Deus ex machina ―殺人― ◆b8v2QbKrCM
「はぁ、はぁ……!」
劇場がこんなに広いのは計算外だ
圭一は廊下を走りながらぎゅっと奥歯を噛み締めた。
放送直後、圭一は適当な理由をつけてアーチャーの下から離れ、中央劇場の内部を駆け回っていた。
赤いコートの女の言葉が正しいなら、劇場のどこかにレナが来ているはずなのだ。
先の放送で、魅音と切嗣の名前が呼ばれた。
淡々と語られた無常な報告は、圭一の心に哀しみをも上回る焦りを齎していた。
もう一刻の猶予もない――
決断が遅れる度――
行動が遅れる度――
みんなの命が確実に失われていく。
レナが。沙都子が。梨花が。詩音が。
自分の手の届かないところで殺されてしまう。
劇場で合流する手筈になっていた切嗣も、どこかで命を落としてしまった。
アーチャーは余りにも危険過ぎる。
頼ることができる相手は、もういない。
「俺が絶対に……みんなを……!」
それは、
園崎魅音を失ったショックを使命感で覆い隠しているだけなのかもしれない。
しかし脚を動かす思いは本物だ。
立ち止まっている時間すら惜しく感じられる。
劇場を構成する建造物は全部で三つ。
そのうち中央劇場はあらかた探し尽くした。
隅から隅までとはいかないが、レナの名を呼びながら駆け回ったのだ。
レナが、もしくはレナと行動を共にしているらしい連中がいるなら、反応が返ってくるに違いない。
それがないということは、中央劇場はハズレだということ。
「……くそっ!」
可能性は五分と五分。
北を目指すか、南を選ぶか。
調べに行けるのは片方ずつだ。
首尾よくレナと巡り会えればいいが、そうでなければ致命的なタイムロスになる。
あの赤いコートの女の存在を考えれば、まさに致命的だ。
「考えろ、考えるんだ……!」
ただ徒に走り回るより有効な手段があるのではないか。
迅速かつ確実に、レナと合流するための手段が。
もし切嗣が生きていてくれたら、北と南で手分けをすることも出来ただろう。
しかしそれも詮無きこと。
放送で名前を呼ばれた以上、生存は絶望的といわざるを得ない。
「そうだ、放送!」
圭一はロビーの柱を仰ぎ見た。
館内放送のためにあると思われる、大きなスピーカーがそこにあった。
今から大急ぎで放送室を探し出して、劇場全体に呼びかける――確かに確実だ。
レナが放送の聞こえる範囲にいれば一発で合流できるだろう。
「……駄目だ、全然駄目だ」
だが、圭一はその案を即座に放棄した。
放送は相手を選べない。
赤いコートの女を始めとした危険な連中にも、自分の居場所を教えてしまうリスクがある。
それだけならまだマシだ。
放送を聴いて動いたレナ達が待ち伏せを受ける危険も考えられる。
論外。このアイディアは論外だ。
警報機を鳴らす?
それにどんな意味が。
前原圭一が来ているぞ、というアピールにすらならない。
今からでもアーチャーに頼み込む?
下手に機嫌を損ねればその場で殺される。
あの男はそういう性格だ。
容赦なく、それこそ羽虫か何かを潰すくらいの感慨でやるに違いない。
協力してくれそうな人を探す?
……意味がない。
それなら最初からレナを探したほうがいい。
幾ら考えても解決策が浮かばない。
やはり自分の足で駆け回るしかないのか。
諦めとも開き直りとも取れる感情に身を委ね、圭一は走り出した。
「……南だ!」
圭一は南劇場へ通じる連絡通路へ進路を取った。
何かしらの根拠があったわけではない。
ただ、現在の位置が北劇場よりも南劇場に少しだけ近かった。
それだけだった。
全力で走れば数分と掛からない距離。
まっすぐな連絡廊下を駆け抜ければそれで南劇場に到着だ。
しかし、それなのに、圭一は連絡通路の手前で立ち止まった。
そして転びそうになるほどの勢いで、通路入り口の壁際に身を隠す。
「ちくしょう……!」
壁際に身を隠しながら、通路の向こうを窺う。
連絡通路を挟んだ反対側、南劇場のロビー。
そこに二人分の輪郭が見える。
忘れるはずもない赤いコートともう一人。
スーツに身を包んでいるらしい男の姿。
「あいつ、もう来てたのかよ」
図書館で自分達を襲った女。
レナ達を狙っているという赤いコートの女。
それがこんなところにいるなんて。
もう一人はあいつの仲間なのだろう。
何かを話し合っているようだが、会話の内容はとてもじゃないが聞こえない。
けれど想像はできる。
どうやってレナ達を殺すか考えているんだ――
圭一は2発しか弾丸の入っていないデザートイーグルを握り締めた。
これが唯一無二の武器。
二人の相手に一発ずつ撃てばそれでおしまい。
貧弱すぎる。
心許なさすぎる。
相手は如何にもプロといった雰囲気だった。
素人の撃った銃弾なんてあたるものなのだろうか。
図書館では退けられたといっても、それはアーチャーがいて、しかも油断を衝けたからだ。
今回はアーチャーがいない。
それどころか相手に仲間がいる。
状況はあまりにも絶望的。
それこそひっくり返す余地が見当たらないほどに。
「しまった……!」
通路の奥で男が踵を返すのが見える。
圭一は咄嗟に柱の影に身を隠した。
コツ、コツ、と近付く足音。
どうやら連中は二手に分かれて事を成すつもりらしい。
赤いコートの女が南を、スーツの男が中央か北を。
連中も圭一と同様、レナ達を探しているのだ。
「…………」
圭一は呼吸すら殺して男が通り過ぎるのを待つ。
中央にレナ達がいないことは確認している。
まさか、あの男も中央をスルーして北を調べはしないだろう。
時間的猶予は十分にある。
もしかしたらアーチャーと遭遇して倒されてくれるかもしれない。
やはり問題となるのは、赤いコートの女の方だ。
「…………っ」
足音が更に近付く。
固い床を靴底で叩く音が、だんだん大きくなってくる。
圭一は壁際の柱と壁の間に身を潜め、男が通り過ぎていくのを待っていた。
通路から中央劇場へ来た人間からは死角になっている場所だ。
下手に物音を立てさえしなければ、そうそうバレることはないだろう。
足音がすぐ近くにまで迫る。
心臓の鼓動と呼吸の音が異様に大きく感じる。
早く行け、早く行け、早く行け、早く行け、早く行け――!
心の中で何度も念じる。
銃把を握る掌にじわりと汗が滲んでくる。
うっかり手を滑らせてしまう気がして、圭一は片手ずつ服に擦り付けた。
――コツリ、と。
足音の響き方が変化する。
通路を抜けて劇場に足を踏み入れたのだ。
壁や天井との距離が変わって反響の仕方も変わり、音の聞こえ方まで変わったのだ。
圭一は少しだけ、気付かれないように、男の姿を覗き見た。
几帳面にスーツを着込んだ、比較的細身の身体。
サングラスを掛けて、不適な笑みを貼り付けた顔。
白髪を後ろに撫で付けたオールバックの頭。
明らかにヤバい雰囲気を漂わせた男であった。
圭一は呼吸を止めて待つ。
男が中央劇場の探索に乗り出して、通路の周りからいなくなる瞬間を。
「……よし!」
ロビーの事務室に男が消えたのを見計らって、圭一は柱の影から飛び出した。
廊下の向こうに赤いコートの姿はない。
男と別れてすぐ南劇場の探索に移ったのだろう。
ますます好都合だ。
圭一は可能な限り足音を立てないように、通路の端まで駆けていく。
劇場内部と連絡通路の境界付近で立ち止まり、そっと劇場の様子を窺ってみる。
北口からホールへ入っていく赤い背中。
十中八九、あの女で間違いない。
圭一は女の後を追おうとし、踏み止まった。
無策に追いかけて何をしようというのか。
ただ付いていくだけ?
説得して思い直してもらう?
どれも無意味だ。
あの女は本当に危険な奴なのだ。
レナにあいつを近付けたくないなら――
――撃つしか、ない。
銃把を握る。
デザートイーグルの重みが圭一の両手に圧し掛かる。
人を殺すという行為の重大さを告げるように、ずしりと。
幾度も繰り返される惨劇の中、圭一は何度か人を殺したことがある。
そして同じ数だけの悔悟を重ねてきた。
もう一度、それを出来るのか?
「……」
正直、決意しかねていた。
あの女を殺したとして、どんな顔で皆と会えばいいのかも分からなかった。
けれど――だけど――それでも――
護りたい人達がいるから――
圭一は歯を食い縛る。
その瞳には、何よりも強い決意の火が灯っていた。
「弾は二発……どうにかしてギリギリまで近付いて……!」
思考回路を限界寸前まで回転させる。
己の無力さは嫌になるほど痛感している。
だから考えるのだ。
彼我の実力差を埋めることができる冴えたやり方を――!
「待ってろよ、レナ……!」
◇ ◇ ◇
ウルフウッドとリヴィオの死闘が始まったちょうどその頃。
梨花はステージ上手の道具置き場で身を縮めていた。
雑多な大道具が目隠しとなって、しっかり隠れていれば見つかることはないだろう。
「もう、駄目かもしれないわね……」
梨花の抱いている感情を一言で言い表すなら、絶望であった。
ウルフウッドのことを信頼していないわけではない。
必ず護るという彼の言葉は信じているし、頼ってすらいる。
絶望の矛先は、未だ会えぬ仲間達のことである。
もう会えないかもしれない。
会えたとしても、目の前で殺されてしまうかもしれない。
眦から溢れた涙が頬を伝い落ちる。
「ニコラス……」
今は、待つしかない。
仲間達を探すのも、どこかへ逃げるのも、一人だけでは出来やしない。
ウルフウッドがあの男を倒して戻ってくるのを待つしかないのだ。
梨花は、ふと天井を見上げた。
何かの演目に使う大道具なのだろうか。
天井から巨大な人形が吊り下げられていた。
第一印象は翼のない天使。
欧米人の女性を象ったらしい人間部分を、羽衣のような衣服が覆っている。
まるでギリシャ神話の神様みたいな格好だった。
地上の人間を見渡すように顔を傾け、それでいて表情は柔らかい。
高く掲げた右腕には大きな剣を握っている。
その剣はご丁寧にも金属で造られているらしく、僅かな光を反射して鈍く輝いていた。
演目は『グリークス』
梨花の生きていた一九八三年から、遡ること三年。
イギリスのとある演出家と翻訳家が十本のギリシャ悲劇を一本の脚本に再構成した舞台作品であり、
一九八〇年に初演された、上映時間が十時間にも達するという大作である。
道具置き場がこうも混雑しているのも当然だと言えるだろう。
そして天井から吊り下げられた巨大な人形は、アテネ神を象ったもの。
全演目の終盤、ギリシャ悲劇『タウリケのイピゲネイア』を原作とする場面で、
逃げ出したオレステスとイピゲネイアを追わんとするタウリケの領主の元に降臨し、二人の逃亡を助ける役柄である。
即ち、本来の意味でのデウス・エクス・マキナ。
窮地に陥った主人公を救い、強引に物語を終わらせるため、伏線も前振りも無視して登場する神様だ。
普通は役者を機械仕掛けで登場させるのだが、果たしてこんな大きな人形を用意する例があっただろうか。
横幕の向こうでは今もなお銃撃戦が繰り広げられている。
しかし分厚い幕が防音効果を発揮しているのと、酷い反響のせいで、梨花はステージの様子を殆ど把握できていなかった。
戦いが終わればニコラスが迎えに来る……それだけを待っていた。
不意に、ステージと道具置き場を区切る幕が揺れた。
そして足音が床板を軋ませる。
「来た!」
梨花は思わず隠れ場所を飛び出した。
戦闘が終わったのだと、ウルフウッドが戻ってきたのだと思い込んで。
「ニコラ……」
そこにいるのがウルフウッドではない可能性など考えもせずに。
「……ス」
「よぉ、嬢ちゃん。こんなところでかくれんぼか?」
大仰に腕を広げる、ラッド・ルッソ。
ありえてはいけない男の存在に、梨花の思考は完全にフリーズした。
梨花はリヴィオが乱入した事実を知らない。
ウルフウッドと戦っているのはラッドであり、そしてラッドはウルフウッドに倒されるはずなのだ。
しかしそれとは真逆の現実が、目の前で残忍にニヤついている。
「うそ……」
梨花はラッドの姿に視線を釘付けにされながら、一歩退いた。
頭の中を色々なモノがグルグルと渦を巻いている。
認めたくない現実。
認めざるを得ない現実。
認めてしまった現実。
「いや……」
「怖いんだろ? 驚いてるんだろ? ビビってるんだろ?
ああ、俺も正直ビビったさ。ホールの扉を開けたと思ったら、後ろからいきなりドカンだぜ?
しかもその後は弾道飛行と来たもんだ」
梨花の一歩よりも遥かに大きな一歩が、ラッドと梨花の距離をあっという間に縮める。
狂った言葉を饒舌に繰り返しながら、更にもう一歩。
「ここに隠れていれば絶対に殺されない、そう思ってたんだろ?
それなら……あー、いや待てよ。
殺されると思ったから隠れたんだよなぁ。
つまり隠れてるってことは、殺されないと思ってはなかったってわけか?
隠れてりゃ殺されない、殺されるから隠れてた……あぁ!?」
迷走した思考を追い払うように頭を掻くラッド。
やがてトーンの落ちた口調で、冷ややかに梨花へ言い放つ。
「そりゃねぇな。どっからどう見たってブッ殺されそうでガタガタ震えてるツラだ」
その言葉を聞いて、梨花は初めて、自分が救いようもないほどに震えていることを知った。
かたかたと歯の音が合わず、今にも膝を折って動けなくなりそうだ。
恐怖――
確かに
古手梨花は恐怖している。
だが、ラッドに対する恐怖心はさほど大きなものではない。
それよりも圧倒的に、ウルフウッドがいないという絶望が大きかった。
ウルフウッドと
ラッド・ルッソが戦い、ラッドだけがやってきた。
現状を俯瞰すれば誤解であっても、梨花にとってはそれだけが事実なのだ。
ならばウルフウッドはどうなった?
負けたのだろう――
倒されたのだろう――
殺されたのだろう――
あの少年と同じように、黒焦げになったのだろう――
「嫌ああああああ……あ゛っ!」
絶叫を迸らせかけた梨花の首をラッドの手が掴む。
五指が白い肌に食い込み、ぎちぎちと締め上げていく。
「悪いな、うっかり通り魔に殺されたとでも思って諦めな。
あーそうだ、死に方くらいは選ばせてやるぜ。窒息がいいか?」
喉元で交差した親指が気管を圧迫する。
少女の細い喉はそれだけで封鎖され、隙間風のような音しか通さない。
梨花は酸素を求め、金魚のように口を動かした。
「それとも脳みそから死んでみるか?」
力の込められる位置が変わった。
気管は解放され、代わりに左右の頚動脈が塞がれる。
脳に酸素を届ける血液の流れが滞り、視界の端から暗闇が染み込んでくる。
意識が途切れかける直前、頚動脈もまた、ラッドの手から解放された。
「どっちも嫌なら首の骨とかポッキリいってみるかぁ。
知ってるか? 縛り首ってあるだろ、絞首刑だよ絞首刑。
誤魔化し切れる限度を越えた馬鹿が法律でブッ殺されるアレだよ」
ラッドの手が、梨花の首全体を包み込む。
そしてぎりぎりと力を込めながら、肩の高さまで持ち上げた。
梨花は必死に脚をばたつかせてもがきながら、ラッドの腕を掴んでいる。
器用なことに気管も頚動脈も締まっていないが、それが逆に非道であった。
「アレってよぉ、窒息して死ぬわけじゃねぇんだってな。
高いところから落とした衝撃でボキッといくらしいぜ?
確か三十年くらい前に、絞首刑になった奴の首がブチ切れて飛んでいったとか聞いたなぁ。
あー、見たかったぜ! 自分は死なねぇとか考えて列車強盗やらかして、ギロチンでもないのに首を飛ばすなんてなぁ!
つーか俺がやってやりたかったな! ヒャハハハハハハハハハハハッ!!」
首の骨が軋む。
梨花はラッドの講釈に耳を傾ける余裕すらなく、必死になって暴れていた。
爪を立てて手を引っかいても、傷がつく傍から塞がって、抵抗にすらならない。
「決めねぇなら勝手に殺すぜ? あまり時間は取りたくねぇしな。
俺はこれからまだまだ殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しまくらねぇといけねぇんだ。
あの黒スーツも、俺をふっ飛ばしやがったモヒカン野郎……ラズロって言ったっけな。そいつらもぶっ殺さねぇと。
ていうかあの治りっぷり、ひょっとしてアイツが『決して死ぬ事のない云々』って奴なんじゃねぇか?
よーし決めた。特にモヒカン野郎は念入りにだ。徹底的にブチ殺す」
もはや何度『殺す』と言ったのかすら分からない。
ラッドの心は既に梨花には向けられておらず、本命を殺す前の一作業といった様相だ。
しかし、梨花はその狂った言葉の中に齟齬を感じていた。
殺されるか否かの瀬戸際にありながら、確かに聞き取った。
あの黒スーツもブッ殺す、と。
ニコラスは、生きている?
梨花の意識に戸惑いと希望が同時に湧き上がる。
だがそれすらも手折るかのように、ラッドの手に力が込められた。
「あ――」
締められた拍子に頭が上を向く。
天井には物言わぬデウス・エクス・マキナ。
それを吊り下げるワイヤーの数本が、いつの間にかステージからの流れ弾によって断ち切られていた。
残存したワイヤー数はアテナ像の重量を支えきれる限度を下回っている。
じりじりと負荷を受けてきた接合部が、今この瞬間、物理的強度の限界を超えた。
重力に曳かれて落下するアテナ像。
想像を絶する衝撃が轟音と共に床を砕く直前、巨大な金属の刀身がラッドの両腕を寸断した。
「……あぁ?」
轟音と粉塵が吹き荒れる中、ラッドは己の身に起きた異変に目を細めた。
肘から先が突如として消失し、凄まじい激痛が神経を遡ってくる。
足元には、床にめり込んだ大きな剣と、咳き込む餓鬼と、二本の腕。
何という皮肉だろう。
両腕を残して
レッドを焼き殺した直後に、自分の両腕を失うことになろうとは。
「何じゃこりゃあああっ!」
ラッドは自身を襲った不運に叫んだ。
腕を断たれたこと自体はまだいい。
問題はタイミングだ。
どうしてよりにもよって、殺そうとするその瞬間に。
「げほっ……げほっ……!」
梨花は降って沸いた幸運に感謝した。
同時に、これ以上の好機はないとも確信していた。
目の前に落ちたラッドの両腕が、焼き切られたレッドの腕を想起させる。
しかしそれを必死で振り払い、ラッドの横を潜り抜けて走り出す。
転びそうになるたび手を突いて持ち直し、幕を掴んでステージに転がり込む。
どん、と大きな何かにぶつかった。
「どうしたんや、その血!」
はっと目線を上げる。
そこには、ひどく焦った様子のウルフウッドの顔があった。
「血……?」
梨花が自分の顔に触れると、ぬるりという生っぽい感触が返ってきた。
そこで初めて、梨花はラッドの血を頭から浴びていたことに気がついた。
舞台袖のあまりの薄暗さに気がつかなかっただけで、相当凄まじいことになっているようだ。
動脈も静脈も一緒くたに断ち切られたのだ。
両腕ともが血液を噴き出すホースに成り果てていたに違いない。
「そんなことはいいから! 逃げましょう! 早く!」
「言われんでも分かっとるわ! しっかり掴まっとれ!」
ウルフウッドは梨花を抱え上げ、梨花はウルフウッドにしがみつく。
意味不明なラッドの暴言を背に受けて、開け放たれたままの出口へ駆け上る。
眩いばかりの光を放つ扉の向こうへと――
◇ ◇ ◇
赤いコートがホールの暗がりに消えたのを見計らって、圭一はホール北側を駆け足で縦断した。
そしてすぐさま、開けっ放しの扉の横に背を付けて、ホール内部から身を隠す。
圭一の現在の装備は、残弾数が二発しかないデザートイーグルのみ。
他の持ち物も、双眼鏡に空っぽの酒瓶、半壊した金色の鎧、そして大型のバイクだけ。
つくづく、死闘に臨む男の装備ではない。
だが、戦うと決めたのだ。
ここで引き下がることなんて出来るものか。
圭一がホールへ飛び込もうとしたまさにその瞬間、劇場のロビーに男の声が響く。
「始めるぜ……覚悟決めろ!」
余裕もなにもあったものではない叫び。
それに押し潰されまいとする勢いで、別の声が重なる。
「逃げろ、レナ!」
大きさの割りに、なんて涙声なんだろう。
どこの誰かは知らないけれど、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が簡単に想像できる。
「レナ……やっぱりここにいたんだな……!」
圭一は喜びと焦りを同時に感じながら、アーチャーの黄金の鎧を組み立てていた。
その辺にあったモノを片っ端から心材にして、どうにか自立するように調整する。
作業に掛けられる時間は一分、長くて二分程度。
傍目から、誰かがいると思えるくらいの出来栄えでいい。
「でもっ! チョッパーくんまで!」
ああ、レナの声だ。
今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいる。
そりゃそうだよな――
魅音が死んじまったんだからな――
悔しいよな――
悲しいよな――
「……よしっ!」
小声でそう呟き、圭一は次の作業に取り掛かった。
アーチャーから預かった酒瓶に、ペットボトルの水を注いでいく。
底から測って四割くらい。
何も満タンにする必要はない。
圭一は水を移す作業が終わり次第、身を低くしてダッシュした。
赤いコートの女はゆっくりと南へ歩きながら、時折足を止めて辺りを見渡している。
腕の怪我のせいで激しい動きができないのだろう。
あいつがレナ達の声を聞いていたのかは微妙なラインだ。
圭一はホールとロビーの境界付近にいたが、女は既にホールの中に入っていた。
後は、扉が開いた状態での防音効果がどれくらいかという問題。
座席などを遮蔽物に使いながら、圭一はじりじりと女に近付いていく。
「あと少し……気付くなよ……」
位置関係は、開きっ放しの扉、黄金の鎧、赤いコートの女が北から南へ一直線。
そして圭一は、女より少々南西の座席の間に身を潜めている。
圭一から5メートルのところで女が足を止め、東側の扉に目をやった。
「……ッ!!」
今だ――!
圭一は一瞬だけ座席から身を晒し、酒瓶を北口目掛けて遠投した。
ペットボトルから移された水が錘になって、空の瓶よりもずっと長い放物線を描いていく。
床に落ちた酒瓶が割れ、甲高い音をホールに響き渡らせる。
振り返った女の視界に入る、黄金の鎧。
女が武装されたスーツケースを鎧へ向けたその瞬間、圭一は座席の間から飛び出した。
この距離、この位置、このタイミング――逃せば全てがおしまいだ――!
「――――残念ね」
スーツケースのロケットランチャーが火を噴いた。
ただし、偽装された黄金の鎧に対してではなく、真後ろの圭一へ向けて。
爆風と灼熱が、圭一の意識を刈り取った。
◇ ◇ ◇
「ウルフウッドさん……やはりあなたは甘すぎる」
北劇場、ステージ上。
ウルフウッド達が走り去った直後、リヴィオは当然のように立ち上がった。
胸の傷は塞がってはいないが、痛みがあるだけで機能に支障はない。
「あなたに施された生体改造手術とは世代が違うんです。
こんなことだけで『僕達』は斃せません」
リヴィオとラズロは、一つの身体に宿った二つの人格という関係にある。
両者の戦闘能力の違いは戦闘センスや肉体の使い方といったソフト的側面であり、
再生能力や肉体自体のスペックといったハード的側面は共通なのだ。
それはとりもなおさず、同じ肉体を使っていながら圧倒的性能差を叩き出すラズロの凄まじさをも物語っているのだが。
リヴィオは舞台袖で狂乱する男の叫びを無視し、落ちている武器を拾い集めた。
今はまだウルフウッドとの戦闘のダメージが残っている。
連戦はなるべく避けたかった。
「…………」
ふと、ホールから走り去るウルフウッドの姿を思い出す。
あのときの彼は、年端も行かない少女を抱えていた。
おぼろげながらに聞こえた会話の感じだと、出会ってそれなりの時間がたっている様子だった。
リヴィオが記憶している限りでは、あんな子は孤児院にはいなかった。
ウルフウッドが子供と旅に同行させているなんて話も聞いていない。
だとすれば、ここに連れてこられてから知り合った子なのだろう。
やはり、昔と変わっていない――
「――まさかね」
不意に脳裏を過ぎった想像。
昔とあまり変わっていない性格。
死ぬなよ、という一言。
ウルフウッドは自分を『斃せなかった』のではなく『斃さなかった』のではないか。
「……僕には、関係のないことだ」
自分に言い聞かせるよう呟いて、リヴィオはホールを後にした。
任務に忠実な殺戮マシーンに徹すること。
マスター・チャペルから入念に叩き込まれた教えだ。
意味のない根性論ではない。
感情がブレればそこに付け入られる隙が生じる。
マシーンであれという教えは生き残るための教訓なのだ。
それなのに、欠点と指摘されたムラっ気の塊のような性格を直さず、あまつさえあんな子供に情を移すなんて。
「それでは生き残れませんよ、ウルフウッドさん……」
◇ ◇ ◇
「いやいや、見事な手際でした」
和風ホールの北口から無常が姿を現した。
わざとらしい拍手を繰り返しながら、大股でホール中央へと歩いていく。
バラライカは不快そうに目を細めただけで、無常に対して特別な振る舞いをみせようとしない。
「随分と遅いご到着だな」
スーツケースを足元に置き、黒い掌大の機械を取り出す。
そう、
エルルゥやルフィとの戦闘で取得した探知機である。
バラライカはこの装置によって、劇場における人々の位置関係を把握していた。
「この子がいるということは、あの黄金の男も来ているのか……予想通りだな」
両脚を吹き飛ばされて倒れ伏す少年を一瞥し、バラライカは呟いた。
探知機に反応があるあたり、まだ絶命はしていないらしい。
だがこれだけの深手だ。もう助からないだろう。
わざわざ楽にしてやる義理もなく、そのために無駄弾を使うつもりもない。
少年の不幸と誤算は、バラライカが探知機を所持していたことに他ならなかった。
いわば少年は情報戦で敗北したのだ。
彼の行動は中央劇場を駆け回っているときから筒抜けであった。
そもそも無常が一旦南劇場から離れたのも、少年を誘き出して挟み撃ちにするための策略であった。
結果的には、無常の到着が送れたためバラライカ一人で片付けることになったのだが。
しかし、もし探知機がなかったとしたら――
詮無きことだな、とバラライカは浮かんだ雑念を払う。
探知機がなければそもそも単独行動などしていない。
右腕を失った状態で一人になるなど、自殺行為もいいところだ。
探知機をデイパックに戻し、右肩を撫でる。
両腕が健在であれば武器と探知機の両方を同時に扱うことも可能だった。
しかし今は片腕がない。
武器を手にしたときは探知機を、探知機を手にしたときは武器をしまう必要がある。
それがひどく不便であった。
「南劇場にいるのはあと三人か」
「男と女が一人ずつと、よく分からない生き物が一匹でしたよ」
ふん、とバラライカは鼻を鳴らした。
合流に遅れてまで確認したということは、こちらを見限る準備は万端なのだろう。
「偵察だけしか能がないとは。少々評価を改めなければな」
バラライカは通路沿いの座席の肘置きに腰掛けた。
この手の輩はプライドだけは無駄に高いものだ。
少し煽ってやれば簡単に動くだろう。
「偵察だけ? 聞き捨てなりませんねぇ。
いいでしょう、次は私が主導で行います」
そら、来た。
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最終更新:2012年12月05日 02:09