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ルター奮闘記

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宗教改革 > ルター奮闘記


1517 ローマ教皇贖宥状販売を批判
1524 トーマス・ミュンツァー率いるドイツ農民戦争に激怒
1555 アウグスブルグの和議

ルター、贖宥状を批判

1517年10月31日、マルチン・ルターローマ教皇レオ10世)の
贖宥状ショクユウジョウ(免罪符)販売を批判

贖⇒あがなう
宥⇒ゆるす

ローマ教皇庁「サン・ピエトロ大聖堂の改築資金集めに贖宥状販売を」
ルター「贖宥状の販売は、教会の俗化・腐敗の象徴だ!」
ルター:ウィッテンベルクの教会の扉に「95か条の論題」を提示。
    活字印刷されてドイツ国内に流布
ルターの考え
人の救いは、行いによるものでなく、十字架のキリストにおける罪の贖いを信じることのみ
聖書のみ、神(=信仰)のみによって人は救われる」
聖書主義信仰義認説

ルターとカトリックの対立

ルターはローマカトリック教会から異端とされ断罪された。
神学者エックとの討論会(ライプチ討論)で教皇の至上権を否定
 人人人人人人人人人人
 >ローマ教会と決裂<
 YYYYYYYYYY

「平信徒と聖職者の間に本質的な違いはない(万人司祭説)」

ローマ教会から破門、神聖ローマ帝国皇帝カール5世からも弾圧をくらう
ちなみにローマ教皇はレオ10世

ザクセン候北ドイツ)の保護下で新約聖書をドイツ語にすることに専念。

ドイツ農民戦争

1524年、トーマス・ミュンツァーの指揮により、
ルターに触発されたドイツの農民が農奴制廃止と賦役の軽減を訴え一揆を起こした。

ルターは激怒した。
ルター「聖会のヒエラルキーは認められないが、俗界のそれは認めるべき

一時的にルター派を受け入れるが…

カール5世オスマントルコからの攻撃に耐えかねて一時的に神聖ローマ帝国内でルター派を認める。
しかし、危機が去るとまたルター派を攻撃した。

ルター「遺憾でしょwww遺憾でしょwww」
⇒これによりルター派はプロテスタントと呼ばれるようになる。

ついに問題解決

1555 アウグスブルグの和議
これにより神聖ローマ帝国内でルターの問題が片付く。
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