二人のあいだに走っていた亀裂が決定的になものになったのは、春をまえにして未だ翳《かげ》ってばかりいる雲と、アスファルトに触れてはすぐ溶ける乾いた小雪のふりおろす三月の夕暮れだった。
すでに放課からしばらく経っていたので、部活動や委員会を掛け持ちした学生でもなければ、教師を除いて校舎に残っている学生はほとんどいない。ましてや知り合いに出会うことも。
この日は新しく始めたアルバイトも休みで、唐橋《からはし》悠斗《ゆうと》は図書館にいた。教室の数倍も奥行きのある広い室内で、天井に届きそうなくらい高い本棚がずらりと並び、自習用の大机がその悠斗のいる手前から中央にわたって配置されている。
図書委員は出払っていた。カウンターの上に画用紙を三角に折り曲げた連絡プレートのようなもには、太いマジックで「小用につき、貸出の申請は右の手順に書いてあるのでセルフでお願いします」とある。だがバーコードの読み取り機や学生証のスキャナーなどの道具はすべて左側にあった。
悠斗は入口に常設してあった書籍検索のパソコンを使い、探している本の情報を入力する。まず著者の名前で検索して、それから共著と合著の物を除いて、結局得られたのは一冊だけだった。
その分類の書架棚があったのは、廊下側の日当たりの極端に悪いスペースで、古文書でも眠っていそうなほどに埃臭かった。しかし、並んでいる書籍は日焼けしていないカラーの本もあれば、タイトルがほとんど読み取れないような古本もある。
適当な一冊を手に取り、それらを後ろからめくってみると図書カードが挟んであった。検索や管理に楽なICチップが付属していない、つまりここはほとんど借りる人間がいないような、必要とされていない情報ばかりが収められた書籍の置き場だった。
悠斗が探していた本はすぐ見つかった。掌《てのひら》と同じくらいの文庫本サイズで背表紙に〔臨床異質能力学〕とタイトルがあり、下に「著者・倉持《くらもち》尚男《ひさお》」という名前が、薄いページのせいもあってアンバランスな細さで書かれてあった。
倉持尚男。悠斗がよく通う喫茶店〔ディマンシュ〕を経営する老マスターの息子であり、その孫娘の倉持|祈《いのり》の父でもあり、同喫茶店のウェイトレスの森村マキナの伯父の名だった。
その場でぱらぱらとページをめくり、ページの少ない著書はすぐに巻末に辿り着いた。本自体は十年そこそこのまだ新しい部類に入るのだが、ここに置かれている他の本たちの例に漏れず、厚めの紙でできた貸出カードが挟んで貼ってあった。
三日前。
三月十五日の午後。
双葉学園島のとある地区の寂れた通りにひっそりと佇む喫茶店〔ディマンシュ〕にて。
余韻を響かせて、最後の鍵盤の音が消えてから、女の子が真っ直ぐにこちらにやってきた。
「唐橋のおばさんの赤ちゃんって、いつ生まれるの」
ボックス席のシートにちょこんと座って、急に思いついたように祈が訊いた。
「さあな。早ければ春先にとは聞いてたけど」
「男の子? 女の子?」
「男だ。気が早い旦那さんが勢いついて、もう子供部屋にミニカーや野球道具やらをいっぱい揃えてるらしい」
「ちょうなん?」
海外旅行で現地の人に話しかけるみたいにイントネーションを確かめながら、おっかなびっくりに尋ねてくる。最近学校で習ったりでもしたのかもしれない。
「そうなるな。ちなみに俺も唐橋家の長男だ」
「むだ知識」ばっさりと言い捨ててられてしまった。
こんな掛け合いも今ではほとんど慣れてしまったので、悠斗は気にする様子もなくコーヒーを啜《すす》る。何より今日はそのくらいで調子を狂わされるほど、浅い決意で座っているわけにはいかない。
悠斗はそっとズボンのポケットに手を入れた。封筒も中身も折れていないようだ。
「いのりは長女」テーブルを見つめたまま、祈が言った。
自分のなかで新しい単語を馴染ませるために呟いて、他意はなかったのだろう。しかし、少女の両親はすでに他界しており、家族の記号であるその言葉は少しむなしく聞こえた。だから悠斗は冗談めかして言ってやる。
「次女だな」
「どうして?」
子供らしい大きくてつぶらな瞳が悠斗を見上げる。悠斗はカップを口に持っていったままの姿勢で、軽い調子で答えた。
「森村がいるだろ。姉妹みたいなもんだし、長女が森村でお前は次女」
「ちがうよ。いのりのほうがマキナよりお姉さんだもん」
「違う? なんでだ」意外な反論に、オウム返しになってしまった。
「いのりのパパの弟が、マキナのパパだから」
「あぁ、なるほどな」
祈が言いたいことは分かる。マキナが次男の娘で、自分が長男の娘だから長女なんだと。そういうことなのだろう。何の含みも、深い意図もない勘違いだ。
しかし、フードのついた春色の淡いニットワンピースをすっぽり被り、吹けば飛んでいきそうほど幼いな少女は、その見た目に対称的にこうと考えたらテコでも動かないのだ。特に悠斗が間違いを指摘しようものなら、たとえそれが正しいことでも頑《がん》として聞き入れてくれない。機嫌を損ねないように言い聞かせるにはどうしたらいいかと、悠斗は思案して口を開きかけると、
「ふふっ、そうですよ。祈ちゃんのほうがお姉さんですから」
カップをふたつ、盆に載せて森村マキナがやってきた。全体的に長めの採寸であるウェイトレスの制服の袖からのぞくしなやかな指が、悠斗と祈の前へソーサーに乗せたカップを置いていく。屈み込んでカップを置いたとき、後ろで結っていた彼女の銀糸のような髪の数本がはらりと前へ流れた。マキナはそれを目立たないように、悠斗が飲み終えたカップさげるときに静かに梳《す》いた。
「それにいのりのパパ、えらい人だったから、すごいんだもん」
根拠はないが、全身で誇るように祈が胸を張ってみせる。へぇ、とちょっと笑ってから、悠斗はマキナの方へ振り向いた。
「わたしの叔父にあたる方で、それなりに高名な学者さんだったんですよ」
「学者、ね」
学者にも色々あって、現地に赴《おもむ》く怪物《ラルヴア》ハンターのような人もいれば、本人が強力な異能力を有する超人学者などさまざまある。
「聞いたことありませんか? 〝異能学〟っていう少し昔に活発だった学問で、祈ちゃんのお父さんはその権威だったんですよ。今は分派してそれぞれの分野に吸収されてますけど、当時発表された論文や研究資料は現在でも十分に価値のあるものなんです」
どうやら祈の父親は一般的な尺度で言われる学者らしい。マキナはすらすらと円周率をそらんずるような節回しで、異能学を元に起こされた学問を言ってみせた。おおよそは悠斗が聞いたことのないような単語ばかりだったが、いくつかは授業や教科書で見聞きしたことのあるものもあった。
「てことは相当偉い人だったんだな」
感心して、率直な感想がこぼれた。
「すごい博士」
悠斗は肩をすくめて応えた。「ああ、俺にもその凄さは伝わったよ」
振り返って、立ったままのマキナへ向き直る。
「本とか出してるのかな」
少しだけ好奇心が頭をもたげた。同じモノクロのページに描かれる著者近影より、その存在が血の通った人間であれば、ありがたい学術書よりは興味が沸いてくる。
「共著や大人数が関わった合著では多く参加されていたようですけど、個人でとなるとほとんど出ていなかったと思います」
「森村は読んだことないのか?」
マキナは首を振ると、控えめに笑って言った。「わたしは親戚の学者さんだと、うわべの話でしか知らないので、実際に読んだことはないですね」
森村にしては珍しいな、と悠斗は思った。
悠斗が何か尋ね、それをマキナが丁寧に説明して、また悠斗がそこから疑問を投げかける。教えたがり、というよりは世話焼き症なマキナは、こちらが納得するまで付き合ってくれる。その博識さは学園の定期試験でも十二分に発揮され、試験前になると友人たちの間では、彼女を家庭教師にと頼む声が唱和されるのが常だった。
そういう次第で、マキナが身内のことについて知らないと苦笑する姿は意外に映った。「俺にでも理解できそうなのがあったら教えてくれよ」と、次に続けるつもりだった言葉に待ったがかかり、悠斗はカップの取っ手をつまみ、コーヒーと一緒にそれを飲みこんだ。
「マキナ、おかわり」
両手でカップを持ち上げて突き出すと、祈が催促した。
「だーめ。今朝にも二杯飲んだでしょう? カフェオレもコーヒーのうちなんだから、一日三杯までって約束でしょ」
「ケチ」
「祈ちゃんの為なんだから、何を言っても答えは変わりません。オレンジジュースだったらすぐに用意してあげるから、ね?」
「ゆーずーがきかない」
かちゃと陶器同士が擦れる高い音をたてながらソーサーにカップを置くと、祈は膨れっ面《つら》のままソファから飛び降りる。ぱたぱたとスズメのように通路を走って、カウンター裏の階段から二階へ上がって行った。
「コーヒー屋がコーヒー飲むなって言うのはどうなんだ」
「あの子、何も言わないとお腹壊すまで飲んじゃうんです。だから一応の目安として、そういうことにしようってマスターと決めたんです」
店の中にグランドピアノの鍵音が軽快に跳ね始める。なんとなくいつもより演奏が速く感じ、それが祈の意思表示のように思えた。何度かこの店で聞きいたことのある曲だった。
「カンパンとか、そんな曲だったような」
悠斗がうろ覚えの記憶を引っ張り出して呟くと、後を引き取ってマキナが言った。「リストのラ・カンパネラですよ」
「あぶねー。祈が聞いたらまた嫌味を言われるところだった」
「唐橋さんがちゃんと覚えてあげないからですよ」
目に見える形のない音楽と曲名を結びつけるのは、ただ読んで書いて覚えるだけの学園のテストより難しい。
「クラシックの教本とデータでも借りてみるか」
学園の音楽室か図書室にでも行けば、それくらいはあるだろう。
「そうすると祈ちゃん、唐橋さんの前で得意げに威張れなくなっちゃいますから、やっぱりダメです」
「どうすりゃいいんだよ」
少し大げさに頭を抱えてみせる悠斗を横目に、マキナがにこにこしながら祈の分のカップを片付けはじめた。マキナのエプロンのポケットに飛び出している伝票を見つけると、自分のポケットに忘れていた|アレ《ヽヽ》のことを思い出した。
「そうだった」声をあげると、カウンターに戻ろうとしていたマキナが振り返った。「森村さ、今週末から春休みまででバイトが休みの日、ある?」
要領が掴めないというふうに、マキナは小首をかしげた。口で説明するのも恥ずかしいので、現物を見せる。
「……管弦楽団のオーケストラコンサート」
都内にある有名なコンサートホールで行われる演奏会のチケットだ。読み上げられているあいだ、悠斗はいつ突き返されないか気が気でなかった。
こういうことには慣れていない。といより、やった試しがないのだ。チョコを貰ってチョコで返すことならまだしも、こんなデートの誘いみたいやり方など――!
頭のなかで反芻《はんすう》して、余計に気恥ずかしくなってきた。鉄色のゼンマイの歯に一本だけ色のついた『デート』の文字が高速で回転し、歯の全てがそれ一色に染まってしまう。
「チケット、二枚入ってますね。これは?」
そうだった。これは一対一のデートではない。
「祈のぶん。あいつクラシック弾くんだから、コンサートとかも好きそうかなって思って」
俺のはこっち、と二つ折りになった自分用のチケットをひらひらと目の前で振ってみせた。
「そうですね、祈ちゃんは喜ぶと思います」
マキナ自分のことのように、嬉しそうに顔をほころばせた。だが、すぐに顎を引いて長い睫毛を伏せた。彼女は普段から眠っているように瞑目して、落ち着いた表情でいるが、軽く瞬きした後はさらに深く目を閉じていた。
「わたしはちょっと難しいかもしれませんね。喫茶店《ここ》に他の人手はいませんし、それにあまり人の多い場所は苦手で……」
申し訳なさそうに、詫びるように言った。マキナが愛想笑いもなく、正直に答えてくれるぶん救われた気がしたが、その都合を覆すほどには自分が値《あたい》していないと思うと辛かった。
「そうか」あはは、と乾いた笑いが漏れた。「スマン、無理言って悪かったな」
その場を取り繕《つくろ》うように悠斗は周囲を見回したが、あいにく他に客が見当たらず、それまで吹き抜けから降り注いでいたカンパネラの演奏は止んでいた。
そのとき、カウンターの奥からバタバタと慌しい物音が響いた。
続けて床を叩くような激しい音が、静かな店内を一度だけ震わせた。
カップや皿を割るような陶器の音でなく――もっと柔らかくて、子供くらいの重さの――
「祈ちゃん……?」先に答えに辿りついたのはマキナだった。
今度こそ、カップや皿の割れる音がした。マキナがさっきまでお盆に載せていたそれらが、彼女の足元でばらばらに砕けて四散した。
通路とカウンター横のスイングドアを飛び越え、悠斗が階下に駆けつけると祈はそこに倒れていた。顔は仰向けに、肩より少し伸びたくらいの黒髪に縁取《ふちど》られた白い喉を晒して、床に身体を横たえている。小さな胸はゆっくりでも上下しており、悠斗は最悪の状況を真っ先に捨てることで、少しずつ落ち着きを取り戻した。
「祈ちゃん!!」
遅れて息を切らせたマキナが後ろから声をあげた。
「大丈夫だ、息はしてる」
そう言って、祈を持ち上げるために手を差し伸べようとすると、
「動かしたらダメです!!」
取り乱したような叫びでも、マキナの指摘は冷静さを欠いていなかった。「頭を打ってるハズだから、今はわたしたちの判断で祈ちゃんを運ぶべきではないです」
「――っ!? わかった」悠斗は頷いた。
悠斗も学園で教わった救急時の対応マニュアルを思い出し、両手で祈の後頭部あたりを慎重に支え、静かに床へおろした。
手の甲が床に触れたとき、冷たい感触が悠斗に張りついた。人間の身体を熱く循環し、ふとした拍子に表へ現れたとたん、冷たい結果しか残さない、赤い血。
マキナはまだ気づいていなかった。
「とにかく救急車を呼ぼう」
マキナに振り返った悠斗の背後から声が飛ぶ。
「いま学園病院に連絡をした」
おそらく最初にここへ来たのはこの人なのだろう。そして悠斗のように軽率な行動はとらず、迅速に判断してそう行動したのだろう。マスターは頬に深い皺《しわ》を強張らせ、祈と悠斗とマキナへそれぞれ視線をめぐらせると、老年独特の喉の絡んだ落ち着いたトーンで言った。
「十分以内に来る。もし道が分からないといけないから、私は通りで救急車を待つ」
残された店内には、祈の傍らで様態を見つめる悠斗と、その後ろで立ちすくんでいるマキナしかいなかった。
唐橋悠斗の異能力は、「|匂いつき《ステインカー》」と呼ばれる
ラルヴァを寄せつけないだけの力であったし、森村マキナも自己の視野を確保することのできる力でしかなかった。二人とも
異能力者であったが、それが目の前の少女を助けることのできる能力《ちから》でないことは、お互い言葉にしなくても痛いほど理解していた。
「わたしが、もっと祈ちゃんを気にかけて傍《そば》にいれば」
ぽつりぽつりとマキナがつぶやきを漏らす。
「起こった結果に今さら何を言っても仕方ないだろ」
「わたしが、意地悪しないできちんと座らせていたら」
声が割れている。コップに溜まった感情が、その揺れとともに外へ溢れていくように。だらりと両手を下ろし、マキナの唇だけが別の意思を持った生き物のように動いていた。
「だったら俺にも責任があるんだ。森村ひとりが抱えようとするな」
「わたしが、ちゃんとこの子から目を離したりしなかったら」うわ言みたいに呟きを続け、悠斗の声は届いていない。
「しっかりしろ。落ち着け」
立ち上がって、悠斗は血の感触が残っている右手を見せないように、左手でマキナの肩を掴んだ。いつも見ている以上に細く、華奢な体が震えていた。
「わたしが――」
「森村!」
強い声で遮って、ようやくマキナは目が覚めたようだった。伏せた瞼《まぶた》の向こうに隠れた視線は、ふらつきながらも悠斗を見上げている。
ぎい、と二人から離れた扉が開く音がした。もし救急隊員であれば、マスターの出て行った裏口のほうが大通りに近いため、担架が運ばれるとしても、それらは裏口からやって来るのが自然だ。
この事態に気づかず、コーヒーを求めてやって来たのだろうか。わずかな間だったが、扉の方向へ二人して注視したままでいると、その空気を敏感に感じ取ったのか三十センチくらいまで開いたところで、おずおずといった風にゆっくり扉が動いた。
「えー……お取り込み中だったかな?」
全身を折るようにして、ひょっこりと顔をのぞかせた遠藤《えんどう》雅《まさ》は、こちらを伺うように二人に言った。