桜子が家に戻ると、玄関には鍵がかかっていた。まだ聡実も帰っていないらしい。買い物か何かで時間がかかっているのだろう。
鍵を開けて家に入り、二階にある自分の部屋に行く。のろのろとボタンがすっかり無くなったブレザーを床の上に脱ぎ捨てると、桜子はばったりとベッドの上に倒れ込んだ。身体が重くだるい。
そのまま桜子は暫くじっとしていた。
どうしてこんな事になったのだろう、と改めて思う。
突拍子もない話をいきなり聞かされて、気がつけば、ずっとその為に勉強して、なんとか合格した志望校に進学するのではなく、東京の名前も知らない学校へ行く事になってしまった。そしてその理由が、わたしに何かの『資質』とやらがあって、『鬼』を呼び寄せるからだ、という。県庁の人や警察の人がいきなりやってきた。そして、そこに師範もいた。そういえばパパの会社の社長さんがどうとかも言っていた、気がする。なにしろ自分でも何がどうなっているのかよくわからない事だ。瑞穂にわかれというのが無理だったのかもしれない。
ただ、それにしても、瑞穂が投げつけてきた言葉は桜子には衝撃的だった。
あの子は何を考えていたんだろう。ずっと親友だと思っていたし、なんでも話した、――今回の事は別だが、殆どどんな事でも普通に話をしていた。瑞穂もそうだと思っていた。
しかし、今日桜子が見た瑞穂の姿は、いつも桜子が見ていた、大人しくて気が弱くて流されやすく、自分の方が悪くなくても、とりあえず「ごめんなさい」と言ってしまいがちな瑞穂の姿とは違っていた。あんなに怒りを爆発させた姿を見たのは桜子ははじめてだったし、何より――、
(――面白くないんでしょう、あたしなんて! 今までだってそうだった!)
(――ずっと前から知ってたよ!)
瑞穂の言葉が頭から離れない。
わたしは瑞穂と一緒にいたのが面白くなかったのだろうか?
瑞穂は何を知ってたんだろう?
桜子にはさっぱりわからなくなった。そもそも本当に友達だったのだろうか。自分がそうだと思っていただけ。あるいは自分がそうだと思いこもうとしていただけ。そういうことだったのか。
気がつくと目から涙が溢れ出ていた。
「あ――」眼鏡が涙で濡れている。レンズに涙の水たまりが出来ていた。桜子はティッシュボックスを探して、眼鏡を拭いた。そうしている間も涙が止まらなかった。悲しいという気分もどこか虚ろだったが、涙はそれでも流れ出てきて、桜子の頬をぬらした。
「止まらないな――、駄目だこれ――」
桜子は階段を下りて、洗面台に走っていった。そして思いっきり水を出して、顔を洗う。勢いが強すぎて、白いブラウスにも水飛沫がかかった。二度三度ゴシゴシと洗ってから顔を上げて、自分の顔を鏡で見てみる。
酷い顔だった。自分で思っていたよりもずっと悲しんでいる様に見える。まずい、と思った。聡実が家に帰るまでこんな顔をしている訳にはいかない。
もう一度顔を洗い直して、前髪が落ちてこない様につけている白いカチューシャをつけなおす。髪にブラシも掛けた。これならなんとか誤魔化せるかも、という感じに見えた所で、桜子は洗面所から離れた。
「はあ」
自分の部屋に戻った桜子は、ベッドの上にへたり込んだ。疲れた。何をする気もしない。だが猛烈にさびしかった。誰かに会いたいと思ったが、思いつかない。親にも会いたくない。師範にも会いたくない。瑞穂にも――、今は会いたくなかった。由希は――、由希はどうなんだろう?
桜子は脱ぎ捨てた制服のポケットから携帯を引っ張り出して、由希に電話を掛けてみた。
何度かコール音が鳴った後に由希が出た。
「遅いよ」開口一番これだった。
「え?」
「え、じゃないよ。今何時だと思ってる?」
桜子は慌てて時計を見てみた。現在、午後の三時半。正午になる前には卒業式は終わったはずだった。
「もう打ち上げは終わる所ですよ、部長」カラオケでもやっているのか、わいわい騒いでいる声が聞こえてきた。音楽と誰かが歌っている声が聞こえている。恐らくは後輩の誰か。
「あ、ああ、そっか。そうだよね――、わかった。じゃあ、みんなにもよろしく言っておいて」桜子はそう言ってから、携帯を切ろうとした。
「ストーーップ!!」携帯から由希の声が響いた。
「なっ、なに? 何か用?」驚いて聞き返す。
「諸葉、今切ろうとしたでしょ?」
「そうだけど――」
「ちょっと待っててね。切っちゃダメだよ。そのまま待ってて」由希はそれだけまくし立てて、話を切った。
桜子は携帯に耳を近づけた。音がしない。多分、
マイクのあたりを手でおさえているのだろう。
そのまま待っていたが、あまり待つ必要もなかった。
「おまたせー。諸葉さ、今どこにいるの?」由希の声が聞こえてきた。喧噪は聞こえてこない。カラオケだとしたら部屋を出たのだろう。廊下かトイレか、そこはわからないが。
「家だよ。それが?」
「じゃあさ、ちょっと出ておいでよ。他の子は知らないけど、あたしはここで抜けるから」
「楽しんでたんでしょ。悪いよ――」
「あたしの話聞いていましたか、部長。打ち上げは終わる所なんですよ」
「あ、ああ――」そうだった。ここ数日は調子が崩れっぱなしになっている。
「実はちょっと聞いて欲しい話があるんだよね、部長に」由希は桜子の事を『諸葉』と呼んだり、『部長』と呼んだりしてる。何かを押しつけたい時はほぼ例外なく『部長』と呼ぶのが由希の常だった。
「話? 今日じゃないとダメなの?」
「うん、ダメ。それじゃ、待ってるね。場所は――」桜子の家からちょっと離れた所にあるファーストフード店だった。自転車で行けば十分もかからない所である。由希の家にも遠くなく、桜子も由希も二人だけで遊ぶ時や下校途中によく利用している場所だ。最近はそういう事も少なくなってきていたが。
「あのね、由希。あたしはまだ行くって――」
桜子が言いかけた所で携帯は唐突に切られた。
「全く――」桜子は少しムッとした。リダイヤルして掛け直す。コール音が一度鳴った所で由希が出た。
「由希、わたしは――」
「来なさいよ。来ないと絶交」絶交という言葉に桜子はドキリとした。そして電話はそこで切られた。
桜子は携帯を手に持ったまま、しばし憮然としていた。それから、はあ、と小さく息をついて立ち上がる。
絶交か。瑞穂とはあんな事になって、由希は冗談だろうが、絶交とか言い出す。いつもならば気にもとめない言葉だが、今日の桜子には文字通り重くのしかかった。絶交は流石に困る。とても困る。
電話をしたのは失敗だったかも知れないと思いながら着替えをする。あまり人には会いたくない気分だった。さびしいとは感じたが、出かけるのは億劫だった。剣道部で練習したり、尚正の所で稽古をした後よりも身体がずっしりと重い。
黒のフードパーカーと茶色が基調のチェックのスカート。それにやはり黒いハイソックス。とりあえずこんなものでいいだろう。
玄関に腰を下ろして茶色のショートブーツを履いていると、玄関のドアが開いた。
「ただいま」聡実だった。「あら――、今から出るの?」
「うん、わたし今からちょっと出てくる」
「もう空気も冷たくなってきてるわよ。風邪引かないようにしないと」
「大丈夫。ちょっと友達と待ち合わせしてるだけだから。多分すぐに帰ると思う」コート掛けからハーフコートを取って着込む。
「そう――、あまり遅くならない内に帰ってきなさいよ」
「うん、わかってる」
外に出ると確かに空気は冷たくなっていた。日の光も弱くなっている。
「ホントだ。寒い――」桜子はブルッと身体を震わせて、自転車を出しに行った。