「あークソっ。全然でねーじゃねーか」
激しい騒音が鳴り響くパチンコ屋の店内で、瀬賀《せが》或《ある》は誰に言うでもなくそう愚痴った。
どれだけレバーをガチャガチャと回しても一向に当たる気配が無く、もう朝から何時間もパチンコの台と睨めっこしている。灰皿には煙草の吸殻がいくつも積まれ、よっぽどイライラしているのか貧乏ゆすりを絶やさずしていた。
瀬賀は本日何本目かわからない煙草に火を付け、大きく煙を吸い、ふうっと吐き出す。そうして台の表面に反射している自分の姿を見て溜息をつく。今日の瀬賀の格好は酷くずぼらなものだった。ネズミ色のパジャマで、サンダルをつっかけてきただけだ。髭もそっておらず、髪もいつも以上にボサボサであった。まさに起きてそのまま出かけてきたと言った感じである。
(せっかくの休日に、俺はなにやってんだろーなー)
今日は同棲している幼な妻のショコラが、クラスメイトの壱子と出かけていてアパートにいない。それで久しぶりに一人の時間を満喫できると思ったのだが、これといった趣味も無く、人づきあいも無い瀬賀は休日にやることがまったく無い。というより何もやる気が無いようだ。
それゆえにパチンコを打ちに来たのだが、お金を吸い取られていくだけで何の成果もない。これなら家でゴロゴロしていたほうがマシだったかもしれない。
今の台は出そうに無いから、席でも移ろう、瀬賀がそう思っていると突然誰かに肩を叩かれた。
「ああん?」
瀬賀が振り向くと、そこには見知った顔があった。
「チーッス瀬賀先生。全然玉出てないみたいじゃん。今日は調子悪いなー」
「ちっ、なんだよ。お前か龍之介《りゅうのすけ》」
そこに立っていたのはド派手なアロハシャツを着ている、ガラの悪い少年だった。雑に染められた金髪に、右耳のピアスが特徴的だ。
その不良少年は
双葉学園の高等部の一年生である夏目《なつめ》龍之介《りゅうのすけ》であった。学園では生徒と教師という関係のこの二人は、よくこのパチンコ店で顔を合わせている。十も年齢が離れていながらも、この二人は悪友のような関係であった。
(なんで俺はこんなガキと気が合うんだろうなぁ)
彼の精神年齢は十五の時からまったく成長してはいなかった。大人の成りそこないと言っても過言ではない。
(やっぱり俺の中の時間は、あの時から止まってるんだな……)
瀬賀はサンフランシスコでの“あの出来事”を思い出し、少しだけ気分が沈んだ。それを打ち消すかのように煙草を灰皿に押し付ける。
そんな瀬賀の横に龍之介は座り、楽しそうに台と向き合った。
「んじゃ俺も打つかー。あっ、煙草忘れちまったぜ。瀬賀先生、一本恵んでくれ」
「ほらよ、あとでちゃんと返せよ。昔と違って今は煙草の値段が高いんだから。一本でも貴重なんだよ」
瀬賀は面倒そうにポケットから新しい煙草を取り出して、龍之介に投げてよこした。
「そのわりにはバカスカ吸ってるじゃん。早死にするぜ先生」
「ファック。うるせーよ、俺の勝手だろうが」
「ははは。そりゃそうだ」
瀬賀から煙草を受け取った龍之介は百円ライターで火をつけ、幸せそうに煙草を味わっていた。
未成年のパチンコや喫煙は法律で禁止されているが、二人ともそんなことは知ったことではなかった。瀬賀自身も中学の時から愛煙していたため、たとえ生徒相手でも、他人に対してどうこう言うつもりもないのだろう。もっとも、それは教師としても人としても最低なことなのだが。
「しかしお前よくここでパチンコなんて打ってられるよな。普通未成年ってバレるだろ。島の外以上に警戒が厳しいんだから」
「ああ、最初に兄貴連れてきて店員全員にペテンをかけてやったんだ。みんな俺のこと成人だと思ってる。学校の先公共でパチンコなんてやるのあんまいねーから遭遇することも無いし。平気だよ」
「お前の兄貴って“言霊使い”だっけか。そんな悪用がバレたら
風紀委員たちに何されるかわかんねーぞ」
「ああ、そりゃ怖いね。怖い怖い。まだ若いのに死にたくないよ」
「死んだらこうやってパチンコもできねーし、煙草も吸えないしな」
下らないことを話しながら、二人は下品にゲラゲラと笑っていた。そうして一時間ほど打っていたら、
「ああ! ダメだダメだ! どの台もまったく出ねえ! ぼったくりじゃないのかこれはよぉ!」
我慢弱い龍之介がすぐに切れだし、台をドンドンと叩き始めた。その騒ぎを聞きつけ、店員がこちらを睨んでいることに気付き、瀬賀は暴れる龍之介を押さえつける。
「バカ、何してんだよ。そんなことばっかやってるとすぐとっ捕まるぞ!」
「だって、だってよ先生……。もう俺の財布が空っぽなんだよぉ。明日から俺はどうやって生活すればいいんだよぉ」
「いいから、とりあえずここから出るぞ」
引きずるように龍之介と共に外に出ると、商店街は店の中と違って暑く、汗がどっと出てきた。名残惜しそうに店の方を見つめながら、瀬賀は大きく溜息をつく。
「お前のせいで二度とこの店に顔出せねーよ」
「いいじゃん。パチンコなんて金の無駄無駄。あんなもんやるやつぁー人間のクズだぜ先生。死んだ方がいいねまったく」
「どの口が言うか。どの口が!」
怒った瀬賀は龍之介の尻を軽く蹴るが、龍之介は痛がるどころか奇妙なうすら笑いを浮かべているだけであった。
「ああ、しかしなんだかんだでもう昼過ぎだぜ。昼飯どうすんの?」
龍之介は腕時計を見ながらそう言った。瀬賀もつられて商店街の柱時計に目を向けると、もう午後一時を回ろうとしていた。どうりで腹の虫が鳴るわけだ。
「今日はバカショコラがいないから家に戻っても飯は無いからな。俺はこのへんで食っていくさ」
「じゃあ俺に飯奢ってくれよ!」
「なんでお前に奢らなきゃならんのだ! 俺だって負けてばっかだわ、給料日前だわで金なんて全然ねーんだぞ!」
「いいじゃんかせんせいー。後生だから。俺も腹へって死にそうなんだよぉ」
龍之介はパンッと両の手を合わせて瀬賀に懇願した。
「ダメだダメだ」
「お願いだよ、ほら、今度女紹介してあげるからさー」
その言葉に瀬賀は一瞬ピクリと反応した。
「マ、マジか?」
「マジだよ。大マジさ。俺の知り合いのツテでそりゃあもうよりどりみどりだ。今度ダチ集めて合コンでもしようぜ」
龍之介は下卑た笑みを浮かべ、瀬賀も少しだけその話しに耳を傾ける。
「ううん。だけどなぁ」
「ああ、そっか先生には可愛い、可愛いお嫁さんがいるからそんな話は興味無いか。俺の知り合いの女はみんな年上のムチムチボイーンだから、先生の趣味とは全然違うからなぁ。先生はお嫁さんみたいなタイプが好きなんだろ」
「アホ抜かせ。誰があんなツルペタ寸胴生物に欲情するか! 俺だって年上のムチムチボイーンの女が好きだっての」
思い返せばショコラが家にやってきてから、自分は女遊びの類は一切していないことに瀬賀は気付いた。このままでは名実ともにショコラと夫婦認定され、ロリコン扱いされてしまうだろう。それだけはどうにか避けなければならない。
「よし、その話乗った! 俺に女を紹介しろ!」
「決まりだな。じゃあ誰を紹介しようか。二年F組の山田先輩とかT組の林先輩とか、それとも三年の中野先輩とか――」
「あん……?」
龍之介が挙げていく名前に瀬賀は聞き覚えがあった。
「どうしたんだよ先生。図書委員の大橋先輩なんか、あんなに大人しそうに見えてすっげえ淫乱なんだぜ。この間もさーみんなが帰った後の図書室の机の角でよー」
「お前それ高等部二年と三年の生徒じゃねえか! お前にとって年上でも、俺にとっては年下なんだよバカ!」
龍之介に期待した自分が間抜けだったと、瀬賀は頭をぼりぼりと掻く。瀬賀は龍之介に背を向け、無言で歩きだした。
「待ってくれよ瀬賀せんせー」
「うるせー! ついてくんな」
瀬賀に怒鳴られても、ケラケラと笑いながら犬にように龍之介はその背中を追いかけていく。瀬賀は諦めた様に溜息をついた。
(ったく。なんで俺はこういう奴に懐かれるんだろうか)
類は友を呼ぶ。なんて言葉を瀬賀は認めたくなかったが、傍から見ればその言葉が事実であることはわかるだろう。
(昼飯食ってとっとと帰るか……)
そんなことをぼんやりと考えながら道を歩いていると、道端に奇妙なものが落ちていることに瀬賀は気付いた。
思わず立ち止まってしまい、後ろからついてきていた龍之介が瀬賀の背中にぶつかった。
「おいおい先生。急に立ち止まらないでくれよ」
「おい龍之介。あれ何だと思う?」
瀬賀は道に落ちているそれを指さした。それは一瞬木の棒でも落ちているのかと思ったが、少し違う。よく見ると人の手のような形をしたミイラだったが、人体に詳しい瀬賀はそれが人間の物ではないことにすぐ気付いた。
(動物の手のミイラ……多分この動物は)
瀬賀は腰を屈め、その手のミイラを拾い上げる。すると、後ろで龍之介がそれに反応したのか、ぽつりと呟いた。
「猿だ」
「なんだって?」
瀬賀が振り返り聞き返すと、龍之介は驚いたような、喜んでいるかのような顔で、そのミイラを凝視する。
「猿の手だよ先生! よく漫画や小説に出てくるあれだ!」
「さ、猿の手だって?」
瀬賀は無い頭をフル回転させ、脳みその中で『猿の手』の検索を行う。すると、子供の頃に読んだ小説のあらすじが記憶の奥底にヒットした。
三つの願いを叶えてくれる、猿のミイラの左手の話。
「……ジェイコブズの短編小説か」
「そうだ。あれに書かれてる猿の手は実在したんだ。そういえば前にユキ姉からもそんな話を聞いたことがあるぜ。すげー! 本物なんて初めて見た!」
龍之介は子供のように大はしゃぎし、目を輝かせながら瀬賀が持っている猿の手に手を伸ばすが、瀬賀はそれをするりと避けた。
「おっと。これはこの俺が拾ったもんだからな。だから猿の手は俺のものだ」
「なんだよ、俺にも願い事叶えさせてくれよ! 先生の物は俺の物だろ!」
「どこのガキ大将だお前は!」
しかしこれが本当に、あの猿の手だとしたら大変なことだ。三つも願い事が叶えられるとしたら、人生は大きく変わる事になるだろう。何を願うのか真剣に考える必要がある。何しろ願いは三つしか叶えられない。
そう瀬賀が深く考え込んでいると、
「猿の手様、猿の手様。願い事を叶えて下さい。俺にお金を恵んでください! ひゃくまんえんくらい!」
龍之介が唐突にそう叫び、瀬賀の持つ猿の手に向かって手を合わせていた。瀬賀はそんな龍之介の胸倉を掴み上げる。
「ちょ、お前何してんだよ。これは俺のもんだって言ってるだろ!」
「いいじゃん先生。三つも願い叶えれるんだからさ。それに本物かどうかまだかわらないから、試しにだよ試しに」
「だからって百万円ってなんだよ。百万円が大金の象徴ってお前は五歳児か!」
「いきなり凄い大金を願うよりそのぐらいのがリアルで叶えられやすいかなーって。そんな怒るなよー」
悪気も無さそうにそう言う龍之介に呆れ果て、瀬賀は力なく項垂れた。すると、握りしめていた猿の手が微かに震えだし、二人の頭に奇妙な声が聞こえてきた。
その時瀬賀は混乱していて気がつかなかったが、猿の手は瀬賀から離れ、またも地面に落ちてしまっていた。その猿の手をカラスが拾い、どこかへと運んでいってしまった。
中也があゆみを家まで送り、自分もアパートに戻ってくると、一緒に暮らしている次女の晶子が満面の笑みで出迎えた。パタパタとスリッパを鳴らし、長い黒髪を揺らしながら扉を開けた中也に向かってきたのだ。
「おっかえりー中也くん! 寂しかったんだよぉ!」
晶子は甘えるように中也に頬ずりをして、中也の顔を自分の胸の中で抱きしめる。
「ちょっと、アキ姉。苦しいってば!」
「ぶーぶー。いいじゃない。今日、ほんとはずっと一緒にいるつもりだったのに。中也くん出かけちゃうんだもん。寂しかったんだもーん」
くっついてくる晶子を引っぺがし、中也は部屋に上がって汗で汚れたシャツを脱ぎ始めた。そこで彼は部屋に大きな段ボール箱が置いてあることに気付く。どうやら宅急便で送られてきた物のようだ。
「アキ姉。これは?」
「ああ、さっき送られてきたのよ。差出人見たらユキちゃんからみたいだよ。中也くん宛てになってたからまだ中は見てないけど」
「ユキ姉からだって……?」
さっき会ったのに、一体何を送ってくるというのだろうか。中也は嫌な予感がしつつも、ガムテープをはがし、段ボールの蓋を開けた。
「う、ウソだろ」
蒼い顔をしながらがっくりと中也は肩を落とす。
その大きな段ボールの中には、無数の猿の手がぎっしりと詰まっていたのである。猿の手はなんと一つだけではなかったのだ。
一緒に入っていた手紙を読むと、こう書いてあった。
『それもついでに処分しておいてね。買いすぎちゃったの(はあと)』
やってくれた。あのアホ姉は全部自分に押し付けるつもりなのだと中也は理解する。彼はしばらく考え、その大量の猿の手に向かって手を合わせて、こう願った。
「猿の手様。猿の手様。クーリングオフでお願いします」