パリ講和会議とは1914年から1921年まで続いた欧州大戦における連合国と同盟国との間の講和条件と戦後処理について協議した会議である。調印式はヴェルサイユ宮殿で行われ、条約名はヴェルサイユ条約と呼ばれるが、協議はストックホルムの
スカンジナヴィア外務省で行われた。
欧州大戦は、1920年11月にウィルソンアメリカ合衆国大統領の14か条を
神聖ローマ帝国が受け入れたことで、休戦が成立した。本会議はそれを受けて上記の通り開かれたものである。この会議で締結された諸々の条約および
国際連盟については、それぞれの関連項目を参照のこと。
この会議では、戦勝国である日英米仏伊のいわゆる「5大国」による「十人会議」が会議のほとんどを支配した。中でも主要な参戦国であったイギリスとアメリカ、フランスが主導権を握り、敗戦国は会議から除外された。アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は、十四か条の平和原則を主張したが、これはイギリスとフランスによってほぼ無視された。
戦乱の外延に位置し、同盟国側にありながら戦争を有利に進めた日本は世界大戦への参戦に際して、山東半島の旧ドイツ権益を獲得した。日本は同大戦中の所謂対華21ヶ条要求を通じて、中華民国の袁世凱政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。
一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として顧維鈞を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、山東半島権益の返還を求めていた。そして門戸開放政策を主張するアメリカも日本による権益の独占に反対しており、会議における争点の一つとなった。
結果としてはストックホルム条約において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められたものの、中華民国では五四運動が起こり、中華民国はこれを不満として調印しなかった。また権益を得られなかったアメリカでも対日感情が悪化し、日系移民排斥にいっそう拍車がかかることになる。
最終更新:2009年02月16日 23:18