陸雄《りくお》は双葉区から離れた、とある海沿いの寒村に来ていた。
双葉大学で
ラルヴァ研究を学んでいる陸雄は、郷土妖怪譚や民話とラルヴァの関連性について研究レポートを書くために旅行に出たのだ。もっとも、この村は学園側に出した外出届とは別の場所だ。
たまには学園の目の届かない場所で羽を伸ばしたいと陸雄は思っていた。毎日息の詰まるような講義を受けたり、学園の目を気にして研究に励んでいても気が休まない。後で大目玉を喰らうかもしれないがこの長閑な場所にやってきてよかったと思う。
「空気がおいしいなぁ」
爽やかな潮風が頬を撫で、新鮮な空気が肺いっぱいに入ってくる。陸雄がいる場所は寒村から少し離れた海岸だ。ゴツゴツとした岩場が多く、場所も高いため崖になってしまっている。足元が不安定でちょっと怖い。でもここからの眺めはとても綺麗だ。水平線見え、雲一つない青い空が無限に広がっている。
そうして陸雄が景色を見渡していると、崖の先に人影が見えた。風になびく黒い長髪と、スカートを見てそれが女性だとわかった。
――こんな何もないところで何をしているんだろう。
自分と同じように景色を楽しみ来たんだろうか。それとも村の人間だろうか。陸雄は考えたが、村に立ち寄らずにここへ来たため、彼女が村人かどうかは判断がつかなかった。
しかし、ふっと、見えた女の横顔を見て、陸雄は一瞬で恋に落ちた。
パッと見、陸雄より一つ二つ年下だろうか、遠くからでも美人と分かる。人形のように整った顔立ちをしており、裾の長い白いワンピースがよく似合っていて清楚な印象を受ける。崖の上に立ち、海と空を背景にしているその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
だがその美しさに比例するかのように、彼女の顔は寂しげで、深い悲しみを背負っているかのように思える。じっと彼女は眼下に広がる荒波を見つめていた。
まさかこの崖から飛び降りるつもりじゃないだろうな、陸雄は最悪の展開を想像し、思わず駆け寄っていた。
「早まっちゃダメだー!」
早まっているのは陸雄だった。
陸雄の叫び声にびっくりしたのか、女ははっとこっちを向いてその場にへたりこんでしまう。
「な、なんですかあなた」
「え? いやだってきみそこから飛び降りようとしてたんじゃ……」
「そんなわけありませんよ。ただ海を見ていただけです」
女は顔を赤くしながら立ち上がり、おしりについた砂をぱぱっと払った。こうして目の前から見ると、さっきよりも何倍も美人に見える。
「なんだ。俺の勘違いかぁ。だってすごくつらそうな顔してたんだよ、そりゃ勘違いぐらいするさ」
「つらそうな顔?」
女はきょとんっとして陸雄に尋ねた。
「そうだよ。なんだか寂しそうというか、人生に疲れたような顔だった。てっきり俺は身投げでもするんじゃないかと思ったよ」
「…………」
陸雄の言葉を噛みしめ、女はまたあの顔になった。不景気そうな、悲しさを感じさせる顔だ。だがどこか男の庇護欲を駆り立てるような色気があった。
「人生に疲れた……そうですね。わたしは確かに生きることに疲れています。このまま海に沈むことができたらどんなに楽か」
突然物騒なことを言いだした女に、陸雄は面食らった。
「おいおい何言いだすんだよ。生きてりゃいいことあるって。まだ若いんだから死に急ぐことなんかないよ」
熱くなった陸雄は、説得しながら彼女の手を掴んでいた。すると、彼女の顔から影が消え、くすりと笑う。
「変わった人ですね。あなた」
「い、いやあ。別に。ただこんな美人を放っておいちゃ男がすたるってもんだよ」
「あなたのような人はきっと人生が楽しいんでしょうね」
「当たり前だよ。生きてるだけで幸せさ。きみだってそうだ。人生楽しまなくちゃ」
「そう、そうね。わたしも人生を楽しみたいわ」
陸雄と女は互いに見つめ合い、どちらからでもなく、肩を並べて海岸沿いの岩場を歩き始めた。
女は名を瑠璃子《るりこ》と言った。
名前以外のことは語らなかったが、陸雄は特に彼女の素性に興味を持たなかった。それよりもこうしてこんな理想の美人と海辺を歩けるなんて夢のようだと思った。二人はこの地域のことや、陸雄の趣味のことなど他愛のない話をしてグルグルと波打つ海岸を回っていた。
瑠璃子は陸雄の話に相槌を打ち、微笑を浮かべている。出会ったばかりの男と人気の無い場所を一緒に歩くなんて変わった人だよな、と陸雄は思った。
時折見せる暗い顔を見て、やっぱりさっきここから飛び降りるつもりだったんじゃないかと陸雄は考える。だが瑠璃子の髪から漂う磯の香りが鼻孔をくすぐり、どうでもよくなってくる。
「きゃあっ!」
突然瑠璃子が小さな悲鳴を上げて倒れた。
岩場のゴツゴツした部分に足をひっかけたのか、裾の長いスカートから彼女は足をさすっている。
「大丈夫?」
「ちょっと足を捻ったみたいです」
「大変だ。ちょっと見せて」
そう言って陸雄が手を瑠璃子の足に延ばすと「いや!」と強く彼の手を拒んだ。陸雄はあっけに取られたが、確かに初対面の男が足に触れようだなんて無神経だったかもしれないと反省した。だけどスカートと靴下のせいで瑠璃子の足の肌は隠れてしまっていて腫れているのかどうかわからない。
「ごめん。でもこのままここを歩くのは危ないよ。足場が不安定だからおぶっていくわけにもいかないし……」
「そうですね。どうしよう」
「そうだ、あそこでちょっと休憩しよう」
陸雄は岩場の影にあった洞穴を見つける。狭苦しくはあるが涼しいし座り込む場所としてはうってつけだ。
「ここできみは待っててよ。村に行って人手を呼んでくるから」
洞穴に瑠璃子を連れ込むと、陸雄はそう言った。
「え? それは困ります。わたしは大丈夫ですから」
「ダメだって、無理に歩いて酷くなったら大変だよ。すぐ戻ってくるからさ」
陸雄は村へと向かおうために洞穴から出ようとした。
だがその直後、グラグラと揺れが二人を襲う。もともと足場が悪いため立っていられなくなる。
「じ、地震!?」
ぴしっと天井の岩に亀裂が入る音がする。咄嗟に行動することもできないまま、陸雄の視界は暗転した。
それから数え切れないほど長い年月が過ぎ去った。
陸雄は忘れていた。人魚の肝を食べた人間は、不老不死を得るということを。
彼の望み通り死から逃れることはできた。だがそれは死よりも辛いことである。狭苦しい光すら届かぬ孤独な空間に、陸雄は死ぬことすらできずにずっと座っていた。
不老不死を得たと同時に精神も壊れることがなくなってしまったが、いっそ発狂してしまった方がどんなに楽だったかわからない。
「みんな、どうしてるんだろう。今の日本は、
双葉学園はどうなってるんだろう……」
自分がいた双葉学園が今どうなっているのかを、ただ暗闇の中想像することだけが退屈を紛らわせる陸雄の唯一の遊びである。
――俺はいつまでこんな暗い所で、独りで生きていかなくちゃいけないんだ……
陸雄がここに閉じ込められて二千十九年の夏から百年の月日が経っていた。
助けは未だ来ない。