僕は犬です。
いや、誤解を招くようなのできちんと訂正しておきます。勿論僕は人間です。れっきとした
双葉学園の男子生徒です。それでも僕は犬なのです。
言っている意味がわからない? そうでしょう。僕も自分がなぜ犬として生きなければならないのかわかりません。
ですが、とある女の子の前では、僕は犬になるのです。
それが僕と女王様の間で交わされている密約。二人だけの秘め事。
「ねえポチ。私の足の指はおいしいかしら」
女王様は僕の身体を縛り付けている細い糸を手に握り、魔女のような冷たい眼差しを僕に向けています。
深夜の真っ暗な教室で、僕たちは禁じられた遊びを続けているのです。女王様は机に腰掛け、僕はその下でお座りをしてご褒美を待ちます。すると女王様はブーツを脱いだその生足を僕の口元まで伸ばし、僕はそれを、それこそ骨にしゃぶりつく飢えた犬のように舐めまわしていくのです。彼女足の指を丹念に嘗め回します。舌を指と指の間に入れ、そのまま踝《くるぶし》のほうへと舌を這わせます。ああ、なんて美味しいのでしょうか。どんな豪勢な食材も、彼女の御足にはかないません。
そのまま僕はとても美しい女王様へ熱い視線を向けます。
月明かりに照らされ、彼女の綺麗な黒髪は艶やかに輝き、その憂いを帯びたガラス球のような瞳はただ冷徹な視線を僕に与えているのです。ですがそれは辛いことではなく、僕にとってはとても心地のいいものでした。黒いボンデージ姿の女王様の身体は、そのピチピチときつい服から溢れ出るような豊満な肉体を有し、その女王様の目からはとても力強い印象を受けます。僕にとってはこの世の誰よりも恐ろしい存在です。ですがそれ以上に愛すべき存在なのです。
僕と女王様を繋ぐものは一本の糸。そう、それはまさにこの世という地獄に垂らされた蜘蛛の糸。僕という咎人を救い出してくれます。その細く強靭な糸は彼女の手から伸び、僕の身体を縛り上げ、腕を後ろに縛り、動けないようにしています。彼女がくいっと糸を引くと、僕の身体に絡みつく糸は強く引き締まり、鋭い激痛が走ります。学生服の上からでも、皮膚がひっかかれていくのがわかります。
「ねえ、私の足の味はどうなの?」
「お、おいしいです、女王様……」
僕は迂闊にもそう答えてしまいました。すると女王様はぴくりと眉を上げ、僕を縛る糸をさらに強くひっぱりました。
「犬が人間の言葉喋っちゃ駄目よ。そうでしょポチ」
そうきつい目で僕を睨みつけます。駄犬を躾けるような目です。僕はぞくぞくとした快感に背筋が振るえ、
「わん、わん、わーん」
と、犬に相応しい鳴き声で女王様に返しました。
すると女王様は満足したようで、私の頭を撫でてくれました。
僕にとってはその瞬間こそが何にも変えることの無い幸福なのです。彼女の細く透き通るような指に頬を撫でられ、僕は快楽の絶頂を迎えます。身体の中を耐えられない気持ちよさに支配され、僕は紅潮し、顔がとろけるような感覚を覚えました。
「ああ、私の可愛いポチ。あなただけは私を裏切らないでね」
「わんわんわん」
僕たちはこうして二人だけの夜の世界を堪能します。彼女は夜の世界に君臨する夜の女王なのです。
いったいなぜ僕と女王様がこんな関係になったのか。
それはほんの少し前のこと――
退屈で人は死ぬ。
一体だれがそんなことを言ったのか知らないが、まったくその通りだなと目黒《めぐろ》稔《みのる》は思っていた。
実際稔は退屈のあまりもう死んでもいいやーっと思いながら、校舎の屋上から地面を眺めていた。そこからは大勢の生徒たちが楽しい学生生活をしているのが一望できる。誰も彼も楽しそうで、まるで自分だけがこの世界から疎外されているような、そんな被害妄想に取りつかれていた。
(今ここからみんながいるところにダイブしたら、少しはみんな僕のことを見てくれるかな)
そんな危ないことを考える始末である。勿論そんなものはよくある思春期特有のもので、本当に死のうという気は微塵もなかった。ただ彼は誰かに構って欲しいだけなのだろう。自分を理解してくれる、あるいは愛してくれる人を欲している。そしてそれを表に出せない自分に憤っているだけだ。
二年の自分のクラスにも馴染めず、教室にいることにうんざりとしていた彼は、昼休みにはよくこうして校舎の屋上でぼんやりと空を眺めたりしていた。
そんな稔はそうやって屋上で時間をつぶす毎日を送っているうちに、一つの楽しみを見つけた。
「さて、と。そろそろ時間か」
そう言いながら稔は、自分のカバンからとあるものを取り出した。それはデジタルカメラであった。
これだけが彼にとっての唯一の友達と言ってもいいだろう。とあるバイトで稼いだお金で彼は念願のカメラを購入したようだ。
だが、友達もいない彼が、こんなカメラを買って何を撮ろうというのだろうか。一緒に撮る相手もいないし、特に背景を撮る趣味もない。だが稔は、とある目的をもってしてカメラを買ったのである。
彼は屋上の床に身体を伏せ、鉄柵の間からカメラのレンズを覗かせる。
そして稔はレンズ越しに見る、そう、女子高生の生着替えを。
(この時間だけが俺の唯一の楽しみだ。早く家に帰って編集しなきゃ……)
彼がカメラに写しているのは、ここから覗き見ることができる第四女子更衣室であった。
稔がいる屋上は資料棟には窓がなく、その手前にある女子更衣室は覗かれる心配はないと油断し、よくカーテンが少し開いていることがある。彼はそこを狙って封鎖されている屋上でこんなことをしているのであった。
こうでもしなければ、彼のような人間が同年代の裸を見るなどということはありえないだろう。悲しいことだが、それは稔が一番よくわかっていた。
だがそれでも構わない。今こうして楽園を独り占めできるという優越感に比べれば、孤独なんて大したものではない。
カーテンの隙間から見える少女たちの白い肌に白い下着。何やら楽しそうに談笑している様子だが、当然声なんて聞こえてはこない。だが、自分に見られているとも知らずに無邪気な笑顔を見せている彼女たちを見ることで、稔は興奮を覚えていた。
「ああ、あれはクラスのマドンナである岡部さんじゃないか。へえ、あんな大胆な下着はいてるんだ。彼氏の趣味かな……」
そうぼそぼそと独り言を呟いている彼の姿は、おそらく人眼からはとてつもなく気持ちが悪いだろう。
「ねえキミ。そんなところで何してるの?」
「いや、意外にも委員長の東雲さんも結構胸大きいな。あの妹タイプの浅田さんなんかもこう」
「ねえってば、キミ」
「ああ、あと少しであれが……」
「な・に・し・て・る・の?」
「うるさいな、今いいところなんだよ――――え?」
稔は何度も話しかけてくる声にようやく気付き、飛び起きて後ろを振り向く。
そこには、一人の女の子が自分を見下ろすように立っていた。
「うわわわわわ!」
必死にカメラを隠そうとして思わず鉄柵に頭を打ってしまう。その甲斐も虚しく、その少女に自分がカメラを持っているところを見られてしまった。
稔は冷や汗を垂らしながらその少女に視線を向ける。
その少女は眼鏡に三つ編みという、なんとも古めかしい感じの容姿で、上履きの色を見る限り三年生のようであった。
彼女は慌てている稔を見て、ぽかんとした表情をしていた。
「いや、あの、これは……」
稔はなんとか言い訳をしようと口をパクパクとさせるが、何も出てこない。
(もう駄目だ。僕の人生もこれで終わりか――)
稔の頭に走馬灯のようなものが流れてくる。十七年という短い人生だったな。これからは一生性犯罪者の汚名を着て生きていくのだろうと、彼は全てを諦めた。
(うう。せめてPCのデータは全部消しておくべきだった――)
BADEND。
目黒稔の人生はゲームオーバーです。リセットしてください。そんな天の声が頭に聞こえてくるようであった。しかし、
「あ、もしかしてキミ、写真撮影が趣味なの? へーすごいねー!」
と、突然その少女はそんなことを言い出し、思わず稔は「ほへ?」という間抜けな声を発してしまった。
その少女の顔はまったく怒っても不審がってもおらず、純粋な笑顔を稔に向けていた。
(バレて……ない?)
興味津津にビデオを見つめている少女を見て、稔は自分の行動が彼女に知られていないことを理解した。
「そ、そそそそそそうなんですよ。僕こうして空とか鳥とか撮るのが好きで……」
「そうなんだー。ちょっと写真見せてよ。私も結構好きなんだ」
少女は稔のカメラに触れようとするが、彼はさっと背中に隠してしまう。当然だ。このカメラには何十枚という生徒の着替え写真が収められているからだ。それを見られてしまったら今度こそおしまいだろう。
「いやいやいやいや。まだまだ全然だめで、人に見せれるものじゃないですよ。恥ずかしいんで勘弁してください」
「私別に気にしないよ。でも、拘りのある人は見られたくないって人もいるからわかるけど……」
「そうです。僕もまだ不完全な腕前なので見せたくないんですよ、はははは」
背中に汗が滝のように流れる。心臓がバクバクと脈打ち、吐き気を覚える。まずい、非常にまずい状況だ。なんとか乗り切ったとはいえ、稔は早くここから退散したくてたまらなかった。
しかしこの女生徒は、こんな封鎖されている屋上に何をしにきたのだろうか。
「せ、先輩こそなんで屋上に?」
まさか自分と同じく覗きなんてことはありえないだろうが。何となく話題をそらそうと、稔は彼女に疑問をぶつけてみた。すると彼女はうーんっと首を捻って言おうかどうか迷っている様子である。
「あのね、笑われるかもしれないけど。私は、幽霊を探してるのよ」
「は? 幽霊?」
いきなりそんな非現実的な単語が飛び出てきて、稔は思わず拍子抜けしてしまった。
ラルヴァという存在は知っていても、非異能者の彼にとってやはりそれは現実味の感じるものではなかった。ましてや幽霊なんて本当にいるのかどうか疑わしい。
「聞いたことないかな。最近よく学校の至る所で目撃されるんだって、女の子の姿をした幽霊が。それで今私は昼休み使って学校を隅々まで探索してる最中なのよ。でもこの学校は大きすぎるのよね、まだ四分の一くらいしか探せてないわ」
そんな馬鹿げた噂のために学校中を回っているなんて、変な女の子だなあと稔は率直に思った。あまりそういうことを信じるタイプには見えないのだが。
「よくわかりませんが大変そうですね。なんでそんなことしてるんですか?」
「これも部長命令なのよね。まあまったくネタがない今じゃ、それくらいしか記事になるようなことないもの。仕方ないわ」
「ネタ? 記事?」
わけのわからないことを言う少女に、稔はただ首をかしげるしかなかった。それに気付いた彼女は忘れてたとばかりにぽりぽりと頬を掻いて苦笑いをしている。
「ごめん、まだ言ってなかったっけ。私は高等部新聞部の副部長、綾鳥《あやとり》ひばりよ。うちの学園新聞をよろしくね」
ひばりと名乗ったその少女の眩しいまでの笑顔に見惚れてしまう。
(ああ、今シャッターを押せばよかったな……)
稔はそう心の底から悔んだ。
ひばりのその笑顔を見た稔は頬を紅潮させ、ドキドキと心臓を高鳴らせていた。彼はこれが“恋”というものであることを、頭ではなく心で理解したのだ。
島の都市部、その片隅に一つの店があった。看板には『アイテムショップ・メグロ13』と書かれており、黒とピンクのレンガで造られたその店は、外から見ただけでもなんだかとてもいかがわしいようなものに見えた。
そんな大人っぽい雰囲気の店に稔は入っていく。どう見ても場違いなのだが、彼はまったく気にしてはいない。
「ただいまー」
むしろそんなこと言って扉を開けて店の中を進んでいく。店の中には不気味な物が並んでいる。ドクロの水晶に銀の十字架、藁人形にお札といった普通の人からすれば無縁の代物ばかりだ。
「おう、おかえり稔」
店の奥のレジに、一人の女性が座っており、入ってきた稔に手を振った。
金髪のとてつもない美人で、年は二十代前半くらいだろう。ピアスやネックレスをじゃらじゃらとつけている。彼女の着ている服は、その大きな胸を強調させるかのように露出が高く、入ってきた客を魅了させる。
だが、稔はそんな彼女にこう呼びかけた。
「じゃあ兄さん。僕は上にいるから。夜になったら店番変わるよ」
兄さん。そう、稔は彼女に向って兄さんと言ったのだ。
彼女の名前は目黒|薫《かおる》。正真正銘の稔と血の繋がっている兄であった。彼女(あえてそう表現させてもらうが)はどうも女装趣味が高じて、こうして女としての人生を歩み始めたのであった。彼ら兄弟は、島の一角にこの店を構え、中睦まじく暮らしているのであった。
「だから姉さんと呼べって言ってるでしょ稔」
薫は煙草に火をつけながらそう言った。いつものことなので稔はその言葉を無視し、その脇の階段から、二階の自室へと向かう。部屋に入って着替えを終える。
(新聞部の綾鳥ひばりさん――か)
稔はあの後すぐに屋上から出て行ってしまったひばりのことを思い出していた。自分のような人間に、優しく話しかけ、笑いかけてくれたあの女の子のことが、稔は気になって仕方なかった。
三年生のようだがクラスはわからない。だが新聞部の副部長と言っていたし、少し調べればそれはわかるだろう。だが、稔はもっともっと彼女のことを深く知りたかった。
好きな食べ物は何だろうか、血液型はなんだろうか、身長や体重やスリーサイズはいくつなんだろうか、お風呂でどこから洗うんだろうか、下着は何色なんだろうかとか、様々な思いが彼の頭にぐるぐると廻っている。
稔はベッドに倒れこみ、悶々とした気分を落ち着かせようと、一眠りしようとするが、興奮でまったく寝ることはできない。
(これが、恋なのかな)
ほんの少しだけ会話を交わしただけなのに、ずっとひばりの顔が頭から離れない。ずっと一緒にいたい。写真に撮りたい。そう思いながら枕を抱きしめるしかなかった。ひばりの笑顔に比べれば、自分が今まで盗撮してきた着替え写真などゴミのようなものだと思えた。
「おーい稔! ちょっと来てくれー!」
稔が電気の消した部屋でベッドに横になっていると、下の薫の声が聞こえてきた。稔は面倒くさいなと思いつつ起き上がり階段を降りていく。
「なんだよ兄さん。そんな大きな声出して」
「いいから来なさい。ちょっとあんたに仕事頼みたいのよ」
薫はそう言いながら店の奥からバッグを持ってきて彼に渡した。中に何かが入っているようで、少し膨らんでいる。だがあまり重さは感じない。
「な、なんだよこれ」
「これを捨てて来て欲しい。学園の焼却炉でいいから放置してきな。夜には燃やされるだろ」
「はあ? このバッグを? 中に何入ってるんだ兄さん?」
「知らなくていい。中も絶対に見るなよ。とにかく捨ててこい」
薫が怖い顔をしているので、これは本当に厄介な物なのだと、稔も理解した。
「またなんかヤバイもん入荷したのかよ兄さん」
「いや……。しょうがないだろ、まさかこんなのが届くとは思わなかったんだよ」
薫も頭を抱えていた。この店は基本的に無害なオカルトアイテムばかりで、魔術系の異能者も使えないただのファッションやオブジェのようなものだった。だが、たまに薫は裏ルートで、本物のマジックアイテムを入荷することがある。それは高値で売れることもあるのだが、ほとんどがまずいものばかりで、もし学園側にバレたら営業停止、あるいは永久追放される可能性もある。
だから時折薫は、稔に頼んで処分してもらったりしていた。
「……ふう。仕方ないな。じゃあ行ってくるよ。怪しまれないようにまた学ランに着替えなきゃいけないじゃないか」
面倒そうに頭を掻きながらも、自分のために働くたった一人の兄の頼みを断ることなんてできるわけもなく、彼は再び学園に向かっていった。