午後の授業も終わり、学園に鐘の音が響く。
悪魔はひばりと下校をしたいと思ったのだが、
「ごめんね。私部活あるから」
と断られてしまった。彼女が新聞部の副部長だということをすっかり忘れてしまっていた。すると横から亮子が口を出してきた。
「そうよ。今から私たち真実を追究する新聞部の始まりよ!」
「まったく。なんでそんなテンション高いのよ亮子」
「そりゃつまらない授業が終わってようやく開放されるんだもん。テンション上がるのが普通でしょ。早く部室に行こうよ」
「んー。部活はいいんだけど今日は――」
と、ひばりが言いかけたところで、教室の扉ががらっと開き、そこから下級生の男子がこちらに視線を向けて手を振っていた。
「あ、部長に綾鳥先輩! ぼくです。稔です!」
小柄で小動物のような男の子が彼女ら二人に呼びかけていた。
「誰?」
「ああ、新聞部の後輩の目黒稔よ。何しに来たんだろうあいつ」
亮子が元気な後輩を見て呆れた様素で言った。だがひばりは席を立って、実のほうへと向かっていく。
「ああー。どこ行くのよひばり。部活は?」
「だから部活よ。こないだ話したでしょ、取材に行くって。先に部室行っててよ、私は稔君と行動するから」
「取材ってなんのだっけ?」
「もう、亮子が言ったんでしょ。“階段の踊り場の鏡の怪”のことよ。今度の学園新聞に載せるって言ってたじゃない」
そのひばりの言葉に、悪魔はどきりと心臓を高鳴らせる。
自分の存在は噂話としてそこそこ有名なのだが、あまりに胡散臭く、ありきたりのため、誰もその事実を確認しに来たことは無かった。
長い年月の中でも、実際に自分を呼び出したのは亜紀だけである。
だが、ひばりはその怪談を確かめようというのか。もしかして彼女は自分の正体に気づいているのではないか。そんな恐怖が彼女の身体を支配していく。もし自分が悪魔とばれたら。偽物だとばれてしまったら。
ひばりに嫌われてしまう。
いや、
ラルヴァとして間違いなく学園に消されるだろう。
そんなのは駄目だ。
せっかく手に入れた日常を、人間の世界を失いたくない。
悪魔は焦燥感に襲われ、どうしたらいいのかを必死に考えた。
そして、一つの結論に至った。
「じゃ、じゃあ私はもう帰るわ」
そう言って悪魔はひばりと亮子よりも早く席を立ち、教室を出て行った。
(今なら間に合う。綾鳥さんたちより早くあそこへ)
悪魔は全力で駆けた。
ラルヴァとしてのポテンシャルを開放し、人間を超えた速さで走り抜ける。勿論目立つわけにはいかないので、人気の無いところで窓から飛び降り、そのまま資料棟にまで飛び移っていく。
そしてなんとか例の鏡の前までにやってきた。
悪魔が鏡を睨みつけると、そこには本物の亜紀が映し出される。
「ねえ、早く私をそっちに戻してよ。もうこんな孤独な世界は絶えられない」
そう必死に訴える亜紀を、悪魔は残酷な目で見つめていた。
「それはできないわ。今日はあなたにお別れを言いに来たの」
「え?」
きょとん、と何を言われたのか理解出来ないと言った風に、亜紀は困惑の表情をしていた。彼女からは自分の顔は見えないだろうと思いながら、悪魔は邪悪な笑みを浮かべる。
「この現実世界に、同じ人間は二人も存在できないの。解るかしら。あなたと私のどちらかしか、この世界にはいられない」
「じゃ、じゃあ早く私をそっちに……」
「だから駄目なのよ」
「な、なんで!」
「私こそがこの世界に望まれているから。例えあなたがこちらに戻っても、また孤独な人間に戻るだけよ。こっちにいても、そっちにいても、それは変わらない。だったら私に頂戴よ、あなたの人生」
悪魔はそんな無茶苦茶なことを言い出した。
彼女は決めたのだ。この世界で人間として生きると。
そのために、邪魔者との縁を断ち切る必要がある。
もう一人の自分を、消さなければならない。自分が本物になるために。
「いやよ! 助けて! 私だってそっちの世界にまだいたいわ!」
「さようなら。私」
その言葉を最後に、悪魔は、大きく手を振りかぶり、その拳を鏡に向かって叩きつけ、鏡は粉微塵に割れてしまう。
破片は辺りに飛び散り、亜紀の声はもうどこからも聞こえない。
これで彼女は永久にあの世界に閉じ込められたままだ。
「はははははははは! これで私が山岸亜紀だ。正真正銘の、唯一無二の本物!」
狂ったような笑い声を上げ、悪魔は愉悦に浸っていた。
これで自分は人間になれる。
人間の世界で生きていける。
だが、そんな彼女の喜びを、右腕に走った鋭い痛みがかき消した。
その腕に眼を向けると、肘から先の腕が完璧に消失していた。
「な、何。何が起きたの。私の腕は――」
その瞬間、上から落ちてきた何かが、彼女の視界を一瞬通り過ぎて地面に落ちた。それは白い腕。間違いなく自分の腕であった。その悪魔の腕は、光に変わり消滅してしまった。彼女の体から離れたそれは、人間の肉体を維持できなくなって掻き消えたようだ。それは、彼女が所詮幻の存在である証明でもあった。
なぜ突然自分の腕が切断されたのか、悪魔には理解できなかった。
だが、彼女の耳に不快な音が聞こえてきたのであった。
ひゅおん。
ひゅおん。
ひゅおん。
それは空を裂くような奇妙な音。
廊下に響き渡る不気味で恐ろしい音。悪魔がその音の方向を振り返ると、その真っ暗な廊下に人影が見えた。
「な、なんだお前は……」
悪魔は思わずそんな声を上げた。
その人影は女だった。廊下が暗く、顔が影になりよく見えないが、そのボディラインは間違いなく女だった。
いや、女にしか見えないわけがあった。
その人影は、呆れることにとてつもなく露出の高い服を着ていたからである。
下着のように胸と下半身だけを包むゴム製の黒いボンデージファッションに、同じく真っ黒なブーツと手袋のみをつけている。
そのせいで、その白く細い腰のラインも、ハイレグから伸びる太モモも、大きな胸の谷間も丸見えである。
そしてその見えない顔からは、鋭い眼光だけが光って見えた。
「なんなんだお前はあああああああああ!!」
思わず悪魔はそう叫んでしまう。それは恐怖ゆえのものであった。
その女の目からは、純粋な殺意のみが発せられている。それは悪魔の彼女すらも震え上がらせるだけの迫力があり、悪魔は自分の切り取られた腕を見つめ、そこから逃げ出した。
(な、なんだ。なんなんだ。もしかして学園の異能者か……? そんな、私が悪魔だってバレたっていうの?)
様々な思考が彼女の頭を駆け巡る。
だが今は逃げなくては。あの離れた位置から自分の腕を切り落とすなんて、並大抵の能力ではないだろう。
そうだ、人込みに紛れてしまえばいい。
もし奴が正式な討伐隊でない以上は、人間の姿をした自分を攻撃することは躊躇われるはずだ。
そう考え、悪魔は下校をし始めた生徒たちの元へと向かって行った。
資料棟の窓から再び飛び降り、切られた腕を再生させる。もとよりイメージの産物であるため、傷みはあってもこの程度ならばすぐに復元は可能だった。
(だが、私でも首を切り落とされれば死のイメージで消滅してしまうだろうな)
それだけは避けなければならない。
自分はこの世界に受け入れられたいのだ。あのクラスで、幸せに生きていたいのだ。それを願って何が悪い。誰だってそうじゃないか。人間だってそうじゃないか。自分の幸せのために人を犠牲にする。そんなものは当たり前のこと。自分もそうして何が悪いというんだ。そう心の中で思いつつ、彼女は多くの生徒たちがいる正面玄関まで走る。
「あれ。どうしたの山岸さん」
と、クラスメイト数人に呼びかけられた。助かった。これでいい。悪魔は胸を撫で下ろした。彼女達はそんな悪魔を不思議そうに見つめている。
「大丈夫? 顔が真っ青だよ。なんか走ってたみたいだけど、急いでるの?」
「い、いや。ちょっとね――あ!」
と、悪魔は声を上げる。ふと視線を上に移すと、そこには屋上の給水塔が見える。だが、その給水塔の上に、あのボンデージ姿の女が立っているのを彼女は見た。
「ああ、あれ! あそこに変な格好した女が!!」
悪魔は思わずそう叫び、そこを指差す。
だがクラスメイトたちは「どこどこ? 誰がいるの?」と言って給水塔を見るが、もうそこには影も形もなくなっていた。
「なんにもないよ山岸さん」
「本当よ、今、ボンテージファッションの女が……!」
「なにそれ、山岸さんって以外にそんなエッチなこと知ってるのね。意外だわ」
クラスメイトたちはちょっと引いていた。本当に引きたいのは自分の方だと悪魔は泣きたくなってきていた。そんなわけのわからない露出狂の変態のような格好をした存在に腕を切り落とされたのだから。
(今のは幻――?)
恐怖のために見た幻覚なのだろうか。わからない。もう焦りも相まってなんだか不安定で足がふらふらする。
「大丈夫山岸さん」
「え、ええ大丈夫よ。それより一緒に帰りましょうよ」
悪魔は彼女らにそう言った。一般人が隣にいるならば、敵が何者かはわからないが無闇に襲ってくることはないだろう。そう高をくくり、悪魔は一度寮に戻り、体制を立て直そうと決めていた。
クラスメイトと雑談をしつつ、周囲に敵の気配がないかを確かめながら進む。
大丈夫だ。落ち着け。
そうやって周りを見て歩いているうちに、ほんの少しだけ悪魔は、クラスメイトたちより遅れてしまう。ほんの数十センチだけ彼女らの後ろを歩いていた。
だが、それが彼女にとって命取りになった。
「ねえ山岸さんはどう思う?」
彼女達はそう言って後ろを歩いていた悪魔のほうを振り返る。
だが、そこに悪魔の姿は無かった。
影も形も消えていた。
「あれ?」
ぽかんと彼女たちは、突然消えた少女を不思議に思い、首を傾げるしかなかった。