事の発端は一人の生徒による婦女暴行未遂事件から始まった。
2019年10月20日・正午未明――五限目の数学の授業中であった。問題の生徒がいた学部は高等部二年生の一クラスで、授業中にやおら立ち上がった彼の生徒は、一人の女生徒の前へと迷いなく歩んでいったという。
そして周囲もはばからずに生徒は告白をする。周りからは冷やかしと、あるいは祝福の歓喜の声が上がった。しかしそんな声も、その直後には悲鳴へと変わる。
こともあろうか生徒は、かの女生徒の返事を待たずして彼女を押し倒した。
そして他のクラスメートたちが見守る衆人環視の中、彼は女生徒のレイプに及ぼうとしたのだという。
当然のごとくその凶行を止めようと、数人の生徒達が彼を取り押さえるも失敗。人間とは思えぬ力に振り払われ、深刻な負傷を負った者までいた。
遂には教師の手にも負い切れなくなり、事態は
醒徒会広報・
龍河弾の介入によりようやく沈静化された。
しかしながら先にも述べたよう、この事件は始まりに過ぎなかったのだ。
時を同じくして、学園の至る所で怪事件が発生する。
それは前述したものと同じ暴行事件もあれば、生徒同士による喧嘩、はたまた購買部を占拠しての食料品の専占、遂には自殺者まで現れるなど、
双葉学園は始まって以来の混沌に陥っていった。
そんな事件の最中ただ一人、事の真相に近づく者がいた。
その人物こそは、醒徒会・会計監査エヌR・ルールその人。
今回の事件においては、かの醒徒会内部にも異常を来たした人物がいた。それこそは庶務を担当する中等部三年生・
早瀬速人であった。
件の婦女暴行事件後に招集された会議中の最中――突如として速人が混乱し、そして暴走した。来ていた衣服の全てを脱ぎ棄てると、事もあろうか校舎内へと駆け出そうとしたのである。
当然のことながら場に居たメンバ――によって速人は取り押さえられ事無きを得たが、もしそれに気付かずに彼を学園内に放っていたら、どうなったことか判らない。
拘束されしばし錯乱した後に昏倒――しばらくして目を覚ました速人は正気に戻ると同時に、その時の自身の精神状態をこう語った。
その直後、学園内はかの混沌へと陥っていくのである。
生徒や教師、はたまた学年を問わず各学部にて引き起こされる凶行――その処理と対応に右往左往する醒徒会の中でただ一人、ルールのみが今回の事件の原因を突き止めていた。
いかに本能化する生徒が現れたとはいえ、全員がそうなる訳ではなかった。そうなるに至る者と全く変化の現れない生徒とがいたのだ。
速人を始めとする件の事件の生徒達――それら生徒に共通する事柄は、昼食に学園食堂を利用していたということ。さらには、本日『カレ――ライス』を食していた者達だということにルールは気付いたのであった。
――もしぼくの推測が間違っていなければ、犯人は学食の調理職員と言うことになる。
それを調査確認すべく、ルールは一人そこへと向かう足を速めていた。
問題の学食は学園敷地内のほぼ中央に存在する。これは小中高・大学と、どの学部・建物からでも通えるよう考えて設けられた立地ではあった訳だが、皮肉にもそれこそがかの生徒達の『本能化』を蔓延させる結果に一躍買ってしまった形となった。
ともあれ、その学食に高等部連絡通路から侵入を果たすルール。
強化ガラスの押戸を開いて中の様子を慎重に窺う。もしかしたらここはすでに、誰かしら敵対組織の拠点となっているやもしれぬのだ。
しかしながら覗きこむ学食内は閑散としていた。照明の点いていない食堂内には、窓から差し込んだ夕陽だけが薄暗がりの闇を切り裂いている。広大な施設内には猫の子一匹見当たらなかった。
その中を慎重に進みながらルールは厨房へと至り、そしてそこからさらに、その奥に続く職員控室へと歩を進めた。
ゆっくりと歩みを進めながら、ルールはこの施設の間取りを思い出す。学食本体である喫食室と厨房に敷地面積の大半を割いている分、職員の控室となるスペースは極めて狭く設けられている。
厨房から出ると通路は裏口のドアに突き当たるまで一本道で、その壁面両サイドそれぞれに、ロッカールームとそして職員控室とが設けられている。そしてルールは今、厨房そこから出たその通路の中に居た。
喫食室と同様にこの通路にも照明は灯されていない。壁面がガラス貼りであった喫食室とは違い、逢魔時の闇を内包した通路には、唯一正面裏口の明かり窓から差し込む夕日だけが、この空間の光量の全てであった。
そんな夕闇の中を、ルールは異能力『ザ・フリッカー』の力を宿した右手を前にかざしながら慎重に進む。この能力こそは、その手に触れるものを原子レベルにまで分解するというルールの最大にして、さらには人類最強の武器でもある。そして斯様に過ぎたる力をこの青年が持ち合せる理由それこそは――彼が双葉学園・科学部の超人製造計画によって造られた『人造人間』に他ならないからであった。
しかしながらその常人を超越した能力を持ちえるからこそ、そして存在であるからこその苦悩もまた彼にはあった。
斯様に『人造』された存在であるルールには、『生命』に対して常に疑問が付きまとっていた。
単純にそれを問うのならばそれは、『命とは何か?』ということである。
常日頃考えている。
『命』とは何か? 自然の摂理の中から生まれ来るものであるのだとしたら、今の自分とは一体何なのであろう? 前者が正しい『命』の在り方であるのだとしたら、人造された自分などはそれに当てはまらないということになる。
それでも自分はこうして生きている。それこそ、正しく命を授かって生まれてきた者達と同じように。
『命とは何か?』――その質問を、ルールは己に問うだけではなく様々な者達にも聞いた。
龍河はそれを『飯を食い、息をすることだ』と言った。考えてもしょうがない問題だと割り切っていた。
加賀杜紫穏などはそれを考えあぐねたあげく『判らない』と答えた。命は等しく貴いものだと考えるからこそ、それ自体に疑問や価値をつけることはタブーであるのだと語った。
どれもルールを納得させる答えではなかった。それでもしかし、質問に応えてくれた者達は皆それぞれに『自分の答え』・『考え』を持っていた。
ルールには、それすら無いのだ。
ただ疑問ばかりが砂漠の中を旅するかのよう無為に無間に、自分の中で堂々巡りをしていた。
そして今も、気が付けばそんな疑問に心を囚われていた。今まさに敵の拠点に乗り込んでいるのかもしれないという状況にもかかわらず、ルールの心は逢魔時の闇の中に自分の心の暗部を溶かし込んでいた。
その時であった。静かに、右の扉が開いた。
そんな突然の展開に我へ返る。再び臨戦態勢に構え直し、そこから来るであろう敵の出現に備える。
備えるが――いつまで待っても、そこから何者かが現れる気配は一向になかった。
――罠、なのだろうか? 誘っているのだとしたらやはり……。
当然の如くその危険性を考える。
しかし、いつまでもこうして立ち尽くしている訳にもいかなかった。敵がそこにいると言うのであるならば、ルールは行かなくてはならない。それこそが醒徒会役員の務めであり、
――『人間兵器』の役割、だ。
自嘲気に笑い、意を決してルールは開かれた扉の前に立つ。
前方にかざす右掌越しに窺う屋内。
すでに中頃まで沈みかけた斜陽の赤が窓から室内に満ちるそこには――その彼方には逆光によって完全な影法師となった人物が一人立ち尽くしているのが窺えた。
「お前が、真犯人か?」
その尋常ならざる気配に、ルールは己の憶測が証明されたことと、そしてさらには目の前に居るこの人物こそが全ての事件の首謀者であることを悟る。
しかしながらそんなルールの問いかけに対し、緊張に張りつめていた場はわずかに弛緩した。目の前の人物が小さく鼻を鳴らして笑ったのだ。
『今さらそれを問うても意味は無いだろう。おめでとうルール。ぼくに辿り着けたのは君だけだ。そして――君が来てくれると確信していた』
霧笛のよう低く澄んだ響きのハスキーボイスにはどこか聞きおぼえがあった。しかしながら不思議とその声の持ち主をルールは思い出せない。いつも聞いている声のはずなのに、ルールにはそれが誰のものか判らないのだ。
「……ならば教えてもらおうか。生徒達に何をした?」
しかしながら今に至ってそれは、重要なことではない。今はこの人物を捕らえることにより事態の収拾をつけることこそが最優先事項であるのだ。依然としてザ・フリッカーの右手を標的に合わせながら、ルールは威嚇ともとれる強い口調で目の前の陰に問い尋ねていく。
目の前の影法師はルールを知っているようであった。ならば彼の持つ右手の、その能力の危険性もまた熟知しているはずである。……しかしそれにも拘らず、
『せっかくの逢えたというのに立ち話もないだろう。上がったらどうだ? 奥で話そう』
まるで友人でも迎え入れるかのようにそう語りかけたかと思うと、影は踵を返して控室の中へと戻って行ってしまった。
それを前に困惑したのはルールだった。もちろん表面上にはそんな心の動き様などおくびも見せない。それでもあまりの目の前の人物の無防備さにルールはある種、呆れにも似た困惑を覚えずにはいられなかった。
――罠、か?
そうとも思う。しかしながら今は、そうと判っていながらも進むしかないように思えた。もしこのまま目の前の人物を見失ってしまうようなことがあればそれこそ本末転倒も甚だしい。
意を決し、ルールもその後に続いて控室の中へと上がりこむ。
入口から上がってすぐそこは6畳半の居間になっていた。その中央に置かれたちゃぶ台をはさみ、二人は腰を下ろす。
蛍光灯を点していない室内は、窓辺から差し込む夕日の赤一色に染め上げられ燃えるようである。そんな赤の光景の中にルールと先の人物の影法師二つが、ちゃぶ台を挟んで対峙していた。
依然として、逆光(ゆうひ)を背にしている相手の顔は確認できない。身の丈は自分と同じほどであろうか。体格も似ているように思える。そういえばこの人物の声――それもまた自分と似ていたように思い出してルールの不整脈は大きく一つ鳴った。
自分は今、果たして誰と対峙しているのであろうか?
ラルヴァであるのか? それとも別な敵対勢力の何者かか? あるいは――
もしくはそれは――
自分自身なのではないか?
そんな錯覚が、逢魔時に己が境界を溶かしつつあるルールの心を捉えて、どこまでも彼をアンビバレンスな精神状態へと陥れるのであった。
そうして互いに見つめ合ったまま、どれだけの時間が過ぎたころであろうか。
『命とは、何なのだろうね?』
徐々に斜陽の赤が薄まり、室内に比類なき夜の闇がその裾を延ばし始めた頃、まるで今のルールの内心を見透かすかのよう影はそう問いかけた。
そんな声にルールは顔を上げる。目の前の闇一点を凝視し、そこに潜む者の正体を掴もうとしかめた瞼をさらに細く引き絞る。
『命の意味とは? そして価値とは? ……ぼく達『人間』と、他の動植物達とのそれの違いとは何なんだろう?』
「くッ……先程から訳の判らないことをいちいち! 言え! 今回の事件の犯人はお前なのか? 一体なんの目的があってこんな真似した!」
遂には立ちあがり、半ば絶叫に近い声を上げてザ・フリッカーの右手を相手に突きつけるルール。
それでもしかし、かの異能力を鼻先一寸まで突きつけられようとも相手には一切の動揺は見られない。それどころか、
『たとえば今日のカレー。その材料にされた食材の命とぼく達のそれ……この二つにどんな違いがあるというのだろう? どうしてぼく達は、何の疑問も無く他者の命それを取り込む権利があるのだろう』
闇から洩れてくるその声はさらにルールの心をかき乱し、そして悩ませる。
『そう思った。そう疑問に感じた。だからぼくは試したんだ。彼ら人間の『命の価値』をね』
「命の、価値?」
『そう。もしぼくら『人間』が他の生物の命を取り込めるほどに優秀な存在であるというのなら、何を以てそれを証明できるのかをぼくは知りたかった。だからね、外したんだよ。本能のね、枷を』
闇一色の人影の中に目玉が二つ浮かんだ。洞のように、人影を象る闇よりもさらに深く暗い黒が二つ、その中に浮かんでルールを捉えた。
『今日のカレーには、人間の本能を解放させる薬が盛られていた。それを食した人間は、己の欲望に忠実な……そう、原始の生物へと戻ることになる。他の動植物達と同じように』
「お前……ラルヴァが、人間をそんな風に」
見据えられるその視線に、ルールは必死にそれに取り込まれまいと意識を強く持つ。なぜならば、今目の前の影が口にする言葉は己の疑問であり、そして答えであるのかも知れなかったからだ。
もしその答えを聞いてしまったのならば――それに納得してしまったのならば、その瞬間に自分もまた目の前のそれと同じ存在になってしまうことだろう。それだけは、何としても避けねばならない。
『ラルヴァ? ぼくが? ならば君とてそうだろう。たかだが使用期間が二年を過ぎた人形の分際で』
そして目の前のそれが自分を嗤(わら)った瞬間、ルールの右手は無意識にそこへと繰り出されていた。
影を直撃したと思われた右手はしかし、存外にも標的を外して二人を隔てていたちゃぶ台を分解し二つに割る。
その一瞬見失ってしまったそれを捜して視線を上げれば――いつの間にか開け放った窓のヘリに腰掛けたそれが悠然と今の自分を見下ろしているのであった。
『今のは怒りかな? それとも焦りか? いずれにせよ、そんな心の乱れこそ『自分を人間ではない』と苦悩する心の現れだ』
「黙れ! 先程から訳の判らないことをいちいち!」
『そのセリフも二度目だ。そうやって言葉も思考も繰り返すばかりで、君はちっとも答えにたどり着けない。成長できない。哀れだな』
「黙れぇ!!」
再度振りかぶりそして撃ち落とされる右手が、今度は影の座っていた窓の枠をごっそりとえぐり取る。当然のよう室外に下りて直撃を免れた影は、そこから室内のルールを見据える。
僅かに体位角が変わったことにより、今まで逆光に彩っていた夕陽は、今度は真横からかの人物を照らしだしていた。
そこにてようやく望む目の前の顔に――
『驚いたかい? 自己紹介が遅れたね』
ただルールは瞳を見開いてその顔一点を凝視する。
そこにあったものは丸みを持った襟足と前髪の髪型に、そして青のサングラス――痩躯を抱くようにして腕組みをするその姿は、