ラノで読む
「まァた、てめぇかよ……」
伊織が凶相で俺を睨みつける。
「よくもまあ無事だったもんだ。屋敷中に一気にぶちまけたんだ、下手したら丸ごと飲まれて窒息死もおかしくねェんだがなァ」
「ふふん、私が残ってたのが仇になりましたね!」
綾乃が胸を張る。確かにそうだ。あの硬化した粘液をその炎の熱で焼き溶かしたのは綾乃の力だ。彼女がいなければ俺たちはなす術も泣く捕らえられたままだっただろう。
「そうか、てめェか、米良」
視線が綾乃に行く。
「邪魔だよてめぇ。退け」
再び粘液が襲い掛かる。
「同じ手が何度も通じると思ってますかっ!」
綾乃が両手から炎を燃え上がらせる。だが――
「綾乃さん、駄目っ!」
沙耶ちゃんが叫ぶ。
「へ?」
沙耶ちゃんが走り、綾乃に体当たりする。それで体勢が崩れ、炎が粘液の触手を掠める。次の瞬間、一気にその触手が燃え上がった。
「どわあああっ!?」
炎に包まれた触手が庭に流れ出す。これは――油か!
「ちっ、惜しいなぁ、クカカッ。もう少しでお前は火達磨だったのによぉ」
それはドロドロの油だった。いちいち手が込んでいる。
「な、何なのよこいつ……異能者は能力ひとつのはずなのに、一体! 次から次へと!」
綾乃の悲鳴に、鶴祁先輩が言う。
「気を付けろ、そいつは黄金卿に魂を売り渡した、グリムアクターだ!」
「え……!?」
俺も綾乃も驚く。
「然り、然ァりッ! てなァ!」
大きく手を広げる伊織。
「これが俺の力だ、新しい力だ! そしててめぇらは俺の望むとおりに動く人形、玩具、道具! そうだ、てめぇらもそうなりゃいいんだ、俺の望みどおりのオモチャによ!」
粘液たちが蠢く。硬化液、毒、油……そんな様々な粘液の群れが、伊織をたたえるように踊る。
そして伊織は自分の顔面に手をかざす。
掻き毟るように、その手を……一気に振る。次の瞬間、その顔面には仮面が憑けられていた。
歌舞伎の隈取を模した、黒色に近い深緑の仮面。蝦蟇の皮膚のような質感を持つそれは、異様な邪気を放っていた。
「グリムアクター……狂った悪夢の、闇黒寓話の偶像の仮面。これを手に入れた者は、伝説伝承、物語の人物の力を手に入れる……って話だ。クカカッ、そうだ、俺は主人公だ。そしててめぇらは雑魚だ、脇役、書割にすぎねぇのさ……ああ、そうさ! ここから始まる、俺の! 児雷也豪傑譚が!!」
……狂っている。こいつは狂ってる、完璧にだ。昼間のこいつはまだ人間だった。俺の嫌いなタイプで、判り合えないとは思ったが、それでも人間性がちゃんと在った。だがこいつにはもはや狂気しかない。
物語の役割の仮面……その役を与えられてしまったこいつは、もはや人間と相容れることは無いだろう。読者が漫画や小説のキャラクターといくら心を通わせようと感情移入したところで、究極の意味では不可能なのと同じだ。なぜなら文字通り、次元が違う。
それと同じなのだ。もはや釜蔵伊織は、完全に力に取り憑かれ、呑まれてしまった。
つまりは……もう、戦うしかない。だが、しかし……
「祥吾さん」
傍らのメフィが言う。そうだ、戦う力はある。あるのだが……。
「カァアアアアッ!!」
伊織が叫ぶ。そしてその身を庭へと踊りだす。月光に照らされた夜に、伊織の呪文が響く。
「オンキリキリバザラウンハッタ! オンキリキリバザラダンカン!」
そして、中庭の池が波打つ。いや、渦を巻く。水柱が立ち、そこから現れるのは……巨大な蝦蟇だった。大きさはかるく5メートルは越える、怪獣といってもいい、巨大な蝦蟇蛙だった。
「ぎゃああ! キモっ!」
「ひっ……!」
綾乃と沙耶ちゃんが悲鳴をあげる。それはそうだろう。俺だっておぞましい。アマガエル程度ならかわいいものだが、実際にこれだけのサイズの蝦蟇蛙というものを目の当たりにすれば、威容よりも生理的嫌悪感が先に立つ。それほどまでに恐ろしいモノだった。
「地雷也といやぁ、蝦蟇でござーい」
笑う伊織。ああ、そういうことか。さっきのは言うなれば、ガマの油、ということか。なるほど、確かに地雷也といえばカエルというのは何かの漫画で呼んだ事があった。つまりこいつのグリムアクターとしての力は、粘液使いなどではなく、蝦蟇の召喚か!
「やれ!」
伊織の命令に、巨石の様に固まっていた蝦蟇の目に光がともる。そしてその口を開け、巨大な舌を伸ばす。
「え?」
それは寄り添っていた綾乃と沙耶ちゃんを一気に舌で掴み、そして……飲み込んだ。
「沙耶ちゃんっ! 綾乃っ!」
俺は叫ぶ。一瞬のことだった。間に合わなかった!
「クカカっ、安心しろ。死んでねぇよ、こいつは普通の蝦蟇じゃねぇ、俺が作り出した、俺の操るただのオモチャ、操り人形だ。普通の生き物じゃねぇ、だから食っても消化はしねぇ」
「……」
その言葉が本当かどうかわからない。だが、ここでそういう嘘をつく必要は感じられない。だとしたら本当なのだろう。だが……
「だけどお前がコイツを壊したら、一緒に死ぬかもなぁ?」
伊織が狂ったように顔を歪ませて笑う。
そう、つまりはそういうことだ。ていのいい人質だ。
「それでも良ければかかってこいよ、呼んでみろよ、永劫機とやらをなァア!!」
蝦蟇がその巨体を宙に踊らせ、俺に襲い掛かる。俺は走り、とにかく逃げる。
「祥吾さんっ!」
メフィが叫ぶ。だが……
「駄目だ……!」
呼ぶわけにはいかない。そう、あの蝦蟇は
ラルヴァじゃない、生き物じゃない。伊織の力によって作られた人形に過ぎないと、つい今しがた言われたばかりだ。それが事実なら、永劫機であれを倒しても、その蝦蟇の時間を喰らわせる事は出来ない。つまり、俺の時間が食い尽くされて俺は死ぬ。
かといって、伊織の時間を食うということは、伊織を殺してしまうことににる。それは駄目だ。いくらこうなってしまったとはいえ、それでも伊織は人間だ。人間だったものだ。そして先輩たちの身内なんだ。いくら気に入らないからといって、それが殺してしまう理由には絶対にならない。
故に、永劫機
メフィストフェレスを呼ぶ事は出来ない。俺がどうにかするしかない。
粘液の塊が次から次へと蝦蟇の口から飛んで来る。
それを俺は必死で避ける。だが……
「ぐぅ……あっ!」
粘液弾のひとつが俺の肩を掠める。服が溶け、肉が焼ける音がする。熱と痛みが俺の体を駆け抜けるのを、必死で噛み殺す。これは酸の粘液か……!
痛みに足を止めるわけには行かない。止まれば格好の餌食だ。俺は必死に庭を走る。屋敷の敷地内をとにかく走り、反撃の糸口を探す。だが走りながら、敵の攻撃を避けながらではまとまる考えもまとまらない。
「っ! しまっ……!」
足が止まる。粘着性の粘液弾が足に着弾した。そしてその隙を逃さず、蝦蟇の腕が俺を横薙ぎにする。
「ぐああっ!」
木っ葉のように俺の体が宙を舞う。細木を何本か折り砕き、地面を転がる。脇腹が痛い。あばら骨が折れたか……!?
呻く俺に向かって蝦蟇が走り、そして拳を握り、殴りかかってくる。
「ぐっ、がっ! がはっ!」
何度も何度も、殴りつけてくる。手加減をしているのか、先ほどを俺を殴り飛ばしたほどのパワーはないが、一撃が重いのは同じだ。
「ぐ……うっ」
「祥吾さん!」
メフィが駆け寄ってくる。だが、蝦蟇が粘液を吐き、それによって樹に縫い付けられる。
「メフィ!」
「う……っ、きつ……っ」
メフィは動けない。それはそうだろう。鶴祁先輩をも縛りつけたそれは、メフィの力ではどうしようもない。永劫機の姿を顕現させた時ならともかく、人の姿を取っている時は、人間の女の子と同じ力しか持たないのだ。
「ヒハハッ、いいザマじゃねぇか」
伊織が笑いながら近づいてくる。
「下がれ」
その言葉に忠実に従い、蝦蟇が一歩引く。そして伊織は倒れた俺の体を持ち上げ、そして腹に拳を叩き込む。
「うごっ!」
激痛が走る。蝦蟇を作り操れるようになったとはいえ、伊織の能力が変わったわけではない。身体強化の異能はそのままだ。そんな力で殴られたのだ、下手したら内臓破裂するかもしれない、それくらいの破壊力だった。胃液が逆流する。胃酸が喉を焼き、血の味が口の中に充満し、鼻を突く。
何度も、何度も殴りつけてくる。
「クカカッ……どうだ、見下される気分は。最高だろォ?」
髪を掴み上げ、顔を近づける。仮面の奥で凶暴な目が俺を睨みつけてくる。
「力が無い奴は何もできねぇ。力なき正義は意味がねぇ。お前には何も出来ねぇんだよ……クク、ヒハハハハハハ!」
そして、俺を地面に叩き付けた。激しい衝撃と激痛が俺を襲う。
だが……。
「……?」
伊織が俺を怪訝な目で見下ろす。地面に叩き伏せられてもなお、起き上がろうとする俺を。
そうだ、それでも俺は立ち上がろうともがく。全身が痛い。体の節々が軋み、悲鳴をあげている。だが……
「……ついこないだ、同じことを言われたよ」
「あ?」
「だけどなんでかな、あの時はすごく痛かった、すごく響いたのに……お前のは痛くねぇ、響かねえ。
全っ然、俺の魂に届かねえよ!」
立ち上がる。そうだ、同じ言葉でも重みが違うんだ。先生はあの時、血を吐くような勢いでその言葉を言った。自分を切り刻むかのように。あの人は、違う。俺の眼前に居る、もらっただけの力に酔うような、そんな奴とは違う。だから、俺も……あの人の意思を受け継ぐと誓った。そして、あの人のように間違わないと誓った。
宿題だと言われた。だからそれを全力で俺は貫いて突き進む。そうしなきゃいけないんだ。俺は、あの人の生徒なんだから。
だから……!
こんな奴に、力に溺れて有頂天になってるだけの奴に、絶対に負けられない!
「祥吾さん! もういい、もういいから私を! 永劫機メフィストフェレスを!!」
メフィの声が響く。だけどそれは駄目だ。
絶対に負けられない、だけど……それはこいつを殺していいって理屈じゃない。それにもはやこれは意地だ。馬鹿だと言えばいい、笑いたくば笑えばいい。だけど、力に力で勝ったところで……こいつに永劫機の力で勝った所で、それは意味が無い。それじゃ相手が正しいと認めることになる。力が全てだと認めてしまうことになる。それは負けに等しい。だから……
俺は俺のまま、こいつに勝つ!
「……クッ」
伊織が笑いながら俺に近づいてくる。
「威勢だけは立派だなぁ、だが……膝が震えてるぜ、みっともねぇほど。いやそれどこか……よっ!」
伊織が腕を振る。俺は避けることも出来ず、棒立ちのまま殴り飛ばされる。
「は、ひゃはははは! なんだてめぇ、無様だなあ、ああン?」
俺はその言葉に耳を貸さず、這いずりながら……土蔵の方へと進む。この庭の隅にある土蔵だ。
「ンぁ? なぁに逃げてんだよ、そっちは行き止まりだぜ?」
笑いながら、倒れた俺に近づき、見下ろしながら伊織は俺を踏みつけてくる。
「ぎ……っ!」
頭を土足で、踏みにじる。土蔵まであと数メートルたらずといった所で俺の体は地面に押し付けられる。
「ぐ……ううっ!」
顔面が土にめり込む。口の中に土と泥が入り込み、嫌な歯ざわりと味が口の中を支配する。
「おら、おら、そら、ほら! どうしたどうした」
足をあげ、そして踏みつける。それを何度も繰り返す。何度も叩きつけられ、そして……俺は動かなくなる。
「……もう終わったか?」
泥にまみれた俺の頭を掴み上げ、いとも軽く持ち上げる。
「ククっ、ズタボロのまるでゴミだなァ……」
余裕の笑みで俺を嘲笑う伊織。
だが次の瞬間、その笑みは凍りつく。
「……っ!!」