瀬賀《せが》或《ある》は医者である。
いや、ヤブ医者である。
いやいや、彼はそもそも医師免許を持っていない、モグリの医者である。
いやいやいや、そもそも彼はもう医者と名乗ってすらいない。
彼は、そう、言わば“保健室の先生”と呼ぶのが一番正しいだろう。
だが彼は教員免許も持っておらず二年の保健の授業を担当しているが、正式な教師ではないようだ。
双葉学園、その高等部の空き部屋を保健室としてお情けで借りているだけである。
「ファック! また大外れだドチクショウ!!」
ヤニと薬品の臭いが充満するその保健室でそんな叫び声が響く。瀬賀はイヤホンを耳から外し、書類と雑誌で散らかっているデスクの上のラジオを蹴り飛ばした。ラジオは壊れたようにノイズを発し、地面にたたきつけられたころには完全に沈黙してしまう。
「ちっ、これで今月の当ては完全に消えたな。給料日までどうやって生きるかな……」
瀬賀は椅子の背にもたれかかり煙草を一本取り出して、苛立ちながらライターの火をガシガシとつけた。
煙草を口にくわえ、ふうっと煙を天井に向けて吐くと、ようやく落ち着いたようである。しかし煙草を吸っても目の前の現実は変わらず、競馬のレースの結果は彼の望むものではないままだ。ボサボサの髪をぼりぼりと掻き、どうしたものかと頭を抱えた。
(またしばらくパンの耳生活か。春奈《はるな》先生から苺ジャムでも分けて貰おうかな)
瀬賀は肩を落としながら保健室の白いベッドへとダイブした。ここ以外にも治療設備の整っている保健棟が存在するため、不良保健医と評判の瀬賀の部屋には滅多に生徒はこない。このベッドもほとんど彼専用になりつつあった。
瀬賀はまだ二十五歳と若く、大学どころか高校も出ておらず、十代の頃からずっとサンフランシスコで暮らしていた。そこで彼は自分の“能力”を利用して、裏の世界の住人を相手に闇医者をして生活していたのだが、とあることをきっかけにこの双葉学園で雇われることになった。
だが特に
ラルヴァの戦闘や援護に駆り出されるわけでもなく、彼にとってここでの生活は退屈そのものであった。
(しっかしつまんねーな。サンフランシスコにいた頃は毎日頭の上を銃弾がかすめていったもんだけど……)
瀬賀は煙草をくゆらせながらダメージの入ったジーンズのポケットに手を突っ込み、保健室を出ていこうとしていた。
どうせ自分がここにいても客なんてくるわけもなし――そう思いながら瀬賀はどこか外をブラつこうと保健室の扉に手をかける。堕落した大人である瀬賀にとってここは娯楽の少ない言わば監獄に近いものである。仕方なくマンガ喫茶で暇をつぶすかと考えていた。
だが、そんな瀬賀の思惑は突然の珍入者によって遮られることになる。
「ごらぁ出てこい瀬賀ぁ! ぶっ殺してやる!!」
突然そんな叫び声と共に扉は豪快に開かれ、金属バットを振り回しているガラの悪い男子生徒が保健室に入り込んできた。
それを見て瀬賀は慌てるというよりは呆れた様子で、やれやれと溜息を洩らす。
「なんだお前。何の用だ。保健室に来るってことはどっか悪いのか? いや、頭が悪いのはわかってるからいちいち報告しなくていいぞ。ほれ、回れ右して帰って寝ろ」
瀬賀が小馬鹿にしたように大げさに煙草の煙を吐きながらそう言うと、その男子生徒は頭の血管を浮き立たせ、顔を赤くしていた。いわゆるプッツン状態である。
「ふざけんな瀬賀! お前が真由美《まゆみ》を誘惑したんだろ! 生徒に手を出しやがってこのクズ教師!」
「真由美ぃ?」
瀬賀は首をかしげる。必死で記憶の海を検索し、なんとかその名前を思い出した。
「ああ、この間俺に告白してきた女か。なんだ、あいつお前の彼女だったのか?」
真由美というのはここの二年生だ。数日前に瀬賀はその少女に告白されたのだが、いわゆる『ギャル』っぽい少女で、瀬賀の趣味とは正反対だったため、すぐに断ったはずだ。
「そうだ、お前が真由美をたぶらかしたんだろ!」
「答えはノーだ。向こうが勝手に告白してきたんだよ。お前が彼氏なら裏切ったあの子を責めろよ。俺の知ったこっちゃねーっての」
「うるさい! お前がいなければ――!」
男子生徒は無茶苦茶なことを言って金属バットを振りおろしてきた。瀬賀はそれをさっと裂け、床にバットの頭が当たり、耳をつんざく金属音が部屋に響く。瀬賀はまいったとばかりに頭を掻く。
「ファックシット! すぐに暴力に訴えてくるなよ、猿かよてめーは」
「うるせえ! 覚悟しろ!」
男子生徒は何度も瀬賀に向かって金属バットを振り回してくる。しかしサンフランシスコでヤンキー相手に毎日のようにストリートファイトしていた瀬賀にとって、彼の攻撃は子供の駄々と変わらない。
「ちっ、めんどくせーな」
瀬賀は咥えていた煙草をぷっと吐き出し、その男子生徒の顔に当てた。火が額に当たった彼は、「あつっ!」と叫び、反射的に目をつぶる。それを見逃さなかった瀬賀は、彼の足を引っ掛け、バランスを崩して倒れこんできた瞬間に腕を締め上げ、そのまま回転するように彼の顔面をデスクの上に叩き伏せた。その拍子に金属バットは男子生徒の手を離れゴロゴロと床を転がっていく。
「ったくあぶねーな。金属バットは野球するものであって人を殴るもんじゃねーぞ」
「いでえ! いてててて! せ、生徒が教師に暴力振るっていいのかよ!」
男子生徒はねじ伏せられながらも、必死で目を動かし瀬賀をねめつけている。
「ヘイヘイ、チェリーボーイ。俺は別に真っ当な教師でもねーよ。大体な、ここは保健室だ。保健室では俺が神だ。保健室で保健医に勝とうなんて一兆年早いっての。手首へし折るぞ」
瀬賀は締め上げた男子生徒の手首を、さらにギリギリと痛めつける。
「いでででででででで!」
「いいかクソガキ。身体の治し方知ってるってことは、同時に身体の壊し方も知ってるんだよ」
そんな冷たい声を耳元で囁かれ、男子生徒は完全に黙ってしまった。そうしてようやく瀬賀は男子生徒を解放し、蹴り飛ばして保健室から追い出した。
「ほれ、湿布やるからもう二度と来んなよ」
ぺいっと湿布を男子生徒の背中にぶつけ、ぴしゃりと扉を閉めてしまった。
(まったく。元気有り余ってるな若い連中は)
これが瀬賀の日常だった。暴力的で横暴な性格の彼には敵が多い。なまじ端正な顔をしているものだからこうして女性関係の揉め事も多いようだ。もっとも、彼にとってここの生徒は興味の範囲外であろう。どうやら瀬賀は自分より歳が上の女性が好みのようだ。
瀬賀が扉から離れようとすると突然、
「大変大変大変だよー! 瀬賀せんせーいるー!?」
誰かがそう叫びながら扉を開き飛び込んできた。
(今度は誰だよ……ふぅ)
校内暴力生徒が去って行ったかと思うと、入れ違いで今度は別の生徒がやってきたようだ。
目の前に瀬賀がいるのに飛び込んできたせいでその生徒は瀬賀のお腹と正面衝突してしまう。だがその生徒は小柄で、体重も軽く、ぶつかった衝撃はほとんどない。瀬賀にぶつかったその生徒は「あれー目の前が真っ暗だよ~」と呻いている。瀬賀はその生徒に見覚えがあり、呆れながらその生徒の襟首を掴み上げて引き離した。
「何が変態変態変態だ。変態はお前だろ有葉《あるは》。いい加減そのある趣味の人間の欲情を誘う格好はやめろっての」
その人物、有葉《あるは》千乃《ちの》は小学生と勘違いするほどに小柄で、ブレザーにスカートを穿いている。だが有葉は女の子ではなかった。れっきとした高校生男子である。もっとも、そう言われなければ絶対に気付くことはできないほどに愛らしい容姿をしているのだが。彼は二年H組の生徒で、そのクラスの保健の授業は瀬賀が担当しているのだった。
しかしいつもニコニコとしている有葉だが、今は少し焦っているような表情をし、ばたばたと腕を動かして瀬賀に訴えていた。
「違いますよぉ、瀬賀せんせー! 変態じゃなくて大変なんですってばー」
小柄な体を動かして必死になっている有葉を見て、瀬賀もその真剣さを理解し、表情を引き締めた。
「フムン。それでなんだって。何が大変なのか説明しろって」
「あ、あのね。あっちで女の子が血を出して倒れてるの!!」
それを聞いて瀬賀はだるそうな顔から、保健医としての表情に切り替わった。
「ファック! そりゃ最高にまずいな。いいぜ行ってやるよ有葉。この天才ドクター瀬賀様の超診察を見せてやろう」
瀬賀は壁にかけていたヤニで黄ばんでいる白衣を羽織り、救急箱を手に持って有葉と共に廊下を走っていく。
とてとてと小さい足を必死に動かして走る有葉を瀬賀は後ろからついていき、たどり着いたのは高等部の中庭だった。瀬賀は青い芝生を踏みしめながら辺りを見回す。中庭は広く、植物が異様に生えており、視界を遮る植物の葉のせいで、全体を把握するのは至難だろう。
「それで有葉。怪我人はどこだよ」
「こっちですよー」
有葉が指をさした方向に瀬賀は走っていく。するとそこには数人の生徒たちが集まっていた。なんだか不穏な様子だ。瀬賀は眉を寄せながら彼らに呼びかけた。
「おーい。お前らどうしたー?」
すると、その生徒の輪の中から一人、妙齢の女性が瀬賀の方へ走り寄ってきた。その女性ははらはらと瞳に涙を浮かべ、瀬賀の腕にしがみついている。
「瀬賀先生! 大変なんです! まさかあんなところに女の子が倒れてるなんて……。すごい血だらけで、私も失神しかけてしまいました……。春部《はるべ》さんが病院に運ぼうって言ったんですけど、動かしたら余計に危ないかもって思って……。でももし私の判断ミスであの子が死んじゃったら責任追及されてこの学園から追放されてしまうかもしれません……。そうしたら実家に戻されてまたお見合いを――」
「あー、練井《ねりい》先生。そんな上目遣いで涙を流しながら腕を引っ張られると俺勘違いしちゃいますよ。ともかく落ちついてください。どういう状況なんですか」
その女性は涙を拭い、ふうっと瀬賀の瞳を見つめた。彼女は練井|晶子《しょうこ》(二十八歳)。有葉たち2年H組の担任である。
「もう、そんな皮肉はやめてください瀬賀先生。どうせ私は魅力ないですから、私見たいなおばちゃんに瀬賀先生は興味ないんでしょう。ここに来る前は金髪美女を何人もはべらしていたって聞いてますよ。それに比べて私は地味でスタイルもよくないし春部さんのがよっぽど――」
「いやいやいや、練井先生は十分魅力的ですってば。それに俺とは三つしか年齢変わらないでしょう。ってだからそんな話をしてる場合じゃなくて! 怪我人はどこです。誰なんですか!?」
瀬賀は練井の肩を揺さぶり、彼女ははっと我に返った。そして震える指で植物の茂みに隠れるように倒れている少女を指した。その脇には有葉の友人(彼女いわく|婚約者《フィアンセ》)の春部《はるべ》里衣《りい》が硬い表情をして立っている。野次馬で集まっている生徒たちを近寄らせないようにしているようだった。彼女はネコのようにしなやかな肢体に、アイドルが裸足で逃げ出すほどに魅力的なボディが特徴的だ。瀬賀に気付いた春部は、そのネコ目で彼を睨みつける。
「やっときたのね、このヤブ医者」
「ファック。黙ってろネコ娘。ここからは俺の出番だ。これ持ってろ」
瀬賀は白衣の襟を正し、春部に救急箱を押し付け、瀬賀はその倒れている少女の前へ膝を下ろす。
その少女の怪我は、一目見ただけで致命傷だとわかった。
彼女の右腹部からは大量の血が流れている。辺りの植物の葉や、芝生に赤黒い血がこびりついている。腹部が刃物のようなものでズタズタに切り裂かれたような痕があるが、傷はそこまで深いようではないようだ。だがその傷口からは少しずつ今も血が流れている。飛び散った血の凝固具合を見るに、彼女が怪我をしてから数時間は経っているようである。自体は一刻を争うものだった。
瀬賀はその少女の白い頬に触れる。血が流れているため酷く冷たい。
(何歳だこの子。小学生くらいに見えるが、有葉の例もあり見た目だけで年齢を判断することはできないな。何歳かはわからないがこの体躯じゃこれ以上血を流させるのはマズイ)
その少女の格好を見るに、双葉学園の生徒ではないだろうと瀬賀は思った。ここの制服ではなく、どこかの国のお姫様のような黒いドレスを着こんでいる。しかしこの島では奇抜な格好な人間は多くいるので、一概に判断できないだろう。
(全裸やら着物やら、挙句の果ては女装やピエロの格好したやつまでいるからなここは。ほんと変態ばっかだぜ)
だが、瀬賀が一番目驚いたのはその少女が日本人には見えないことだった。少女の髪は鮮やかなブロンドで、肌も白く、西洋系の顔立ちをしている美少女である。
(まあ、ここはラルヴァの生徒もいる双葉学園だ。外国人くらいで驚くこともねーか)
瀬賀はぼりぼりと頭を掻き、ふっと春部のほうへ振り向いた。
「春部。救急車は呼んだのか?」
「呼んだわよ。でも救急車が来る前に死んじゃいそうよ、なんとかしなさいよこのヘボ医者!」
「ふぅ、俺は別に医者じゃないんだけどな……」
口調はきついが、春部もまたその少女のことを心配しているのだろう。瀬賀は肩をすくめながらもにやりと笑った。
「オーケー。じゃあプロが来る前にチャッチャっと応急処置を済まそう。どっちにしろ今処置しないと間に合わないだろう」
「た、助かるの瀬賀せんせー? 大丈夫かなぁ……」
有葉も恐る恐る心配そうに覗きこんできた。一体この少女がなぜこんな怪我をし、こんなところで倒れているのか見当もつかないが、今はただ目の前の患者を助けることに集中するべきだと瀬賀は判断した。
「さて、いっちょやるか」
そう呟き、瀬賀は救急セットをその場に広げ、メスや包帯に糸をざっと取り出した。両手にゴム手袋をはめ。目を瞑り、精神を集中していく。まるで瞑想をするかのように微動だにしない。
「ちょっと。何寝ようとしてんのよ! 早くしなさいってば!! 少しは医者らしいことしなさいよ!」
「俺は医者じゃねえよキティちゃん。まったく、憎まれ口きかないと死んじゃう病かよ。その口縫い合わせちまうぜ――ファック、そんなことはどうでもいい。さて、術式開始だ」
カッと目を見開き、瀬賀はその少女の体全体を凝視した。すると瀬賀の両眼は真紅に染まり、瞳孔が開いていく。
(“|医神の瞳《アスクレピオス》”発動――)
その瀬賀の瞳には人体の総てが見える。
神経の一本一本。血液の流れ。その肉体が持つ特徴や、弱っている部分。どこをどう繋ぎ合わせれば傷を治すことができるのかが彼の眼には映る。腹部の裂傷、出血、それらを総て塞ぐ手順が彼の脳内にイメージとして流れ込んでくるのだ。
(これは……。酷い傷だ。生きているのが奇跡なくらいだな。早く手を打たないと)
人体構造を把握した彼の手は自然に動き、彼女の傷を見る見るうちに塞いでいく。その手さばきは素早く、はたから見れば千手観音のように彼の手が無数にあると錯覚するほどにその手つきは完璧だった。ガーゼを傷口に当て止血止血止血。入り込んでいる土の汚れなどを取り出し、糸でその傷口をひたすら縫合していく。それはほんの一瞬の出来事。わずか一分足らずで応急処置は終わってしまった。それを見ていた他の三人はぽかんとしている。
「よし、ばっちりパーフェクツ! これでオールオッケーだ」
「ほ、ほんとに大丈夫なの?」
「とりあえずは――な。でも危険な状態には変わりない。早く輸血しないと駄目だ。あとは救急車が間に合うのを待つしかねぇよ」
どっと疲れが来たようで、滝のような汗を大量に流し、瀬賀はその場に倒れこんでしまった。
「せ、瀬賀先生!」
倒れた瀬賀を心配して、練井は彼の元へ駆け寄った。意識はあるようで、ただ純粋に疲弊しただけのようである。
「だ、大丈夫ですよ練井先生。ちょいとばかし疲れただけです。俺のこの“修復《リカバー》”は結構体力使うんですよ。まったく、腕が痛いぜ。俺も普通の治癒能力《ヒーリング》だったら超能力でちょちょいと処置できるんだが」
瀬賀の異能“|医神の瞳《アスクレピオス》”は修復《リカバー》と呼ばれる種類のものだった。怪我を直接治す治癒《ヒーリング》や、病気を治す治療《キュア》でもなく、修復《リカバー》はあくまで異能者の医療技術を底上げするものである。
瀬賀の場合はその瞳で人体構造を把握し、怪我を治すためのプロセスが天啓のように頭に流れ込み、自分の体力を削って凄まじい早さで傷を塞いでいくものだ。
修復《リカバー》は言うならば手術の“省略”。人体構造を把握し、どこをどうすれば治るのか、それが瀬賀には|視える《・・・》のだ。だがこれは瀬賀自身に負担になるものであった。能力を使った後はこのように立つのもやっとなほどに疲弊してしまう。
「これじゃ瀬賀先生も救急車に乗せてもらった方がいいですね」
そう言いながら練井は瀬賀の身体を支えている。なんとなく気恥ずかしかったが、実際膝が笑っており、強がってもいられないな、と瀬賀は思った。
「ちょっと、ヘボ医者。練井先生に抱かれて鼻の下伸ばしてんじゃないわよ」
「うるせー蹴るなっての。役得だろ。お前みたいな減らず口の小娘より練井先生のが断然魅力的だね」
相変わらず春部の口は悪いが、その表情を見るに少女が一命を取り留めたことに胸をなでおろしているようだった。
「あっ、救急車の音が聞こえるよみんなー」
有葉が耳を澄ませながらそう言う。彼の言うとおりに救急車サイレンが近づいてきている。
「おっと、ようやくおいでなすったか。それにしても一体この子はなんなんだろうな……」
瀬賀は安堵しながらも、その少女を見つめて不可解そうに呟いた。