那由多由良は
ラルヴァである白い塊――
ウサギ紳士の先導で、校舎の背後に段々に伸びる山林のなかを走っていた。
首無し馬の体を乗っ取った
弟切草は、寄生主である首無し馬の持つ不可視能力を使い、あっという間に姿をくらましてしまった。由良たちは今、それを追って獣道を突き進んでいる。
杉の植林地なのか、低木の手入れが行き届いており夜でも山中の見通しは良い。地面に生い繁る青葉に付いた雨露に濡れる不快感さえなければ、追跡に手こずることはない。
頭上に目をやると、水に浸《ひた》したような厚いちぎれ雲が風に流され、蒼黒い空が顔をのぞかせる。
「二度も助けられてはもういけません。天地神明に誓って、協力させていただくのでございます!」
開口一番、ウサギ紳士はロッカーから出てきてそう申し出た。願ってもない提案だった。そのとき由良は、ウサギ紳士が自分を学園の班から引き離し、罠へ誘き出すかもかもしれないという疑念が頭の中をかすめたが、
(今は二の次。その時はその時ですわ)
そうでなくても、ウサギ紳士からの提案がなければ、耳をふん捕まえてでも連れていくつもりの由良であった。現状でウサギ紳士の人間を軽く超える特異な聴覚を抜きに、由良には不可視の能力を手にした弟切草を追う術はない。
「ナユタ様、お急ぎくださいませ」
切り株にのぼり、振り向いたウサギ紳士が呼びかけた。
「わかっ、て……ます、わッ!」その遥か後方で、息を切らせた由良が追いすがる。
由良は異能者であって、アスリートではない。異能の扱いこそ慣れているけども、身体がそれに順応してこないのが難点だった。加えて続けざまに戦闘を行っているために、見えない疲労が確実に足枷になっていた。
「あの、ワタシだけでも先に追いかけましょうか?」
ウサギ紳士は弟切草の走り去る方角と由良を交互に見やりながら言う。
「あなた一匹が」
「一羽でございます」ウサギ紳士は良い反応で口を挟んだ。
「……あなた一羽が、私《わたくし》抜きに追いついたところで、また取り込まれるのが関の山ですわ」
勝手に笑い出しそうな膝を両手で押さえて、由良は続けた。
「無駄口はいいですから、早く、案内なさい」
「どうしてそこまでする必要があるのでございますか。お仲間の応援が駆けつけるを待ってからでも遅くはないはずです」
ウサギ紳士の言ったとおり、校舎を飛び出すときには一応報告はしてある。学園からの応援が来れば、逃げた弟切草の発見も時間の問題だろう。だが、何か起こる前に見つけられる保証はどこにもない。
由良の報告を受け取ったのはオペレーターのリーネだった。どうやら転移の準備に取りかかっている最中、女性教師に彼女の食い散らかした菓子の包みや食べ滓《かす》のことで、大目玉を食らっていたらしい。それで電話のコールも遅れたようだ。
『でもリーネのお菓子なんだから春奈せんせーは関係ないのにー』
ぶええーと、電話口で半泣き声になりながら抗弁していたが、果たしてこちらの報告がきちんと伝わっていたか少しだけ不安な由良だった。
呼吸に落ち着きが戻り、最後に息をゆっくり吐いて由良が答えた。
「この山林に引かれている県境を越えた先に街がありますわ。それなりの人口で、都市圏に近い住宅密集地ですから、もしも弟切草がそこで暴れれば、何が起こるかは明白」
膝から手を離し、体を起こすとはっきりとした口調で言った。
「今、私たちが|アレ《ヽヽ》を止めなければ誰かが確実に不利益を被《こうむ》ります。それも、異能やラルヴァとは無縁の人たちに」
どういう不利益かは、あえて口にしなかった。
「ですがそれは、ナユタ様だけのお役目ではないでしょう?」
そうですわね、と由良は前へ進み始めた。「私の代わりはいくらでもいますし、それに私より有能な上級生はごまんといるでしょう。……でもこれは、私から関った事柄ですもの。手前《てめえ》で始末をつけなければ寝覚めが悪いですわ」
切り株の上に立ってもなお小さいウサギのラルヴァを見下ろして、由良は先導をうながした。
再び林の中を走り始めたウサギ紳士は、今度は由良ペースを見ながら、その二メートルくらい前を先行している。
弟切草は首無し馬との融合がまだ完全じゃないようで、全力で走っているわけではないようだ。かなりの距離を隔てていても、そう断言できるほどにウサギ紳士の耳はしっかりと足音を捉えていた。
「人間は他者を顧《かえり》みることはせず、利己的な者たちばかりだと耳に聞いておりました。しかし今となっては、認識を改めなければなりませんな」
「あら、半分以上は正解じゃありませんの」勢いを落とさず、早口に由良が答えた。
「あは、はは。そういうことにしておきましょう」
ウサギ紳士は首を反らせて愉快そうに笑った。
「仕えるべき主《あるじ》を失い、千の昼と万の夜を生き延び、幾つもの土地を旅して周ってきた紳士のワタシでございますが、ナユタ様のように可笑《おか》しな人間と出会うのは初めてございます」
「いるところには大勢いますわ。特に学園《うち》には」
「ナユタ様を見ていると、そう信じてみたくなりますなぁ」そう言って、はっとした顔になり、「ふむ、信じる……」
するとウサギ紳士は急に立ち止まった。つんのめるようにして、追い越した由良が怪訝そうに振り返った。
「なんですの?」
ウサギ紳士は前足で腕組みをし、目の前の人間の少女を一度、頭のてっぺんから爪先までしげしげと眺めた。
「うむ、うむ」
ひとしきり頷いたあと、ウサギ紳士は帽子代わりの灰皿を持ち上げた。
「ナユタ様、ワタシも腹を据《す》えるのでございますよ」