地上への出口に来た頃には、月が顔を出していた。漆黒の空に小さな穴を開けるように、星が点々と散りばめられていた。服の色が黒いから、あんまり目立たなくて危ないかもしれない。飛んでいるときに、鴉天狗がぶつかってくることだってあるんだぜ。
上空からだと幻想郷全体を俯瞰することができる。雪はいくらか弱くなったが、私が地底にいたときにかなり降ったんだろう、多少の起伏は確認できるが、一面真っ白。人の里の灯りがちらちら見えるが、他の部分はわずかな月の光を最大限に反射している。里の光と博麗神社のある丘を目印に、私の家を捜す。
……見つけにくいと思っていたが、空からでもすんなり見つかった。魔法の森の、私の家らしき建物にも、里と同様に灯りが点いていて、煙突からは煙が立ち上っている。そういえば、アリスが家にいたっけ。
家の近くに降りて、玄関に立った。我が家に帰って来たぜ。ドアノブに手を掛けて引くと、いつもより勢いよく扉が開いた。
「きゃあ!」
「うわっ!」
その理由はすぐに分かった。家から出てきたアリスは倒れそうになったが、なんとか体勢を直す。
「ちょっと! ただいまくらい言いなさいよ!」
「なんでこんなところに寄りかかってんだ」
私の家だ、ただいまも何もないだろ。帽子を脱いで、付着した雪を払う。
「それにしても遅かったわね。まぁ連れて行かれるって言っても地霊殿だから大丈夫だとは思ってたけど」
「話をしてたら結構な時間になっててな」
ここでやっと家に入る。瞬間、温度の面で世界が変わる。さすがは私の暖炉、火力はマスタースパーク級。冬は風呂よりこっちだな。たまに勢い余った痕跡が、暖炉の周りの床の不自然な黒ずみ。ガラクタばかりの私の家だが、暖炉の周りだけは手足のないはずの道具たちも逃げていく。正しくは焦げないうちに私が避ける。
「はぁ、あったまるぜ」
隣には、アリスの上海人形と、私との通信に使った人形が座っている。
「疲れたでしょ、あんたはそこに座ってなさい。ご飯は私が作るから」
お言葉どおり、私は人形たちと一緒に、暖炉の前で寛がせてもらうことにした。最近、アリスは私の家に来ると、こうしてたまにご飯を作ってくれる。だいたいいつも私は和食。別に洋食が嫌いだから食べないというわけではなく、和食を作るのになれてしまっているというだけの話。洋食なら、得意なアリスが作る方が、味とかの意味で質が高くなる。
「それで」
ずっと気になっていたことをアリスに質問してみる。リビングとキッチンはつながっているので、カウンター越しにアリスが何をやっているかが見える。アリスが来てくれるおかげで、キッチンだけはいくらか片づいてきている。
「なんであんなところに寄りかかってたんだ?」
ぴくりとアリスの体が揺れた気がするが、料理をする手を止めずに、アリスはそっけなく答える。
「あそこでちょっとまどろんでただけよ。勝手にベッドに寝たら、あんた怒るでしょ?」
「別にそれくらいで怒らないが」
「……そう」
大きめに切られたじゃがいも数個が床に飛び出す。そいつらを無視して、アリスは残りを鍋に放り込む。
「寝るなら暖炉の前でもよかったじゃないか」
「そっそこだと暑すぎるのよ。寝られたもんじゃないわ」
なら少し離れればいいじゃないかと言おうとしたが、とどめておく。キッチンからコンソメの良い香りが漂ってくる。お腹から音がした気がするが、それはアリスのものだったということにしておく。……アリスはお腹がすかないんだっけ。
「そろそろできるから、あとそっちを片づけておいて」
アリスは暖炉から少し離れたところにあるテーブルを指差す。こちらも何冊もの本が偉そうに鎮座しているので、床の上に都落ちさせておく。
「ほら、そこに座って」
アリスが作ったポトフがテーブルに置かれる。にんじんとかビートとか、冬に採れそうなものがたくさん入っている。大根が入っているのも、恐らく冬だからだろう。よく考えてみれば昼間は何も食べてなかった。こいしにやられてそのまま地霊殿に連れていかれて、強いて言えばさとりが淹れた紅茶しか飲んでない。いただきますも抜きにして私はそれに飛びつく。やっぱり私が作るより良い。先ほどのじゃがいもが、口に入れた瞬間に崩れる。キノコが入ってないのがほんの少し残念だが。
「こういうのに私はあんまりキノコとか入れないの。私がこうして作ってあげるの、これで何回目よ」
あっという間に半分は平らげてしまう。このときアリスはまだひと口しか食べていなかった。ちゃんといただきますもしたんだろう。
「それで、地底はどうだった?」
「あれ、前に話さなかったっけ?」
「あのときあんた、今度詳しく話すって言ってすぐに寝ちゃったじゃないの」
「記憶にないな」
最近は忙しいからな。本業の霧雨魔法店の方も手つかずだぜ。
「地底に入れるなら、行ってみたいけど。変な妖怪が多そうね」
「いや、それは地上とあまり変わらないと思うぜ」
地底で会った妖怪の顔を思い浮かべてみる。桶に入ったやつとかは見ていて新鮮だったが。あと若干テンションが高い蜘蛛、嫉妬の妖怪とか、鬼とか。あいつらも十分変だが、地上の妖怪が言えることじゃない。
「ところで、今日はあの後何があったのよ」
「起きたらこいしの部屋にいて、その後地上の話をしてやって、そのまま帰って来たぜ」
「やっぱりさとりさんの妹だったのね。心が読めるなんて、あの姉妹は怖いわ」
「ん? こいしは心が読めないぜ」
「あら。こいしさんもさとりじゃないの?」
「いや、さとりから聞いた話だとずっと昔に心を閉ざして、それからは読めないみたいだ」
「なら大丈夫ね。心が読めるってことは秘密とかも全部お見通しってことじゃない」
「何か隠し事でもあるのか?」
「いや、別に」
私は全部食べ終わったが、アリスの皿にはポトフがまだ半分くらい残っている。食器を下げようと立ち上がると、アリスに止められた。
「ちょっと。ごちそうさまの一言もないの? さっきいただきますも言わなかったわよね?」
こういうところにアリスは妙に厳しい。もっぱら自分が料理したときは。
「はいはい、ごちそうさま」
「……ふん。最初からちゃんと言えばいいのよ」
恐らく許可を得たはずなので、皿を流し台に置く。ある程度まで知ってしまえばそれでいいが、私も最初はアリスのこういうところが苦手だった。こういう態度をとるのは、ほとんど自分が誰かに何かをしてあげたときだけ。今でもそういうところにいらっとすることがある。おかげで友達はあまりいないみたいで、いつも人形に囲まれている。けれども考えてみると、アリスの言うことは筋が通っているし、悪いのは大体私であることが多い。それになんだかんだ言うわりには色々と気を遣ってくれるし、悪いやつじゃないのは確かだぜ。私はアリスが好きだ、もちろん友達として。
暖炉の火が少し弱くなってきたので、外に薪を取りに行く。扉を開けると、また雪がちらついていた。帰ってくるときに私が着地した跡が消えかかっている。
「あれ、また降ってきたな」
雪ひとつひとつは小さく、空からゆっくりと舞い降りてきている。差し出した手のひらに、雪の結晶が綿のようにやさしく降り立ち、すぐに水滴になってしまう。私の体温はそんなに高いのか。
「また降ってきたの?」
私が薪を持って帰ると、アリスは白い斑点を服に付けた私を見て、少し嬉しそうな表情をする。ポトフの最後のひと口を平らげて、それをごまかそうとする。
「泊まっていくか?」
そんな風に言ってほしい顔だったからな。アリスは自分から、泊めてくれと頼んだりはあんまりしない。
「じゃあ、そうさせてもらおうかしら」
とか言って、本当は「しめた!」って思ってるんだろう。こんな雪の上を歩きたいとは思わないだろうし、今日1日はアリスには世話になったからな。
「でもベッドは1台しかないぜ」
「大丈夫よ。私はあんたの部屋で、毛布に包まって寝るから。ベッドはあんたが使っていいわ。疲れたでしょ」
「当然だな」
「その代わり食器洗ってね」
「仕方ないなぁ」
こうしてアリスは私の家に泊まることになった。ご飯を作ってくれることはあっても、泊まったことはなかった。アリスを初めて泊めて、とりあえず風呂がやたら長いことが分かった。私が食器を洗ってる間に、アリスは先に風呂に入りやがった。しかも私が食器を洗い終えてから、さらに40分は入ってたと思う。その間、私はアリスの人形たちで遊びながら待っていた。あとアリスにパジャマとかを貸したとき、アリスのあらゆる部分が窮屈そうだったのが妬ましかった。私より身長は八卦炉半分くらい高いのは知っていたし、いくらか女性らしい体つきをしてるのも分かっていたけど、こうしてみるといかに自分が貧相な体をしているかを改めて思い知らされるものだ。でもアリスはこれ以上成長しない。まだ発展途上の自分にはチャンスはあるんじゃないかと考えてしまう。見てろ、アリス。
アリスが言ったとおり、最初は、私がベッドに寝て、アリスがベッドに寄りかかって寝る予定だった。でも季節は冬も冬、いざそうしてみると、ベッド越しにアリスが震えているのが伝わってきた。その結果が、これである。
「なぁアリス」
隣にアリスが寝ている。枕がいくらか大きいことが救いかもしれない。やはりベッドの外は寒そうだったので、狭いかも知れないけど、アリスをベッドに迎えることにした。石鹸の香りが辺りに充満している。
「何よ」
ベッドのわきのランプが、部屋を温かく照らしている。アリスは天井を見つめている。
「そういえば、残った1体の人形も落としてきちゃった」
「いいわよ。もう作れないってわけじゃないから。人形なんていいのよ」
「でも……」
「いいから」
アリスは目を瞑る。風呂からあがってしばらく経ってるはずなのに、アリスの体は熱かった。
「よかった」
「何が?」
「ううん、なんでも」
アリスは向こうを見て、布団を自分の方に少し巻き取ろうとする。
「魔理沙」
「ん?」
「……なんでもない」
そう言うと、アリスは眠ってしまったらしい。それから私はしばらく起きていた。アリスの横顔をそっと覗いてみる。寝顔がとてもやさしかった。ここで初めて、どうして私が家に帰って来たときにアリスが玄関の扉に寄りかかってたのかが分かった。アリス自身は行ったことがない地底の世界、「地霊殿だから大丈夫……」ってさっきは言ってたけど……。
「まりさ……」
アリスから突然ほとばしった。でもすぐに寝言だと分かる。夢に私が出てきているみたいだ。
「ありがとな」
アリスにそう言うと、また呼ばれた気がした。私の意識もだんだんと薄れてくる。途中、アリスが私の手を掴んだように感じた。
目が覚めると、窓から日光が射していた。隣にアリスはいなかった。代わりに、貸したパジャマが丁寧に畳まれて、枕に置かれている。寒くて出たくなかったが、布団を避けて、冷たい床に足をそっとなじませる。床の冷たさが、足から腰を伝って、頭の先を突き抜けていく。
「アリス?」
冷たい階段を下りて、リビングに行ってみると、テーブルの上にはポトフの残りが、昨日のよりは小さい皿に盛りつけられている。さすがに朝だしな。
「あら、おはよう魔理沙。ちょうど良かったわ。いま起こしに行こうと思ってたところだったのよ」
自分の服に着替えたアリスがいた。私の方を少し見ると、すぐに下を向いて、何やら作業を再開する。人形の服を直しているみたいだ。
「一人分しかないけど、アリスはもう食べたのか?」
「1時間くらい前にね」
暖炉の火は、きっとアリスが点けてくれたんだろう。アリスはその前に座って、服を大切そうに、ちくちくと縫っている。
「ちゃんといただきますって言ってからよ」
「分かってるよ。いただきます」
「よろしい」
まだ1日も経ってないのに忘れるほど、私はバカじゃない。何日かすればまた元に戻るかもしれないが。気をつけようと思ってるうちは大丈夫だと思う。いただきますは言ったので、ポトフを食べることにする。前の晩は食べることしか考えていなかったので、今はしっかりと味わうことを心がける。
「できた! 魔理沙」
アリスは私に、服を直された人形を見せる。
「昨日あんたとの通信に使ってた人形。一応火薬を詰めておいたから、使って」
「大丈夫なのか? あんまりないんだろ?」
具で口が一杯だったが、気にしないんだぜ。
「作ろうと思えば、いくらでも作れるから。昨日の8体を渡したときとは、ずいぶん違う反応ね」
大切そうに縫っているところを見ると、本当にアリスが自分で作ってるんだって実感してしまう。大量生産品なら話は別だが。
「昨日のも全部手作りよ。失礼ね」
人形を別の椅子に置くと、アリスはマフラーを首に巻き始める。そろそろ帰るのか。残りのひと口を咀嚼する。
「大丈夫よ。今日は晴れてるし、あとはひとりで帰れそうだから」
アリスは暖炉の近くに座っていた上海人形の手を引いて、ドアに向かう。アリスの手に従って、上海人形がまるで自分で飛んでいるように、バランスを保ちながら浮上する。
「それじゃ、またね」
「あぁ、またな。それと、ごちそうさま。美味かったぜ」
アリスはドアで顔を隠すように、そそくさと出て行こうとする。ドアが全開になったとき、アリスはぴたりと立ち止まった。
「魔理沙」
「ん?」
「……なんでもない。またね」
「またね」とほぼ同時に、ドアが閉まる。最近のアリスは変だぜ。
食器を片づけて、暖炉の前で寛ごうと思って、リビングを見渡すと、1冊の本が置かれていた。アリスの忘れものかな。
「仕方ないなぁ」
とりあえずその本をテーブルに置いておく。「とりあえず」の繰り返し、そのせいで部屋は全く片付かない。
今度こそ寛ぐぜ、そう思って、暖炉の前に座りかけたときだった。誰かが玄関の扉をたたく音がした。アリスが忘れものに気が付いて戻って来たのかもしれない。テーブルの本をもう一度持って、玄関を開ける。
「あれ?」
「おはよう、魔理沙」
てっきりアリスだと思っていたが、ノックの主はこいしだった。
最終更新:2009年09月16日 04:39