みかは高校生になっても、中村里香だけは特別な存在として扱ってきた。里香がやりたいと言ったことなら何でも協力してきた。みかがテニスクラブに顔を出していたのも、過去の出来事があったためである。それがみかにとっての大切な
「日常」であった。
だが先日あのようなことがあり、当然のことながら初等部のテニスクラブは無期限の活動停止となった。児童を監督していなかった顧問はクラブに所属していた児童たちの親に徹底的に叩かれ、学園側も重たい処分を下したという。
そして中村里香も初等部児童に対する暴行により停学処分となった。学籍番号と氏名、そして「停学」の文字が大々的に掲げられた掲示板には、放課後になると大勢の学生が詰め寄り、早速事件について根も葉もない噂話を立てていた。
「停学」の文字だけを確認したあと、みかはため息混じりに人だかりから離れた。足早に学園から出て帰途につく。
「すぐに気づいてりゃあなぁ・・・・・・」
里香が
ラルヴァを前に理性を失うのは、実は今に始まったことではなかった。双葉島では異能者とラルヴァとの戦闘が頻発するので、みか・里香のペアも例外なく戦闘に巻き込まれることがあった。
そうなると大変であった。里香が暴走するのである。だからラルヴァ相手に力を使いすぎないよう、里香が残虐行為に走らないよう、みかが彼女の前に出て戦ってきた。いつも里香のそばについていたのは、実はそれが大きな理由であったりする。里香を止めてやれるブレーキの役割を担っていたのだ。彼女は非常に危険だった。
しかし今回の事件はみかも予見できなかった。いつものように男子たちと遊ばずきちんと里香の隣にいるべきだったのだ。まさか、ラルヴァの子がクラブにやってくるなんて。
雨雲は今にも層ごと落下してきて、不愉快な灰色の塊をこの島や学園の校舎や自分に叩きつけてきそうな気がした。時折雲の中身が白く閃いた。今朝もみきは雷を怖がってぐずってしまい、マンションからたたき出すのに一苦労してきた。
みかは自分自身が激しく落ち込んでいることをわかっていた。だからクラスメートもむやみに詮索をしてこなかった。みかは彼らの優しさに感謝していた。
あの見慣れた親友の笑顔が、どんな憂鬱も雨雲も押しのけて明かりを照らしてくれるあの笑顔が、今日の教室にはなかった。寂しかった。もう二度と見られないような気がして、なおさら。みかはそれまでの「日常」の尊さを痛感していた。「日常」は壊されるためにあるのかな。壊されたり変わってしまったりするから大事なのかな。そう悲しいことを思っていた。
「難しいネ」
ふと、そんな言葉が口から滑り降りてきた。何が「難しい」のか、言った本人はよくわからない。とにかく物事は「難しい」。
ただ笑っていればよかった、ただ遊んでいればよかった、ただ戦っていればよかった――そんな無邪気な時期は終わってしまったような気がしていた。今後は何かとこう「難しいこと」が悪意を持って自分たちに襲いかかる。邪魔をする。足を引っ張る。意地悪をしてくる。いつまでも子供でいられるわけはなく、どうしても嫌なことに目を向けなければならない。
出血と黄色い吐しゃ物と、涙でぐしゃぐしゃになったタヌキの子の泣き顔を浮かべる。
みかはひどく哀しくなった。
「あたしたち、ちゃんと生きていけるのかな?」
――これからもずっと、一週間後も一ヵ月後も、一年後も。
みかたち姉妹の暮らすマンションは遠い。毎日徒歩で三十分かけて登校している。島に移住してきたさい都合が着いたのがその部屋だけだったので、文句は言えない。でもそのとき赤子であった三女が「遠いから引っ越そうよぅ」と言い出したとき、「確かにそうかもな」と感じていたところであった。
「ちょっと待ちなさいよ」
つまらない考え事に没頭していたところを呼び止められた。女性のものとは思えないぐらい低い声で、今にも雷や地震を詠唱してぶつけてくるような、そんな黒々しい怒りが混じっていた。振り向いたみかはその顔を見てはっとなった。
「・・・・・・あんたは」
成人女性と変わらない体躯をしたタヌキがいたのである。みかと目が合ったとき、血走った眼球を露骨に向けて太い牙をむき出しにした。
「よくもウチの子を・・・・・・!」
「ちょっと待て。あたしじゃない。やったのは――」
「アンタにも同じことをしてやる」
里香に暴行された子タヌキの母親だ。そう理解する間もなくタヌキは前傾姿勢で歩道を蹴って突っ込んできた。みかもとっさに猫耳と尻尾を解放させて瞳を翠に光らせる。
タヌキの右フックを左腕でガードし、後ろに下がって距離を取った。しかし母タヌキは間断無く密着してきて意地でもみかを殴り倒す勢いで食らいついてきた。
「なんで、なんでウチの子をあんな目に!」
「だからあたしじゃねぇって! リカにはあたしがきつく言って――」
「殺してやる! 殺してやる! 殺してやるぅ!」
「くっそぅ、聞く耳持ちやしねぇ」
母タヌキは狼を連想させる形相で殴りにかかってきた。年端の行かぬ娘をあんなひどい目に遭わされたのだから、みかにも彼女の気持ちは察することはできる。しかしだからといって大人しく殴られて大怪我をいただくわけにもいかない。ましてみかは無罪であり、このタヌキは標的を勘違いしているのである。
「手ぇ出せねぇなぁ・・・・・・」
パンチを横に滑って回避したときの一拍というわずかな時間のうちに、みかは素早く下がってジャンプし、そのままブロック塀に着地。さらに黄色を表示している信号機に飛び移ると今度はバク転でくるくる民家の屋根に降りた。
それから屋根伝いにみかは駆けていく。後方に視線を落とすと、地面を張って猛然と追尾してくる母タヌキの姿を確認した。ポケットから携帯電話を取り出し素早く番号を打った。
『・・・・・・もじもじぃ』
「あたしだ! みかお姉さまだ! 今どこにいる!」
みきに電話をかけたのだ。放課後になってからまだ時間は経っていないので、この近辺にいると確信していたのだ。非常事態でもこうして冷静な行動ができるのが、姉妹のなかでもみかの優れている点である。しかし。
『おうぢぃ(おうち)』
「は、はぁ? お前学校どうしたんだよ!」
『どーしても我慢できなくてね、教室で泣いてたらね、そしたら春奈せんせーが早退していいよって言ってくれてねぇ・・・・・・』
「この弱虫! あたしゃ今戦闘中なんだよ! 援護に来てよ!」
『ええっ・・・・・・でもでもぉ』
そのとき「ヒュン」という風を切る音がした。みかは前方の高層マンションの避雷針に雷が直撃したのを見る。ヤバいと思ったそのとき、とんでもない炸裂音に襲われる。さすがにみかも両方の猫耳を閉じて背筋をびくっとさせた。
『いやぁああああああ! いますっごいの来たぁ! やばいの来たぁ――っ! もういやぁあ、助けて姉ぇざぁあああん!』
「助けて欲しいのはこっちだってばぁ! お願いだから早く来てぇ!」
みかの必死な懇願に対して返ってきたのは、「ツー、ツー」という電話が切れた無常な電子音である。空中を飛び回りつつ、少しの間ぽかんとしたまま何も言葉を発せなかった。
「ふ、ふ、ふざけんなぁあああああ!」
絶叫する。とにかく発狂タヌキから逃亡するしかないみかは、通学路から離脱して海岸線に向かった。暗雲が一面に敷き詰められて轟きが聞える人工砂浜にやってきた。悪天候のせいか誰もいない。
「追い詰めたわよ」
そして後からやってきたのは怒れる母タヌキである。みかはとうとう覚悟を決めた。
「もう仕方ねぇ。シビれるぐらい後悔させるよ!」
そう鋭利な翠の視線を突き刺し、すごむ。好戦的な母タヌキはますます頭に血が上り、針山のような茶色の体毛を逆立てた。
「見くびらないことね」
みかは気を引き締めて構えの姿勢をとり、猫耳もピンと伸ばして警戒に入った。だが相手の身体に変容が起こり、その過程を眺めている間にやがて彼女は警戒も忘れ、呆けた顔を見せるに至った。
「お前・・・・・・!」
「ふぅん、これがアンタが無意識のうちに恐れている『天敵』」
――いいや、そんなわけがあるはずない。あいつは今頃部屋で雷に怯えてビービー泣いているはずだ。今、この砂浜で、あたしの目の前で青い鞭を振り下ろして猫耳を付けているのが、「みき」であるはずがない・・・・・・!
衝撃で微動もできないみかを前に、鞭を持った猫耳少女はにたりと歪んだ笑顔をして見せた。母タヌキは立浪みきに「化けて」みせたのである。
「アンタの妹? ま、なんでもいい」
ご丁寧にもあのおっとりとした調子の声まで完璧にみきのそれであった。タヌキ族の恐るべき力に圧倒されていたところ、青い鞭の先端が額目掛けて飛んできた。
「アンタをボコボコにできればねぇ!」
「ぐうっ!」
あっけに執られすぎていた。あと少しグラディウスを手にして防御するのが遅かったら、打ち所次第では死んでいた。みかは鞭の打撃に吹き飛ばされる。砂浜を転がって受身を取り、立ち上がる頃にはもう鞭が飛んできている。青いロープが破壊力の秘めたしなりとともに襲い掛かってきた。
みかが回避に専念して横に飛び移るたび、もといた場所の砂がめくれ上がって派手に吹き飛んだ。本物のみきとは比べ物にならないぐらい積極的で、残虐な「立浪みき」であった。
「なるほど、アンタは近づかせなきゃ怖くない」
「近づきゃいいんだろ? あたしももう怒ったよ? みきをそんな風にして」
「近づいてから言いなさいよ」
突然、グラディウスを握っている左腕が、クンと真上に引っ張られた。
何事かと思い目を移すと、青いロープがしっかり手首に巻きついているのを見た。みかに激震が走る。グラディウスが手から零れ落ちる。
「そんな、見えなかった――」
「そぉれ!」
次の瞬間、みかは体ごと前方に引き寄せられてしまった。わけのわからぬうちに鞭に巻き取られてしまう。何重にも巻きつけられた青いロープは、打ち破ろうとしてもみかでは力が足りなすぎてどうにもできない。
「ほぅら、近づかせてやったわ」
「くっ・・・・・・!」
みきの顔が、彼女のするはずのない邪悪なものに染まっていた。みかはそれを見て尋常でない恐怖を抱いた。なぜか理解不能なぐらいみきを怖いと思ったのだ。
すると頬に痛烈な打撃を受ける。殴られたのだ。母タヌキは左手の鞭でみかを縛り上げつつ、右腕を使って思う存分みかを殴りつけた。みかは離脱したくとも戒めが頑丈すぎて、ひたすら殴られるしかなかった。
「学校にこんな凶悪ラルヴァがいるなんて・・・・・・!」
母タヌキはみかの白い猫耳を掴み上げ、乱暴に引っ張り上げる。あまりの痛みにみかはうめいた。まるでみきに暴行を受けているようで、今にも泣き出してしまいそうなぐらい苦痛であった。
「あたしはラルヴァなんかじゃないやい・・・・・・」
「殺してやる!」
何度も頭部に打撃を食らっているうちに、意識が朦朧としてきた。このままでは本当に殺されてしまうかもしれなかった。虚ろな目をして真上を向いたとき、魔界に住む生き物のように蠢く雨雲の層を見る。そのときみかの両目に緑の光が戻った。左手にもう一度、グラディウスを具現させて握り締める。
「無駄ね。アンタの力は妹に効かないと見た。打ち破れないわ」
ところがみかは手首の力だけで短剣を頭上に放り投げた。自分の顔に降ってきた刃物の柄を、口に咥えて受け止めたのである。くすんだ緑に鈍く輝く刃先が、天に向かって突き立てられた。
「な、何をする気?」
「ああひゃ、ふはひはは はほひゃーひ あほはへへへへ?」
まるで何を言っているか理解できない。だがみかの表情は勝利を確信していた。対処法をすぐに見つけることができない母タヌキは、奇行に出たみかに数秒ほど時間を与えてしまった。そしてそれが命取りとなったのである。
そのときみかは、ぐるぐると渦巻く暗雲がぱっと光ったのを見た。彼女も翠眼を魂源力の輝きで爆発させ、それに全力で応える。
「ひゅーふひぃーふぅ・はんはぁ――――――――――――――――――――ッ!」
二人の周囲が白い光に埋め尽くされる。全てを理解した母タヌキも、「あ、アンタって人は!」と驚愕の声を発したがすでにもう遅い。
人工砂浜のど真ん中にて、落雷が発生したのである。