羽音みのり ― 「香るように考える人」


松茸大学文学部・民俗宗教学科2年。
身長は小柄で、栗色の髪を首の後ろでゆるくまとめ、前髪だけが少し暴れている。
笑うとき、目じりにかすかに「笑いシワ」ができるのがかわいいと評判で、サークルの後輩たちからは「歩く春一番」と呼ばれている。

しかし、その穏やかさの奥には――彼女らしい“やばさ”がある。
教授陣は言う。「みのりは、感情の発酵速度が異常に早い」と。

幼少期 ― 「においで覚える少女」

みのりは、香りで世界を覚える子どもだった。
絵の具のにおいで季節を言い当て、図書館の本のにおいでジャンルを当てた。
(文学は甘く、歴史は埃っぽく、理科は少ししょっぱいというのが彼女の持論。)

家族はパン屋を営んでおり、朝はいつも発酵する生地の音と匂いで目を覚ました。
「お母さん、今日はパンが怒ってる」と言ったとき、母は笑いながら「じゃあバターでなだめてあげようね」と返したという。
この家庭環境が、のちの彼女の“発酵的感性”を育てたのは間違いない。

入学 ― 「においで志望校を決めた女」

進学の際、普通の受験生がパンフレットを読む中、みのりは大学説明会で配られた資料を“嗅いで”決めた。

「この紙、菌の気配がする」

それが松茸大学の入学理由である。
入試当日、作文課題のタイトルは『私が信じるもの』。
みのりは「菌と匂い」とだけ書き、30行の余白を香水で埋めた。
結果、合格。採点者のコメントには「紙から信仰を感じた」とあった。

学生生活 ― 「香りのフィールドワーク」

入学後は、民俗宗教学科の中でも特に「呪術伝承研究ゼミ」に所属。
教授から「羽音くん、君はいつも何かを嗅いでるね」と言われたとき、
彼女は真顔でこう答えた。

「人の心は鼻で読むほうが早いので。」

彼女の研究テーマは「香りと祈りの相関性」。
実際には、寺や教会、山中の社などでお香の種類と参拝者の滞在時間を記録している。
実地調査のノートには、数字よりも「やさしい匂い」「焦げた希望」などの形容が並ぶ。

授業の課題で「信仰の形を可視化せよ」と言われ、彼女は嗅覚地図を提出――キャンパスの各地点の“匂いの強度”を線で結び、
最終的に六芒星が浮かび上がるという偶然の産物を生み出した。
(教授陣は軽く引きながらも、「うっすら納得した」とコメントした。)

恋愛模様 ― 「鼻先の距離でわかる人」

恋愛には疎い方だった。
同じゼミの男子学生から「今度、菌観察に行こうよ」と誘われても、彼女は「それ、告白ですか? 菌ですか?」と真顔で聞き返した。

そんな彼女にも、少しだけ特別な人がいる。
図書館の地下書庫でよく出会う理学部の学生――“瓶を抱えて歩く男”。
名前も知らないまま、彼女は“酵母くん”と呼んでいる。

彼の通るあとには、わずかに甘いアルコールの香りが残る。
それが彼女の唯一の恋の証拠。
友人たちは「気のせいじゃない?」と言うが、みのりは「香りがあるなら、気のせいじゃない」と頑なだ。

ある日の昼休み、廊下ですれ違いざまに彼の瓶が彼女の袖に触れ、その夜、彼女の日記にはこう書かれていた。

「今日、心が発酵した音がした。」

趣味と日常 ― 「部屋の香りは季節で変わる」

寮の自室には、瓶、香木、古書、そして乾燥きのこが整然と並ぶ。
どれも“記憶の香り”として分類されているらしい。
瓶のラベルには「初夏の不安」「静かな文化祭」「教授の昼寝」など、本人にしかわからない名前がついている。

広報サークルにも所属しており、学内新聞のコラム「今週の香り」を担当。
第1号の記事タイトルは『食堂の松茸うどんは泣いている』で、読者アンケートの反応は「泣いた」よりも「笑った」が圧倒的に多かった。

友人関係 ― 「混ざることを恐れない」

みのりは誰とでも柔らかく話すが、人の輪に混ざるというより、香りのように“漂う”タイプ。
友人の一人はこう言う。

「一緒にいると、自分の中の雑菌まで優しく感じる。」

キャンパスの木陰でぼんやりしていることが多く、見かけた後輩が「寝てるんですか?」と声をかけると、「空気を読んでるんです」と返すのが定番のやりとり。

現在とこれから ― 「香りは記録になる」

彼女は今、「香りを使った記憶保存の方法」を研究中。
将来の夢は、“匂いで過去を再生する博物館”を作ること。
卒業後の進路について聞かれると、「風向きが決めてくれます」と笑う。

教授からは「そろそろ真面目に考えなさい」と言われ、彼女は真剣にこう答えた。

「真面目に、香りを考えてます。」

彼女のノートは、いつも少し香る。
それが、思考の発酵音。
最終更新:2025年11月03日 12:11