感想(2011/02/18)
言葉というのは、それに責任があるのかそれとも根拠もなく書き散らしているのか見極めるには経験と理性が必要になります。
情報を取捨選択して、価値を見出すのはその人の知性です。
ただ、人間の認識には癖があって、陥りやすい意識のパターンがあります。
信じたいものを信じてしまう。そうあって欲しいことを補強できる説を採り、自分の考えを否定する説は意識にも留まらない。
1995年2月号の雑誌マルコポーロに精神科医の西岡昌紀という人物の「戦後最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」という記事が載り、米国のユダヤ人団体の強い抗議で雑誌が廃刊になるという事件があった。
この本はそれに対する批判本というよりも、いわゆる修正派の動きに対する総括した本になっている。
私はマルコポーロの記事を読んだことはないのですが、資料に対しての真摯な姿勢の差を見れば、アウシュビッツにガス室がなかったとか、ナチスの絶滅政策がなかったということをどうして軽々しく言えるのかが理解できなくなる。
多分、そういう人からするとここで書かれているように、将来被爆者が一人もいなくなったら「ヒロシマ・ナガサキに原子爆弾が落ちたと積極的に肯定できる証拠は無い」と言われたときにどう反論するのだろう。
建設的な話し合いをするためには、自分に都合のいいことばかりを並べるのではなく、客観的な視野を持って証拠を公平に判断する知性が必要になるのは必然のことになる。
それとともに、幅のある統計数字を自分の都合のいい値で採らないようにする自制心も必要になるのではと感じた。
最終更新:2011年02月19日 01:45