれほど疾く 甘い恋に落ちたことはなかった あの人の顔は香しい花のように燦然とほころび 私の心はすっかり虜となった きっと私の顔は 屍のように青ざめていたことだろう 足はすくみ 歩くことすらできない
あの人が そんな私を見たならば どれほど心を悩ませたことだろう 遍く私の命が ぐずぐずとした泥になってしまったかのようだ
今の私も、私の恋も、まったく同じだった。 「――僕が、人であったことを思い出させてくれた人さ」 私は、研究机の鍵付きの引き出しから注射器と小さなアンプルを取り出す。 「……でも君を見て思うんだ。目の前の“君”が“私”であるのだとしたら、やはり私は、どうしようもなく歪んでいて、消えるべき存在なのだと。そう遠くないうちにそうなるのだろうが、やはりこれ以上、私たちによる“死”を広げたくない――」 そして、頭を垂れたまま彼女の元へともどり、情けなく床を見つめたまま告げた。 「だから私は――私と君を、処分しなければならない」 彼女は、笑顔を浮かべた。 「やっとか――良かった。あんたがそうしてくれるって思ったから、あたしはここに居る。自分だとどうすればいいかわからなかったんだ」 それは、“彼女”の好きだったピンクの薔薇のような、鮮やかな笑顔だった。 「……いいのかい?」 「言ったろう? あたしは、バラバラになりたいんだ」 彼女は笑みを浮かべたままくぃと首を伸ばし、私はそっとその白い首筋に触れ、針を当てた。 「すまない……」 静かに目をつむる彼女へ、呪式と細胞を分解する薬品を注入していく。 そうして、小さな儀式は終わった。
「これで、数時間後に君は消滅する。それを見届けてから私も追うよ……本当に、身勝手で悪かったと思ってる」 「どうでもいいよ」 彼女は嬉しそうにステップを踏んで、少し距離を取り、くるりと振り返って言った。その所作は、いつも以上に在りし日のエマを思い起こさせた。 「なぁ あんた、あいつに逢いたいのか?」 「……逢いたいさ」 喉から、搾り出すようなかすれ声。 「今、気分がいいからな――いいさ、逢わせてやるよ。上手くできるかは分からないけどな」 彼女はそう言うと、手を後ろに組んで上半身を傾け、うつむく私の顔を覗き込む。 「ほら、確か、こんな感じだろ?」 彼女なりの気遣いなのだろうか……私にとってそれは、回顧と後悔の花に飾られた、小さく残酷な舞台だった――しかし最後に、こんな舞台を演じるのもいいのかもしれない。そしてこの幕が落ちたら、彼女と共に崩れ去るのだ。 私は、一歩前に出て、想い出の彼女の髪にそっと手を触れる。 「やっぱり……その赤い髪、きれいだね」 つい、言葉が口を突いて出る――でも、もういい。 「はは、おかしいな、それじゃ自分を褒めてるみたいだ」 「……ああ、君はいつもそう返してくれた」 ――でも、この言葉はエマの言葉じゃない 「そしてその、“優しい困り顔”だな」 「君は、それが好きだと笑ってくれた」 ――でも、その笑顔は帰ってこない。 私の手に頬を乗せて見上げる彼女の、可愛らしく小さな鼻、チェリーのような唇、美しいレッドパープルの瞳――全て私の愛した彼女のものだ――しかし彼女は、“彼女”ではない。 「あとは……そうだな、ダンスでも踊ってやろうか? こういう、ひらひらした服で踊ったんだろう? 初めは、こうだ」 彼女が、ワンピースの両端をつまみあげて、軽く会釈をする。 「これが母親ってのに教わったとっておきの挨拶だ」 ――……? 「今……なんて……」 「“とっておきの挨拶”だ、ちがうのか?」 「その……前……」 「ああ、“母親に教わった”ってやつか。母親は気になる男に会ったらこれを見せてやれって言ってたな」 「……知らない……」 最後に残った生身の手が震えていた。 「どうした?」 「私は知らない……忘れているのでなければ……」 「………?」 「――それは、私の知らない彼女だ」 私が、忘れているだけなのか……? いや、記憶が失われていく中で、あの大罪の日と、彼女と出会い、その“挨拶”を見せてくれたあのパーティの日のことは、なんとかまだ心に刻まれたままだった。 しかし私は、彼女の挨拶の“ルーツ”までは知らない――何よりも、彼女の母親には会ったことはないのだ――彼女に出会ったときには、もう、亡くなっていたのだから。 私の乾いた頬を、何かが流れ落ちた。 「そんな……そんなことって……」 激しい動機――荒い呼吸――喉がひりつき、視界に闇が落ちるような狭窄感に襲われ、部屋の壁が、窓が、天井が渦を巻いた。 「エマ――まだ、君は“そこ”に居るのか?」 後ずさり、無様に膝をついて屈み込む私を、ハイドが戸惑った表情で見下ろしている。 「いつから……まさか、今なのか?? ウソだ……ダメだ……ダメだろ!? どうして……!!??」 私は錯乱したまま周囲の書物をかき回し今までの研究レポートをあさった。そして――“気づいた”。 「そうか……何で今まで……だから、“命”が残ってたから彼女の体は……単純なことだった……彼女は“まだ”………!!」 床に転がる、冷たい雨空を映すアンプルが目に入った。でも、そうだった……もう――。 「止めなきゃ……何か方法が……薬の進行を止めなきゃ! でも時間が――助けて……誰か、誰かエマを助けて!!! …………そうだ、“そう”すれば……!!」 その時、ふと、私の心に一つの疑問が浮かんだ。
「君は…誰だ…?」
私のその声は、降りしきる雨音にかき消されることなく、静かに、冷たく響いた。
to be continued…
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