その後ぼくたちは商店街の喫茶店で落ち合った。
ぼくと龍之介《りゅうのすけ》の前には、おどおどと辺りを気にしている野村《のむら》桃子《ももこ》さんがちょこんと居心地悪そうに座っている。朝顔《あさがお》くんは用事があるそうでどこかへ行ってしまった。彼がいると話が面倒なので、ちょうどいいのだが。
犯人は浅木《あさぎ》昭雄《あきお》。龍之介は野村さんに電話でそう告げた。そのまますぐこの場所を指定し、わけも話さず切ってしまったようなので、野村さんはとても泣きそうな、動揺したような表情をしている。『不安』という感情のときはああいう顔をすればいいのだろうか。龍之介はぼくにも黙ったままなので、わけがわからないままだ。
「あ、あの龍之介くん。あっくんがストーカーってどういうこと?」
運ばれたドリンクにも手をつけず、野村さんは身を乗り出すように龍之介に尋ねてくる。当然だろう、自分の恋人がストーカーだなんて、そんなことあるものなのだろうか。周りの客たちの視線を気にしながら野村さんは龍之介の言葉を待った。
キッと龍之介を見据える野村さんと対照的に、龍之介は目の前にあるメロンソーダを一気に飲みほし、どんっと勢いよくテーブルにグラスを置いた。そしてにやりと笑い、その緩い口を開く。
「答えは簡単だ。桃子ちゃんを護ってくれる勇敢な騎士《
ナイト》様の浅木昭雄は、同時に桃子ちゃんを恐怖に陥れるドラゴンだったのさ」
龍之介のその言葉を聞き、野村さんは理解しがたいといった顔をしていた。ぼくもそれを聞いてもまったく意味がわからなかった。それはつまり――
「自作自演……ってことか?」
その言葉をぼくが発すると、なぜか野村さんはびくっと肩を震わせた。
「そうだ。浅木昭雄の自作自演だよ。これは全部浅木昭雄が桃子ちゃんに好かれるためにやっていたことなんだよ」
「どういうことだ。なんでそんなことを……?」
「兄貴にはわかんねーだろうよ。人を好きになるってことはそういうことだ。相手に振り向いてもらうためにならなんだってできる。それが恋だ」
恋――か。それは確かにぼくにはわからない。感情のないぼくは、人を好きなる『恋愛感情』すら持っていないのだから。肉親である、自分の身体の一部のような存在であるアキ姉となら平気だけど、他人と手を触れたり、ましてや唇や身体を重ねるなんて想像するだけで吐き気がする。心の読めない相手のことを信頼なんかできるわけもない。
「お前はわかるってのか龍之介」
「わかるよ。俺は好きな相手のためなら殺されてもいいし、それを邪魔するやつはたとえ神様だろうが殺してやる。生憎、そこまで惚れ込める女とは出会ったことねーけどな」
龍之介は右耳の三連ピアスをいじりながら不敵に笑っている。いつも色んな女の子と一緒にいるけど、龍之介からすればそれは総てただの遊びなのだろう。性欲処理程度にしか思っていないのだろう。そんなこいつが誰かに殺されたいと思うほど愛せるのか甚だ疑問だが、今はそんなことどうでもいい。
「あ、あの。龍之介くん。全然わからないよ、キミが何言ってるのか……」
「恋人を疑いたくなる気持ちはよくわかる。だけど俺はストーカーを退治しろと桃子ちゃんに言われた。だから真実を暴いてやるさ。いいか、これは簡単な話なんだ。桃子ちゃんの部屋に盗聴器と盗撮カメラを仕込める人間なんて、それこそわずかしかいない」
「そ、それは……」
野村さんは何も言えず、じっと黙ってしまった。落ち込んでいるのだろうか。それとも恋人に対しての疑いを抱き胸が痛いのだろうか。それとも怒っているのだろうか。よくわからない顔をしている。もう少しわかりやすく感情を顔にだしてくれないと、ぼくには野村さんがどんな感情を今抱いているのか、想像もできなかった。
しかし盗聴器に盗撮カメラか。確かに十を超える数があの部屋には仕掛けられていた。あれを仕掛けることは容易じゃないだろう。あの部屋の死角を理解し、長時間あそこにいられる人物。ましてや女子寮に怪しまれずに入れる男といえば確かに限られる。
「そう、恋人の浅木なら桃子ちゃんと部屋にいる時、桃子ちゃんがトイレとか席を立った時にちょっとずつ仕掛けたりできるはずだ。盗聴器や盗撮カメラはいっぺんに仕掛けられたんじゃなくて、こうして機を見て徐々に仕掛けられたものだと俺は思う」
龍之介は楽しそうにテーブルを指でこつこつと叩き、じっとりとした目つきで戸惑い震えている野村さんを見ていた。黙っている野村さんを気にせず、淡々と自分の推理を展開していく。
「浅木昭雄がなんでそんなことをしてたかって? それはね、桃子ちゃん。キミのことが好きだったからさ。桃子ちゃんにストーカーが付きまとうようになったのは浅木昭雄と付き合う前だったよね。無言電話がかかってきたり、誰かに後ろをつけられたりしてたらしいじゃないか」
「え? はい……」
「それも浅木昭雄の仕業だよ。浅木昭雄は桃子ちゃんがボクシングの試合を見に来た時から一目惚れしてたんだ。だけど女に無縁だった暑苦しいボクシング部のあいつらが真っ当に女の子と接することなんてできない。そこで浅木昭雄は無い頭で考えたんだ」
「それが、自作自演……か」
「そうだ。兄貴も知ってるだろ、『泣いた赤鬼』の話を。それと同じように、女に不良を絡ませて、そこを助けに入って好感度を上げるなんて大昔からあるベタな方法だよ。でも、浅木昭雄にとっての“青鬼”である奥瀬《おくせ》裕也《ゆうや》もまた、桃子ちゃんのことが好きだった」
また野村さんはびくりと身体を震わせた。
そう、野村さんの恋人である浅木先輩の親友で、ボクシング部の同輩である奥瀬先輩もまた、野村さんに一目惚れをしていたのだ。同じ女を好きになった親友同士、そこにどんな思いが生まれたのか、それはぼくにはわからないだろう。
「そ、そんなことまで調べたんですか?」
「まあね。最初は桃子ちゃんにふられた奥瀬がストーキングの犯人だと思ったけど彼には無理だね。ともかく浅木は奥瀬が桃子ちゃんに告白したと知って、桃子ちゃんを手に入れるために奥瀬に協力を仰ぐことができなくなってしまった。そこで浅木は、自らが“赤鬼”であり“青鬼”であろうとしたわけだ」
「なるほどな龍之介。つまり浅木は、桃子ちゃんの気を引くためにストーキングをして怖がらせ、そして自分はあたかも姫を守る騎士のように振る舞っていたってわけか」
ぼくがそう言うと、龍之介はぱんっと手を打ち、「その通り」と笑った。
「ストーカーという恐怖で不安になってるときに、ボクシング部のエースなんて頼りがいのある男が傍にいてくれたら女の子としては心強いだろう。浅木もそう思ってたのさ。実際は最初から桃子ちゃんも浅木のことを好きだったわけだから、こんな小細工をしなければこんなややこしいことにはならなかったんだよ」
龍之介は馬鹿馬鹿しいといったふうにそう吐いて捨てた。最初からお互いのことを解っていればこんなことにはならなかったのだろうか。ぼくのように人の気持ちがわからない人間でなくても、こうして人と人はすれ違う。皮肉なもんだな。
「そんな、そんなわけないわ! あっくんはストーカーなんかじゃない!!」
「でも浅木以外に犯人はいない。彼以外にキミの部屋に細工で来た奴はいないはずだ。全部浅木昭雄の自作自演だったんだよ」
龍之介は大げさに手を上げ、ウェイトレスを呼びとめてメロンソーダのおかわりをしていた。そんな龍之介を、野村さんは酷く細い目で睨みつけていた。その瞳には涙が浮かび、唇をぎゅっと噛んでいる。ああ、あれはどういう表情なんだろう。怒りか、悲しみか、悔しさか、やるせなさか。それともその総てを露わした顔なのか。
ずっと信じていた恋人のその優しさが嘘だと叩きつけられて、野村さんの頭はぐちゃぐちゃになっているのかもしれない。
だがこれでストーカー騒ぎも収まるだろう。
……いや、ぼくたちは大事なことを忘れてないだろうか。
「おい龍之介。勝手に浅木先輩を犯人にこじつけているが、彼の顔に火傷の痕はあるのか?」
「は? そんなの確かめるまでもなく浅木が犯人だろう」
「お前があまりに自信満々だったから思わず飲まれかけたが、お前の推理は少し暴論じゃないか?」
「俺が間違ってるってのか兄貴。じゃあ確かめてみようぜ!」
ぼくの言葉に少し苛立ったのか、龍之介はむっとしている。ああ、そうだ。こいつはバカだった。こんなやつが推理できるわけがない。ぼくはうんざりして溜息をついた。いつもそうだ、龍之介は気が早く、いつも結論を急いで失敗する。兄であるぼくがそれを止める必要があるだろう。
「火傷……何の話ですか?」
野村さんが不安そうにぼくたちの話しに入ってきた。そうか、そういえば彼女はぼくたちが襲撃されたことを知らなかった。さっき会った時も、ぼくたちの顔を見て顔を青くしていた。
「ああ、言い忘れてたけど俺たちストーカーらしき人物に襲撃されたんだよ。それでこのざまだよ。でもなんとか反撃に成功した。スタンガンで顔を焦がしてやったんだよ。だから犯人は顔に小さな火傷を負っているはずだ」
そう龍之介が投げやりに言うと、野村さんは少しだけ考え込み、そして再び顔を上げた。
「そ、そんなことがあったんですか……。昨日、あの後にあっくんが来てくれましたけど、どこにも怪我なんてしてませんでしたよ」
「え?」
その言葉に、龍之介はぽかんとした表情になってしまった。
龍之介は自分の推理を過信していたため、一番大事なことを忘れてしまっていたようだ。まったく、いつもこうだ。龍之介は何かを言い当てたことがない。
「そ、そんなわけない。浅木昭雄が犯人に決まってる!」
「で、でもでも。あっくんは本当に怪我してなかったんですよ」
「そ、そんなの――」
「やめろ龍之介。全部お前の早合点だ。お前の推理は穴だらけなんだよ。確かに浅木先輩が犯人ならすんなりと解決するが、それはそれだけの話だ。決定的じゃない」
ぼくがたしなめると、龍之介はちっと舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。悔しいのか知らないが短気すぎなんだよ。そうやって怒ったり拗ねたりできることが、羨ましいなんて別に思わないけど。
「野村さん。それでも一応確認のために浅木先輩と会わせてもらえないかな。一応挨拶もしておきたいし」
ぼくたちはまだ一度も浅木先輩と顔を合わせたことがない。それなのにこうして犯人扱いするのは早計だろう。龍之介の推理も完全に間違いかどうかもまだ否定できない。少しでも疑いがあるのなら晴らすべきだろう。
「え、でもあっくん今日は前の試合の疲れで家で寝てるって……」
「“でも彼だってぼくたちみたいな連中と彼女がこうして会ってるなんてきっと良く思ってないよ。今後のことも相談したいし”」
「わかりました。あっくんの家に電話してみます。」
ぼくが|嘘の言葉《ペテン》をかけると、野村さんは渋々携帯電話を取り出して番号をぴっと押していた。軽いものだ。
「あ、あのあっくん? 私だけど――え? 誰あなた……」
電話先の人物に話しかける野村さんの顔がさっと青くなっていく。唇も震え、目を剥き、怯えた様子だった。明らかにまともじゃない。誰がその電話に出たんだ。不審に思いつつただ見ているだけのぼくとは違い、野村さんの異変に気付いた龍之介は身を乗り出していた。
「貸せ! なんの電話だ!」
龍之介は野村さんから携帯電話を奪い取り、自分の耳に当てて怒鳴り散らす。
「お、お前は誰だ! 浅木昭雄なのか!?」
ぼくは龍之介の顔に自分の顔を近づけ、一緒にその電話の声を聞き取ろうとした。
すると、電話の向こうからくぐもった声が聞こえてくる。
ぞくぞくするような低い声が耳を伝い、龍之介は冷や汗を垂らしていた。その声はまさしくぼくたちを襲撃したあのレインコートの人物と同じものだ。そして、その携帯の向こう側から「助けてくれ……」という苦痛にまみれた声がかすかに響く。
ぶつりと電話は切られ、ぼくたちはそこに立ちつくしかなかった。ぼくたちは顔を見合わせ、驚愕を共有する。
「兄貴……今のは……?」
「わからない。だけど浅木先輩に何かあったことは間違いないだろうな……」
ぼくが携帯電話を野村さんに渡すと、やはりそれを受け取る手はとても震えていた。ガチガチと歯を鳴らし、涙はもう洪水のように溢れている。
「あ、あっくんが、あっくんが……!」
「落ちついて野村さん。浅木先輩のところに行こう。場所を教えてくれないか」
泣いて震える野村さんを面倒だと思いつつそう尋ねると、彼女は目を吊り上げぼくに向かって水をぶっかけた。冷たい。
「あ、あなたなんでそんな冷静なの! あっくんが……あっくんが危ないかもしれないのよ!」
ぼくのブレザーは水に濡れ、じんわりと染み込んでいく。これは、怒っているのか。怒りの意思表示なのか。なんでこの女はそこまで怒っているのだろうか。意味がわからない。
ぼくが焦ったりあわてたりしても何の意味もないじゃないか。なぜ女という生き物はこれほどまでに感情的なんだろうか。理解できない。したくもない。気持ち悪い。
「おい兄貴、落ちつけ。そんなフォークを持ってどうするつもりだ」
龍之介の刺すような静かな声でぼくは我に変えた。いつのまにかぼくの右手にはファミレスのフォークが握られている。なんだこれ。ぼくが握ったのか。なんで。フォークの切っ先は野村さんの目に向いていた。野村さんはとても怯えた目でぼくを見ている。やめろ、そんな目でぼくを見るな。
「……野村さん。早く浅木先輩のところへぼくたちを連れて行って下さい」
ぼくはなんとか表情を取り繕い、頬の筋肉を動かして笑顔を作る。満面の笑みだ。きっととても優しい笑顔ができているはずだ。だが野村さんは身体が固まって動けないようだった。それを見かねた龍之介が、野村さんの手を引っ張る。
「桃子ちゃん。ほら、深呼吸して。さあ行こう」
龍之介は無理矢理野村さんを外に連れていく。ぼくは仕方なくここの代金を払い、その後を追った。思わず握っていたフォークを財布と一緒にポケットに入れてしまったことに後で気づいた。