《混濁》

《混濁》

定義


記述。どのようなモノか?


  • 《たけ(tk)の思いこみ》は《混濁》から始まる。
  • 《混濁》には何もない、時間もない、空間もない、主体もない、客体もない、コトバもない、モノもない・・否、『一切』がある。『一切』が混じり合って一つのモノになっている・・。
  • 遠くから声が聞こえる。「生きよ。息をせよ」。息をした。落ち着いてきた。心地よくなった。
  • 《混濁》は心地よい。
  • 落ち着いてくると、《混濁》が様々な《思い込み》の渦巻きで構成されていることが見えてくる。
  • 《思い込み》のうちのある物たちは、再現性があることが分かった。それと「モノ」と呼ぶことにした。「モノ」は一定以上の再現性のある《思い込み》を指し示すコトバである。
  • コトバも生じた。
    • コトバは混濁の中に予め在るのではなく、どこからか(《背後者》から)噴出して、混濁の中に投入される形で生じる。
    • 混濁の中に生じた何者かを指し示したいときには、それを指し示すコトバをでっち上げて、コトバとソレとの関連を反復記憶するのが良い。ソレを指し示したいときには、ソレに対応するコトバを噴出させればよい。
    • コトバは《思い描き》を生じさせる。(コトバ抜きに《思い描き》が噴出することもある)。
    • 《思い描き》には、その思い描き自体に内容のある狭義の《思い描き》と《指し示す思い描き》とがある。
    • 《指し示す思い描き》にはそれ自体の内容は無いが、混濁や世界のなかからそれが指し示すモノを捜し出して、それを指し示す、という機能がある。
  • 思い込みやモノたちが見えてくると、それらを《知りつつあるモノ》があることに気がつく。
    • ただし《知りつつあるモノ》を探求し始めると、自己言及の地獄が始まる。息することを忘れて心地よさを失う。
  • 《混濁》から《知りつつあるモノ》が分離すると、《混濁》は《知られつつある混濁》になる。《混濁》は《知りつつあるモノ》と《知られつつある混濁》とに分離する。
  • もう一つ、「息せよ」と呼び掛けてきたモノ、《息しつつあるモノ》も在りそうである。




#《息しつつあるモノ》に注目して、再び《混濁》に陥ると、《混濁》は《身体》になる。《混濁しつつある身体》になる。《知りつつあるモノ》の視点からは《身体》の外部の《近傍物理空間》では、さほど混濁していないのである。
#《混濁しつつある身体》を観察していると、《身体》における《混濁》は、《息しつつあるモノ》が《他者》を認知したときに、《息しつつあるモノ》から《身体》の内部に噴出していることがわかる。《息しつつあるモノ》は《他者からの混濁》を感じ取って、《身体》の内部に噴出する。
#《他者からの混濁》は《息しつつあるモノ》の《身体》の外部にある。《他者からの混濁》は《息しつつあるモノ》の外部世界である。*1


!!記述

#《たけ(tk)の思いこみ》は《混濁》から始まる。
##《思いこみの世界》はカオスである。一つのモノとしてとらえようとすると《混濁》に至る。そこから《たけ(tk)の思いこみ》は始まる。
##《混濁》はノイズによって如何様にも分離するようである。
###《知りつつあるモノ》というノイズによる分離
###《息しつつあるモノ》というノイズによる分離
###コトバというノイズによる分離
###etc.

!!区別

《混濁》と《混濁しつつある身体の群れ》
#要するに
、《ヒトの群れ》なのだよ。
#『ヒト』は当為概念であるから、《ヒトの群れ》と《混濁しつつある身体の群れ》とは異なる。
#《混濁》というのは、蓮の花が咲くかもしれない泥のことかもしれない。
#《ヒトの群れ》は《自己言及関数の群れ》だね。《カオス関数の群れ》。
#http
://www.asyura2.com/07/idletalk28/msg/266.html 
##ところが、学校を出てから働きはじめてみると、世の中が誰かの意思で決まっているというより、もっと混沌としたもの(カオス)であることが分かってきた。一人の人はその人の意思で動いているかもしれないが、複数の人がそれぞれの意思で動きはじめると、訳のわからぬ状態になる。誰か一人の意思で世の中の現状がこうなっているのではない、ということが分かってきた。
##数学的に言えば「カオス」というらしい。(※1)
##どちらかというと、人々は、世の中のカオス性を見抜いたうえで、訳のわからぬカオスの世の中の中でもがいている、というのが現実だ。そして、そのようにしてもがいている人々の動きが、世の中のカオスを作り出しているわけでもある。
##とはいえ、カオスな世の中では人々は安心して生きていけないので、法制度というのは人々に「予測可能性」を与えるために存在している、と習ったような気もする。
#《欲・得・快・楽・善・義》は《身体》に属する。
#知的欲求も
《欲・得・快・楽・善・義》の一つである。《知りつつあるモノ》は《身体》に属する、か? 《特別者公理》においてはNOだが、《相対者公理》においてはYES。
#《特別者公理》は、各人が特別者であることにおいて、相対者である、という結論になる? 無限循環しているのだ。《特別者公理》と《混濁しつつある身体の群れ》。
#《特別者公理》においては《混濁しつつある身体の群れ》は出てこない。否。特別者の実感において現れいでたるモノが《混濁しつつある身体の群れ》である。特別者は《混濁しつつある身体》の混濁し沈み、他の《混濁しつつある身体》と共感しあい、《混濁しつつある身体の群れ》を《拡大身体》として実感するのである。


《知りつつあるモノ》と《混濁》
#《知りつつあるモノ》は《混濁しつつある身体》の内部にある。《知りつつあるモノ》も《息しつつあるモノ》も《身体》から外に出ることはできない。《知りつつあるモノ》は《混濁しつつある身体》の内部から世界を知るがゆえに、『一切』が混濁しているように見たのだろう。しかし、《知りつつあるモノ》は《身体》の外に出ることはできない。


《他者からの混濁》

コトバというノイズによる《混濁》の分離
#《混濁》は、元々は《今・ここ》に在る《名前のないモノ》である。
#《名前のないモノ》に「混濁」という名前を付けた。
#《名前のないモノ》に名前を与えると、《名前のないモノ》は、名前によって《指し示されつつあるモノ》になる。*2
#モノは
、名前など知らない。《私》、《我々》が勝手に、そのモノに名前を付けているだけであり、勝手に指し示しているだけである。そんなことにはモノは関知しない。名前はモノに属するモノではない。
#《名前を与えつつあるモノ》がある。
#《思い描きつつあるモノ》がある。
#《指し示しつつあるモノ》がある。のだが・・、《指し示しつつあるモノ》は何か? コトバか? 《思い描き》か? 《私》か? 指し示す、とはどういうことなのか?
#・・
#「それ」に「混濁」というコトバを与え、「混濁」というコトバによって「それ」を《指し示しつつあるモノ》にとっては、《混濁》は「混濁」という名前によって指し示されるモノである。
#《指し示しつつあるモノ》は、「混濁」というコトバを《他者》に伝えることによって、《他者》もまた「混濁」というコトバが指し示す《混濁》というモノに注目してほしいと期待する。
#しかしながら
、「混濁」というコトバを聞いたモノにとっては、「混濁」というコトバは《混濁》というモノを指し示すモノではない。コトバを聞きつつあるモノにとっては、「混濁」というコトバは『混濁』という《思い描き》を思い浮かべさせるモノでしかない。
#コトバを聞きつつあるモノにとっては
、コトバは《思い描き》を指し示すモノでしかない。しかし、彼が、そのコトバの意味を正確に理解するなら。それが指し示すべきモノを探し当てるだろう。その段階になれば、彼は、「混濁」というコトバによって、《混濁》というモノを指し示すことができるようになる。
#《混濁》は、それに名前を与えることによって次のような要素に分離する。
##《混濁》というモノ。《指し示されつつあるモノ》
##「混濁」というコトバ。
##『混濁』という《思い描き》。
##モノに名前を与えることによって、《名づけつつあるモノ》
##コトバを反復することによって、モノを《指し示しつつあるモノ》
##コトバを《他者》に伝えつつあるモノ
##《他者》からコトバを受け取りつつあるモノ。コトバによって《思い描き》を生成しつつあるモノ。
#《名づけつつあるモノ》。名前を付けるというのは悩ましいことである。モノのイメージを固定すること、そのイメージを適切に表現できそうなコトバを捜すこと。仮に決めること。仮に決めた名前が適せるであったかどうかを再検討すること。といった手続が必要になる。
#モノのイメージは
、モノから生じた《思い描き》である。
#《思い描き》はモノからも生じ、コトバからも生じる。

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最終更新:2020年07月07日 16:56

*1 《近傍物理空間》は《知りつつあるモノ》の外部世界である

*2 正確には、コトバによって《思い描き》が生じ、《思い描き》がモノを指し示す。《思い描き》によって《指し示されつつあるモノ》である