視界に映るのは、席に座る子供たち。それを囲うのは真っ赤なテント。毒々しいまでにカラフルな装飾のされたそのテントの中は、どこかパノラマのように不思議な空間を作り出している。
彼はその舞台の中心でスポットライトを浴びていた。派手な七色の服に、顔は白塗り真っ赤なペイント、頭には魔法使いの帽子のような又の分かれた奇抜な帽子。
彼はピエロだった。このサーカス団の一番人気である。
この舞台の上でおどけたように大げさなアクションを振りまき、観客席の子供たちを笑いの渦に巻き込んでいた。
だがそんな観客たちの笑顔に囲まれながらも、彼自身は表面上だけしか笑っていなかった。
(くだらねー。一体俺はいつまでこんな仕事やってりゃいいんだ)
彼の名前は葦原《あしはら》悠介《ゆうすけ》。もう三十を越えているのに、ずっとこんな風にサーカスで働いていいのかいつも悩んでいた。勿論最初はサーカスというものに憧れ、夢を持って入団した。
厳しい下積みを経て、ある種花形でもあるピエロの役を貰うことができた。だが、夢も叶ってしまってそれが“日常”になってしまえば一気に色あせてしまう。
ただ毎日の縁起を業務のようにこなしていくことに葦原はうんざりしていた。
情熱がなくなった、簡単に言えばそうなのだろう。
この葛谷《くずや》サーカスはいつ潰れてもおかしくはない規模の小さい劇団だ。そもそも今の子供たちはサーカスというものに興味がないのだろう。今回も空席が目立ち、チケットは売れ残っている。テントも小さな物のため、あまり派手な出し物は出来ないせいかもしれない。今回も町の空き地で無理を言って公演させてもらっているのだ。誰も彼らのような名の知れないサーカスを望んではいない。
だが今いる子供たちはみんな笑っている。
それは葦原のピエロとしての技量があるためであった。例え少ないとしても、そこにいる観客を満足させることが出来る葦原はやはり才能はあるのだろう。しかしもう、子供たちの笑顔見ても葦原の心に何の感動も与えなかった。ただセオリーどおりのことをこなしていくだけである。
だが、そんな子供たちの中で、一人だけ葦原の目に留まった少年がいた。
七、八歳程度の小さな男の子。一見すると女の子のようにも見えるほどに線が細く弱弱しい。どこか作り物染みた、まるでお人形のような少年だった。その少年が葦原の目に映ったのは彼が笑っていなかったからだ。
顔を伏せ、目をこちらに一切向けていない。頬をぴくりともさせずに、まるで時間が過ぎるのを待っているかのようだった。
(なんだあのガキ。なんのためにここに来てるんだ。なんだか調子狂うな)
葦原は心の中で毒づきながらもその少年が気になっていた。どんなジャグリングも、どんな玉乗りも、どんな客弄りも、どれだけおどけても彼は一切笑わなかった。
(絶対笑わせてやるこのクソガキ――!)
葦原は、年甲斐もなく意地になっていた。
少女は鼻の先に冷たいものが当たったのを感じ、ふっと空を見上げる。
真っ暗な夜の空から白い粒がたくさん落ちてきていた。冷たい空気に晒され、その白い粒は町の地面に落ちていく。
「雪――か。これは積もるかもね」
その少女は白い吐息をはきながらそう呟いた。
長い黒髪を後ろに結い、ポニーテールにして揺らしている。しかし毛先はこの雪のように白くなっていて、どこか神秘的な雰囲気もかもし出していた。その左手にはブレスレットが輝いている。
彼女の着ているブレザーは
双葉学園という、|化物《
ラルヴァ》と戦う異能者を育てる機関の制服であった。
彼女の名は難波那美《なんばなみ》。その双葉学園の高等部三年生である。
『那美ってば雪を見るの初めてかしら?』
その声はそこに那美以外の人間はいないのに聞こえてきた。その声は那美の頭に直接話しかけているのだ。那美はいつもの通りに適当に相槌を打つ。
「いや、学園に来る前はそれなりに見たわ。ただ、都心の学園じゃ見ることはないから少し得した気分ね。あんたこそ雪を見るのが初めてじゃないのミナ?」
ミナと呼ばれた彼女の頭の中の人物はくすりと笑って
『私は何百年も生きています。雪だってたくさん見ました。こんなのよりもっとすごい吹雪も』
と言い返した。
「私より人生経験抱負だもんね」
『おばさん扱いだけはやめてもらえるかしら』
二人は頭の中でそう笑って対話していた。
これは那美がおかしい人物なので断じてない。那美の中にミナという存在がもう一人いるのだから。
だがそれは二重人格ではなく、ましてや人間でもない。
ミナはラルヴァだった。那美に取り憑いている(この表現が的確かどうかは不明)ラルヴァだ。那美の左手は事故によってラルヴァと融合してしまった。
それゆえにそのラルヴァの意思であるミナが彼女の精神に宿っているのだった。だから那美はラルヴァの力を制御するために四六時中左手に拘束具《リミッター》であるブレスレットをつけている。
ラルヴァに寄生される人間など珍例なため、学園にモルモット扱いされているものの、研究者であり両親をなくした彼女の後見人である我妻啓子《あがつまけいこ》のお陰もあって、今の彼女はそれに対して不満は無かった。
だが、たった一つ、今不満を感じていることがある。
「まったく、なんで私が裏切り者をとっ捕まえなきゃならないのよ」
それは彼女に課せられた任務だった。
学園から命じられた特別な任務。
それは学園を抜け出した生徒を追いかけ、捕まえること。ただ脱走しただけならば、刑務所などではないのだからそんな風に大げさに刺客を送ることはないだろう。
だがその脱走した生徒は異能者だった。それもとてつもなく強力で凶悪なもの。
その生徒はカテゴリーFと呼ばれる規格外の力を持った異能者だった。世界に害を及ぼしかねない力を持った存在。最悪であり災厄の力。
その生徒は何人もの生徒や教員を殺し脱走したのだ。そんな強大な力と凶悪な力を持った人間が世界に放たれてしまった。
並みの異能者では太刀打ちなど出来ない。そこで“|荒神の手《ゴッドハンド》”と呼ばれる力を持つ彼女がその刺客として送り込まれていたのだ。
ラルヴァを倒すための機関が人間を相手にするなんて皮肉なことだ。那美も人間を相手にするこの任務を最初は受ける気は無かった。だが、化物と融合し、半ばお情けで飼われているような自分の立場でそんな風に断れるわけもない。
(先生に迷惑をかけたくないしね――)
自分が何か問題を起こせばきっと、恩人である我妻にも害が及ぶだろう。それだけは避けたかった。そんなことを本人に言えばきっとビンタでもされて説教されるのだろうが。
「ともかく、その生徒がこの町に逃げ込んだって情報が確かなら、ここで決着をつけてやるわよ」
那美はポケットから生徒手帳を取り出した。だがそれは普通の生徒手帳ではなくあらゆる情報やラルヴァの感知機能のついたハイテクな端末である。
そこから那美は任務に必要な情報が入ったファイルを開く。
すると、そこには一人の女生徒の顔写真とプロフィールが出てきた。
〈早乙女玲子《さおとめれいこ》〉
そう名前欄に書かれている。前髪を揃えている艶やかな黒髪に、綺麗な顔立ち。一見美人できっと異性に好かれるのだろうと思えるのだが、那美はその彼女の目を見て、鳥肌が立つのを感じた。
見覚えのあるその瞳。
深淵のようなどろどろと黒く濁った瞳。
それは世界を憎む者の眼だ。
かつて自分がしていた眼。事故に合い、ラルヴァに寄生され、視界に映る全てを憎んで、何もかもを壊したいと思ったあの日の自分の目と同じ。
恐らく自分も、我妻に会わなければこんな眼をしたまま実験体として死んでいたのかもしれない。そう思うと那美は玲子を他人のように思えなかった。
それまで彼女は優等生らしく、表向きは今まで何も問題行動を起こしたことはない。だが、数週間に何の前触れもなく異能が覚醒し、何人もの命を奪っていった。
何を思い、何をもってして玲子が人を殺して、逃げ出したのか。それは那美にはわからない。きっと、理解できないだろう。
だが、それでも那美は任務としてではなく、純粋に玲子の凶行を止めたいと思っていた。そのことを彼女は自覚していないが。
『早く見つけないと大変なことになるでしょうね』
「わかってるわよミナ」
雪の降る町を彼女はマフラーを巻きながら歩いていく。この寒さだ、持久戦になるのは避けたい。体力が人並み以上とはいえ限界がある。
だがそれも玲子も同じのはず、いや、どこか温かい場所に隠れているのかもしれないが。ともかく一般市民に被害を出させるわけにはいかない。
那美は端末に
インストールされている魂源力《アツィルト》感知ソナーを展開させる。魂源力に反応するものだが、せいぜい半径二十メートル以内程度の異能者を曖昧に感知するだけなのであまり当てには出来ない。
那美は辺りを見回す、なんてことのない住宅街。同じような家が規則正しく並んでいる。夜の闇に照らす家の窓から漏れる光は、こうして一人で歩いている那美を少し寂しくさせていた。
『なに、那美ったらホームシックかしら?』
「そ、そんなんじゃないわよ。ただ寒いし早く帰りたいなーって。だから早く終わらせるわよ」
『はいはい、そういうことにしておきましょう』
「本当だからね、先生に会いたいとか思ってないからね!」
そうミナに頭の中で話しかけながらずんずんと那美は歩を進めていく。すると、何だか騒がしい音が聞こえ、角を曲がったところが明るく照らされていた。
那美はなんだろうかと急いでそこに向かうと、空き地にサーカスのテントが張られていたのだった。
寂れている看板には“葛谷サーカス”と書かれ、中から笑い声が聞こえてくる。
「わあ、サーカスだ! 初めて見た!」
那美が思い描くようなサーカスのテントよりも大分こじんまりとしているが、それは間違いなくサーカスのテントであった。
生まれてはじめてみるサーカスのテントを前にして那美は少し心が躍っていた。まるで幼い子供のように目を輝かせている。そんな珍しい一面を見せる那美に、ミナは微笑ましそうにこう言った。
『中入ってみる?』
「え、いや、でも。早乙女の奴を追わないと。私たちは遊びに来たわけじゃないし……」
那美はなごり惜しそうにテントを見つめるが、この間にも玲子の脅威が町に迫っていることを考えるとのんびりしていられない。それにチケットもないのだから入ることはできないだろう。
「うう、さよならサーカス!」
那美は諦めて、そう言いながらテントの前を走り去っていく。