悲しいときは泣きなさいと、誰かが教えてくれた?
怒ったときは顔を赤くするんだって、意識したことがある?
そう、私たちは、初めから知っているのだ。
悲しいときは涙を流すし、怒ったときは全身を強張らせる。
誰に教えられたでもなく、私たちは、そうするように出来ている。
また、そうした人たちが、どんな感情なのかを読み取れる。
それと同じように、理由はない。
私たちは、あいつに会ったら、
――殺さずには、いられない。
* * *
――都会の朝。
通勤時間には早く、昼間の姿からは想像できないほどに、駅周辺は閑散としている。
まだ夜が明けてから時間が経っておらず、昨日が続いている人たちも歩いている。
昨夜からカラオケに入り、朝まで歌いつくした大学生たちは、眠そうな顔で店から出て、軽い挨拶のあと解散した。
警戒心を失ったハトたち。
早くも、商品の搬入をする作業員。
有名なハンバーガーのファーストフード店には、始発電車を待つ人々が集まっている。
その空間だけが、幾分か賑やかそうではあったが、それでも大半の人々は、
どこか眠そうな顔でコーヒーを飲んだり、新聞を読んだりしている。
いらっしゃいませ、という元気な声が、いつもより大きく聞こえた。
いつもの、朝。
街中心部の、なんら変わり映えのない、普段の光景。
そこへ、一人の男が訪れる。
顔立ちから、日本人ではないことが分かった。
それに加え、どこかの民族衣装なのだろうか。
黒の下地に、赤や白の鮮やかな模様が入った服を身にまとっている。
体格はなかなか良い。だが、ここ何日かで痩せこけたのだろう。
元から痩せている、というよりは、急激に痩せこけたという印象だ。
その明らかに周囲からは浮いた容姿で、男はファーストフード店に足を一歩踏み入れ、止まった。
瞬間、もとから動きが少なかった店内が、完全に動きを止めた。
誰もが、今入ってきた男をじっと見つめている。
突如、なんの前置きもなしに、新聞を読んでいたサラリーマンが男に殴りかかった。
力任せで、ただただ乱暴なパンチだったが、男は避ける気がなかったのか、それとも
やつれて本当に避けられなかったのか。サラリーマンが繰り出したパンチは、男の顔面に直撃した。
当然、店内は騒然となる。だが、その中に殴られた男を心配しての声はなかった。
むしろ逆だ。『早くあの男を殺せ』。そういう意思が、誰が口にせずとも店内には広がっていた。
数十秒たって、男は数人に取り囲まれ、暴行を受けていた。
その中には、店員も混ざっている。
男は初めから、抵抗する意思を持ち合わせていないようだった。
誰かが、イスを手に持ち、それを高く振り上げる。
それを見て取り囲んでいた人たちが後ずさる。
男の消え掛かった視界にそれが映り、2秒後にやってきた衝撃のあと、視界は全て消えた。
男は、動かなくなった。
途端に、店内はまた静かになる。
数秒置いて、誰もが我に帰った表情をしていた。
1人の女性が、イスを持った若者と、倒れた男をみて悲鳴をあげた。
「ち、ちがう! 俺じゃない! 違うんだ!」
若者は叫んだ。でもそれは、誰の耳にも届いていないようだった。
人びとは皆、どうして男を殴ったのかが分からなかった。
ただ、とんでもないことをしたという意識だけが鮮明になっていき、混乱した。
若者は必死で弁明しようとしている。他のひとはみんな顔を伏せ、何が起こったのか考えている。
一瞬、倒れた男は、誰もの視界から外れた。
1人の女性が救急車を呼ばなければならないことに気付き、もう一度男を見た時、
そこに男の姿はなかった――。
* * *
男がフラフラと、街の路地裏へと入り込み、倒れこむようにして座った。
どこかの民族衣装のようなものを着ている。先ほど、ファーストフード店に入った男だ。
ビルの壁にもたれかかり、路地裏から見える狭い空を見上げ、一息吐き出した。
そこへ、一人の女がやってきた。
地味な着物姿の、日本人らしい顔立ちの女性。
髪は長く、肩の辺りで縛っていた。
ゴミを漁っていたカラスは、女がすぐ隣を歩いているというのに、
それに気付かない様子でゴミを漁り続けている。
女は座っている男の前まで歩いてから、止まった。
「今度は君が、俺を殺すのかい?」
どこの国ともわからない言葉で、男はそう口にした。
「いいえ」
女は、男と同じ言葉を使ってそう言った。
男は驚き、顔を上げた。女は続ける。
「私は、あなたに殺されたくて来たのよ」
「殺されたくてきただって?」
男は尋ねた。女はただ、黙って頷く。
太陽が真上に昇り、路地裏に光が差し込む。
ビルの影はたちまち形を変えていく。
その中で、男はあることに気が付いた。
女に影がなかった。
「君は一体、何者なんだ?」
「契約者、といえば分かるかしら?」
それを聞いて、男は少し納得したようだった。
なぜなら彼もまた、契約者であるからだ。
彼の故郷。この国から海を渡って、ずっと行った場所にある、辺境の村だ。
そこには古くからの言い伝えがあり、なんでも、村のある場所で願い事をすると、
それが叶うという。ただし、その代償はあまりに大きく危険なため、村ではそれを
禁忌として扱ってきた。だが、彼はそれを犯してしまった。
「貴方はどんな願いをかなえたの?」
「恋人を生き返らせたんだ」
「まあ、それは悪いことね」
男は顔をあげ、女の顔を見る。
「どうしてだ? 人の命を救うことは、悪いことだというのか?」
女は腕を組んだまま答える。
「救ったのではないでしょう? 貴方のエゴよ。彼女が死んでから、
生き返らせて欲しいなんて言ったの?」
「それは言っていないが、でも!」
「なんにせよ、それは悪いことだったのよ。だから神は貴方に罰を与えた。
何度も殺され、違う場所で生き返っては、また殺され続ける罰を」
「……それはわかっている。だから私は、この罰が終わるまで、耐えるつもりだ」
それを聞いて、女は笑い始めた。
「ふふ、終わると思っているの? 馬鹿ね。このままだと、永遠に続くわよ」
「……それなら、それでいい」
「あのね、私は、このままだとって言ったのよ。方法はあるわ」
「……どうするんだ?」
「私を殺しなさい。そうすれば、貴方のその呪いも解けるわ」
「どういうことだ? 君は一体何を願った」
「恋人を、殺してくれって頼んだわ」
男は眉を寄せて女を見た。
「私の愛した人は、どうしても私に振り向いてくれなかった。だから殺そうと思ったの。
でも私には出来なかった。だから神様に頼んだってわけ」
狂っている。男はそう思った。
「いやね、そんな目で見ないでよ。貴方だって同罪なのだから」
「同罪だと? どこが同じなんだ、俺は人を生き返らせ、お前は人を殺した。これのどこが……」
「誰かが生きるってことは、何かを犠牲にしているのよ。
貴方が恋人を生き返らせたことによって、誰かが死んでもおかしくないわ」
「そんなこと……」
「無いといえる? 貴方は本当にエゴイストね。でも世界全体を考える神は、
貴方にも、私にも罰を与えた。それが答えよ」
「……」
「さあ、私を殺しなさい。私へ与えられた罰は、生き続けること。あの人のいない世界で、
もう300年も生きたのよ。でもそれも今日で終わり。貴方なら、私を殺すことが出来る」
女はそういって、懐から拳銃を取り出し、男に渡した。
男は迷っていた。
「お前を殺せば、本当に元に戻れるのか?」
「ええ。生と死の調和が取れれば、この呪いも終わるわ」
男の脳裏に、恋人の顔が浮かぶ。
ここから村に帰るには、何年か費やすかもしれないが、それでも。
彼にはそれが夢のような話だった。
「さあ、撃ちなさい。どうか、私を救って」
男は、拳銃を撃った。
* * *
目が覚めると、男は懐かしい光景を目にした。
自分の生まれ故郷。そう、彼は村に帰ってきていた。
彼は結局、女を撃たなかった。
変わりに、自分の頭を撃った。
そうして飛んできた先が、自分の故郷だったのだ。
彼の後ろで、木を組んで作ったバケツの、落ちる音がした。
男は振り向いた。
そこには、恋人が立っていた。
男は微笑む。
それを見て、恋人も微笑んだ。
恋人の手には、狩猟用の弓と矢が握られていた。
END
最終更新:2008年06月17日 23:08