高津臣吾

プロフィール

  • 選手名 - 高津 臣吾(たかつ しんご)
  • 背番号 - ヤクルト時代 22(91年~03年)→11(06年)→22(07年)
    ホワイトソックス時代 10(04年~05年) メッツ時代 10(05年) ウリ時代 33(08年) フレズノ時代 32(09年) 興農時代 22(10年) 新潟時代 22(11年~12年)
  • 出身地 - 広島県広島市
  • 身長/体重 - 183㎝/81㎏
  • 投打 - 右投右打
  • 球歴 - 広島工高(甲)-亜細亜大-ヤクルト(90年ドラフト3位)-ホワイトソックス-メッツ-ヤクルト-カブス-ウリ・ヒーローズ-ジャイアンツ-興農ブルズ-新潟アルビレックス
  • 実況板でのあだ名 - 根岸さん
  • 関連用語 - ショートに打たせてくださいよ劇場

入団前


  • 高校、大学時代の高津は常に2番手であった。
  • 広島工高時代は甲子園に2度出場するも控え投手で、2番打者での出場だった。
    ちなみに当時の広島工高の4番は阪神、中日に在籍している新井兄弟の長兄だった。
  • 亜細亜大では後に8球団がドラフトで1位入札した小池(中日→近鉄→楽天)がおり、ここでも2番手に甘んじてしまう。
  • 独特のサイドスローという事でヤクルトの目に止まり、ドラフト3位でヤクルトに入団する。
    しかし、当時の高津は地元の広島ファンだったという事もあり、広島に入りたかったらしい。

ヤクルト時代~メジャー移籍前


  • 2年目までは中継ぎでパっとしなかったが、その年の西武との日本シリーズで潮崎(西武)のシンカーを見た当時の監督の野村監督が
    「あのシンカーを盗み、何とかしてマスターしろ。」と指令。
    アレンジを加えて習得したシンカーを武器に3年目に20Sをあげて不動のストッパーに納まると、
    94年に最優秀救援投手になり、球界を代表するストッパーに成長。古田とのバッテリーで3度のリーグ優勝を経験した。
  • 97年は復活した伊藤智がストッパーとなった為中継ぎに配置転換。98年は肘の故障で不調になるが、翌年に復活し最優秀救援投手になる。
  • 02年6月13日の坂元完全試合ペースの伝説の試合で勝利を消した辺りから劇場が目立ち、ファンをやきもきさせるストッパーとなる。
    この年に坂元の勝ちを消した直後2ちゃんねるに立てられた高津叩きスレがこちら。後にプロ野球板で定番となる「○○って何の為に生きてるの?」シリーズの元祖と言われる。

    高津って何の為に生きてるの?
    http://sports.2ch.net/test/read.cgi/base/1023969811/ 
  • 30歳を超え、衰えが来たのか騙し騙しやりながらも強心臓で03年には通算セーブの日本記録229Sを更新し、4度目の最優秀救援投手になる。
  • 03年オフに35歳という年齢ながらメジャー挑戦を表明、オファーがなかなか来ず、残留か挑戦か暗雲が立ち込め、
    多菊善和社長の「やってみればいい、どれだけの価値があるか」発言などもあったが、ホワイトソックスから無事オファーがあり、メジャー移籍。

ホワイトソックス~メッツ時代


  • 当初は中継ぎで起用され、メジャーデビュー戦でいきなり松井秀(ヤンキース)に二塁打を浴び2失点と炎上した。
  • その後は安定し、チームの抑えだったコッチが放出されると正ストッパーに収まる。
    -24試合連続無失点という活躍をしてた時にはファンに「ミスターゼロ」とニックネームをつけられる。
    この年19Sをあげ、メジャー1年目は成功した。
  • しかしメジャー2年目は1年目に比べると不調。チームの好成績にも相まってシーズン途中の05年8月1日に自由契約。
  • 05年8月12日に石井一も所属するメッツとマイナー契約。
  • オフにメッツを退団。日本では楽天、メジャーからはマイナー契約でのオファーが来ていた。なお、古巣のヤクルトは当初金銭的な事情もあり
    獲得しない事を明言していたが、1月末になって招待選手として春季キャンプに参加させる事を決定。

ヤクルト復帰後


  • 春季キャンプではコントロールの良さ等を改めて首脳陣に評価されテスト合格。3年ぶりのヤクルト復帰が決定した。
  • シーズン当初はロケットボーイズ木田に繋ぐリリーフとして考えられていたが、
    ロケボは故障や不調で揃って2軍落ち。木田も前半戦は大活躍でストッパーを務めていたが、後半戦は疲労も溜まって調子が落ち、
    結局高津が後半戦のストッパーの座に着いた。06年10月7日に日米通算300S達成。
  • 07年6月30日、大量点差での調整登板で軽く炎上した後、秋田のホテルの風呂場で転んで左足親指を剥離骨折。
    全治2~3週間と診断されたため登録抹消、ASを前にしてヤクルツは突然クローザー不在の戦いを強いられることとなった。
  • ところが登録抹消された翌日、落合監督によるAS監督推薦選手に根岸の名前がありヤクルツファンが騒然となる。
  • 懸命のリハビリの結果、07年7月20日のAS第1戦に出場。1回を無失点に抑えて復活をアピールした。
  • シーズン後半は故障による調整不足の為、不調となり2軍降格を味わう事となった。
  • 9月末に1軍復帰、07年10月4日の鈴木健引退試合の最後を締めて久々のセーブをマーク。
  • 07年10月7年の古田引退試合でも石井一からのリレーを受けて登板。ヤクルトを支えた黄金バッテリー最後の雄姿を見せた。
  • 07年10月10日に戦力外通告。翌11日に会見。
    退団危機の問題は以前から新聞紙上で報じられていたが、実際球団からは突然の通告であり、コーチ打診も無かった事が判明。
    「現役を続けたいならトライアウトでも受ければ」との功労者に対する問題発言等で一部でファンから球団フロントに対する不満が噴出。
    結局球団ホームページでファンへの謝罪と経緯の説明が行われる事態となった。
  • その後、自身のプライドもあり、合同トライアウトには参加せず。広島が獲得を検討との報道もあったが、見送られた。

再び海外へ


  • 08年1月18日、カブスとのマイナー契約を発表。2度目のメジャー挑戦となったが同年3月11日に解雇された。
  • 08年3月15日に古巣のホワイトソックスの入団テストを受けたが、不合格となり、野球浪人となっていたが、6月に韓国の新球団ウリ・ヒーローズに入団する事が決定した。
  • 08年6月24日にデビューし、29日に初セーブをマーク。日本、アメリカ、韓国のプロリーグでセーブを記録した史上初の投手となった。
  • 高津の韓国での生活はNHKが密着取材しており、秋にNHKスポーツ大陸という番組でその模様がオンエアされた。
  • ウリは韓国リーグでも新興球団の弱小チームであった為、ストッパーの高津にはなかなか登板機会が訪れず、18試合1勝0敗8セーブ防御率0.86でシーズンを終えた
  • 08年オフにウリが新外国人野手を獲得した為解雇となり、韓国球団も含めて移籍先を模索。
    09年1月、5月にアメリカでテストを受け、6月にジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7ヶ月、MLB3度目の移籍はいずれも日本人史上初である。
  • 09年7月19日にジャイアンツ傘下の3Aフレズノで初登板。
  • 10年1月14日、台湾・興農ブルズの公式サイトにて、契約を結んだことが発表された。
    40試合に登板し26セーブを挙げる。1シーズン限りで退団。

独立リーグへ


  • 11年からは新潟アルビレックスBCでプレー。12年に選手兼任監督となり、この年限りで引退した。
    監督についても12年をもって退任となった(後任は元ヤクルトの内藤尚行、登録名・ギャオス内藤)。

劇場復活


  • 06年6月9日のソフトバンク戦で劇場王が復活。
  • 4-3とリードして迎えた9回裏、石井一→木田とメジャーリレーで繋いだこの試合の3番手で登板。
    本間、森本を連続空振り三振で片付けてツーアウト。今日はパーフェクトピッチかと誰もが思った次の瞬間…
  • 3番目の打者、城所にプロ初ヒットを許すと1番の大村がライト前ヒット、2番の川崎に四球を出す。ツーアウト満塁…
  • 絶体絶命のピンチで迎える打者は好調を買われて3番に起用されていた田上。初球をいきなりど真ん中に投げオワタと思われたが、
    あまりの好球に思わずヘナチョコスイングをしてしまいセカンドフライ。3年ぶりに日本球界で本格的な劇場を完成させた。

迷言


  • 「それが高津劇場。すぐには帰さないよ」(公式サイトに掲載されていたが、リンク切れ)

その他


  • マッチ棒を使った手品はプロ級らしい。
  • 物真似の十八番はクリスタルキングの「大都会」
  • 神宮球場の最寄駅であるJR信濃町駅近くにある歩道橋の信号設置付近に、「たかつしんごう」と書かれた落書きが昔あった。
  • 帰国後もバラエティ番組に出演すると面白さは健在。「ウチくる!?に出演した際紹介したお店一覧はこちら(一番下)
  • ゼットの野球関係者によると、高校球児の間で流行している「帽子のツバ曲げ」の先駆者らしい。
    http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080324mog00m040027000c.html (リンク切れ)

年度別成績


年度チーム試合勝利敗北セーブ投球回三振四死球自責点防御率
1991ヤクルト1311027.2258134.23
1992ヤクルト2353082.26339434.68
1993ヤクルト56642078.17229202.30
1994ヤクルト47841972.15431232.86
1995ヤクルト39132848.13617142.61
1996ヤクルト39262150.03517183.24
1997ヤクルト5174779.16825202.04
1998ヤクルト4223345.13228295.56
1999ヤクルト40113041.1388112.18
2000ヤクルト35012934.229982.08
2001ヤクルト52043751.23913172.61
2002ヤクルト44023241.22814193.89
2003ヤクルト44233442.02621183.00
2004ホワイトソックス59641962.15023162.31
2005ホワイトソックス3112828.23216195.97
2005メッツ91007.26322.35
2006東京ヤクルト48121342.23116132.74
2007東京ヤクルト25051323.1157166.17
2008ヒーローズ1810821.018920.86
2009フレズノ1401018.1165146.87
2010興農40122643.0321091.88
2011新潟27021625.018962.16
2012新潟10000.10000.00
NPB通算5983646286761.15912822713.20
MLB通算99862798.28842373.38

タイトル


  • セントラル・リーグ最優秀救援投手:4回(94年:27SP)(99年:31SP)(01年:37SP)(03年:36SP)
  • セントラル・リーグ月間MVP投手部門:2回(00年5月度・01年8月度)
  • ファイアマン賞セントラル・リーグ部門:3回(94年・99年・01年)
  • セントラル・リーグ会長特別賞:1回(03年)
  • オールスター・ゲーム出場:6回(94年・96年・99年・00年・03年・07年)









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最終更新:2012年12月12日 20:03