伊藤智仁

プロフィール

  • 選手名 - 伊藤 智仁(いとう ともひと)
  • 背番号 - 20(93年~98年)→21(99年~03年)→84(04年~)
  • 出身地 - 京都府京都市
  • 身長/体重 - 183㎝/76㎏
  • 投打 - 右投右打
  • 球歴 - 花園高-三菱自動車京都-ヤクルト(92年ドラフト1位)
  • 顔文字 - (´智`)
  • 実況板でのあだ名 - 故人
  • 関連用語 - 故人マニア

入団前

  • 三菱自動車京都3年目の都市対抗予選で注目を集める。
    なお、伊藤智の代名詞となっているスライダーはこの頃チームの同僚(永田晋一投手)に教えてもらったらしい。
    このスライダーを伝授された辺りからストレートの球速も10km/hアップと大成長を遂げる。
  • 都市対抗野球には日本新薬の補強選手として出場している。
  • 92年に開催されたバルセロナ五輪に出場。2試合2完封と最高の成績をあげて日本の銅メダル獲得に貢献。
  • 92年ドラフト1位でオリックス、広島との競合の末ヤクルトに入団した。

ヤクルト時代

  • プロデビューはイースタン開幕戦での先発。実はこの試合でルーキーの松井秀(巨人→ヤンキース)にプロ初ホームランを打たれている。
    ちなみに松井秀の1軍初アーチも同じヤクルトの高津からである。
  • その後1軍の先発ローテに入り、4月15日の阪神戦で7回10奪三振を奪いプロ初勝利。6月3日の横浜戦でプロ初完封を達成。
  • 6月9日の巨人戦で9回まで16奪三振を奪い、あと一つで日本記録に並ぶという所で篠塚にサヨナラホームランを打たれるという劇的な結末。
  • 結局前半戦だけで7勝2敗、4完封、防御率0.91の成績を残す。
    ところが前半戦での酷使がたたったか、7月に右肘を故障して戦線離脱。後半戦は未登板で終わった。
  • 前半戦だけの活躍にも関わらず、オフには新人王に選出された。
  • まるでTVゲームを見ているかのように大きく曲がる高速スライダーと150km/hのストレートでセ・リーグの強打者を次々と捻じ伏せるそのピッチングは多くのプロ野球ファンに衝撃を与えた。
  • 前年の右肘の故障が癒えず、94年春に1回目の手術を受ける。
  • 96年に復活。97年にはストッパーとして復活。プロ最速の153km/hをマークする等、7勝2敗19セーブ、防御率1.51の成績を残し、カムバック賞を受賞。
    チーム2年ぶりの日本一に貢献する。
  • 98年から先発に復帰。6勝をマークする。99年も8勝をマークしたが、この年に右肩血行障害で手術を行う。01年は右肩故障の為にわずか1試合の登板に終わる。
  • 02年に復活をかけたコスモスリーグで右肩関節脱臼の大怪我を負い、戦力外通告。球団からはヤクルト本社への就職を進められたが、本人の意思とチームメイトの後押しで再度ヤクルトと契約。
    年俸8000万から80%ダウンの1000万という大幅減額を飲んでの最後のチャンスとなった。しかし必死のリハビリも報われず月日は経ち、10月25日のコスモスリーグで最終テストとなる登板を果たす。
    秋の2軍の試合としては異例の500人の観衆の中、結果は打者3人に対して内野ゴロ1、2四球、ストレートは109km/hしか出ず、残念ながら引退となった。

引退後

  • 引退発表後の11月のファン感謝デーで引退スピーチを行い、その際に行われたヤクルト対戸田中央総合病院との試合で先発を務め、引退試合となった。
  • 04年からは戸田の育成コーチに就任。06年からは戸田の投手コーチに就任した。
  • 07年からは高田監督の下、1軍投手コーチに昇格。ブルペン担当コーチとして神宮外野のブルペンでその姿を見る事が出来る。
  • 今だにカリスマ的人気は衰えず、引退試合で109km/hのストレートしか投げられなかったりしても、
    打撃投手を務める時は若干前からキレのあるスライダーを放るので、投手が足らなくなると「伊藤智復活キボン」という書き込みが度々なされる。
    -今中(元中日)と並んでネット上では伝説の投手として賛美されている。

代表歴

  • バルセロナオリンピック野球代表(92年)








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最終更新:2010年08月29日 15:12